第7章 場所と時間Ⅰ

 地下鉄の出口に貼られた案内板にその劇場の名を見つけた僕は、改めて晃明との距離を感じた。

 会場は去年建てられたばかりの高層ビルに併設された、キャパ1500人くらいの最新の劇場だ。

 いくら著名な劇団とはいえボイドのころとは想像もできない規模での興行に、嫉妬さえ感じぬものの、憧れにも似た思いが自然ともたげてくるのを僕は意識していた。

 仕事で使ういつもの鞄の中には、1週間ほど前にようやく書き上げた「セラフィムの翼」の原稿が入っている。いまさら誰に見せたところで何の意味もないことは分かっている。ただ書き上げなければ僕はここに来ることはなかった。


 1階のフロアから劇場へ降りる階段にはたくさんの祝いの花が飾られていた。あまりの多さにエントランスの壁は花で埋めつくされている。有名俳優から様々な製作会社、よく目にするテレビ番組の名前も見える。

 開演30分前のホールは人であふれていた。

 一成の話だと晃明が席を用意してくれたらしく、僕は関係者と書かれた長テーブルの受付で、自分の名前を言いチケットをもらった。

 僕は人混みを避け、さっさと半券に記載された自分の席を探した。

 しっかりしたシートに身を沈め、入口で配られるチラシの束を流し見る。

 晃明が用意してくれた席はちょうど中段の真ん中に近く、舞台全体がよく見える申し分のない席だった。


 上演時間が迫り観客が席を埋め始めた。

 気がつくとひどい喧噪で、うっとうしさを感じながらも体の記憶がそれを懐かしく受け止めている自分に苦笑する。

 聞き慣れた声が隣から降ってきた。

「来ないと思ってたよ」

 舞台に目をやったままコートを脱いでいる。

 電話では時折話すものの、こうして一成の顔を見るのは本当に久しぶりだった。

「何でだよ」

 僕はおよそ見当をつけながらも知らぬ顔を決める。

「晃明が心配してた」

「あいつの場合、口だけだって」

 一成は薄く口許をゆるませ、まぶしそうに僕の顔を見た。

「久しぶりだね」

 目を合わせた一成は多少はにかんで見えた。5年間の僕の胸中をひとつ残らずくみ取るように、じっと瞳孔の奥を覗いている。

 むずがゆさを覚えた僕は、自分から目をそらせた。

「来るのに迷ったのは確かだよ」

 罪悪感を思い出しながらも僕は微笑みを浮かべた。戯曲を書き上げたことが僕を不思議と落ち着かせていた。

「コノちゃん来るなら、うちのも無理して連れてくれば良かったな」

 一成は3年ほど前に脇坂さんと結婚していた。招待状は届いたが僕は出席しなかった。

「尻に敷かれているとこ見たかったよ」

「智子の方がね」

 笑いながら一成は受け流す。

「そういえば知らないだろ」

 一成が指差す方を追うと、場にそぐわないロシア風の円筒型帽子をかぶった妙に存在感がある女性が座っている。

 後ろ姿なのに僕はひと目で木村さんだと分かった。

「あそこにいるの晃明の奥さんだぜ」

 言葉の続かない僕に一成はなぜか真顔で囁く。

「コノちゃんの家で晃明がキレた打ち合わせの日覚えてる?」

 僕は小刻みに頷く。

「あのあと智子がわざわざ晃明にさ、木村さんを泣かせたことを責めたんだよ。そしたら晃明が木村さんに謝りに行ってさ、なぜかその日のうちにつきあいだしたらしい」

「全然そんな素振りなかったよな」

 僕は晃明の手の早さに感心していた。

「俺だって最近知ったんだよ。研助なんか当時何も知らずに毎日メールしてたんだってよ」

「晃明のことだから、返事はあいつが返してたんだろうな」

「ありうるね。人をからかうのが趣味なところあるからね」

 2人して大きく頷きながら、僕は晃明のことを思い返す。

「そんなあいつだけがメジャーだもんな」

 口では悪態をついた僕だが、晃明が人気劇団で活躍していることも、ボイドからは想像もできない大きな劇場で、たくさんの観客相手に演じていることも、正直嬉しかった。

「嫉妬しないのかい?」

 もう一度芝居をやれよということなのか、昔みたく感情をぶつけ合うつきあいをしようということなのか、一成のさり気ない口振りに、僕は真意をはかりかねた。

「もう平気なんだろ?」

 芝居をやれよということだったと察したのは、一成が暗に美里のことを尋ねたからだ。

「書いてるのか?」

 ひと呼吸おいて一成はこぼした。嫌な返事を想定した慎重さだった。


 開演ブザーが響いた。

 慌てて席に戻る客が次々と僕たちの膝をこすり、僕の答えはしばし持ち越しとなる。

 一成は僕が答えないと決めたようで、まっすぐ緞帳に目を移し、腰を楽な位置に合わせていた。

 客電のスイッチが切られ、徐々に闇が広がる。逆に舞台が浮いて見える目の前の光景を、僕は劇場でないどこかで見たような気がした。

 顔が見えるうちに言ってやろうと思った。

「ひとつだけある。金のかからない奥の深い話」

 闇の中で一成の笑った気配を感じた。

 現実の世界を芝居の世界が侵すように、空気に染み渡る緩やかな音楽が流れ始め、誰も間違った選択をしなかったあのころと同じく、静かに幕が開いた。

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