第6章 彷徨Ⅲ

 太陽を背に、僕は堤防の先で膝を抱えて座り込んでいた。

 顔を上げた先には、西日に輪郭を際立たせた高層マンションやシティホテルが建ち並んでいる。

 勢いを増した海風は、ぶんぶんと低いうなり声で、何かを訴えるように僕の背中を何度も叩いた。

 生きることも死ぬことも望まぬ時間の先には、なくした気持ちの吹きだまりが広がっていた。

 重石代わりに鞄を乗せられた茶封筒は、袋の口を開け、うなり声に応えるように風に巻かれ音を立てて震えていた。

 僕の影が、かもめの糞を覆って街へとまっすぐ延びていた。まるで疱疹に蝕まれているように見えた。

 僕を無駄に延命していた戯曲を書くという美里とあの子に交わした約束はその効力を失い、僕の体は腐敗していく。たぶん、僕は死にかけているのだ。

 美里は最後まで僕を愛していたと思う。果たされない約束がいつか果たされることを夢見たまま、芝居の中に本当の僕を捜していた。

 波間を漂うみんなの気持ちが届かないのも、みんなが思う本当の僕が失われてしまったからだ。

 なくした気持ち。

 初めて戯曲を書いた時から僕はこの言葉を使った。

 物語の中ならば、なくした気持ちを他人に伝えることができた。過去に伝わらなかった自分の気持ちを登場人物へ伝えることで、自分の周りに漂っていた気持ちのたどり着く場所を僕は物語の中に作った。相手に気持ちが伝わらなかった落胆した過去の記憶を僕は救いたかった。自分の中に産まれた気持ちをただ本当だと証明してあげたかった。せっかく産まれた気持ちを、人との関係の中に産んであげたかった。


 創作の最後に訪れる心地よい疲労感は、きっと成仏した気持ちの残り香なのだろう。

 物語に封じた気持ちは居場所を求め台詞となる。役者が伝える気持ちに観客は感動する。その感動とは観客自身がなくした気持ちを見つけた喜びだ。言葉を通してそれぞれのなくした気持ちが劇場という空間に不意に産み出される時、物語の中で琴線に触れて鳴る音はその誕生の瞬間の音。

 笑うかもしれない。泣くかもしれない。あるいは感情にならないかもしれない。すべてはかつて産まれるべきだったみんなの気持ちだ。顔をかたち作る筋肉の緊張は、何年か、何秒か前の気持ちの記憶なんだ。


 僕が芝居を始めたのは自分の気持ちを救うためだった。でも続けようと誓ったのは美里のためだったと思う。僕の芝居を観た美里の瞳に映った喜びは確かに彼女自身の喜びだ。自分を救うための言葉が美里の思い出に取り込まれ、結果彼女の解釈が自身のなくした気持ちを救ったに過ぎない。本質で言えばそれは誤解かもしれない。しかし誤解であれ美里の感動の中に自分の気持ちが誕生したことは信じていいはずだ。

 そこには何の犠牲も存在しない。


 時間が止まったようなわずかな凪のあと、妙に艶めかしい陸からの風が、僕の顔を撫でるように通り過ぎていった。

 夕日はとっくに沈み、暗い灰色一色のコンクリートが浜辺へと続いていた。

 僕の影が死んだ。

 僕は立ち上がり足下から伸びているはずの影を捜した。日が沈んだせいで通路に溶け込んだ、あるはずのない影を僕は懸命に捜した。

 立ちすくむ僕の目線の先では雲が暗幕の切れ端のように散らばり、街は明度を失う空にその輪郭をなくし始めていた。

 街は影になり、やがては死んでいく。

 抵抗するような明かりがぽつりぽつりと点った。

 死にたくないのだと思った。

 誰もがなくした気持ちのように、誰かに見つけてもらい、この世界に誕生することを待っている。

 街の明かりが本当だと、言ってあげられるのは自分だけのような気がした。

 きっと本当のこととは自分の中に見つけるものではないのだろう。自分を映してくれるたくさんの目の中のすべてが本当であって、その本当を自分がひとつ選択すればいいだけのことではないのだろうか。

 いまなら書ける気がした。

 僕は鞄に「セラフィムの翼」をしまった。

 1歩ずつ進むたびに僕の足下で貝や蟹の死骸が砕ける。じょりじょりと砂を噛むような鈍い音は僕に歩いている実感を与えた。


 戯曲を完成させなければならない。あの子が存在したことを証明するために僕は生き続けなければならない。ずっと待ちわびている僕の気持ちを誕生させなければならない。そしてあのころの自分をもう1度みんなの目に映すのだ。

 祈るように懺悔する僕の姿がたくさんの目に映るだろう。その中には僕を裁いてくれる目がきっとあるはずだ。

 あの明かりの中に帰ろう。

 僕や美里やみんなの気持ちが誕生するために、いま本当に時間が来たのだ。

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