3.
久しぶりに会った明クンは少しだけ痩せていた。元々細かった頬がさらに細くなって、まるで減量したボクサーみたいで、かっこよさに磨きがかかっていた。
きっとママなら、すぐにカロリーの高いメニューを三つくらい頼んで強引に食べさせたに違いないと思った。明クンの良さを独り占めしたかったママのよくある行動だ。
だから参観日で誰かのママが明クンに視線を向ける度、その間に立ちふさがるという恥ずかしいことを平気でした。
『絢には分からないかもしれないけど、明くんからは女性を惑わせるものが出てるの!』
学校を終え、三人で帰る道で私がお説教するとママは頬を膨らませ、眉をくっつけて言った、明クンの最強の武器だ。
「今ならママの言ってたこと分かるんだけどな」
真向かいの席で汗を拭う仕草をしているだけなのに、近くに座っている異性の視線を明クンは引き寄せている。
そのことに当の本人は気付いているんだろうか? ああ、多分、気付いているんだろう。
だからママはあんなに注意深かかったはずだ。
私の小さな呟きに、きょとんとしながら明クンはメニューを開く。
そして甲斐甲斐しく、私への気遣いを繰り返す。
そんな彼の一つ一つの動きに周囲も何となく私の存在を受け入れ、やがてゆっくりと視線を逸らしていく。きっと祖母が嫌う、私と明クンに世間の判断が下されたのだ。
「明クンは本当に人の目は気にならないんだね」
舞子と食べていたイチゴ味のカキ氷はもうほとんど液体になっている。それを私はスプーンで混ぜながら明クンを見る。
「生まれた時からこうなんだ」
かっこよさが増した明クンは両手を軽く上げ、お手上げとアピールしながら笑っている。
「ほら、また言葉が足りない。自慢だけど、がいるでしょ」
私は自分のポジションを認めている明クンの、そういうところがちょっと苦手だ。自分に自信のある人は、いつもどこか冷静で、そして傲慢な気がするから。
だけどママの言っていた明クンから放たれている女性を惑わせる何かは、きっとその傲慢さが嫌味ではなく、好感に変化することじゃないかと思う。
その武器はきっと上等な明クンのマスクよりも数段上にある代物だから厄介であり、ママがあれほど必死で阻止しようとしていたように思う。
人が人を引き寄せるのは外見だけではない。
きっと、その人、その人が持ち合わせている世界だ。
「そんな明クンはどうしてママを選んだの?」
注文を終えた明クンに、私はもう何度目も尋ねた問いをする。
そんな聞き飽きた質問に、答え飽きた返答を、彼はまるで初めて教えてくれるかのように囁く。
「人生を変えられる道をくれたから」
明クンがそう答えるたびに私にはママの姿が浮かび上がる。明クンの隣で大きな声で笑うママの笑顔が鮮明に蘇るのだ。
『また恋しくなった?』
ずっと明クンばかりを見ている幻想のママは、消える最後に必ずそう私に尋ねる。
その問いに私は頷くときもあれば、首を振ることもあった。それは大きくなるにつれ、少しずつ後者になっていく自分が妙に卑怯な存在に思えたりもする。
その理由を私は気付いていいのだろうか? それとも気付かないほうがいいのだろうか?
そこまで考えて私は首を振った。祖母と暮らし始めて最近は変なことばかり考えてしまう。 それまで何気なく過ごしていた当たり前の時間に、まるで意味があることのように。
「絢、少し太っただろう?」
深みに嵌っている思考の中に明クンは容赦なく入ってきて私の頬を掴む。私はされるがままの状態で明クンの隣で消えかかるママを見ながら尋ねた。
「誰かの人生を変えられる人間って、どんな人なの?」
明クンに引っ張られている頬には確かに二週間前より肉がついている。おかげであまり痛さは感じない。だけど何だが不可解なものが伝わってくる。
「そうだな~」
今までしたことのなかった質問に明クンは頬から手を離すと、運ばれてきたアイスコーヒーにシロップを無造作に流し込む。
「温かい人かな」
明クンがそう答えたとき、消えかかっていた母の幻想が一瞬だけ眩く輝いた気がした。
私はそれを見ないふりをして、またケチを付ける。
「ほら、また。それだけじゃ分からないよ。いつも言葉が足りないのは明クンの悪い癖だね。だからおばあちゃんにも嫌われるんだよ」
ママと祖母は、明クンと祖母の関係性とは対照的に仲が良かった。
だから大きくなって、ママと祖母が嫁と姑だと知ったときは驚いた。おかげで祖母がなぜ明クンを嫌うのかには納得がいった。
「お義母さんはいい人だよ、だから絢を任せてくれたんだ」
唯一の肉親である祖母が私を引き取らずに明クンに預けたのは、私の体が拒否反応を示し、医者からも無理強いは悪化にしか繋がらないと言われたからだった。
家族であっても血縁関係のない父娘。二人が一緒に暮らすには多かれ少なかれ、外野にはよい印象を与えるものではない。それは私が成長すればするほど、付きまとってくる影のようなものだ。たとえ本来の父と娘の間柄であっても決して払拭は出来ない。
そう考えれば高校生を機にという祖母の常識的な采配は見事な判断といえるだろう。
「私の体が拒絶反応しなかったから悲しかった?」
祖母の家で過ごしながらプクッと太ってしまった私の変化に、何だか不服そうな明クンに問いかける。
「太るのは誤算だったけど、心配はしてなかったよ」
明クンは時々、本当の父親の顔をする。普段は友達のように砕けた口調で話し、威厳や私を守るというような風格さえも見せないけど、たまに妙に親の顔をするのだ。
そして、そんな顔をするときは大抵、右の頬を人差し指で掻いて照れ隠しをする。きっとしっくりこない立ち位置なんだろう、と思う。
だって彼は本当の父親にはなったことがないのだから。
「おばあちゃんは心配してたよ。熱がもし出たら計画が台無しだから」
父親を演じる明クンを前に私は必死な祖母の姿を思い出し、ため息混じりに言う。
家に来る前は色々と急かせたくせに、いざ一緒に生活を始めると祖母は何度も私に確認を取った。「気分は?」「頭は痛くない?」「熱は?」「吐き気はない?」新しい生活の下準備をさせながら、何かの呪文のようにそう繰り返し聞くのだ。
あまりに執拗に尋ねるから一度くらいは気分が悪いと言っていってみようか、そうすれば慣れ親しんだ明クンとの生活に戻れるんじゃないか、そんな邪な考えも過ぎた。
「あの時、絢が熱を出したのは俺のためだよ」
少し日焼けした褐色の肌に白い歯をニカッと見せ、明クンは愛嬌を振りまく。
私はいつもそれを見ると、自然にクスッと笑ってしまう。それは条件反射のようなもので、明クンがその顔を見せるときはたいてい私が沈んだ表情をしているときだ。
だから私は明クンが作ってくれた笑顔を意識する。そうすることで明クンの気遣いを振り払えるから。
けれど、その日はそうはいかなった。
「幼かった絢が俺のために熱を出したんだ。俺には絢が必要だったから」
明クンは視線を少しだけ落とすと、自分の記憶を思い出したのか小さく笑った。
そんな寂しげで嬉しそうな明クンを前に、私はなぜか笑顔を維持することが出来なくて正直困った。だから欲しくもないのにメニューを手にして、それで顔を隠した。
頼んだケーキが運ばれてきた時にはいつもの二人の会話に戻っていたけど、私は何だが明クンとの家に帰りたくなくて嘘をついた。
どんなことをしても怒らない明クンが一番嫌うものがある。
それが嘘をつくこと。それは明クンの中で絶対的な信念のようだ。
『嘘は誰かを傷つけることじゃなくて、自分を偽ることなんだ。それは誰でもない自分を不幸にする行為だ』
小学四年生の頃に、そう酷く怒られたことを今でも覚えている。どんな嘘をついたのか、それでどうなったのか、そういう経緯は全く覚えていないのに明クンの顔が怖くて、声が怖くて、もう二度としないと誓わないと許してもらえないほどの状況だった。
それほど私の中でトラウマだったのに、なぜか驚くほどスラリと言葉がこぼれた。
「家に泊まってきていいって言われたけど、おばあちゃん昨日から体調が優れなくてさ。やっぱり私がいたほうがいいと思うんだ」
我ながら上出来な嘘だった。少しも疑うこともなく、祖母の家まで一緒に行くという明クンの優しさを私は断った。なんだか二人でいることに今日は耐えられそうに無い。
そのことの意味を帰りのバスの中でずっと考え続けた。
だけど正しいと思える答えは一向に出てこない。
その代わりに私の帰宅に大歓迎の祖母の姿を見つけると、急に悲しくなって彼女の肩にそっと額を乗せ、私は久しぶりに大声を出して泣いた。
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