声をなくした歌姫(掌編)
西谷治記
彼女の価値
昨日の夜から、声が出ないんです――
かんなからそういう連絡があったのは、今日ももう終わろうかという時刻だった。
唐突に、無機質に。ただ、その一文だけが書かれたメールが届いた。
件名もない。
だからどうするとか、どうしてそうなったのかとかいう文言もない。
ただ声が出ないと、それだけのメール。
どうしてこんなことになったんだろう。今やかんなは、歌って踊れる正統派アイドルとして、テレビ出演のオファーまで来ている、文句なしの売れっ子アイドルになったというのに。
テレビ出演時のキャッチコピーはこうだった。
『深海から突如現れたディーヴァ』
地下アイドルからスタートして、(テレビ目線では)電撃デビューしたかんなを揶揄ったようなコピーは、しかし、かんなは気に入っていたみたいだった。
あんなに明るい声でそう言っていたのに、どうして――。
今や、そのコピーが役に立つことはないのかと思うと、どうしてこうも、やるせない。
ぼくはなにか間違いを犯したのだろうか。
わからない。
わからないが、かんなは歌えなくなってしまった。
それだけが事実だった。
ぼくは、横須賀のアイドルマニアの間では多少名の知れた地下アイドル、『多々良かんな』のプロデューサーをしていた。
していた、と過去形なのは、彼女がもうアイドルではなくなっているからだ。
さらに言うなら、アイドルをやっていた最後のころのかんなはもう、『多少名の知れた地下アイドル』なんてものではなかったが、彼女を紹介するなら、これが一番似合っている気がするので、そう紹介させてもらった次第だ。
『多々良かんな』はあの頃、地下アイドルとして軌道に乗ってきたころが一番輝いていたと、今振り返れば、今更になって思えば、そうだった気がするから。
大手には遠く及ばない弱小芸能事務所の、そんなに売れないけど、歌のうまさと、ファンのキモさに定評のある、言い換えれば、十把一絡げの量産型地下アイドル。それが『多々良かんな』という少女だった。
ぼくと彼女が所属していたのは、弱小だけあって、練習場所は小汚いし、歌や踊りのレッスンをするのにコーチも満足に呼べないし、よくそれで芸能事務所を名乗る気があるな、というような芸能事務所だった。
当然、というべきなのか、仕事はほとんど回ってこなかった。
お声かけしてもらえないだけならいいが、他アイドル事務所にあらぬ疑惑をかけられて蹴落とされるのだけは防がないといけないから、はっきり言ってめんどうな場所だというのが、思い出の中の事務所の印象だ。
ぼくは彼女のために仕事を取ってこないといけなかったんだけど、どうにもぼくは営業が下手で、そういうのはうまくいかなかった。それでいて、他事務所はぼくらのことをぼこすか蹴ってくれるものだから、やりにくくて仕方なかった。
またこれが頭痛の種だったのだが、仕事を取れないぼくを、彼女は存分になじってきた。
彼女は、アイドルになれればあとはなんとでもなると思っていたみたいだった。
彼女いわく、「だからめんどくさいレッスンとかもがんばって、何度も、いろんなトコのオーディションを受けたんじゃない」ということだ。
そういうわけで、なかなか仕事をくれないぼくに腹を立てていたみたいだった。
だったが、あえて言わせてもらうと現実はもうちょっと非常で、その当時、歌も踊りもそんなにうまくなかった彼女に、ぼくが間に挟まったからってぽんぽん仕事を与えられるわけもなかった。
それにぼくだって、大して仕事熱心でもなく、毎日を生きる金さえもらえればいいと、そんなような人間だから、多少の仕事もとってくることができなかったのは、さっきも言ったとおりだ。
ぼくのやれることといえば、精々が、会社の金を食いつぶして、小さな会場を取ってライブもどきをするだけ。
毎回赤字が出た。ライブ会場が埋まることはない。いつもすかすか。
ライブの後のぼくの仕事は、彼女のご機嫌取りだった。これは一銭の価値もないことを思うと、毎回やるせなかったが、彼女が拗ねれば食いっぱぐれるのはぼくだ。望む望まざるにかかわらず、というやつだった。
そういう、なあなあな、場当たり的な態度が、彼女を転落させたんだろう。今になって思えば、というやつだが。
レッスンに来なかった彼女を、東京で見かけたのは偶然だった。
今日は具合が悪いからレッスンを休む、と、そういうメールがぼくのところに届いていたはずだった。
ところがどうだ。ぼくの見かけた彼女は事務所で見たこともないような、露出の多い恰好をしていて、今から遊びに行きますと言わんばかりであった。
隣には、いかにも遊び慣れていますと言わんばかりの男が一緒だった。
あとをつけて行くと、案の定、ネオンの輝きがまぶしい、そういうビル街の一角に入っていった。
あくる日、またレッスンに来なかった彼女は、今度は違う男と一緒にいた。
行き先はまた、夜のネオン街。
こんなことを続けていて、事務所にばれないわけがなかった。
なんとか辞めずには済んだものの、一度遊びだした人間が、それをすっぱりやめることなんてできなかった。
だから、代わりと言っては何だが、ぼくは自分を差し出すことにした。
アイドルに立候補するようなかわいい女の子と付き合えるという下心もなくはなかった。
効果はあった。
それ以来かんなは、レッスンをサボって遊びに出かけることもなくなったし、ぼくのうぬぼれじゃなければ、ぼくと常に一緒にいれるからと、むしろレッスンによく顔を出すようになった。
かんなは顔立ちも整っていたし、ダンスも歌も、何度かやれば小器用にこなした。
中でも、歌は週1で来るトレーナーが絶賛するほどのものであった。
レッスンが終わって、さあ帰宅、となると、かんなはいつもぼくのところにすり寄ってくるようになった。
大抵はとりとめのない話をしながら、彼女の家まで送っていった。
時々は、親御さんの許可を取って、ご飯を食べに行くこともあった。
ぼくとの仲がよくなっていくにつれて、かんなはどんどん頭角を現していった、というのは、ぼくのうぬぼれだろうか。
あんなにすかすかだったライブ会場に、どんどん人が入るようになっていた。明らかに地下アイドルのおっかけみたいなやつらだけではない。どうやら、口コミでいろんな層に広まっているらしかった。
ある日、社長からとんでもない話が下りてきた。
かんなが地下アイドルとしてデビューしてから3年目の春のことだった。
大手レーベルと契約して、かんなの歌を売るという。いわゆる、メジャーデビューだ。
ぼくらは浮足立って喜んだ。こんなすごい話があるか。
確かにかんなの歌は、多少はほかの地下アイドル達よりうまかったし、人を引き付ける魅力みたいなものもほどほどにあった気がした。
それはもしかしたら身内びいきなんじゃないかと思ってこれまで一度も言ったことはなかったんだけど、もしかしたら、身内びいきじゃなかったみたいだった。
実は、口コミでどんどん増えていったライブのお客さんのなかに、そういう大手レーベルに太いパイプのあるお方が来ていたんだとか。
運命、というやつか。そんな気がした。
デビューシングルは飛ぶように売れた。
そんなの当たり前だ。誰の歌だと思ってるんだ。
かんなが歌えば、どんな歌だって大ヒットソングに早変わりする。
いつのまにか、そんな噂まで立つようになった。
あれよあれよという間に、テレビ出演の仕事が回ってくるまでになった。
歌番組でその歌声を披露するというのだ。
ぼくは二つ返事で了承した。
かんなにその話を伝えると、飛び上がって喜んだ。
その日かんなは、喜びをいち早く両親に伝えたいとかで、ぼくとは一緒に帰らなかった。
番組の控室。
かんなは青い顔をして震えていた。いつものライブとは勝手が違う。客の前にカメラがいることが、どうやら不安らしかった。いつものかんならしくない。
ぼくは何も言えなかった。ここにきて自分の口下手なところがいやになった。
いや、大丈夫だ、とか、いつも通り歌うだけだ、とか、そういうことは言った。
かんなもそれに対して、うん、とか言ったり、うなずいたりはした。
たくさんのカメラの、無機質な眼がかんなのほうを向いている。
かんなが後からぼくに語った話では、カメラが怖かったことしか覚えていないが、失敗したという感覚だけは強く残っていたそうだ。
その感覚はそんなに間違っていなくて、ステージの上のかんなは、これまでに例を見ないくらいひどい歌声を披露した。足ががくがく震えて、とてもダンスをしているようには見えなかったし、音程はぐちゃぐちゃだし、声は震えていてよく聞こえない。
とても、「地下アイドル、10年に一度の歌姫」という触れ込みの演技ではなかった。
かんなを擁護する声もあったが、バッシングはそれ以上に多かった。
そして、かんなはアイドルをやめた。ぼくはなるべく、かんなには非難の言葉がいかないように立ち回ったつもりだったが、簡単に防ぎきれるものでもなかったのだろう。
ぼくも責任を取って辞任というカタチになった。
一瞬で二人のニートになってしまったぼくらは、とりあえず遊ぶことにした。
今まで、なんとなく惰性で一緒にいたから、それとなく相手のことは知っているつもりでいた。それがよくなかったのかもしれない。
もしかしたら、お金も時間もあったから、それが原因だったかもしれない。
打算で付き合うだけの関係は終わりになってしまったけど、それを不満に思わない程度には、ぼくらは信頼関係を築けていた。
声のない歌姫に価値はない。
でも、どうやら。
僕にとっては、価値のない人間ではなかったみたいだ。
声をなくした歌姫(掌編) 西谷治記 @hdsuj
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