坊っちゃまとメイドさんの場合


「坊っちゃま‼︎」


高く高く登ったその先から、下を見下ろす。いい眺めだ。


焦るメイドの姿に笑いがこみ上げるが、我慢して一言。


「何をそんなに焦っているんだ?」


困り顔のメイドは、えぇー⁉︎と素っ頓狂な声を上げて、走り去ってしまった。





メイドの姿が見えなくなってから、木から降りる。年甲斐のないことをしたなぁと思いつつも、たまにはいいなぁ、と感慨に耽る。


この後きっと、あのメイドは執事を連れてきて、僕の姿が見えないことにまた慌てるのだろう。


「少し服が汚れたか。まぁいい」


口角が上がるのを抑えられない。楽しかった。素直にそう思えたのは、すごく久しぶりのように感じる。


あのメイドのおかげ。また一つあのメイドには世話になった。


僕の世話係は執事が務めているが、メイドもたまにやって来る。僕は彼女のことを、気に入ってしまった。




初めて来た時の彼女の仕事は、お茶を運ぶことだった。印象深い出来事があったから、鮮明に覚えている。


メイド修行を終えたばかりだという彼女の手元は覚束なくて、僕は入ってきた瞬間にはもう面白がっていたと思う。


その時は僕が15歳。彼女は17歳だった。


年下の召使いはこの屋敷にはいないけれど、ここまで年が近いというのも初めてで、少し驚いたのを覚えている。


「お茶を、お持ちしました」


ワゴンを押す姿には、緊張という言葉がよく似合っていた。僕は読んでいた本を閉じ、彼女をまじまじと見つめた。


「見ない顔だな」

「え、はい、今日から正式にメイドとして働かせていただくことになりました、よろしくお願いいたしますっ」


勢いよくお辞儀をした彼女の頭は、ワゴンの角に当たった。……吹き出してしまった。


「あっ、申し訳ございませんっ」

「いや、いい……ふっ……」


何だこのドジは。正直な感想は、さすがに口には出来なかったが、笑いは止まらなかった。


その後彼女は緊張に身を固めながらも、仕事をやり遂げ、安心した様子で部屋を出て行った。




そんなことがあってから、僕は何度も彼女のドジを目撃することになる。


誰かに、それこそメイド長や執事長にでも見られたら笑い事じゃ済まされないだろうドジを、何度も。


僕としては、彼女のような召使いに初めて出会ったから、珍しいし面白いから、告げ口をする気は全くなかった。


でも、さすがにあれから二年経った。彼女は仕事に慣れて、滅多にドジを起こさなくなった。


普通の召使いの雰囲気に染まり始めた彼女の困り顔が見たくて、時々僕は今日みたいに悪戯に興じる。



久々に木登りをしたせいで、少し疲れた。部屋に戻る道のりは、屋敷の広さのせいで余計に長く感じる。


「あっ、坊っちゃま」

「ん?どうした」


早足で歩いていたメイド長に声を掛けられて、足を止める。


「旦那様がお呼びです」


身体が緊張する。嫌な汗が背中を伝うのを感じる。


「分かった」


一言答えて、方向転換をする。屋敷の奥の奥、僕の部屋から一番遠いそこが、この屋敷の主人の部屋だ。


さっきまでの疲れを忘れ、何を言われるのかという不安に鼓動が早まる。反して、足は引き返したい気持ちに速度を奪われていた。



「父上」


ノックをして、声をかける。


「入れ」

「失礼します」


部屋中に漂うのは、古い書物の匂いと、タバコの煙の靄。いつもの風景。父親に呼び出される珍しさが余計に際立つ。


「最近、どうだ」


夕食時に揃う家族の中に父親の姿を見るのは週一がいいところだから、会えば近況報告から始まる。


「普段と特に変わりはありません」

「そうか。まぁ、変化というものは求めなければ得られんからな。お前にはその欲が足りん」


いつもの返事をすると、お決まりの言葉が返ってくる。……変化を求める欲、僕にはまだ分からないし、あまり分かりたいとは思えなかった。


今の状態に不満はない。いずれはどこかで変わらなければいけないとわかっているが、今がその時ではないとも思う。


「……それで、ご用件は」

「あぁ、見合いの話が整い始めている」

「……っ。お見合い、ですか」


……心の準備が出来ていなかった。いつ来てもおかしくない年齢だというのに。


「相手はレリーフ家の娘さんだ」


レリーフ家の娘。名前も教えてもらえない。当然顔も知らない。……何故か、あのメイドの顔が浮かんだ。


それを振り払うように、尋ねる。


「何か準備しておくことはありますか」

「いや、いずれ顔合わせをするだろうから、詳しいことはその時だな」

「分かりました」


何も言えない自分。そうなったのは、当然自分の責任だ。いつも反発していた姉は、勘当ギリギリまで行ったこともある。羨ましいとも、馬鹿馬鹿しいとも思った。……きっと前者の方が強い。


「話はそれだけだ」

「……失礼します」


それだけ、とまとめられてしまった。部屋を出て数歩歩き、立ち止まって息を吐いた。


深く深く吸って、深く吐く。その度にちらつく困り顔への対処方法が分からなかった。


結婚。


「……あ、嫌だなぁ」


いつか、と思っていた。まだ先のことだと漠然と考えていたけれど、その時は突然訪れた。


情けない。涙が出てきてしまった。急いで部屋に走る。


「へっ、坊っちゃま⁉︎」


視界が涙で滲んでいるせいで、前が見えていなかった。


角を曲がった瞬間、驚き顔のメイドとぶつかってしまった。尻もちをついた。痛い。


「……痛い」

「大変失礼いたしました‼︎お怪我は⁉︎」

「大丈夫だ。別にお前のせいじゃない」

「……でも、泣いておられます」

「これは何でもない‼︎」

「……そうでしょうか?」


心配そうに眉をひそめる。


一人百面相でもしているかのようにコロコロと表情を変えていく彼女が、可愛く思えた。そしてその素直さを羨む自分に気付いてしまった。


「……結婚、するんだ」


心臓が悲鳴を上げた。


「そうなんですか⁉︎それは、おめでとうございます。でも、それじゃあ何故……」

「自分が情けなくてな。父上に何も言えなかった自分が、情けなくて」

「……私でよければお話をお聴かせください」

「いや、大丈夫だ」

「……では、一度お部屋に戻られてください。何かお持ちします」

「……悪いな」


礼をして去っていく彼女の後ろ姿を眺めながら、泣いているところを見られた恥ずかしさにまた涙腺が緩んだ。


自分がこんなに脆いということを、知らなかった。





「失礼いたします」


ノックとともに声が掛かり、入ってきたメイドはワゴンを押していた。ティーセットと、クッキーを載せた皿が並んでいる。


「……悪いな」


二度目の謝罪。情けなさも相まって、目を合わせるのを躊躇う。


「坊っちゃま、結婚なさりたくないのですか?」


紅茶を注ぎながら、彼女が尋ねる。心配してくれる彼女の優しさが沁みて、僕は口を開いていた。


「……嫌だなぁ、なんて思ってしまった」

「私、坊っちゃまの泣き顔など見たくはありません……」


テーブルにカップを置きながら、そんなことを言う。表情が暗い。


「……好きな女性がいるんだ。と言っても、見合い話を出されて初めて気付くような有様だがな」


自嘲気味に笑うと、彼女が驚きの声を上げた。


「そうなんですか⁉︎それならやはり、旦那様にお気持ちを伝えるべきなのでは……。って、申し訳ございません、私、こんな勝手なこと」

「いいんだ、お前の言う通りだからな」


落ち込み顔。


「お前は笑っとけ」

「え、坊っちゃま……?」

「さっき、お前は僕の泣き顔を見たくないと言ったな。それは僕も同じだからな。そんな暗い表情は似合わん。ドジでもして笑ってろ」

「……ありがとうございます。あっ、でももうドジはしませんっ」

「それはつまらないんだが」

「酷いです、坊っちゃま……」


声のトーンを落としつつも、顔にはさっきまでの暗さはもうない。安心して、カップを口に運ぶ。



気に入ってはいたが。それがまさか恋だったとは。


だが、好きになってしまったのなら、仕方がない。


これから色々なことがあるだろう。まだ気持ちも伝えていないのだから始まってもいないけれど。


この百面相にすっかり癒されていることに気付いてしまった。もう後戻りは出来ない。


溶けた緊張が、今度は別の緊張へと姿を変える。


壁は高い。年齢もあちらが年上だし、階級も違う。まずは父親に反抗しなくてはならない。姉に援護射撃を頼もうと心に決めた。


病気で伏せっている母親に心配をかけることになるが、きっと応援してくれるだろうと思った。


それに。


彼女がそばにいてくれるとなれば、自分は無敵にでもなれるのではないか。そんな無責任な期待をしつつ、彼女の方を見やる。


私そんなにドジですか、なんて眉を八の字にしている彼女の困り顔が面白くて、初めて出会った時のように、僕は吹き出していた。



−坊っちゃまとメイドさんの場合 fin.

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