6.
私の中で変化をもたらした夏は、それ以外の何かを変えることはなく秋を奪い、冬を引き寄せると、私と明クンにとって一年で一番、ママのことを思い出す日を迎えていた。
入院中の祖母は一時退院をすると言ってきかなかったけれど、稲垣先生からの許可は下りなかった。
その代わりに彼女が休みをとって、私と明クンの運転手をしてくれることになった。
「休みまで取らせて悪いな」
後部座席で寛いでいる明クンは私の隣で運転している稲垣先生に親しげに話す。
そんな光景を私は助手席で見ながら、こういう関係性をママはどう判断するんだろうと思った。
実の娘である私ですら容赦のなかったママが、こんな風に自分の友人が明クンの手助けすることを果たして許しただろうか?
私は交互に二人を見ながら腕を組んで黙り込む。
そんな思春期の女子高校生の様子に、運転手の大人女子はクスクスと余裕な視線を向けている。
「今日は単なる運転手よ、そんなに警戒しないで」
見透かされたようなコメントに私は面食らい、思わず呼吸のタイミングを間違えて咳き込む。出来る女にとって、相手の心理を読むことなんて容易なものなのだろう。
しかもママのような、あからさまな態度ではなく対処の仕方もスマートだ。
「どうして離婚したんですか?」
彼女の完璧さに思わず素朴な疑問が浮かんで、何も考える間もないうちに尋ねていた。
そんな娘の無礼な振る舞いに、すっかり気を許していた明クンが慌てて体を起こした。
「絢、お前何を聞いて」
「明クンには聞いてないでしょ。それにその過敏な反応は何? ママに報告するよ」
体を後ろに向け、私は邪魔者を排除する。
そんな私たちの会話に運転手の彼女はまたも余裕な顔で笑っている。
「前から思っていたけど、明さんと絢ちゃんの会話って簡素なのに疎通は出来ちゃうのね」
稲垣先生の指摘に私は体を正面に戻しながら首を捻る。
娘の一撃に、続く言葉を無くした明クンは反論する素振りはしたものの、結局黙って体を座席に預けている。
「それって褒めてます?」
私は戦線離脱した明クンを放置して、隣の優雅な態度の女性に挑んでみる。
「もちろん。私はそれが出来なくて離婚したんだから。夫とも子供とも」
勝気な彼女の空気が一瞬だけどパリッと音を立てたような気がして、私は言葉に詰まる。
「こういうときは失礼な質問を続けるのよ」
数秒の沈黙に彼女は赤信号でブレーキを踏むと、私の腕を指でポンと突く。
その衝動で私は固まっていた表情に気付いて、少しだけ笑った。どうやら明クンの指摘は正しかったらしい。
一応、私は軽くだが頭を下げる。親しき仲にも礼儀は必要だ。
微かに覚えているママの口癖の一つ。だから私と明クンの間にも、ちゃんとした礼儀はあり、境界線もある。それを私も侵さないし、明クンも侵さない。
そんな暗黙のルールをママが残してくれたおかげで、私は今まで明クンと一緒に過ごしてこられたのだ。
私は信号が青になるのと同時に、明クンとの関係性と不満を口にする。
「一緒にいると似るんです、親子じゃなくても。だから会話が簡単になっても困らない。お互いにすべきことも、話すべきことも分かっちゃうから。だけど私は話すべきだと思ってるんです。だけどあの人、すぐに逃げるんですよ。喋るとボロが出るって思ってるんです」
私は片方の口角を気持ち吊り上げて、親指を立てて後部座席の明クンを指差す。
「一緒にいるってやっぱり大事なのね、会話しなくても分かることがあるのなら」
「もち、です。ありますよ、あ~昨日は好きなサッカーチームが負けたんだなぁ~とか。今日はきっと綺麗な人に会ったんだなぁ~とか。あと」
後部座席から沈黙の殺気を感じながら、私はそこで言葉を止める。
「あと? 何?」
彼女の問いかけに私は後ろを振り向かず、あえて窓の外を見つめた。
「今日もママの夢を見たんだなぁ~って毎日思います。だから言葉が足りなくても許しているんです」
とても寒い日だった。車で仕事に出かけるママに、今日は雪が降るから気をつけるようにと、頻りに明クンが繰り返していたことだけは記憶の片隅にある。
そんな夫の心配にママは凄く嬉しそうに笑って、いつものように明クンの頬にキスをして私を見た。
『絢。今日は家で明くんと、ママが帰ってくるまで仲良く過ごすのよ』
大きな荷物を抱えていたママは両手で手を振って、真っ白な空の中に消えて行った。
その夜、誰もが泣きじゃくっている中で、私は不思議と悲しくはなかった。
きっとママがいなくなったという事実が、まだ理解できなかったからだろう。だから声を押し殺し、冷たい廊下に座り込んで泣いている明クンの涙をずっと私は拭っていた。
「明クンと仲良く過ごすことが、ママとの約束だから」
背中に感じていた視線が逸れたのと同時に咳払いが聞こえ、わざとらしいイビキが聞こえてきて私は稲垣先生に目を戻す。
「ほら、肝心な時に逃げるでしょ!」
私の的確なコメントに彼女はクスッと笑って、私の頭を優しく撫でた。
「きっと泉ならこうしただろうなって思って。大変よく出来ました。これからもよろしくってね」
彼女のそんな言葉と行動に、母親という存在が急に恋しくなったけれど、私はいつもと変わらず何もかも悟った表情で返した。
「ママはきっと褒めないですよ。絶対、不満を言います。私の明くんに誰も近づけないで。心配かけて痩せさせないで、明くんの良さが浮き出るでしょ。きっとこうです」
スマホの中に収めている家族写真のママは、どの記憶のママより髪が短くて、若い明クンを幼い私と取り合っている。
きっと祖母が撮ってくれた写真だと思うけど、私はその写真が一番お気に入りだ。
揉めている状況のはずなのに、三人とも幸せそうだから。
「じゃ今日は、そのお説教を聞きに行くのね」
そう切り返され、私は少しだけ後ろを見て、寝たふりをしている明クンを確かめて頷く。
「私はそうです。でも明クンは、きっと私を守っていることを報告に行くんだと思います。私は今でも、彼が一番愛している人の娘だから」
静止画の家族の姿を見ながら、私はなぜか淡々とそう述べていた。
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