9.

 学校帰りに祖母の介護施設に顔を出すことが、いつしか日課になっていた。

 おかげでヘルパーさんたちとも顔見知りになり、自然とその空間に私も馴染んでいた。

「どう思う?」

 病気の後遺症で介護を必要とするものの会話には支障のない祖母に、私はそれまで以上に多くのことを尋ねることが増えていた。

 そのことに祖母は前々から気付いていたようだが、その日の私の問いに、初めて難色を現した。

「どうって、それは私に尋ねることなのかい?」

 担任に取り寄せてもらった学校のパンフレットを差し出した私に祖母はそう聞いた。

「尋ねてるんじゃなくて意見を求めてるの」

 私は受け取ってもらえない冊子を代わりに開いて中を見る。


 三年生になって私は自分の将来を真剣に捉えるようになっていた。

 施設に入っている祖母と、自分の体と相談しながら仕事をしている明クン。その二人に私はいつまでも甘えているわけにはいかない。

 環境と心境の変化が色んな意味で私を少し大人にしていた。

「おばあちゃんが言いたいことはそういうことじゃなくて」

「明クンに相談してないこと?」

 私は視線を落としたままで聞いた。

「それもだけど。私のことを心配してるのか、それとも」

 いつもの比較する二択が登場して私は遮る。

「おばあちゃんの悪い癖だよね、いつも自分を明クンより卑下するとこ。それってママがいなくなって、私が拒絶反応しちゃったせい?」

 血縁関係のない明クンとは反対に、唯一の血縁関係である祖母とは、いつもどこかに距離があった。考えられる要因として、幼い私が無意識のうちに拒絶したことが関係しているような気がずっとしていた。

「そんなこと気にしていたのかい?」

 私は顔をあげると首を小さく動かして頷く。そんな私の反応に祖母は苦笑いをした。

「本当の親子じゃないのに、似るもんだね」


 病気になってから勝気だった祖母は少しだけ朗らかになった。命令的な言葉使いは残っているが、節々に柔らかな音程が混ざる。それは明クンへの対応にも見られる変化だった。

「どういうところが?」

「今みたいに返事の代わりに小刻みに首を振るところ。私はあの仕草が一番嫌いなの」

 起こしたベッドに背もたせしたまま、祖母は唇をキュッと結んで私を見る。

「あんな風に頷かれると、こっちは何も言えなくなるんだよ」

 私はとうとう癖まで似てきてしまったことにちょっとショックを受ける。

 そんな父娘的症状はもういらないのだ。

「病気のことを知らされた時も、そう。いつどうなるか分からないなんて、そんな無責任な話を私に承諾させるんだから」

 祖母が明クンの病気の話をするのは珍しいことだった。

 明クンの話となると、ほとんどが悪口で、最後にはママの選択を全否定するのが決まりだ。だけど私はそれを聞くことが嫌じゃなかった。

 聞きながら、いつも不思議だけど少しも不愉快にはならなかった。

 どちらかというと私以上に明クンのことを分かっていて、それがもどかしいというニュアンスを帯びていたし、人は本当に嫌う人については何も語ることは無いはずだから。

「それでも明クンを認めてあげた理由は?」

 私はため息をついて自分の下した決断に未だに不満げな祖母に尋ねる。

「あんたのママがよく笑うようになったから。作り笑いじゃなくて、心の底からね」


 日々薄れていくママの記憶は、肝心な部分だけを残して後は自然と消えていく。

 無理に記憶を思い返せば何かしらのエピソードは蘇ってくるけれど、果たしてそれが本物の記憶かは私には判断つかない。

 そんな時は明クンに確認することもあるけど、全部を証明してもらえることはない。

 明クンには、明クンとママとの記憶が残っていて、それは私の記憶以上に美化され、保存されているからだ。

「そうだね。私の記憶の中にいるママは、いつも明クンの隣で笑ってる」

 パンフレットを閉じながらママを思い出して笑みを浮かべた私に、祖母は手を差し出した。

「私の悪い癖とか言うけど、絢がそうさせるんだよ。彼のことになると、泉と同じように幸せそうに笑うから。だから心配なの。彼はいつどうなるか分からない人だから」

 私はその手にパンフレットを置きながら祖母を見つめた。

「泉にも言ったけど、そんな相手と一緒にいることは残酷なことでしょ? 人は誰しも、必ずそういう場面に遭遇するけれど、最初から分かっている人を選ぶ必要はない。それでなくてもあんたのママは私の息子と一緒になったことで十分、悲しんだんだから」

 今まで私に話すことを避けていた話を、祖母は何かが外れたように口にした。

 それは祖母がずっと抱えてきた大きな荷物のような気がして、私はただ黙って聞くことしか出来なかった。

「だけど泉や絢の笑顔を見ていたら、いずれ来る悲しみよりも、今が幸せであるほうが大事なことなんじゃないかって思えて許したんだけど、結果は逆で。泉のほうがいなくなって、彼にあんたを任せることに。人生は思うようにはいかないもんだ」

 祖母は私を見て、静かに微笑んだ。

 その笑みがまるでママのようで、明クンのようで、みんな血が繋がっていないのに、よく似ている。まさしく私の家族の姿だった。

「絢を任せながらずっと不安だったよ。泉と同じように、いや、幼い分、泉以上に彼が全てになってしまうんじゃないかって。それは同じことの連鎖を生むんじゃないかって思いながらも毎日幸せそうに暮らす二人を見ていたら、引き離せなかった」

 自分が無力であることを痛感しているような口ぶりで祖母はパンフレットを開く。

「だから絢が自分から離れて自立することには賛成だけど、本当にそれでいいのかい?」


 冊子に記載された内容は寮生活しながら資格を取ることが出来るプランだ。

 毎朝、明クンを直接起こしには行けなくなるけど、方法はある。

 それが最良のやり方ではないことは分かっているけど、今の私には明クンとの距離のとり方を学ばなければいけないのだ。

「いいのか悪いのか、私にも分からないんだ。今は一緒にいるのが…ただ辛い」

 気付いた自分の想いを祖母に隠しておくべきか、ちゃんと言うべきか、私には判断つかなかった。だけど隠し通せる自信はなかった。だから最後まで迷ったけれど、そう告げた。

「やっぱり、そうなってしまったかい」

 俯いた私に祖母は間も置かず、想像していたよりも穏やかな声で言った。

「なんだ、もっと怒られると思ってた」

 私は意外なほど静かに受け入れた祖母の態度にゆっくりと顔を上げた。

「そういうものは怒ったところでどうにかなるもんじゃないんだよ。だから心配だったんだよ」

 祖母はそう言って私の頭を優しく撫でる。その温かさが、それまで自分の中でせき止めていた感情を大きく揺さぶり、視界が少しずつ歪んでいく。

「私がもっと早く、引き離すべきだったんだね」

 私は首を振る。そうじゃなかった。その逆だった。引き離すべきじゃなかった。

 ずっと出会った時と同じ環境でいるべきだった。明クンをママの王子様だと信じて疑わないまま、私は他の誰かと恋に落ちるべきだった。

 溢れ出す私の涙を拭って自分を責めている祖母に、私は何も言えないまま首を、ただただ横に振るしか出来なかった。

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