第8章 セラフィムの翼
幕間の闇に、聞き取れないくらい小さな晃明の呟きと、ゆっくりだがどこか不自然な足音が響いた。
地明かりが点り、居間を模したセットの中をさまようように歩き廻ってる晃明の表情は何かに怯えてるようだが、その目は見えないものでも見ようとしているのか焦点が合わず狂おしい。
中央のテーブルの上手側の椅子に美里は腰掛けたまま、両手をじっと膝の上に置き心配そうに晃明を目で追っている。
下手側の壁にはさっきナイトウとイクミが忘れていった巨大なスーツケースが無造作に置かれたままだ。
晃明は倒れ込むように美里の向かいの椅子に座り、不意に正面を見据えた。
「僕はここにいるというのに、ただ立っている場所がどこなのか教えて欲しいだけなのに」
美里は乗り出すようにテーブルに両腕を投げ悲しげな目を晃明に向けた。
「落ち着いてあなた。あなたはちゃんと私の目の前にいるから」
晃明はぼんやりと正面を見据えたまま声を絞り出す。
「君の目の前の僕は気が狂っているんだろう。誰もが僕に言うように、気が狂っているんだろう?」
「大丈夫、あなたは気が狂っているわけじゃない。ただ心がさまよっているだけなのよ」
「嘘だ」
晃明は立ち上がり、自嘲気味に唇を歪ませて舞台の前へと歩き出した。
「君は神様になるからそんな気休めを言ってるんだよ。君は、もうすぐ僕の元からいなくなるから」
美里は大きなため息をつきながら両手に顔をうずめた。
「神様って何よ。私はあんなインチキ天使が言ったことなんか真に受けてないから」
「インチキじゃない。あの人は本物の天使なんだ。でも、僕を迎えにきたんじゃなくて君を迎えにきた。あんなに神様になりたかったのに、僕は何でなれなかったん
だ?」
美里は面を上げて晃明をにらむ。
「神様って何なの? 私はなれるとも思ってないし、なろうとも思わない。あなたの記憶を取り戻したいだけよ」
晃明は物でも探すように瞳を揺らし、膝を落として舞台に座り込んだ。
地明かりがゆっくりと消えてスポットライトが晃明だけを照らす。
おぼつかないピアノが単音でメロディを奏で始め、広がりのある電子音が緩やかに一定のコードを繰り返す。
「あの日天使は言った。タダさんですね? あなたは神様になれますよ。僕が夜遅く公園のベンチにひとり座っていると突然彼女は現れた。あなたは魂がなくなりかけているの。だから神様になる資格がある。神様とは愛するだけの存在。愛されることを求めず、誰かを愛し続けることができれば、人はすべからず神様になる。そう天使は語った。僕は誰かを愛していた。そしていつしか愛する見返りを求めることを諦め、ただずっと見ていたいと思うようになった。なのに、僕は神様になれなかった。思い出せないんだ。あのあと僕の周りで何が起こっていたのか」
もうひとつのスポットライトが美里を照らした。タダと同じようにぼんやり正面を見据えた。
「あの日、あなたは私の帰りを待っていた。仕事中にいきなり電話をかけてきて、今夜どうしても渡したいものがあるから会いたいって。私は他の男の人と遊びにいくから無理だって断ったのに、待ってるからってあなたは聞かなかった。ほろ酔い気分で帰ってみれば、アパートの前の公園にあなたがいた。ストーカーかと思ったわ。私は少しいらいらしながらあなたに声をかけた。何を言うかと思ったら、あなたは無邪気な顔でこう言った。僕は天使を見たって。馬鹿にされたと思った私は怒って部屋に帰った。寝る前に少しだけ心配になってカーテン越しに公園を見ると、あなたはベンチに座ったままだった。明かりに浮かび上がる顔はどこか恍惚としていた。その時は確かに思ったのよ。気が狂ったんじゃないかって。実際あなたは会社を辞めて家に閉じこもった。お見舞いに行こうと思ったのは半分私のせいかもしれないって考えたから。あなたのお母さんから記憶喪失だって教えてもらった。部屋で会ったあなたは私を待っていたあの夜のように、無邪気な顔を向けて天使を見たんだって言ったのよ」
「ナオコ、やっぱり僕は気が狂っているんだよ」
「違うの。あなたは時間が止まっただけなのよ。天使を見たって言ったあの夜の時間から抜け出せなくなってさまよったままなの。私は本当に自分のせいであなたが記憶をなくしたと思って何度もお見舞いにいった。でもね私のことを忘れたせいか、あなたは以前と違って気を使わずに接してくれた。見えなかったあなたの素顔を知るようになって、私はあなたのことを好きになった。そしてあなたを引き取り結婚して、時間がどんなにかかってもあなたが私を愛したことを思い出させてあげようって。あなたが私に渡そうとした物が何なのかって。でもね、本当はもうどうでもいいのかもしれない。いまこうしてあなたを見ているだけで幸せだし、あなたはそばにいる。だからそのままでいて。混乱しないで。もう何も思い出さなくてもいいから」
スポットライトと音楽が溶け込むように消えて地明かりが点る。
タダとナオコの背後には、ビデオカメラを片手にぶら下げたナイトウが無表情で立っていた。その頭上にはリングが浮き上がり、背中の翼が服の脇から見え隠れしている。
タダとナオコはナイトウに気づかず上手から聞こえてくる足音に注意を取られていた。
「忘れ物、取りにきました」と強い言い方でイクミが小走りに現れた。
ナオコと目が合うとイクミはひとにらみするが、すぐナイトウの存在に気づき驚いた表情を浮かべた。
「ナイトウ君、いつの間に、」
ナイトウはイクミを無視するかのように無表情を保ち、イクミにつられて振り返ったタダとナオコを見つめた。
「迎えにきました」
ナイトウの口から女性の声が漏れた。
セラフィム役の木村さんが抑制の利いた重い声で続ける。
「あなたは間もなく神様になる」
ナイトウは左手をゆっくりと掲げ、ナオコを指差した。
「待ってくれ。思い出せるかもしれないんだ」
「いいの、あなた思い出さないで」
タダはナオコを守るようにナイトウとの間に入った。
ナイトウは下手側から廻り込み、タダと対峙する。
「無駄だよ。もうすぐ魂がなくなろうとしている」
「ちょっと何なの、ナイトウ君」
イクミは怒った顔でナイトウに詰め寄った。
ナイトウは微笑みを浮かべ、イクミに目線を送る。
「彼はいま、その存在をとどめたまま私の翼の一部となった。君の目の前にいる私はナイトウであってナイトウでない」
「わけ分かんない」と大袈裟に両手を掲げたイクミだが、すぐに甘えた表情を作り、流し目のままナイトウに寄り添った。
「本当は私のために来てくれたんでしょ? 私、やっぱりナイトウ君のこと好きかも。ね、こんなとこ、早く出ましょうよ。あの荷物、運んでくれない?」
「どいてくれないか」
「何ですって?」
気色ばむイクミに対して無表情を貫くナイトウは、イクミの両腕をつかみ脇へどかすとナオコに向かって足を進めた。
怒りを収めるためか大きく深呼吸したイクミは、両手を胸の前で握り再び嬌態を作り直す。
「ねえ、怒らないでナイトウ君。お願い」
ナイトウの胸に飛び込み上目遣いで訴えるイクミは、声色まで変えている。
「すまないが君には用はないんだ」
「はあ?」
イクミは険しい表情のままナイトウを一瞥すると、呆れたように下手側の椅子に腰を下ろした。
「その人はナイトウ君ではない、天使なんだ。よく見ろ、声と口パクが合ってないだろ」
タダというより晃明はアドリブを交えイクミを諭している。
いつの間に打ち合わせしたのか、アドリブに答えるようにナイトウは口を動かし、少しずらして木村さんが「遅れて聞こえます」と声を重ねた。
「天使? あのね、この人たちに合わせておかしい振りしなくてもいいから。何でもいいけどあんたが荷物運んでよ。その変な遊びにつきあってあげるからさ」
イクミは悪態をつきながら足を組み、ポケットから煙草を取り出し豪快な一服。アドリブには乗らずに脇坂さんは脚本通りの流れに戻す。
タダはナイトウに近づくと迷うように1度うつむき、何か決心をしたのか再度顔を上げた。
「あなたは言った。魂がなくなりかけた僕は何らかの理由で魂が回復し神様になれなかったと。教えて下さい。あの時僕に何が起こったのか」
「教えられないと答えたはずだが」
ナイトウは取り付く隙も見せずタダを見つめた。
「なぜ私の邪魔をする? 君はあのお嬢さんを愛しているのか?」
「⋯⋯それは分かりません。僕は誰かを愛するということも、誰かに愛されるということも、いまは忘れてしまっています。ただ、ナオコだけは失ってはいけないような気がするんです」
正面を向いたタダは無理に感情を押し殺しているのか、ゆっくりと言葉をつなげた。
「ありがとう、あなた。そう言ってくれただけでも私は嬉しい。もう無理に思い出さなくていいの。確かに私を愛したことを思い出して欲しかった。でもね、もういいの。あなたが私を必要としてくれてるって分かったから、私は幸せなのよ」
ナオコは泣き顔のようにも見える笑顔をタダに向けた。
「そうよね。ナイトウ君も幸せなのよ。私に必要とされて」
面白半分にイクミは言葉をはさむ。
「駄目だ。僕が思い出さないと、君はこの世からいなくなってしまう」
かぶりを振るタダにナオコは優しく声をかけた。
「神様なんかになるわけないじゃない。もしなったとしたら、ずっとあなたのことを見ててあげるから」
タダは何か言いたげに口許を動かすが言葉を飲み込んだ。
ナイトウは満足そうに微笑み「承諾をいただいたようなので、彼女を連れていきますよ」とナオコにビデオカメラを向けた。
「魂がなくなるまでもう少しだ。お嬢さん、頑張ってもっと彼を愛してね」
「何? 愛すると魂がなくなるってこと? それでナイトウ君、私を愛し過ぎておかしくなったんだ」
両ひじをテーブルにつきながら、笑みを浮かべたイクミは3人を眺めている。
「残念ながら君はナイトウに愛されていなかったよ」
ビデオカメラを覗いたままのナイトウはイクミに答えた。
「どういうことよ」
挑発されたと受け取ったのか怒気を含んでイクミは言った。
「君は選択したのかい? 彼が思う自分が本当の自分だと。彼に選択させたのかい? 君が思う彼が本当の彼だと」
「だから何だって言うのよ」
「彼は君の目に映る自分を選択しなかったし、君も彼の目に映る自分を選択しなかった。互いに愛し愛される振りをしていたということだ。彼は自分の理想の女性像が君だと無理矢理思い込もうしていただけなんだよ。おかげで私は大切な目を得ることができた。自分の思い込みで他人を見ることができる人間の目が私には必要だったからね」
ビデオカメラを降ろし、ナイトウはイクミにウインクして見せた。
「すごいむかつくんだけど」
イクミはテーブルに直接煙草を押しつける。
「あの、」
ナオコは遠慮がちにナイトウへ声をかけた。
「何だい? お嬢さん」
「教えて下さい。魂がなくなるってどういうことなのか」
「僕も知りたいんだ。天使さん」
ナイトウは考えるように宙を見上げ、タダを一瞥してからナオコの方へ向き直した。それから舞台前面まで歩き正面を見据える。
地明かりが絞られ窓の向こうのホリゾントが淡い緑色に染められた。両袖のスポットライトがナイトウ以外の3人を照らし、ナイトウ自身は逆光で影になる。
細かい電子音が反復するリズムを奏で、時折息の長いストリングスが日が射すように暖かく絡まった。
ナイトウは誰に語るのでもなく言葉をつむぐ。
「君たちの魂は、小さな透明の丸いカプセルの中に、水が満たされたような他愛のないものだ。そして君たちは誰かを愛するたびに、身を削るがごとく自分の魂を相手に注ぐ。愛すれば愛するほど自分の魂がなくなっていくことに気づかずに。だがそれを悲観してはいけない。魂がなくなれば神への道が待っているからだ。愛されることがなく、ただ愛するだけの存在。それが神だ。自分というものを必要とせず、すべてを愛することができる崇高な存在に生まれ変わるのだ。愛するとは自分を殺すこと。愛されるとは自分が生きるということ。我々天使が捜しているのは、そんな自分を殺すことができる勇気を持った人間だ」
疲れてきたのかナオコは気怠そうに床に座る。
「愛することが魂をなくすことなら、なくなった私の魂はどこにいったの?」
迷ったように眉を寄せたナイトウは正面を向いたままタダを指差した。
「どこにも行きやしないさ。すべて彼の魂へと注がれている。かつて彼の魂は君のように1度なくなりかけた。だが、なくなる寸前に君の魂が彼の魂に注がれ、彼は回復した。いま、彼の魂は君の魂で満たされている。君は彼を愛することで神になりかけた彼を人間に戻し、代わりに自分が神になろうとしている」
タダは立ったままナオコの肩に両手を置き、ナイトウに頭を下げた。
ナオコはまぶたが重そうに目を閉じかけている。
「天使さん、ありがとう。あの時僕に起こったこととはナオコが僕を愛したことなんだね。そして今度は僕がナオコを愛すれば、彼女は元通りになる。⋯⋯例えあなたが消滅しても、僕たちはずっと忘れないからね」
タダの言葉を受けたナイトウの口許は、みるみるうちに歪み始めた。肩を震わせ声に出して笑う。
「私は消滅しないよ。なぜなら君が彼女を愛することができないと分かっているからだ。どのみち彼女は神になる。だから最後に教えてあげただけだ。君の魂が彼女に注ぐことはない。2つの魂が混ざって綺麗な輝きを放つ魂を見れないのは少し残念な気もするがね」
言葉を返せないタダに、ナイトウはなおも続ける。
「君自身分かっているはずだ。彼女を愛する自分が本当の自分なのか迷っていることを。彼女に愛される自分が本当の自分なのか迷っていることを。だからつまらぬ絵を描こうとした。他人の目に映るたくさんの自分の中から本当の自分を見つけ出すために。君自身分かっていたんだろ。絵を描くことで相手に意味を与えると言いながら自分の意味を探していたことに」
言い返すことなくうつむくタダは、ナオコの肩を抱くその手を震わせた。
「描けばいいじゃん」
イクミがつまらなそうに呟いた。
窓の外の緑色はそのままに地明かりが点りボーダーライトが4人を硬く照らした。
イクミは立ち上がると下手の袖へ下がり、木枠を乗せたイーゼルを抱え再び舞台に戻る。そのまま舞台中央のテーブルの後ろにイーゼルを置きタダをあごで促した。
「描けば自分が見えるんでしょ。だったらその女を描けばいいのよ。それから考えれば? その人に映る自分が本当なのか」
「そういえば、」
タダの腕を掴んでナオコは立ち上がった。
「私を描いてくれたことってなかったわね」とふらつきながもテーブルに歩み寄り、上手側の椅子に力なく腰を落とした。
「大丈夫なのか?」
駆け寄るタダはナオコの顔を覗き込んだ。
ナオコは目を閉じかけながらも口許だけの笑顔を向ける。
「何だか眠いのとはちょっと違う。体の感覚がなくなっていくのに、あなたへの気持ちだけははっきりしてるの。でもね、あなたの姿はだんだんとぼんやりしてきて、姿のない誰かを思う気持ちへと曖昧に変わっていく。あなたへの気持ちが残っているうちに、私を描いて。ねえ、あなたの中に私を残して」
タダはナオコを覗き込んだまま何度も頷いた。
「無駄なことを」
ナイトウは上手の壁際に寄りかかってタダとナオコを見守る。
イクミはスーツケースの脇に座って空を見るように頭上を仰ぐ。
タダはナオコの向かいに座り、イーゼルの位置を直した。
「綺麗に描いてね、あなた」
すべての照明が消えると、イーゼルを中心にスポットライトが向けられた。
イーゼルに置かれた木枠の中にタダの両手が掲げられ、震える指が長方形をかたち作る。
「私の中に、あなたがいるでしょう」
言葉が終わると同時に首が折れ、ナオコは椅子から転げ落ちた。
「ナオコ!」
スポットライトが消え、闇の中、タダが慌てて立ち上がる。
「まだ魂は残っている」
ホリゾントが夕闇を表す紫色に染められ、ナイトウはゆっくりタダに近づく。
左右のスポットライトがタダとナイトウをそれぞれ照らし、2人の顔は半分影になった。
「体の感覚をなくしただけだ。彼女の気持ちはまだお前に向けられている」
ナイトウはビデオカメラ越しにナオコを覗くと、タダに告げる。
「だが間もなく彼女の魂はなくなる。早く思い出してあげるといい。このままだと彼女は神になるぞ」
「消滅してもいいんですか」
「久しぶりに綺麗な魂が見てみたくなっただけだ。私がどうなるかお前にかけてみるのも余興にはいい」
タダは倒れているナオコを仰向けに起こし、目を閉じたまま動かないナオコの顔を覗き込んだ。
「何だか眠っているみたいだ」
タダはゆっくりナオコを床に寝かすと立ち上がって正面を見た。
「天使さん、かつてあなたに会った時、僕自身がどうなってしまったのか分からない。ただ頭の中も、心も真っ白になって、気がつくと僕はベッドで寝ていた。知らない人たちが心配そうに僕を覗き込み、あれこれ質問するんだけど、僕には覚えのないことばかりで何ひとつ答えられなかった。あの人たちは記憶喪失だと口々に言い、僕に過去を思い出すよう無理に迫った。色々な病院を廻るたびにあの人たちの落胆が分かった。自分たちを親だと称するあの人たちは、僕に過去を思い出すことだけを求めた。やがてあの人たちは僕から距離を取るようになった。不思議でした。いまの僕は記憶がないまでも普通にものを考え、感情を出していたのに、あの人たちはいまの僕を認めようとしなかった。ただ記憶がないだけで僕を僕だと扱おうとしなかった。本当のあなたはどうだったとか、本当のあなたはそうじゃなかったとか。不思議でした。僕はここにいるのに、本当ではないって言われていることが。ただ、ナオコだけは僕を普通に扱ってくれた。時々昔の話をするけれども、僕がそのとき思ったことを信じてくれた。僕が唯一分かっていたことです。彼女の気持ちが僕に向けられたこと」
「それで何が分からないの? 充分愛されているんじゃない」
闇の中から非難するようにイクミが声を上げる。
「彼女に愛される自分が本当の自分だと思えなかったのです。親が言う自分が本当の自分ではないのなら、彼女が思う自分も本当ではないような気がして。僕は何日も街をさまよいました。色々な人に話しかけ、その人の目に映る自分を確かめたくて。どこかに本当の自分がいるような気がして。ほとんどの人が僕を気違い扱いして拒絶しました。いま思えば当然です。いきなり見知らぬ人間に僕を教えて下さいなんて声をかけられたら、当惑しないほうがおかしいですよね。それで僕は考えついたんです。画家になれば色々な人の目を自然に見ていられることに。僕は画材を探しに家へ戻りました。僕が戻ると家にはナオコとあの人たちがいて、僕のことをどうするか相談していました。ナオコは一緒に暮らそうと言いました。僕は本当じゃないと言うあの人たちと一緒にいるよりも、そのままの僕を見てくれるナオコといる方がいいと思ったので、迷わず頷きました。あの人たちはどこかほっとしているようでした。僕は何だかいいことをしたと思いました。部屋の押入の中には昔の僕が使っていたらしい画材がしまってありました。イーゼルを立て、キャンバスを乗せると、そこには無限の自分がありました。このキャンバスのどこかに絶対本当の自分がいると思いました。ナオコは僕のためにこの家を借りてくれて、僕は毎日僕を映してくれるモデルを求めて街に繰り出しました。月に何人かは家に来てくれるのですが、みんななぜか途中で僕を恐れ、気違いと罵り去っていきました。誰も教えてくれないんです。本当の僕がどこにいるのか。もしかしたら僕はどこにもいないのかもしれません。天使さんはなれなかったと言うけれど、僕は神様になったのかもしれないと思いました。でも天使さんは、僕を迎えにこないでナオコを迎えにきました。一体本当の僕はどこにいるんですか? ナオコを描こうにも、彼女に映る僕は本当の僕じゃないんです。本当の僕じゃないのに彼女を愛することなんてできないじゃないですか」
タダはうつむきながら静かに床へ膝をつく。
「気違い。気違い」
イクミは何度も繰り返した。
「そう僕は気違いです。本当の自分をなくしてしまったから彼女を救うことができない、ただの気違いです。でも僕は、僕の中のナオコの魂を返してあげたい」
タダはうずくまったまま床を拳で叩いた。
「哀れな人間たちよ」
ホリゾントが激しい赤に変わる。
うねるようなベース音が流れ、ちりちりと刻むアルペジオが波のようにベースのうねりをあおる。
ナイトウがビデオカメラをタダに向ける。
上手と下手から様々な格好をした人間がビデオカメラ片手にふらふらと現れる。
制服を着た女子学生もいる。サラリーマンもいる。買い物かごをぶら下げた主婦もいる。セラ老人もいる。
彼らはタダを中心に弧を描いて並び、同時にビデオカメラを構えた。
会場のテレビモニターすべてに、うずくまるタダの姿が映った。
タダは寂しげな顔を起こした。
ナイトウは列の真ん中に入り込むと、ビデオカメラを向けたまま叫んだ。
「このカメラに増幅された、幾千幾万の、この目に映るすべてが本当のお前だ。限りなく思える自分のイメージを、どれかひとつお前は好きになればいい。人は自分の中に本当の自分があるわけじゃない。限りない数の他人の目の中にこそ本当の自分がいるのさ。たくさんある生き方の、ほんの些細なひとつを選ぶ勇気あれば、それはお前の誰にも侵すことのできない本当の強さになる。選ぶんだ。本当の自分を自分の中に捜しても無駄だ。お前を包むすべての本当の中から、いまのお前自身が望む自分を選ぶんだ」
ナイトウと共にビデオカメラを構えた人間たちは、タダの周りをぐるぐると回転し始めた。
テレビモニターには様々な角度のタダの顔が、フラッシュバックで次々と現れる。
「これは運命を選ぶチャンスを与えているんだぞ」
タダは自分の心の中の大切な何かを探すような遠い目をして、片足ずつゆっくりと立ち上がる。そして何かを見つけたのか一瞬息を止め、宙の1点を凝視した。
テレビモニターのタダの表情は静止画で固定される。
回転していた人間たちは1列に上手の方へ消えていく。
ナイトウはひとり上手の袖の前で立ち止まった。その手からビデオカメラは消え、いつの間にかリングと翼も消えている。
音楽がやみ、地明かりが点った。
テレビモニターも消える。
ホリゾントは夕方のようなオレンジ色に変わる。
タダは足下を確かめるように、1歩ずつナオコに近づく。
天井から白い羽が1枚1枚、風にたなびきながら落ちている。
ナイトウは怪訝そうな顔で部屋を見渡した。
「イクミ?」
ナイトウの声も元に戻っている。
「正気に戻ったのね、ナイトウ君。心なしか声が男らしくなった気がする」
イクミは嬉しそうにナイトウに駆け寄る。
「早く荷物を持って帰りましょう」
ナイトウは冷たい視線をイクミに送り、「分かったよ」と下手へ歩き出し、スーツケースを背中に抱えた。
タダはナオコの脇へ座り込み、その顔をじっと眺めている。
ナイトウはスーツケースを運びながら、タダとナオコに目をやった。
「可哀想な人たちだ」
「ほっといてさっさと帰るわよ」
イクミはナイトウの服を引っ張り、嫌悪感を顕わにした顔を2人に向ける。
「君も可哀想だよ」
「何それ?」
イクミは怒ったように口を尖らせ足早に上手の袖へ消えた。
ナイトウは無表情にイクミを見送ると、去り際に足を止め、タダとナオコに頭を下げた。
ボーダーライトが絞られ薄暗くなった舞台にナオコを覗き込むタダの姿がスポットライトに浮かぶ。
天井から舞い降りる羽はだんだんとその数を増し、照明を反射してきらきらと瞬いた。
鎮魂歌の始まりを告げる鐘が響いた。音程のはっきりしないメロディーがかすかに揺れた。
タダは満足したような穏やかな顔を正面に向けた。
「そういえば昔、冬に庭の大きな石を動かした時にびっくりしたことがあった。虫が1匹いたんだけれど、寝てたのかな、まったく動かないんだ。死んでるのかと思ってつついてみたら、突然動き出した」
虫を模して二の腕を小刻みに動かす。
「寝ている人を見てると不思議だね。その人が死んじゃったわけでもないのに、急にそれまでの、その人の思い出が僕の中で綺麗にまとまっていく。そして何だかその人を分かったような気がして、少し好きになるんだ。好きだった人なら、もっと好きになる」
タダはナオコの頭に一度てのひらを乗せると、顔から目を離さないように立ち上がった。そして下手側の椅子に座り、テーブルの上のコーヒーを口に運び、息を吐きながら天井を見上げる。
絶え間なく落ちてくる羽が自分の顔に落ちるのも気にする様子もなく、タダはじっと天井を見つめている。
「たまたま腕時計が止まったんだ。僕の古いアナログの時計は、君と初めて会った月日を指していた。他愛もない偶然だけど、僕はあの時計をどうしても君に渡そうと思ったんだ。役に立たない止まった時計でも、2人には意味があるもののような気がした。⋯⋯いつの思い出だろう。そう、僕は君を愛していた。知らなかっただろ? 僕は君を愛したことがあるんだ。思い出せないくらい昔のことなのかもしれないけれど。でもね、あの時の気持ちはまだずっと僕の中にあるんだよ」
タダは天井を見上げたまま目を閉じた。
音楽はタダを眠りに誘うように、緩やかでおぼろげなメロディーを奏でていた。
ボーダーライトもホリゾントも落とされ、2つのスポットライトがタダとナオコを照らした。
タダは眠ったのか椅子から腕を力なく落としている。
音楽が静かにフェイドアウトし、静寂が会場を覆う。
ナオコはゆっくりまぶたを開き、上体を起こしながら顔に落ちていた羽を握り、不思議そうに眺めた。
スポットライトの電源が落ちる。
闇に包まれた刹那、会場が突然大きく揺れた。
観客の激しい拍手が、自身のなくした気持ちの誕生をあおるように響き渡った。
僕たちの幕が下りた。
地明かりが点るとキャスト全員が最敬礼の姿勢で並んでいた。
美里は泣いていた。肩が大きく波打っていた。
全員が一斉に面を上げた。拍手はより勢いを増した。
美里の顔はくしゃくしゃだった。
屈託のないリズミカルな音楽が流れ、観客の拍手はいつしか手拍子に変わる。
晃明がマイクを取り、汗のしずくを腕で拭いながら観客に簡単な礼を言う。それから役者をひとりづつ端から順に紹介する。
「ナイトウを演じました、平大志。通称ペラ、そして俺のパシリ」
ペラはむっとしながらも、おどけたポーズで頭を下げる。
「イクミを演じました、脇坂智子。今回の役はかなり地に近いんじゃないでしょうか」
脇坂さんは汗で濡れた髪を気にしながらも、上品な微笑みを浮かべる。
「セラ老人を演じました、宮本研助。髭は剃った方がいいと思います」
研助は「やっと喋れたぞ」と両腕を突き上げる。
「セラ老人やナイトウの声、つまり天使セラフィムを演じました、木村ゆかり。演じる姿を見れなくて不満だった方は演出家に文句を言って下さい」
木村さんは澄ました顔で、最前列の友達に手を振っている。
「ナオコを演じました、松旗美里。幼児体型というのは本当だそうです」
うつむいていた美里はきょとんとした顔を慌てて笑顔に作り替え、首だけの礼をする。
「そして主役のタダを演じたボイドのスーパースター、みなさんご存じの、私、久保田晃明。今回私は、」と晃明は自分の紹介にみんなの倍の時間をかけてから、場内のスタッフの紹介に移る。
「制作と舞台監督、児島一成。打ち上げ参加希望の方はぜひ彼に一言かけて下さい」
一成はゆっくり立ち上がると、客席を見渡すように両手を振る。
「最後に紹介させていただくのは、今回も実にホンの上がりが遅かった、演出脚本、小此木譲」
焼けるような光で一瞬視覚を失った。左サイドのスポットライトが直接僕を射る。隣で肩を叩くのは、たぶん一成だ。
まるで太陽に飛び込んだような光に包まれ、僕の瞳は涙に満ちていた。おそらく僕はいま、自分自身のために泣こうとしているのだろう。わき上がる感情が誕生の瞬間を待っているのだ。
もう気持ちをなくしたくはなかった。だからいま、僕は泣く。
セラフィムの翼に刻まれた無数の目のどれかひとつに、僕の悲しみを受け止めた美里の姿がきっとある。
瞳の真ん中から、徐々に視覚が戻ってきた。
美里も僕を捜していた。半開きの目の両端に輝くのは涙だろう。胸の前に置かれた両手を強く握りしめ、僕を見ている。
美里はそこにいて、僕はここにいる。
互いの悲しみは天使の翼によって結ばれ、いま2人は、確かに同じ悲しみを共有していた⋯⋯。
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