5.
翌日の検査を終えて家に帰ってきた祖母はしばらく問題がなかったものの、夏休みが終わる頃にまた容態が悪化し、結局入院を余儀なくされた。
それは自ずと私が前の生活に戻ることを意味した。祖母は自分の体のことよりも、そのことを心配しているようだった。
入院する当日も明クンを病室で引き止め、何度も確認をしていたから分かっている。
「おばあちゃん、何だって?」
そう私が尋ねても、明クンは本当のことは決して言わない。
嘘を嫌う明クンは肝心な時は喋らずに逃げるのだ。それは卑怯だと言っても、彼は嘘をつく位なら自分が責められることを選ぶ。
だから最終的に明クンの粘り勝ちになってしまう。
「私だって高校生ですよ、祖母が気にしていることくらい予測できます」
受付で支払いをしている明クンを見ながら、相手をしてくれた稲垣先生に私は腕を組んで大人ぶった態度で言った。
「そうね、高校生だもんね。それに女の子は色んな意味で察することも早いから」
白衣を纏った稲垣先生はママとは正反対の出来る女性で、私の理想の女性像だ。
言葉使いもしっかりしているし、キリッとした立ち振る舞いがママとは違う。だけど何となくママと同じ空気を感じるのは彼女も母親だからだろうか、と思う。
「でもおばちゃんが気にしていることは、それとは、きっと違うことだと思うわ」
買ってきてくれた飲み物を私に飲むように促しながら彼女は遠くを見ている。
「大人になるほど、人は色んな未来を想像するから」
彼女の視線の先にはストレッチャーで運ばれていく負傷した人の姿があった。
「特におばちゃんみたいに、悲しいことばかり起こった人には、なおさらね」
祖母の息子で、私のパパは私が生まれてすぐに病気になり、それが原因で亡くなった。
何も覚えていない私にそう教えてくれたのはママではなく、祖母だった。そのことを私がきちんと理解できる頃には、ママはパパと同じ場所にいたからだ。
ママは明クンと出会って三年後にいなくなった。交通事故だった。
その事故で私はママを、明クンは自分の人生を変えてくれた人を失った。その見返りが生活の保証だ。だから明クンはそれまで以上に、祖母に対していつも遠慮がちに生きている。
「明さんの病気を知って猛反対だったのに、結果は違ったから余計に用心深くもなるわ」
駄々をこね、祖母を困らせるママの姿は容易に想像がついた。あれほど明クンを独占したがったママが簡単に引き下がるとは、とても思えない。
「私の記憶の中のママは、明クンをすっごく愛しているママだったけど、先生にはどんな人だった?」
ミルクがたっぷり入ったミルクティーを飲みながら私は尋ねた。
その問いに彼女は懐かしむように笑って答える。
「う~ん、そうね。絢ちゃんのパパをすっごく愛している泉かな。だから明さんを連れてきたときは驚いた。だけど同じくらい安心もしたの。きっと絢ちゃんの今のパパが、泉に新しい人生をくれたんだって思えたから」
薬を受け取って私の方に向かってくる明クンを指差し、彼女は私にそう教えてくれた。
祖母の入院をきっかけに私は明クンとの生活に戻った。
一ヵ月のちょっと長い旅行のような感覚でいたのに、実際に帰ってくると色んな変化が自分の中に起こっていた。
毎朝、目が覚めると携帯電話を探す癖が抜けなかった。寝ぼけたままかける瞬間、自分のベッドに寝ていることに気付いてハッと起き上がる。
七年以上やっていたはずの習慣は一ヵ月の堕落した日々に簡単に負けるらしい。
毎朝、その自己嫌悪と葛藤して、私は明クンの部屋に向かう。
明クンの部屋の温度もずいぶん落ち着き、あれほど酷かった刺激臭の痕跡も消え、そして私も、明クンの肩を揺さぶることをしなくなった。
「明クン、朝だよ」
息遣いだけを確認して、今までより少しだけ声の音量を上げて起こすようになった。
それは彼の髭に頬をすり寄せていたことをしなくなった時よりも明確な理由だった。
だけどその変化に明クンは何も触れなかった。
小さな体でベッドの上に飛び乗り、息遣いを確認して、明クンの髭に頬すりをして起こしていた私が、静かに部屋に入り、寝顔を見つめ、息遣いを確認して、肩を揺さぶるって起こすようになった時と同じように、明クンは何も言わなかった。
明クンは今までと何も変わらず体を起こすと、目を擦ってから掠れた声で言った。
「ありがとう、今日も起こしてくれて」
明クンの、その言葉の意味を初めて理解した日の朝、私は上手く笑えなかった。泣くことだけは我慢したけど、私の変化に彼は気付いていたと思う。
だから、その日は寝ぼけながらも明クンは二カッと歯を見せ、私を笑わせた。
毎朝、彼を起こしに行って違った反応をしたのはあの朝だけだ。
明クンにとって日々何も変わらないことが、父娘という関係を正常に維持していける方法だと思っている。
私が成長していく中で、少しずつ変化していく、私の中の明クンとの関係性は決して止めることは出来ないのだろう。
どんなに望んでも、それは不可能のように思えてくる。
だから明クンは自分が変わらないことで、私の変化を受け入れ、私を一人にしないように、私がいる場所を見失わないようにしているように思えた。
ベッドに腰掛けたまま、じっと私を見ている明クンはいつもと同じように優しく微笑みかけている。その柔らかな空気が私を安心させると同時に、切なくもさせた。
「明クンは卑怯だよね」
窓を開けて、振り返った私はこっちを見ている明クンに唐突に文句を言う。それに彼は首を捻ってから「なんで?」という顔をする。
「いつも言葉が足りないから」
稲垣先生の前でした大人ぶった態度で私は腕を組み、そう答える。
「そうかな? 言うべきことはちゃんと言ってるつもりなんだけど」
明クンの掠れた声が途中で正常な声になっていく。そんな些細なことに気付く自分が、何だが居心地が悪い。
たったの一ヵ月が自分の中の変化を急速に進めているみたいだ。
「明クンは言葉が足りない分、違う方法で放つから…。やっぱり卑怯だよ」
私が指摘したとおり、彼は返事の代わりに静かに一度目を閉じ、私をじっと見つめてから、またいつものように優しく笑いかけた。
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