暴君と王妃候補 5

 女官用の集合住宅の前には、ちょっとした公園がある。満月の夜、私はなんとなく公園を散歩してから帰宅しようと思った。白い石の噴水の隣に薔薇の花壇があり、淡い甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 私はふと国王から音沙汰がないことを思い出した。

 もう昨日、視察から帰ってきていることは確かだ。閣僚たちがばたばたしていたし。

「私の役目は終わったのかなぁ」

 なんて薔薇に向かって独り言を呟いたら、後方に人の気配を感じた。

「何の役目が終わったんですか、シャイラさん?」

 振り向くと、帯刀したガイアンが私を見下ろしていた。

「騎士団長がこんなところで何してるの?」

 ガイアンは驚いた私の手を取り、甲に軽く唇を寄せた。騎士が女性によくやる挨拶だ。

「とある御方から、シャイラ・ミランド嬢が帰宅するまで護衛するようにと命じられてね」

 ガイアンは微笑んだ。騎士団長にそんな命令を下せるのは国王しかいない。王宮から徒歩十分の距離なのに大袈裟だなと思いつつも、カルダーンが気に掛けてくれたことは素直に嬉しかった。

「短い距離とはいえ、姫はこうやって寄り道していらっしゃるではありませんか? 国王陛下はお嘆きになりますぞ」

 ガイアンのおどけた口調に思わず笑い声が溢れる。面白い人だな。

「じゃあ、今日は大人しく帰宅するわ。あなたを無駄に引き止めても仕方ないしね。陛下にありがとうって伝えといてね」

 数分後、集合住宅の正門をくぐった私はガイアンに手を振った。

 翌日、仕事中にサランからの呼び出しがあって、私は慌てて回廊に出た。

「シャイラさん、今夜は予定はないわよね? 夕食後いつでもいいから陛下の私室に行ってちょうだい」

「わかりました」

 頷く私にサランは大きめの紙袋を渡した。

「騎士団長からですよ。今夜の衣装にどうぞって」

 ガイアンが? 意外な差し入れだと思ったけど、ありがたく頂く。

 女官の控室で紙袋を開けてみると、クリーム色の上品なドレスが入っていた。左胸には薔薇の飾りまで付いていて、私は口元が緩んだ。昨日の公園で私が薔薇の花壇を見ていたのが印象に残ったんだろうね。最後に銀色の靴を履いて、準備完了。

 そうだ。この前、調査でわかった近海の水資源の種類と量の報告書を持って行こう。きっと、カルダーンに話せば面白い議論ができるはず。私は報告書を抱えて、国王の私室に向かった。

 私はもう緊張もせずに、その扉を叩いた。

「カルダーン、いる?」

 私が一歩踏み出すと、国王はすぐ目の前に立っていた。

「お帰りなさ――」

 私は最後まで言うことができなかった。ぐいと腰を引っ張られ、気付いた時にはカルダーンの両腕に抱き締められていた。今日に限ってこんなのって……! 特大の不意打ちを食らった私はしばらく強い腕の中でぼーっとしていた。

「会いたかった」

 耳元でささやかれた言葉は、何よりも甘く、私の体は一瞬で溶けてしまった。

「数日間しか離れてなかったのに、視察のことよりも君のことを考えてた。酷い国王だろ?」

「……ほんと、国王失格ね」

 ようやく私は思考を取り戻し、顔を上げてカルダーンに微笑んだ。そしてまた不意打ち。カルダーンは素早く私の唇を奪い、狂ったように激しく求めてきたのだ。バサリと床に何かが落ちた音が聞こえた。私が手にしていた報告書だ。私は両腕をカルダーンの背中に回し、彼の情熱に応えた。

 連日会っていた時、私は少しくらい国王が私に異性としての興味を示してくれるのではないかと期待していた。でも、潔いほど、カルダーンは真面目に議論に熱中していたから、私の期待が実現することはなさそうだと諦めたのだ。寂しくなかったと言えば嘘になる。だって、こんなにも素敵で聡明な男性が目の前にいるのに、手を握ってもくれないなんて。

「本当は帰ってきた日の夜にでも呼びたかったんだ。でも、不在中の報告事項を聞かなきゃならなかったし、公務が溜まってたし……」

「知ってるわよ。もし、仕事をほったらかして私を呼び出したら、私が国王を弾劾するはめになったでしょうね」

「それだけは勘弁してほしいな」

 カルダーンは苦笑いをすると、私をひょいと横抱きにして寝台に進んだ。寝台に寝かされると、カルダーンの端正な顔が近付き、再び口づけの嵐が始まった。

「これ以上のことを求めても、シャイラは嫌じゃない?」

 私は首を横に振り、嬉しいと一言だけ告げた。


 薔薇の香りが私をまどろみから連れ出す。カーテンがさらさらと微風に揺らされる音が聞こえる。

 目を開けた私を包んだのは、眩い朝日の光だった。

 全身が気だるかったけど、心はとても満たされていて、私は隣にいるべき人物の姿を目で追った。

「おはよう、シャイラ」

 軽く身支度を整えたカルダーンが寝台の縁に腰を下ろし、起き上がった私の額に口づけた。

「よく眠れた?」

「ええ、ぐっすりよ」

 カルダーンは何をするにも優しかった。私はくすぐったい気持ちになって、カルダーンの肩に頭をもたせ掛けた。カルダーンは私の長い髪を愛おしそうに撫でる。

 幸せ過ぎてどうにかなってしまいそう、と思っていると、カルダーンは私の肩を軽く掴んで引き離し、熱のこもった瞳を向けてこう言った。

「シャイラ、君に王妃になってほしい。ずっと俺の傍にいてほしい。そして一緒に支え合えたら……」

 ああ、この人はやっぱり暴君だわ! 完璧な朝に求婚してくるなんて、私の心臓がもたないじゃない。

「無理ならそう言ってくれて構わない」

 即答できずにいる私に、カルダーンは逃げ道をくれた。王妃にという言葉は、とてもとても嬉しい。でも、貴族の娘たちを差し置いて、一介の女官が国王と対等な権限を持つ王妃になるということは実は前例がない。私に対する反発が大きければ大きいほど、私を選んだカルダーンの統治を困難にしてしまう。

 そもそも、サランから夜の相手を務めるよう指示され、それを承諾した時点で、王妃になる可能性がわかっていたのだから、私が即答しないのは卑怯ではあった。私の誤算は、カルダーン三世が貴族の娘ですら興味を持たない暴君ではなかったということだ。

「こうしよう。七日後までに返事を考えてくれ。今はただ、君がここにいるだけで俺は満足だから」

「優しい人……ありがとう」

 私の選ぶ道は決まったも同然だった。フェディオン王国の玉座に一番近い女になることが私の運命なのだ。ただ、気持ちの整理をするために、少しの時間が必要だった。そして、七日後には慌ただしく婚礼の日取りが決められ、私は王妃になる教育を受け始めるはずだった。

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