最終章 場所と時間Ⅱ
⋯⋯僕は夢を見ていた。
せっかくの晃明の芝居なのに、僕は開演して間もなく眠ってしまった。
起こしてくれた一成は、呆れながらも優しく笑っている。僕の涙に気づいたのか、ゆっくり椅子にもたれたまま何も言わず僕の言葉を待っている。
「晃明に嫌味言われそうだな」
僕は乾き始めた涙を拭くと精一杯の笑顔を作った。
一成は声を上げて笑い「変だよ、コノちゃん」と責めるわけでもなく言う。
気がつくと劇場では片づけが始まり、まばらになった客席をスタッフが駆け廻っている。ロビーでは客を見送る役者が出てきたようで、背中に響く喧噪が芝居の終わりを改めて僕に教えた。
「晃明も変わってなかったよ」
「寝てたくせによく分かるな」
一成は笑顔のまま立ち上がり軽く伸びをした。
「何でだろうね」
僕は自分が言ったことの不自然さに苦笑し一緒に伸びをする。
「いままで俺はどこにいたんだろう」
自分に言い聞かせるように僕は呟く。
不思議な感覚だった。夢と現実が曖昧に混じっている。
上演されることのない「セラフィムの翼」は僕の夢の中で完結し、その夢の中で、あのころの僕たちは確かにいまを生きていた。
「楽屋行こうよ。たぶん晃明が待ってるよ」
一成はチラシの束をコートの内ポケットにねじ込むと、急げと言わんばかりに僕のコートを手に取る。
ロビーでは役者と客が笑顔で言葉を交わし、客同士もパンフレットを見ながら和やかに談笑していた。
「いい芝居だったんだね」
「昔のボイドだってなかなかのもんだったさ」
横目で微笑む一成は自分で言って照れたのか誤魔化すように笑う。
「おっ、久保田夫人だ」
木村さんを見つけた一成は大きく手を振る。
木村さんは一成に気づき、満面の笑顔を浮かべたあと、ようやく僕を見つけ、目を丸くして両手を振る。
驚いたまま駆け寄る木村さんは昔よりも少し色っぽく見えた。
「コノさん、久しぶりです。でも美里ちゃん、来れないそうなんですよ」
何が「でも」なのか答えに窮する僕に、一成は苦笑しながら話を変えてくれた。
「晃明は楽屋?」
「王子喜びますよ。呼んできましょうか?」
晃明が呼ばせているのか木村さんが勝手に呼んでいるのか、王子というあだ名に違和感を感じたのは僕だけだろうか。
「こっちから行くよ」
「分かりました」
本当に分かっているのか木村さんは楽屋に走る。
「相変わらずのマイペースで何言われても気にならないね」
僕は一成が気を使わないよう先手を打ってうそぶく。
「ああ、話すだけでエネルギーを使った気がするね。大したもんだよ一緒にいる晃明は」
変な感心をしながらも僕と一成は、若干の疲れを感じつつ木村さんのあとを追った。
係員に何か伝えている木村さんは僕と一成を手招きしている。
僕はもの珍しそうにきょろきょろしながら、一成と楽屋の入口に向かった。
木村さんに続いてドアを抜けると、メイクを落としている役者が2、3人並ぶ奥に、鏡台に寄りかかった晃明が上半身裸で立っていた。片手に持ったグラスに、ビールだろうか、マネージャーらしき人に飲み物を注がせて真剣な顔で話している。木村さんが近づくといままで僕に見せたことのない優しい笑顔を浮かべ、少しの会話のあとおもむろに僕たちの方を振り向いた。
「何してんだよ、早く来いよ」
まるでさっきまで一緒に芝居を演っていたような顔で僕たちを呼ぶ。
気恥ずかしさで躊躇する僕は、一成に押されてなだれ込むように楽屋へ入った。
口を開けるもののなかなか言葉の出ない僕に晃明は笑う。
「俺の素晴らしい演技に言葉が出なかったようだな」
「おめでとう」
寝ちゃったとも言えず、僕ははにかみながら無難な言葉を選んだ。
「コノちゃん、芝居が終わったら泣いてたんだぜ」
事実だけを巧く伝えた一成の言葉を真に受けて、晃明は何度も頷きながら僕の肩を叩く。
「グラスを二つ持ってきて」
晃明はマネージャーらしき人に指図すると、木村さん向かって「打ち上げの場所をこいつらに教えてあげてね」と優しく頭を撫でた。
「当然飲むからな」
晃明は細めた目で僕たちをにらむ。
「研助も呼ぶかい?」
一成はからかうような調子で聞く。
晃明は何か企むように唇を歪め「呼ばねえよ。ゆかりに会わせねえ」と冗談だか本気だか分からぬ言い方をする。
「ペラなんか来てると思ったのに」
僕が真顔でこぼした言葉に、晃明は木村さんと目を合わせて微笑んだ。
木村さんは吹き出すのを我慢するように口許を無理にすぼめ、僕と一成にグラスを渡す。
「ついでやってくれ」と晃明がマネージャーに言うのに甘えて、僕はグラスを差し出した。
「ちょっと悲しいよな」とマネージャーはなぜかぶつぶつ言いながら、
「ああ何だペラじゃん」
僕と一成は同時に気づいた。
晃明と木村さんは声を出して笑い、ペラは昔のように顔を赤く染めている。
「早く気づけよ」と昔とは違う縁なし眼鏡の奥で僕をにらむ。
「何してんの?」
一成が笑い混じりにペラに尋ねる。
「知らないよ。観にきて挨拶に行ったら、何かしんないけど使われてるんだよ」
語尾が助けてくれと言ってるように切なくしぼむ。
僕もいい加減我慢できなくなって、ペラにはすまないが大声で笑わせてもらった。
「それじゃあ、あとでたっぷり飲みましょう」
晃明が乾杯の要領でグラスを掲げる。
「お疲れさん」
間髪入れず僕たちのグラスは重なり合った。開演ブザーのような、列車の発車ベルのような甲高い音が僕の耳に響いた。
僕が選択した僕は彼らの目の中にいる。それが正しいことかは、いまも分からない。僕が美里とあの子に誓った芝居を完成させたことで自分が許されたかどうかも分からない。あのころの僕の迷いが、ひとつの命を失わせたことに何ら変わりはなく、僕はただ芝居を書き上げることで、自分ができる精一杯の償いをしたに過ぎない。そのことを裁けるのは僕ではなくあの子だ。罪は変わらず僕の元にあり、これからの時間を一緒に刻み続ける。
戯曲に込めた僕の気持ちが役者を通し観客に伝わり、再び僕の元に返ってくるように、かつてみんなが信じてくれていた気持ちが、いまようやく僕の元へとたどり着いた。
僕はあの子への気持ちがあの子自身にたどり着くことを静かに待とうと思った。永遠にたどり着くことがなくても、いつか届けられることを信じてそばに置いておこうと思った。
自分を信じることは自信ではなく、瞳に写った自分を信じてくれるみんなを信じることが自信なんだと、僕は知っている。
あの子が産まれたと僕が信じ、あの子自身が生きていたといつか自信が持てるよう、あの子が僕を信じてくれる日を待つ。
僕と美里は確かに君を愛した。
なあ美里、無数の目の奥で僕たちはあの子にどう映っただろうか? 2人が2人であることの罪を、あの子はどう裁いてくれるのだろうか?
僕たちはひとつだね。通り過ぎてしまった互いの現在の中で、いまだけはひとつだね。
確実に分かり合えるこの思い出には本当の僕たちがいる。
この先2人に流れるそれぞれの時間の中で、この記憶だけは忘れずに抱き続けよう。
流れゆく年月の先で、この思い出だけは一緒に泣こうか。
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