活字中毒さんと司書さんの場合
「何をお探しでしょう?」
ゆっくりと図書館の空気に溶けるような声が掛かる。
甘いような、苦いような、低い声が。
その声は、初めて聴いた人にとって忘れられない声になるだろう。
……と、図書館で至福の時間を過ごしていた私は一瞬遅れて声の方へと振り向いた。
○
聴き入るような、感じ入るような雰囲気の声の司書さんだった。
「あの、この本なんですけど……」
恐る恐る、手に持ったままだった携帯を司書さんに渡す。
「……ありますか?」
「はい、ありますよ。ご案内致します」
「あっ、そんな、棚を教えて頂ければそれで」
「いえいえ、仕事ですから」
「すみません……」
この図書館には書籍検索のための端末があるが、行けども行けども誰かが使っていて、自力で探すことにしたのだが……。並べばよかった。並んで待つ時間があるなら本を、と考えてしまうのは、どうにもならないところだ。
「ここです」
淀みなく、無駄のない司書さんの動きに従って、随分奥まで来た。
「宝庫……」
好きな作家の本が並んでいて、しかも、目当てだった小説もある。二冊も。
「ふふっ、良かったです」
「ありがとうございました。揃いが良くてびっくりです」
「ここを利用するのは初めてですか?」
「はい、いつもは地元の図書館を利用するんです。でも今日は、用事で出て来たのでここに。あっ、でもこれからは通おうと思います」
「この作家さん、お好きなんですね」
「はい、あまり有名ではないので、地元の本屋さんにすら、ほとんど置いてなかったりするんですけど、って、すみません、喋りすぎました」
「いいんですよ、喜んでいただけると、こちらとしても嬉しいものです。この作家さんが好きな司書がいて、館長にしつこくねだったんですよ、このコーナーを作ることを」
「その司書さんナイスです‼︎」
「ふふっ」
笑う時まで、その声には独特な艶がある。あぁ、艶だ。そういう声は、女性の私こそ持つべきものだろうに……。少し羨ましくなった。
「では、そろそろ失礼します。何かあったら気兼ねなく声をかけてくださいね」
「はい、ありがとうございました」
去っていく司書さんの背中を見送る。いい声してるなぁ、なんて、声フェチでもない私も惹かれるほどの魅力があった。
少し得した気分だ。このコーナーに出会えたことも含めて。
改めて、本棚と向き合う。
「本当に、宝庫だよ……」
ここまで揃っていると壮観だ。溜息が出た。
「このコーナー設立に尽力した司書さんに是非会いたいものだよ……」
ほくほくした気持ちで未読本を手に取る。
他にも、まだ買えていなかった本も沢山あり、結局全部で五冊になった。
満足だ、今日はこれで終わりにしよう。カウンターで、貸出処理を済ませる。
ほくほく気分に心を弾ませて、私は外に出て駅へと歩き出した。
……定期がない。
おかしい。朝は定期を使ったのだから、持っていないわけはない。
どこに行ったんだろう……。駅の案内所には落し物は届いておらず、途方に暮れる。
図書館に戻ってみるか、無ければ昼食を食べたレストランと、その前に行ったお店にも……。
見つかるか不安だが、とにかく探してみないことには何も始まらない。
図書館に着き、ひとまずカウンターに行き、落し物の届け出がないか訊いてみる。
ありません、と言われ、気持ちが沈む。少しの期待が打ち砕かれた。けれど、まだ更新したばかりの定期。諦められるほど、私はお金に緩くない。
とりあえず、館内を回ってみることにした。
本棚の合間を、床を注意深く見ながら歩いていく。
でも全く見つからない。ここには無いかも、と諦めかけていたところに、突然声がかかった。
「探し物はこれですか?」
沁み入る声。振り返ると、宝庫に案内してくれた司書さんが居た。
「これ、落ちていました。貴女のものですか?」
見ると、手に定期入れが握られていた。
「はい、私のものです……。どうして?」
「どなたの落し物か分からなかったので、手がかりはないかと、少し中を見させていただきました。すみません」
どうぞ、と渡されて、ありがとうございます、と受け取る。
「さっきの作家さんの本の、限定の栞が入っていたので。もしかしたら、と思って」
「本当に、ありがとうございました。……栞、見当たらないと思っていたら、こんな所に入れていたんですね」
「ふふっ、栞の方が大切なんて、貴女らしいです」
「あ、いえそんな……」
栞のことは今の今まで忘れていた。でもそれを口にするのはなんとなく躊躇われ、飲み込む。
「大切にされてくださいね。それでは」
「あっ、本当にありがとうございましたっ」
「いいえ、仕事ですから」
にこり、きっとそれはここを利用する人には例外なく向けられる笑顔だろう。分かっていても、目が離せない自分がいる。
……落ちた、と、思った。
私は本さえあれば生きていける人間だと思っていた。けれど、それだけでもないらしい。
自分らしからぬ胸の高鳴りに、どうしようもない照れ臭さを感じた。
想っているだけで、少しだけ日常が色づく。それが恋なのだと、私は初めて知った。
日曜日。暖かい陽射しと、ふわりと髪を流す風に癒されるようなその日、私は再び図書館に足を運んだ。
返却を済ませ、真っ先に『宝庫』に向かう。今日は何を借りようかと本棚とにらめっこ。
「十冊まで借りれるから、これとこれは絶対。あとはどうしよう……」
それから二、三冊取って、本を抱えて本棚から離れる。
「……仕事中ですよ」
「分かってますよ」
……なんだろう。これは、訳ありな雰囲気だろうか。
話し声がして、私はひとまずその場に留まる。仕事中ですよ、と言った声に聴き覚えがあった。
「離していただけますか」
「満更でもなさそうですよ」
「……そういうこと言わないでほしいなぁ」
あぁ、彼女さん……。
棚を一つ挟み、そこで向き合っている男女が居た。
司書さんが着ているエプロンの裾をそっと掴む、綺麗な女性と、それを照れたような、でもその表情を隠すような様子の、いつもとは違う司書さんがいた。そこには、甘い雰囲気が控えめに漂っている。
盗み聴きも盗み見も、不躾な行動だと分かっている。けれど、その場から動くこともできず、どうすればいいものかとただ立ちすくむ。
とてもいい雰囲気だ。司書さんの声には、いつもとは少し違う色があった。
きっとあれは、司書さんが好きな人の前でだけ出す声。私なんかが盗み聴いていいものではない。
しまったなぁ……。
心が少し痛む。痛むけれど、それほど感傷的でもない。
恋心を知れて、楽しかったから。
よく考えると、これは私の初恋。
素敵な気持ちを知ることが出来た。少し得した気分。
悲しくはない。私に恋を教えてくれた素敵な司書さん。どうか、お幸せに。
前向きな失恋。こういう恋もあっていいんだなぁ、なんて。
いつか私も。本から離れることは出来なくても、それと同じくらい大切な人を見つけよう。
きっかけをくれてありがとうございました。
普段より少しだけ優しい気持ちに心がふわりと浮き上がる、暖かい昼下がり。
私は新しい気持ちでこれから生きていける。大袈裟かもしれないけれど、そんな風に思った。
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