彼女さんと司書さんの場合


「何をお探しでしょう?」


ゆっくりと図書館の空気に溶けるような声が掛かる。


甘いような、苦いような、低い声が。


その声は、初めて聴いた人にとって忘れられない声になるだろう。


「……吐息、という小説です」

「ご案内いたしますね」





「こちらになります」

「ありがとう、ございました……」


ちらりと司書さんの表情をうかがう。動くことのない営業(?)スマイルに、私は落胆する。


「いいえ、仕事ですので」


えぇ、存じ上げておりますとも。


「それでは失礼します」


去っていく背中を見送り、ふぅ、と息を吐く。


「やっぱり駄目か……」


目的は達成ならず。無念のままに、私はもう一つの目的である本を手に取った。


『吐息』


私の好きな人の好きな小説で、その魅力は語れど語れど足りないという彼の様子に、私も気になってこうして探しに来たのだった。


「綺麗……」


表紙を眺めていると、心が落ち着いていく。こういうデザインは、単行本ならではとも言える。購入となると文庫本の方が手が出しやすいけれど、たまには買ってみようかと思った。


……それにしても。


あの態度はあんまりじゃないか。寂しくはあるけれど、ベタベタと甘えに来たわけじゃないのだ。仕事中だということも分かっているつもりなのに。


……二週間ぶりに顔を合わせることができたのに、なんて、私の忍耐力が足りないのか否か。


「やめよう」


一人で考えても始まらない。私は目当ての小説を見つけられたことで、とりあえず気持ちを落ち着けることにした。


……落ち着けたくはないけれど、しょうがないこともあるよね。


カウンターに行き、処理を済ませて図書館を出る。外は少し冷えていて、私の気持ちによく似ていた。


このまま家に帰るのもなんとなく嫌で、私はカフェで借りた小説を読むことにした。




「……素敵」


読み終えて、ほっと息が漏れた。そっと吐かれる「息」に寄り添った、短編集だった。これといってときめく恋愛モノだったりしたわけでもないのに、胸がドキドキしていた。


帰ろう、席を立った時、携帯の着信が鳴った。


通話ボタンをタップ。携帯を耳に当てると、心地よい声が少しの怒気を含んで響いてきた。


「どこにいるの」

「カフェに……」

「早く帰ってきて」

「えっ、家にいるの?」

「そうだよ。だから早く帰ってきて」


早口でそう言ったかと思うと、プツリと電話が切れた。


合鍵は先月渡した。使ってくれたのは初めてかもしれなかった。


急いで会計を済ませ、帰路に着く。早まる気持ちとは裏腹に、信号に止められたり途中で呼吸を整えるために立ち止まったりと、なんとももどかしかった。


やっと家に着き、部屋へ入る。


「……っ」

「遅い」

「……あったかいね」


玄関で帰りを待ち侘びていてくれたようだった。可愛いところもある……。


抱き締められたまま、昼間の不満を少しぶつけてみることにした。


「司書さん、あの態度はあんまりではないでしょうか」

「……仕事中でしたので。申し訳ありません」


その声は反則だ。でも、流されないように、堪えて抑えていた気持ちを少しぶつけてみる。


「いつぶりか覚えていらっしゃいますか?」

「二週間ぶりでしたね」

「……それなら、なんで」

「ごめん、でも、俺だって寂しかったんだよ?」

「……ちょびっと話したかっただけなのに。素っ気なかったと思いまーす」

「ごめんって」


会えなかった理由は知っている。仕方がないことも分かってる。でも、それでも……


「……寂しかったんです」

「……ごめんなさい」


たまには素直になりたい。素直じゃない自分の殻を破りたい時だってある。


我が儘になっても、たまには気持ちのままに甘えてみたくもなる。


「……あ、それ、好き」

「え、どれ?」

「ごめんなさいって、なんか可愛い」

「……からかわないでよ。男に可愛いって言ってもなんも出ないよ。ってか、ごめんなさいが可愛いって何……」

「いいんです」

「はいはい……。寒いから、そろそろ部屋行こうか」

「あっ、その前に」


たまの素直だ、こういうことだってしてみたい。


ヒールで助かった。


背伸びして。そっと、口付ける。


「よしっ、入ろう」


離れて、靴を脱ぐ。


「あっ、待って待って」


離れようとしたら引き戻されてしまった。


お返し、と口付けられて、顔が火照るのを感じた。


「……玄関でこんなことして、結構バカップルっぽいよね」

「全国の過激なバカップルに失礼だよ」

「その表現も失礼だと思うけどね、俺は」

「すみませんでした」

「あ、小説どうだった?」

「すごく良かった。あぁいう、なんでもない仕草に意味を持たせるってすごく素敵」

「それは良かった」


会話が弾む。心も弾む。


たまの素直がこんなに効いてくるとは思わなかった。頑張ってみるものだ。


「ありがとね、素直は君もたまにはいいね」

「いつも素直じゃなくてすみませんねっ」

「いえいえ」

「否定してくれないのね……」

「素直じゃない自覚があるからキスしてくれたんじゃないの?」


返す言葉もない。


「いいんだよ、君はわかりやすいから本当は甘えたいってのも伝わってくるからねぇ」

「……本当、よくわかってらっしゃる」

「彼氏ですから」

「そうだね、そうだよね」


彼氏ですから。その言葉に心がほぐれる。不思議だ、さっきのキスよりその言葉を嬉しいと思う自分がいる。



きっと、好き、は人それぞれだから。

この好きを大切にできれば、それでいいよね。



彼が離れた後も残る暖かさに安心しながら、私は小説の一節を思い出していた。



-彼女さんと司書さんの場合 fin.

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