第5章 記憶Ⅱ
東京駅構内の券売機で僕は入場券を買う。
発車30分前だと少し早過ぎるような気もしたが、僕は構わず自動改札を抜けた。
柱の白いタイルや大理石風の壁に反射した照明が落ちつきなく床に落ちる。
2月に入ったばかりにも関わらず、お昼の上越新幹線のコンコースはスキーに向かう客でさえまばらにしかいなかった。
約束した時間まで待合室で過ごそうと、暖色の照明で囲まれた区画に僕は向かった。
美里はすでにベンチに腰掛けていた。荷物は数日前に宅急便で送っていたので小さなバッグを膝に置いているだけだった。
物憂げに丸まる美里に僕は声をかけた。
見送ることは昨日電話で話していたので、美里は別段驚く風も見せず顔を上げると小さく右手を挙げた。
僕は美里の隣に座り、話すわけでもなくただ正面に視線を投げている。
美里も僕と同じように正面をじっと見据えていた。
「怒ってないよね」
「ああ。俺が悪いんだし」
お互い感情が希薄な会話を交わす。
話し合うことは尽きていた。
劇団の解散が決まった時。いや、それ以前に僕が戯曲を書けなくなったと意識した時から、こうなることは分かっていたように思う。
僕はもう美里の思う僕じゃなくなっていた。
書けない苦しみをそばで見ていた美里にもどうしようもないことだった。僕は創作の問題という誰も関われない問題を抱えていた。
美里は自信を持ってと言葉をかけることしか僕にできなかった。
結局僕は戯曲を途中で諦め、子供のために書くという美里との約束も僕の戯曲をぎりぎりまで待った劇団のみんなの信頼も、同時に裏切ることになった。
美里は僕と自分に絶望し別れることを切り出した。
僕は自分の都合以外の美里をつなぎ止める理由を失っていた。
実のない話し合いの末、互いは別れに合意した。
美里は実家に戻ること決め、僕の部屋を出て、上京した時のように今日まで脇坂さんの部屋で過ごした。
時計は発車時刻の10分前を指していた。
「そろそろ行くか?」
美里は小さく頷く。
2人は立ち上がり、20番線ホームの表示を確かめ階段に向かった。
「あたしね」
エスカレーターで昇る途中美里は呟く。
「カーテンコールでスタッフ紹介する時、舞台の上であたしいつも譲を見てるの。スポットの光がね、あなたを照らしているのを見て思ってた。懐中電灯でフィルムを映す、おもちゃの映写機があるじゃない。光があなたを照らしているんじゃなくて、あたしが見てるのは照らされたフィルムの影じゃないかって。思い出した、幻橙機ね」
僕は静かに耳を傾け美里の言葉を待つ。
「いまさらかもしれないけど、あたし、影じゃない本当の譲が見たかった」
「ごめん」
美里は僕を見失っていた。僕も僕を見失っていた。
「いいの、忘れて。ほら、あたしわがままだからさ」
美里は笑って見せると切符に指定された車両を探す。ドアの前に立つとひと息つき、僕に背を向けたまま、やけにはっきりとした声で言った。
「もう乗るね。ばいばい、譲」
「いつまでも元気で。ありがとう」
美里は僕の言葉が終わる前にデッキに足を乗せた。
通路を歩く美里を追うように僕はホームを歩く。
美里は席に座ると一瞬僕に目線を送った。そしてそのまま難しい顔で前を向き、僕の視線が消えるまで意固地に表情を崩すことはなかった。
真っ白な紙を2つに引き裂くように、列車は静かにホームを離れた。
僕は1度も笑顔を見せず、美里もまた、笑顔を作ったものの笑い声を上げることはなかった。
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