第4章 喪失

 11月も終わりだというのに冬の気配は一向に見えず、穏やかな晴天が続いていた。3月初旬並の陽気だと、天気予報が苦し紛れに伝えてから数日、季節の変わり目の強い風が冬を感じさせる寒気とともに空を覆った。


 珍しいことだった。バイトで遅くなったり、外で夕食を済ます時には必ず電話があった。帰ったら冗談半分で言うつもりだった嫌味も、普段とは違う美里の表情に僕は黙って飲み込むしかなかった。

「ごめんね。もう忘れないよ」

 食事のあと連絡をしなかったことを詫びた美里は、両足を前に投げ出しベッドにもたれ、ふうと声がもれるくらい大きな息をついた。消化の姿勢と彼女に名づけられたいつもの格好だった。

「大丈夫なのか?」

 食器を片づけ終わった僕は、蜜柑を両手に美里をまたいでベッドに座った。

「無理して食べなくてもいいのに」

 食べてこなかったわりに、遅めの夕食を美里はほとんど残した。その食欲のなさを僕は単に具合が悪いせいと受け取った。

 バランスを取りながら美里の頭上に僕は蜜柑を置く。

「動けないよ」

 口を尖らせながらも蜜柑を落とさぬよう気をつけているのが妙に可笑しく、頭上の蜜柑はそのままに、手持ちのひと房を僕は美里の口許へ運んだ。そっと頬張ると美里はおもむろに僕を見上げた。

 蜜柑は僕の膝にぶつかると、キッチンのテーブルの下へ転がっていった。

 何だか美里はいらいらして見えた。僕は思わず目をそらし、蜜柑の転がった先を追った。

「最近ご飯おいしくないんだ」

 思い詰めた体から出た言葉には思えなかった。返事のない僕に、美里は言い切るように、同じ言葉をもう1度繰り返した。

「俺の料理についてのこと?」

 最近帰りの早い僕がここしばらく夕食を作っていた。

 美里はゆっくりかぶりを振る。

「気分的な問題。ちゃんとしたものを作ってくんなくてもいいから、と言いたい」

 わざと難しく言っている気がした。曖昧に頷いた僕は美里の首に両手を抱きかかえるように廻し、彼女と同じように宙のどこかへ視線を投げた。

「セラフィム進んでるの?」

 再び小さく頷いた僕だが、この秋の公演が来春に延びたことで実際行き詰まって書けないでいることを、美里は知っているはずだった。

「明日さ、早起きして公園散歩しようよ」

 僕の気持ちを見透かして、わざと話題をそらせたように思えたが、美里の口振りは、考えていたことのようであり、思いついたことのようでもあった。

「銀杏を見たいんだ」

 考えていたことのように美里は言う。

「この風で結構散っちゃうんじゃないか」

 アパートの前は公園になっていて、狭い一方通行の道路に沿って銀杏が囲むように植えられている。遅い冬のせいでようやく色づき終えた矢先に今日の風だ。おそらく夜明けを待たずしてほとんど散ってしまうだろう。

「散ってしまいそうだからよ」

 さっきまでのいらついた様子はいつしか消えて、美里は穏やかに全身を僕にあずけている。

「中学生のころね、」

 美里は自分のペースで言葉をつなげる。

「あたしのとこって田舎じゃない。自分の部屋の窓から山が見渡せるのよ。あいだには建物なんて何もなくって、雑木林っていうのかな? そこの公園なんか比べものにならないくらい銀杏の木がいっぱいあってね、今日みたいに風が強い日に、夜明け前に目が覚めちゃって窓から外を見てみたの」

 美里の言葉に呼応してか、風がせわしなく窓ガラスを打ち始めた。実際に呼応したわけではないだろうが、僕には意味のある偶然に感じられた。

「はっぱと木が別の生き物のように見えた」

 美里は立ち上がってキッチンと部屋の灯りを消した。

 僕の視界が急に暗闇に包まれると、それまで僕たちの影を映していた窓ガラスがスクリーンのように街灯のわずかな灯りで風で揺らぐ銀杏の影を浮かび上がらせた。美里の話を漠然と聞いていた僕の心に、不意に灯りを点された気がした。

 美里は僕の隣に腰を下ろし、窓ガラスに顔を向ける。つられた僕も視線を移した。

「夜明けの空に木の枝が影になってて、もう散っちゃってるのが分かるのよ。まるで枝に群がるたくさんの鳥が、一斉にいなくなったみたいにね。あたし最初、はっぱがどこかへ本当に飛んでいったのかと思ったの。でもだんだん目が慣れてくると、根元を覆うはっぱが見えてきた」

「鳥の死骸のように」

 僕の言葉の意味を吟味して美里は間を取り頷いた。

「その鳥たちの死体がなんだか綺麗だったのよ。だんだんと空が紫色からオレンジ色に変わるにつれて、それまでぼんやりとしていた白いはっぱが黄色く輝いてくるの。すべての死が輝いているの。燃え尽きぬ魂がまだそこに漂ってて、太陽のオレンジ色の光を浴びて昇天するように、来年また新しいはっぱになる」

「詩人だね」

 皮肉でなく率直な感想だった。美里は照れてだらしなく笑う。

「冬が来たからそう思っただけ。北風さんがそう思わせてくれるの。きっとあたしじゃないよ。詩人は北にいるのよ」

 僕は美里が何を伝えようとしているのか分からず次の言葉を待つ。

「あたしにとって、詩人は譲なの。譲の考えることに何かを感じていたいの。あなたが考えることを分かりたいのよ。分からなきゃできないよ。あたし、あなたの言葉どう演じればいいの?」

 僕が書けずにひとり苦しんでいることを責めているのだろうと思った。でもそれだけではない。言葉が足りない僕の前で、美里はどう自分を演じていいのか迷っている。愛されたい自分も、愛する自分も、結局相手の幻想の中に求めるものなのだろう。本当の自分なんて、自分の中には存在しないのかもしれない。セラフィムの翼の目にはきっとたくさんの自分が映る。その中に本当の自分はいるのだろうか? 

「本当の俺なんかいないんだよ」

 美里は膝の上の両手に顔をうずめた。怒っているのだろう。こわばる体の緊張が僕に伝わる。

「あたし不安なのよ、譲がどっか行っちゃいそうで。目の前にいるのは分かってるのよ。でもあなたはいつも自分の中に迷いを抱えて誰にも教えてくれないから、あたしにはあなたが見えないの。お願いだから頑張ってお芝居作って。あたしには何もできないけれど譲はお芝居作って。お芝居の中ならあなたのことを分かってあげられる気がするのよ。出会ったころの譲はそんなんじゃなかった。自信持てば何とかなるってあたしに言ってくれたじゃない。駄目でもやらなきゃ駄目なのよ、あたしたち」

 せきを切ったように言葉があふれた。長い間ひとりで抱えていたのだろう。そんな美里の気持ちを確かめるために、僕は彼女の目を見た。

 外からのわずかな灯りが美里の頬をつたう幾すじかを照らした。泣いていることに気づけなかった。

「あたし、赤ちゃんできたよ」

 語尾はため息にかすれていた。


 天井はすべてを見ていたに違いない。

 仰向けにベッドに横たわり、体中の筋肉が緊張と弛緩を繰り返すのを感じる一方で、僕の眼球はただひたすら天井を映していた。

 窓からもれる街灯の明かりが風に揺らめく樹木で遮られ、天井に貼られたクロスの模様を慌ただしく変えている。その枝の影に葉のない様子から、銀杏も全部散ったのではないかと数時間前の話題を思い出す。

 天井に落ちる樹木の影にうっすらと明滅を続けるクロスの表面が、真新しいビデオテープの無垢なノイズを僕に連想させた。巻き戻して再生すれば、この部屋で繰り広げられた2人の物語が始まるはずだ。

 妙な確信は、取り返しのつかぬことがやり直せるような錯覚を与えた。

 僕の記憶は天井のスクリーンに投影された。

 美里は僕が書く戯曲の世界を愛し、その戯曲を通し僕を理解するよう努めていた。

 たくさんの会話の中で、互いに同じ意味を伝えたいのに言葉ばかりが空回りした。僕の言葉では愛でも、彼女には似て非なる物語を必要とした。同じことを繰り返すいさかいに、2人の物語をも終わりかけたこともあった。同じ言葉でもその言葉を使うようになるには、それぞれ違った物語があった。しかし必ず訪れた気持ちの一体感は、ひとつの言葉を2人の言葉に変えた。

 言ってみるならそれは言葉のセックスだ。気持ちの一体感を求めて何度も互いの言葉を交わらせる。まるで裸で抱き合い2人の体温が心地よく中和し、やがては呼吸の間隔さえも優しく一致をみるように。

 すべてが分かり合うわけではないが、2人は確実に分かり合おうとしていた。

互いを深く求め合い、2人は確かに愛し合っていた。

 すべての理解し合う行為の延長で2人の遺伝子がひとつになっただけだった。

現実から離れたところで僕は妊娠を感じた。しかし実感はなかった。


 窓から差し始めた朝の光が、スクリーン上の僕の記憶を徐々に溶かしていった。

 一睡もしていないのに眠気も疲れも感じなかった。ただ激しい気持ちの出入りが集中力を欠けさせている。こもりかけた日だまりが、僕の神経をより鈍くさせていた。

 僕はゆっくり半身を起こした。

 鮮やかなオレンジ色が視界をよぎった。

 蜜柑が転がったのは2人のバランスが崩れたせいだと思った。

 伸びに体を任せようとしたとき、かすかな抵抗が僕の右手に残った。美里の指が僕の指にしっかりからまっていた。何度も寝返りを打ったはずなのに、彼女は決して手を離さなかった。

 僕はぼんやりとブランコを思い起こしていた。

 鉄柱とブランコをつなぐ鎖がある。いつからか僕は、あの鎖がはずれてしまう恐怖を感じていた。幼いころは微塵も思わず、空へ高く高く全力でこいでいた。それがある時を境に、鎖がちぎれて自分の体が地面に叩き付けられることを想像するようになった。

 別に美里を信用していないわけではなかった。だがある時からこのつないでいる手が、ふとはずれてしまうんじゃないかと釈然としない不安を持ち始めていた。それはどちらが先だか分からないが、本当の自分を見失ったころと、ほぼ同時だった気がする。

 ブランコのジョイントも意識すればするほど不安になった。ブランコと鉄柱をつなぐ鎖は、つなぎ続ける必要がないように思えた。

 美里と僕の関係も、美里が手を離そうと思えばいつでもはずれる気がした。離そうとする手を握り続けることは僕のわがままに思えた。信じることをどこかで恐れていた。自分の周りが信用できないのではなく、自分の信じるというよりどころが信用できなかった。


 美里の好きな僕は本人が信じきれぬほど不確かで、僕の好きな美里はあやふやな僕の言葉を舞台で誠実に演じていた。

 無垢なものを汚しているような自責の念が、美里の誠実さを目の当たりにするたびに僕を圧迫した。

 彼女はもはや僕の言葉を口にしてはいけないとまで思った。

 僕の作品はただのマスターベーションに過ぎなかった。しかも自分で処理するのではなく、役者という他人の手を使った。

 自分の卑怯さを呪えば呪うたびに、僕の言葉に返るのは僕の言葉でしかなかった。

 ブランコが鉄柱とつながれたものだと気づかなければこぎ続けることができた。

 2人の関係が互いを思う気持ちでつながれたものだと気づかなければ、何の不安も感じずに済んだ。

 僕が僕であることを辞めれば僕は救われるのかもしれない。でも僕であることを否定すれば、美里の好きな僕を否定することになる。


 子供は美里のためにならない気がした。自分のために産めとは言えなかった。これ以上彼女の誠実さを僕で汚すわけにはいかなかった。

 美里から堕ろすと聞いた時、正直言って僕はほっとした。美里の役者になる夢が壊れると考えたのは、卑怯な自己弁護の論理のすり替えだった。僕が芝居を続けたい夢は、自分勝手なモラトリアムに過ぎなかった。

 美里は僕の空虚さに気づいていない。妊娠で僕の夢が壊れると思ったようだった。美里は無垢に、まったく無垢に僕のことを大切にしていた。

 命の尊さよりも、僕には美里の無垢な心が尊かった。

 僕たちは互いに相手の中にしか自分を見ることができなくなっていた。自分のために生きることを2人は忘れた。自分であり続けることは、僕たちには簡単なことではなかった。


 美里はまだ眠っていた。

 僕が半身を起こしたせいで、めくれた掛け布団から美里の裸体がのぞいていた。愛しい体だった。

 昨夜のやりとりが脳裏をかすめた。

 美里は抱かれたがった。破れかけた心の一体感を縫い合わせようと、必死で体の一体感を求めた。

 泣いている美里を見て、僕の体に抱く準備ができるはずはなかった。肩を抱く手に力を入れることさえもかなわなかった。くちづけひとつもしてあげられなかった。臆病な男だと改めて思った。それは鎖をつなぎ止められない自分なりの理由だった。

 陽が高まるにつれ、美里の体は白くまぶしく僕の目に映っていった。抱けば抱くほど手の届かないたおやかさを感じさせた。際限ない自分の醜さが、僕から美里を引き離していた。でも美里は僕を愛していた。

 僕は美里を起こさないように唇にそっと人差し指を置いた。この唇からもれた言葉は常に僕のためにあった。

 引き寄せられるように僕は顔を近づける。唇の色を鮮やかに感じた。

 僕の指は頬の輪郭をなぞり、体の稜線に沿って滑り落ちていく。

 安らかな睡眠を壊してもこの唇が欲しいと思った。その瞳に映る自分が欲しかった。

 本当の自分を見つけるには美里の愛を確かめる必要があった。

 重ねようとする唇の表情を変えたのは指先に触れた現実だった。

 僕の愛撫で反応するはずの乳首は受胎を僕に教えた。いつもよりも大きく起き上がり多少黒ずんでいた。生理を感じるよりも壁を感じさせる乳房の張りだった。

 握るてのひらに汗が浮いていた。

 僕は何度も確かめるように乳房に指をはわせた。

 疑いもできないことは、とっくに分かっているはずだった。

 何かにすがるような顔で、僕は言葉にならないうなり声をもらしていた。

 聞こえるはずもないのに美里の腹に耳を当てていた。

 静かな朝だった。日差しも柔らかかった。水中を通る光のように吸い込まれそうなまぶしさだった。

 僕がこんななのに、太陽も空気も優しかった。

 どんなに耳を澄ましても何も聞こえなかった。美里の体がこんななのに、何も聞こえなかった。何も聞こえないのに、何も感じないのに、命は確かにここにあった。

 誰も彼の言葉を聞くことなく、やがて彼はいなくなる。

 ふと涙が頬をつたった。泣いていると自分で意識する間にもどんどんと涙があふれていた。

 2人の愛は産まれない。

 僕が僕を愛さなければ、美里が美里を愛さなければ、彼は産まれてこれたのに。

 体が小刻みに震えた。毒でも飲んだと疑えるくらい体中が痙攣していた。僕は震えるままに体を任せた。

 飲んだのは罪悪感という毒なんだ。体中に廻さなければいけない毒なんだ。いっそのこと、この体が腐ってしまえばいい。僕をなくしてしまえば、君は産まれてこれる。

 僕はもう僕でしかいられない確かな罪悪感。僕が僕であることは罪なんだ。

感情から離れていた涙は、ようやく姿を現した感情と共振を始める。静かな悲しみは嗚咽となり慟哭となる。

 撫でるように僕の髪の間を指が滑った。心の震えをそっと押さえるような包み方だった。

 いつ目覚めたのか、美里は僕を見守っていた。

 母親に許しを乞う子供のように、自分に精一杯の泣き顔だったろう。全然大丈夫ではないのに無理な笑顔を僕は作った。唇が悲しくて閉じず、歯だけがかたかた鳴っていた。

 毒は廻りきったのに、涙はどうしても止まらなかった。目に見えぬ嬰児がいたずらに心の琴をかき鳴らしているように。

 皮膚に食い込むぐらいシーツを握った拳は、美里に手を添えられると不思議に布団から離れた。美里は緊張を解くように、こわばった僕の指を1本づつ開いて口で愛撫した。美里の唾液が皮膚に染み込むぶん、僕の涙も自然と退いていった。

「あの子はもういないよ」

 寝起きでまぶしそうに美里は目を細めた。

「譲があんなに泣いてくれたんだもの」

 美里は体を起こし、艶っぽい目で口許だけゆるめた。

「大丈夫、あなたはあの子を大切にしたよ」

 すべてを見透かして、美里は僕に的確な解毒剤を注射しようとしていた。

「いけないことだろ。俺たちがすることは」

 分かりきったことを口にするくらい僕は卑屈だった。許されないことを、美里が2人で背負おうとしているのが本当に尊く思えて、僕は泣いて溺れるだけの自分が悔しかった。

 美里は両手で僕の顔を押さえた。潤んだ目が僕を責めていた。

「産まれてるじゃない。見えないだけよ」

 美里は僕の勇気を待っていた。食い入るように見つめ僕を待っていた。

 2人は互いを許してはいけない。僕の好きな美里を美里は好きで、美里の好きな僕をきっと僕は好きだから、だから2人は許されてはいけない。僕たちが僕たちであるために、2人で罪に殉じよう。

「約束する。この子のために俺は書くから」


 医療器具のこすれ合う音が、吹き抜けの待合室に響いた。

 教会の鐘に聴こえたのは懺悔する場所を欲したせいか。だが連想の先に理科の実験がどうにも離れず、僕は泣きたくて堪えるのが辛い。でも美里はもっと辛くて、医者も看護婦もきっと辛いはずだ。

 天窓から降り注ぐ、生卵みたいな太陽が、ステンドグラスのようにコルクボードへモザイクされた赤子たちの写真を網膜に浮かす。尊過ぎる笑顔が向けられ目を離せずにいる僕は、その向こうで続けられる罪の審判をずっと凝視しているのだ。

 誕生の祝福に彩られたこの部屋で、ぽつりと苦しげにこわばる自分が不自然で孤独で、どこかで救われたいと考えてしまうことが、2人を裏切ることだとなかなか気づけない。

 僕が僕で、美里が美里でいるためなんだ。

 この一生つきまとうであろう思い込みが、正しくないこととは分かっている。でもこの幻想の中に確かに自分たちの姿があった。すがるには曖昧で、わずかな気配しか見えなかったけれど。


 実際手術は1時間もかからなかったらしい。もっとも妊娠してひと月くらいでは、それほど大袈裟な処置はいらないとあとで知らされた。それでも不安はぬぐえず、美里の無事を確認するまでは落ち着けるはずもなく、手術自体に不安はないものの、美里がひとりで泣いている気がした。麻酔で意識がないことは理性では分かっているのに。

 目が覚めるまで2時間ぐらいかかるので、昼過ぎに迎えにくるよう勧めた看護婦も、返事におぼつかない僕に呆れたのか美里が休んでいる部屋へ通してくれた。

 堕胎することのいら立ちに、僕のはっきりしない態度が輪をかけたらしく、看護婦は目線で扉を指すだけで踵を返した。


 3畳ほどの小部屋にはベッドだけが無造作に据えられ、パイプ椅子の上のいつもより丁寧にたたまれた美里の服は、手術に向かう彼女の心を蝕んでいた時間を僕に想像させた。

 布団の端を握ったまま横に丸まる美里は寂しげで、僕のいないわずかな時間が本当に長かったと、ことづてているようだった。

 僕は静かにベッドへ腰を下ろすと、恐る恐る枕から零れた髪に触れた。

 朝起きると、時々美里は僕の寝顔を見ていることがある。起こせよと照れを隠す僕に、ただ寝顔を見ているのが好きと、笑顔で答えるだけの美里だったが、いまこうして美里の寝顔を見ていると、彼女の言った意味が何となく分かるような気がする。

 相手が寝ている時だけは、自分の相手への思いをゆっくり反芻できるのだ。

 僕は無事を感じる嬉しさを隠すことなく、それでも無理に口許を締めて、美里の鼓動を感じていた。もしも美里が起きているなら、僕のこの表情を見て言ったはずだ。

「あたしが頑張った時の顔」

 舞台を終え役者を迎える時、僕はこの顔をしているらしい。芝居を演じる役者みんなに向けているつもりなのだが、美里は自分だけだと決めている。

 カーテンコールで渡す花束の替わりに、僕は美里のてのひらに自分のてのひらを重ねた。花が可哀想なくらい握りしめていた彼女の思いを今度は僕が返す番だ。脈打つ血のぬくみも眠りで届かないだろうが。

「譲」

 はっきりと名を呼ばれた。慌てて顔を覗き込むが緩やかな寝息が寄せ返すだけだった。僕に握られたてのひらも柔らかなままだ。

 美里は夢で、僕を求めていた。

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