8.

 初めての淡い出来事は高三の秋にやってきた。何の予告もなく、ある日突然に。

しかも請負人は舞子だ。だから非常に困惑し、柄にもなく私は恥らう少女と悲劇のヒロインを演じるハメになった。

 そんな屈辱を私に味あわせた当人はケロッとしているから、逆に怒りも失せる。

「だって先輩から何回も何回も言われてたんだよ。その度に私がどれだけの嘘をついたことか。あ、明クンには嘘をついたことは絶対に言わないで」

 舞子の「明クン」呼びはたまに発生する。その使い道が何かのオチだから私はいつも黙っているけど、決していい気分ではない。

 そしてその気分を感じるたび、ママが私を優しく睨んでいたことを思い出す。

「きっと、こういう気持ちだったんだわ」

「ん? どういう気持ち?」

 私の呟きに自分ワールド中の舞子は両手を組んだまま、ぶりっ子ポーズで振り返る。

「こっちの話。で、だからってあんな形で会わせるわけ?」


 今にして思えばおかしなことは多かった。まず休日に彼女が私を誘うこと。正直、小学校からの付き合いだが滅多にない。

 あったとすればデートをぶっちぎられた時や、デートの途中で帰りたくなった時や、好きでもない男を振り切れない時。どれも男がらみからの愚痴聞きや、脱出方法として私は出動させられた。

 そんな舞子が一週間も前から私を誘い、目的までも提示された時点で気付くべきだった。

「じゃ、どういう形だったら会ってくれたわけ? 正直に話して行ってくれた?」

 クラスメイトが帰った教室は私と舞子だけだ。窓から見えるグラウンドでは陸上部が走っていて、少し離れた教室からはブラスバンドの練習の音が聞こえる。

 私は中学に入っても部活はやらなかった。明クンにはやりたいことがないと答えた。

 本当はあったけど、私には家に帰ってするべきことがたくさんあった。それに何かを取得す

ることは必然とお金もかかる。煩っている父親がいる家庭には贅沢な話だ。

「だから私にも嘘をついたって? けど、それって誰のため?」


 舞子と待ち合わせした映画館には見覚えのある人が立っていた。誰かすぐに思い出せなかったけど、覚えはあったから彼を認識した瞬間に嵌められたと気付いた。

「う~ん、そうだねぇ」

 全開にした窓からは時より心地よい風が流れ込み、机に座っていた私の伸びた前髪を何度も揺らした。

「舞子の気配りには感謝するけど。私、恋は出来ないみたい」

 私を待っていた彼は中高の先輩で、ブラスバンド部の部長をしていた人だった。

 中学、高校と放課後の私の日課は十五分だけ教室で音を楽しむこと。そんな私に彼は偶然気付いてくれて、何度も声をかけてくれた人だった。

 もちろん私は興味の無いふりをしていつも帰った。誘われても私にはそんな時間は無い。ほんの少し遅れて帰ることが色んな意味で適していた環境だった。

「それって、したかった部活をやらなかった理由と同じ? それとも他にあるの?」

 背中から聞こえた舞子の問いは真摯なものだった。とてもじゃないが振り向いて、いつもみたいな返答をする勇気はなかった。

 だって私は嘘をつけない。つけば明クンに怒られるから。だけど本当のことは言えない。言えば全てが崩れてしまうから。


 そんな葛藤と、私は夏を終えて闘っている。自分の中に生まれた変化と向き合って、答えが出るのに非情にも二年という歳月が過ぎていた。

 それが友人の寄こしてくれた気遣いのせいだとは言えない。舞子はきっと、私をその葛藤の渦中から連れ出そうとしてくれただけなのだ。

 何も反応出来ない状況に陥った今、大事な時に黙り込んで逃げる明クンの逃げ道を、初めて一番の得策だと私は知った。

「先輩にはちゃんと言ってね。嘘をつくのは上手だけど、本当のことを言うのは苦手なんだ」

 沈黙の私に舞子は返事を待たず、そう言って肩をポンと叩くと鞄を持って出て行く。

「舞子」

 私は気遣う友人を呼び止めることしか出来なくて、背を向けたまま声を出す。

 彼女が足を止めたことを感じながら、私は静かに相手の言葉を待った。

「本当のことを言うのは苦手だけど、嘘は上手だからさ。どうしようもなくなったら、私を頼りにしなさい。私が明クンに思いつく限りの嘘をついてあげる。じゃ」

 はっきりとした舞子の声に、私はじんわりと浮かんだ涙をぐっと堪えてみた。

 だけど堪えれば堪えるほどそれは込み上げてきて、私はさらに必死に唇を結んだ。

「ムカつくよね~。私を好きだという人を、私は認識出来ないんだから」


 あの日、待っていた先輩は照れながら困惑している私を気遣い、親切に接してくれた。

 その空間に、あ~こういうのが学生の淡い恋の始まりなんだと、私は漫画やドラマで見

るワンシーンを、その瞬間の自分と重ね合わせた。

 だけど、そのとき私の隣に彼はいなかった。現実には確かにいるのに、私の描いた映像の中に彼はいなかった。

 代わりに違う人が、優しくいつものように微笑んでいた。

「マジでムカつく。なんで…なんでママはいないの。こんな時になんでいないの。ママが見つけてきた王子様なんだから、ちゃんとママが隣にいないとダメじゃん」

 包み込むように流れ込んでくる風から顔を隠すように膝を抱え、ギュッと下を向いたまま声を押し殺して泣いた。

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