偽りの終わり
陽光がまったく届かない世界。
そこにも流れてくる下水の栄養を吸収する奇怪な虫たちがおり、それを食らう小型の動物たちがやってくる生態系が形成されていた。
シュラはその王国に潜んでいた。
時々、足の上を気味の悪い虫が這いまわり、裾から入ってくるのだが彼は気にもならない。奴隷時代にはもっと悲惨な状況で暮らしていたのだから。
いつナーベが来てもおかしくない、と彼は思う。
大隊長の屋敷へ誘導されたことに気づき、宿を急襲するがすでに自分は逃亡済み。そこで彼女は生物探知の魔法が使えるならそれを使い、あるいはワーカーたちの部屋にあえて残した情報に気づけばここへ来るだろう。首領の情報を持つ可能性は低いとわかっていてもゼロでない以上は捕縛を試みる。
転移の魔法で奇襲をかける可能性は低いと彼は考えている。罠を散々繰り返したのだからむこうはこれも罠だと気づく。転移すればそれを起動条件に設定した罠が作動すると推測するだろう。実際、そのとおりだ。
であれば、彼女は罠探知の魔法かマジックアイテムを使用しながらそれらをすり抜け、あるいは解除して接近している頃だろう。それも想定済みだ。見つかることを前提にした罠をいくつも設置している。
最大にして唯一ナーベを殺せる望みのある罠は彼のすぐ傍にあった。探知の魔法でも見破れないそれはどんな防御魔法でも防ぎきれない威力を持ち、彼女の命を奪う。
(まさかと思うけど、私に誘導されたと気づかないってことはないでしょうね?)
彼は少し不安になった。
このまま待ちぼうけになることだけは想定していない。
美姫ナーベがそこまで愚鈍では困る。
彼女が最初の襲撃で自分とワーカーたちの前に現れた時は自決を覚悟したが、2人が犯人を推測し始めたおかげで3人とも潔白だと彼女は信じ込んだ。これは非常に嬉しい誤算だった。
おかげで彼の仲間が大隊長の息子に魔法をかけ、魅了の効果が持続している間にナーベを屋敷へ誘導することができた。黒の五番は彼女と話しているとき、いつでも自決できるよう準備していたが、拍子抜けするほどあっさり騙されてくれた。
しかし、子供を利用した不意打ちでも死なないのはさすが最高位冒険者ということだろう。
「黒の五番、聞こえる?」
伝言の魔法により脳内に女の声が響く。
「黒の四番。どうしました?」
彼女は彼と同じ貴族に飼われていた奴隷であり、当時の仲間で唯一生存している者だった。今回の作戦に加わってると知ったのは数時間前だ。
「最後に言っておきたいの。あなた、囮になるってことは顔がばれてるのね。今回で引退でしょう?」
引退。
その意味は黒の五番にもわかった。
彼ら暗殺団は手配書が国中に回れば実行犯としてもスリーパーとしても活動できなくなるために顔が割れたメンバーは国外へ逃亡するしかない。そのまま暗殺者を辞めて新しい人生を探せ、と訓練時代に言われたことがあった。
小規模な事件ならほとぼりが冷めた頃に復帰できるが、最高位冒険者を殺害すれば前代未聞の凶悪事件として冒険者組合と王国軍が死に物狂いで彼を追いかけるだろう。彼はこの任務が成功してもしなくても暗殺者として終わりだった。
「私が引退したら帝国のどこかで暮らすつもりよ」
「何を言ってるんです?」
彼は相手が精神支配を受けた可能性を疑う。
しかし、相手は続けた。
「操られてないわ。生き残れて縁があればまた会いましょう。それだけよ」
相手はそう言って魔法を解除した。
黒の五番はぼんやりとだが意図をつかむ。
お互い暗殺者を引退できたら会わないかということだ。
帝国といっても広い。帝国のどこで、と言わないのはそこまで言ったら罠にしか聞こえないからだろう。
(暗殺者をやめた後の人生。そんなものが―――)
彼は馬鹿げた思考を慌てて中止した。
任務中にくだらない事を考えてどうする。
その時、彼の手の中にいる動物がもぞもぞと動いた。
来た、と彼は思った。
その直後、二つの事象が生じた。
黒の五番は懐から黒い塊を取り出すと右側に投げた。
同時にそちらの方向から不可視の何かが投じられた。
彼が投じたものは
逆に、投じられたものは彼に当たって薄く固い容器が割れ、内部の液体により彼の体に魔法効果が生じ始めた。
(これは……
よほど強い神官にかけられたであろうその魔法は呪文抵抗を許さなかった。この瞬間、彼は一時的な毒への完全耐性を得てしまい、呪文の持続時間が終わるまで毒物で自決できなくなった。
「やりますね」
彼は刃物を構える。
「……っ」
舌打ちが下水道に響いた。
(モモンがいない……)
彼は挟み撃ちを警戒する。
といっても、下水道は大剣を振れる空間がなく、モモン用にマジックアイテムも用意しているので勝算はある。
「どうしてわかったか不思議ですか?」
彼は掌に収まった動物を逃がす。
闇の世界でも周囲を認識できる動物、蝙蝠だ。
ドルイドが訓練したものを譲り受けた。
「あっそ。《
彼女は即座に魔法をかけたが目に膜はかからない。
彼は対策済みだった。
「麻痺や睡眠も試したらどうです?効くかもしれませんよ」
その挑発に相手は剣を抜いた。
(もう毒は使えない。最短で自決するには自分の首を切るしかない。相手はそれを防ぐためにこちらの腕を切り落とす。ここまでは予想済みですが……)
彼はもう少し近づいてくれと願った。
「私が近づいてそこの罠にかかると思ってるの?」
剣が指した先は汚れた下水。その下には確かに罠が設置してあった。
「……ばれましたか」
黒の五番は何もかも終わったという顔をした。
それでも彼は陶器を床に投げつける。
炎が生まれ、闇の世界が赤く染まった。
炎は生物のようにうねり、白い美貌を包み込む――ことはなかった。
転移魔法。
雪から作ったような美貌が目の前に現れ、光が一閃する。
死ぬほどの激痛と共に彼の右腕が床に落ちた。
「ぎ……」
黒の五番は人生最大の痛みに耐える。
同時に歓喜した。
「起動!」
彼は叫び、身につけた2つの装備にこめられた魔法が同時に発動した。
一つは《
もう一つは鉱山採掘に使われる魔法、《
ぴしりと天井や壁が鳴り、彼の姿が消えた。
彼が立っていた場所は事前にドルイドである仲間が魔法をかけて下水道の基礎構造を弱らせておいた。たった今追加した魔法により地下空間が耐久限界を超えたのだ。
「な……」
美しい声と姿は数百トンの土砂の下敷きとなった。
「成功。死体を頼みます」
怪我をポーションで治療し、地下下水道を走りながら彼は黒の四番に魔法で伝えた。
仮に魔術師ナーベを殺害しても死体が綺麗に残っていると王都のアダマンタイト級冒険者が蘇生してしまう。そのために必要な処置だった。
「わかったわ。任務終了おつかれ」
相手の声に安堵があった。
「さようなら。いつか帝国で会えたらいいですね」
彼は自分の口からその言葉が出たことに驚いた。
「……ええ、いつか会いましょう」
会話はそれで終わった。
彼女が生き延びて引退できる保証はない。
自分も逃げられる保証はまだない。
それでもよかった。
シュラは伝言の魔法を終えると息を切らしながら地下下水道の出口から出てきた。途中でモモンと鉢合わせしないか気が気ではなかったが、どうやら別ルートだったらしい。
下水の匂いを夜の清涼な空気が追い払い、今だけは達成感に浸ることを自分に許す。生涯最大にして最後の仕事をやり遂げたのだ。
仲間たちの死も報われる。
彼らに短い祈りの言葉を唱えようとしたとき、空から声が聞こえた。
「無駄な努力、ご苦労様」
「………え?」
彼が見上げると夜の女王がそこにいた。
先ほど見た白い美貌と黒い瞳。
その後ろでは世界最高の美姫を映やさんと大きな月が空を飾っている。
恐ろしく、そして美しい光景だった。
「……どうして」
転移する余裕はなかったはずだ。
そう言いたかった。
「どういう罠かいろいろ考えたけど、結局、どうでもよかったのよ。最後だから教えてあげる。あなたが地下で戦ったのは私じゃないわ。幻術よ。自分が騙される側になるとは思わなかった?」
「馬鹿な……あれは幻術じゃない……鬼火の粉末が……」
彼はすがるように言った。
地下下水道を崩落させても相手が幻術なら無意味になる。
だからこそ最初にマジックアイテムでそれを確かめた。
しかも腕を切られたということは実体があるということだ。
夜の女王は地を這う虫を見るような目をした。
「実体を持つ幻術もあるのよ。第8位階のシミュレイクラム。知らないの?」
「……8位階?」
彼はその言葉の意味を考える。
神話の中の魔法。
人類がそこに到達したことはない。
ならば今、自分は神の一人と対峙していることになる。
「実体を持つし、戦闘も行える。強さが私の半分になるのが欠点だけれど、あなた達が手も足も出なかったのは笑えるわ」
「……半分?」
彼はまたオウム返しに言った。
あの恐ろしい魔術師が半分の強さ。
そんな話はありえない。あってはならない。
(あなた……達?)
彼はほとんど絶句しながらも奇妙な点に気づいた。
さきほどの戦いなら「あなた」ではないのか。
彼の頭脳は困惑し、そこに稲妻のごとき閃きがやってきた。
「まさか……あの時から……」
彼の体は震えていた。
「そう。あなた達は最初から騙されていた。裏通りや人が少ない所へ私は行かないの。そういう命令を受けてるからよ」
夕焼けの中、6人の仲間が殺されていった光景を彼は思い出す。
あの殺戮も本物のナーベではなかった。
強さが半分の偽者だったというのか。
偽り、騙し、虚を突く自分たちが最初から騙されていた。
「あなたは……誰なんですか……?」
彼は放心しながらも聞いた。
「違う……誰か、じゃない……あなたは何なんですか……人間とは思えない。もっと別の――」
その続きを彼が言うことは許されなかった。
夜の女王は消え、死ぬほどの激痛が生まれたからだ。
首を下に曲げると胸から突き出た刃が見えた。
真後ろから鈴を転がすような笑い声。
「さきほど至高の御方から素晴らしいお言葉があったわ。首領は捕まえたからもうお前を殺していいそうよ」
剣が引き抜かれ、彼は地面に倒れた。
心臓を貫かれていた。
天の星々と美姫が見下ろす。
彼は血を吐きながら口をパクパクと動かす。
「何?聞こえないわよ?」
美姫は嗤っていた。
「に……」
「に?」
そこで彼女は少し体をかがめる。
死を願っていた相手を実際に殺せることへの喜び。
それがナーベラル・ガンマに一つのことを失念させた。
目の前の虫に一つだけ武器が残っていたことに。
黒の五番は彼女のローブを掴んで引き寄せ、口内に溜めた毒を吹きかけた。
美姫の顔が驚きに変わる。
任務完了。
彼はそう信じて死の国へ旅立った。
満月の中を小さな影が舞う。
自由を手に入れた彼の蝙蝠だった。
地面が震え、鈍い音が街に響いた。
急がないと、と黒の四番は思う。
魔術師協会所属の者たちがやってくる前に魔術師ナーベの死体を見つけ、蘇生不可能な状態にする必要がある。
地面の中を泳げるアースエレメンタルの一種を召喚すべく彼女は精神を集中させる。
その時だった。
《
体に魔法がかかった。
(自決用の毒を――)
消されたと彼女が理解した瞬間、もう一つの魔法がかかった。
《
精神が自分とは別の何かで埋まっていく。
「死体を回収する仲間が必ずいると思ったぞ」
背後から憎しみのこもった声が聞こえた。
これから自分をどうする気なのか容易にわかったが、体が震えることは許されなかった。
「ご苦労だったな、ルプスレギナ。すまないが用はこれだけなんだ。ポーションはもったいないし、手を血で汚すのが嫌でな」
「とんでもございません。どのような御用でもお呼びください」
優しく、そして誇り高い女の声がした。
「まずは場所を変えよう」
そう言うと視界が突然森に変わった。
草木の香りと虫の音が幻術でないことを彼女に教える。
細すぎる指がその首をつかむと「回れ右」をさせて相手の顔を見せてくれた。
蝋よりも白い骨。赤い光が灯る眼窩。
相手が人間でないことに彼女は驚かなかった。
「崩落場所の近くに待機したのは失敗だと思っているか?」
「はい、そうです」
意志なき声が答えた。
「遠くにいても意味はなかった。街のあらゆる場所を部下が監視しているのだからな。さて、大事な質問だ。お前は暗殺団の頭領か、あるいはその居場所を知っている者か?」
「いいえ、違います。私はそういう情報を持たされていません」
少しの沈黙があった。
「あー、やっぱりそうだよな……」
うんざりした声が漏れた。
「そうだよなー。捨て駒を使うよな。もはやアウラの捜索に期待するしか……」
「アインズ様ー!」
幼く活気のある声が夜の森に響いた。
それに続くいくつもの足音。
彼女は見た。
モンスターの大群を。
大型から小型、霊体らしき存在もいる。
百や二百ではない軍団規模の数だ。
先頭には幼いダークエルフが一匹の魔物に乗っており、その上空にはいくつも目を持った奇怪な肉塊が4つ浮いている。
「おお、アウラ!見つけたのか!?」
骸骨は喜色のこもった声で聞いた。
「西のほうでこんな奴を見つけました」
ダークエルフがそう言うと魔物の口からぺっと吐き出された大きな物体。
緑のローブをまとった老人だった。
「アウラ、支配の魔法をかけたから麻痺を解け。おい、お前は誰だ?ナーベを襲う暗殺団の首領か?そうなんだよな?頼むからそうであってくれ」
ほとんど哀願に近い問いかけに老人はゆっくりと口を開いた。
「……そうだ。私は暗殺団「
彼女は驚いた。
その声は紛れもなく首領のそれだったからだ。
暗殺団のすべてを知る首領が捕まった。
それはすべての終わりを意味していた。
「おおおおっ!大手柄だ、アウラ!よくやった!」
「お、お褒め頂いて光栄です、アインズ様!」
ダークエルフと共に子供のように喜ぶ骸骨を見て、彼女は一瞬だけ彼を人間みたいだと思った。
「でも、アインズ様、どうしてこいつが森の中にいると思われたのですか?」
「ああ、それは単純なことだ。人間同士が使う伝言の魔法は距離が離れると聞き取りにくくなるらしい。だから街の暗殺団に指令を送るならなるべく近い場所にいると思ったのだ。比較的近くの山か森に潜んでいるとな。エ・ランテル内にいる可能性もゼロではなかったが、住人でない者がいればやはり目立つだろう?」
「なるほどー!さすがアインズ様!」
ダークエルフは目をきらきらとさせている。
「いやいや……結局はナザリックで動かせるモンスターを総動員したただのローラー作戦だ。こんな雑魚集団のために配下の半分以上を動かすとかありえんぞ……」
骸骨は陰鬱な声を出した。
地面に横たわる黒の四番にも状況がわかってきた。
伝言の魔法が正確に伝わる範囲を探す。言葉にするのは容易いが、実行できる人間などいない。探知に優れた魔術師が100人以上、そして自由に動かせる軍団規模の人員がなければその発想すら出ないだろう。目の前の骸骨は魔物の軍団を使い、そんな単純かつ無茶苦茶な人海戦術で首領にたどり着いたのだ。
こんな集団と手を組むモモンとナーベは何者なのか。彼女は最高位冒険者といわれる二人には暴いてはいけない裏の顔があると理解し始めた。
「このモンスターたちもすごく役に立ちましたよ!」
ダークエルフは上空の肉塊を指した。
「探知系ならこいつらが一番いいからな。偽装は巧妙だったか?」
「いいえ、潜伏自体は全然たいしたことありませんでした。場所さえ絞れていれば簡単に見つかったと思います」
「ああ、やはり鶏を裂くのに牛刀を使った感が……あとで全員に礼を言おう。他に展開しているモンスターたちに帰還するよう言ってくれるか?」
「畏まりました!ところで、アインズ様、そこの人間はなんですか?」
ダークエルフは道端の石を見るように黒の四番を見た。
「ああ、こいつか。もう用はないな」
赤い光に見つめられ、彼女は自分がどうなるか直感でわかった。
首領は捕まり、依頼主も残りの部下たちの居所も全てばれるだろう。
すべて終わったのだ。
(あいつは逃げられたかな……)
最後に言葉を交わした仲間を想い、彼女の意識は消えた。
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