第3章 彷徨Ⅱ
ひと時の居眠りから目を覚ますと、沈みかけた太陽が僕の顔を照らしていた。まぶしさを嫌い、シートの端の金属パイプにもたれかかると、僕は額を窓ガラスにつけ車窓を流れる街並みに目を移した。
鉄道の高架線と交差する道路を、1台の白いセダンが列車に吸い込まれるように消えていった。
ドライバーが太陽を正面にしているせいだろう。ほんの一瞬だがその車を運転する若い男が不機嫌そうに目を細め、ぼそっと口許を動かしたのが見えた。
彼の気持ちは一体誰に向けられたものなのだろう?
彼と僕の異なる時間は、決して交わることがなく通り過ぎていく。届くはずのない彼の気持ちを、僕は無意識に追っていた。
「その肉塊1997」がボイド最後の公演になるなんて、考えもしなかった。
書き上がらなかった「セラフィムの翼」を辛抱強く待ち続け、僕に自信を持てだの頑張れだのと声をかけてくれたみんなは、劇団を解散させた僕を誰ひとり責めることなく去っていった。
晃明が言ってくれた「一緒に演っている意味」は最後まで僕に届くことはなかった。
思い出した記憶の断片を反芻しながら、同じ時間を共有していたのに、なぜみんなの気持ちが僕に届かなかったのか手がかりを探す。
列車は、モーターをいら立つようにうねらせながらホームにすべり込み、開いた扉の向こうへ僕の体と車内の日だまりを流した。
駅のコンコースは人影がまばらだ。はめ殺しの窓ガラスは西日に満たされ、オレンジ色に反射する床のタイルが、数少ない人の往来を影絵に変える。駅の階段を降り、普段なら家路を急ぐ会社員の列に加わるのだが、自宅への路地を通り過ぎると、僕はそのまま太陽に向かって商店街へと足を向けた。
美里の葉書がある部屋に戻るのは何だか怖かった。
僕は歩きながら鞄を開き、再び「セラフィムの翼」の原稿を取り出すと、ナイフを刺すように胸に抱えた。こうすることで僕はいつも自分の罪を自覚していた。
あのころのみんなの気持ちが存在していたことを忘れぬよう、あの子が生きていたことを忘れぬよう、半ば儀式と化した行為だった。それは自分にできる精一杯の罪の償いだった。
おもちゃ屋がいつの間にか建て替えられて不動産屋になっている。もともと営業してるのか怪しかったパン屋は、取り壊されて更地に変わっている。建築工事の看板が柵に掲げてあるのでまた店が建つのかもしれない。
住み慣れた街だが、改めて見直してみると、それなりに時間が過ぎていたことに気づく。街の記憶でさえ、僕の中では5年前から時間が止まっていたのだ。
この街も、買い物をする主婦も、にぎやかに駅へ向かう高校生も、結局のところ、干渉しなければただの影に過ぎない。
僕は目に見えるはずの風景を影絵の背景へと追いやることで、時間の流れに自分自身が埋没することを望んでいた。
西日の中に溶け込む僕は、人から見れば逆光の中、そう影絵の一部なのだ。
商店街を抜けてしばらく歩くと、街道をはさみ高層のマンション群が現れる。巨大なコンクリートの物体は西日を遮り、吹き抜ける初冬の風を増幅させる。
街は不思議だ。僕たちを自然から守るはずの建物なのに、1歩外に出ると陽を奪い、風を鋭くさせる。外は危ないよと、あたかも自分たちの内部が安全であると錯覚させるように。
僕はわき出る不信感に包まれ、伏し目がちに足を速める。
僕は混乱している。
湾岸道路に沿って走る高速道路の高架が太陽を隠す。その間を縫うように延びる歩道橋の階段に、僕は足をかけた。
道の先にはまだ太陽があるはずだ。光の中は落ち着ける場所なのだ。
長い歩道橋は不安定に揺れ、風の音とも車の走行音ともいえない轟音が左右に飛び交う。
僕が揺れているのか、街が揺れているのか。
歩道橋の先でようやく姿を見せた太陽は、まっすぐ延びる道路の向こうで僕を照らす。
子供のころ雑草だらけだった埋立地に、僕を逃がさないつもりなのか、街はどんどん浸食している。
終わりのない道を歩き続け、終わりのない物語を抱えたまま、永遠のループの中に身を置くことで、僕は生きることからも死ぬことからも逃げている。
太陽はもうすぐだ。
人肌を感じない真新しい街は、僕を冷ややかに見下ろす。
実体のない影が街に現れたことを快く思っていないのか、何かが僕を拒んでいる。
海岸線に沿った道路にたどり着くころ、ようやく街は僕を解放した。
松林が茂る公園の向こうでは太陽が僕を待っている。
霜が降りたように白く枯れた芝生を踏みしめ僕は進む。
海岸に出ると、まっすぐ延びた堤防の先に太陽が沈もうとしていた。
鉄パイプで厳重に閉ざされた立入禁止の看板を乗り越え、最後の関門を破った僕は堤防の先に向かい歩き始めた。
1間ばかりの幅の通路を、かもめの糞や彼らの食べ残しの蟹や貝殻のかけらが埋めつくしている。
僕は踏まないよう千鳥足で進む。
コンクリート製の柵は内部の鉄筋が海水で腐食し、赤茶けた錆が表面を覆い、自身の肉を腐らせたようにコンクリートをはがれ落とす。
100メートルくらい先の堤防の突端は、落ちてきた太陽の光に包まれどこまでも続いているように見えた。
海風が強くなりコートの襟でのど元を隠し、僕はゆっくりと進み続ける。
かもめの鳴き声が金属のきしむ音に聴こえる。
僕の体がきしんでいる。肉が腐食し始めている。
道はどこまでも続くはずだ。そして僕はあの太陽の中に完全に溶け込むのだ。
海風が陸へ強く吹いた。
堤防の先は行き止まりだった。
僕と太陽の間には始めも終わりもない波が打ち寄せていた。
波頭の輝きに満ちる海は、僕やみんなのなくした気持ちの吹きだまりのように思えた。
成仏できない魂のように、あるいは誕生を待つ胎児のように。
行き場を失った僕は現実を取り戻せないまま妄想に深く沈む。
美里、僕はどうすればいいんだろう。
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