それは、ある晴れた日の事。
太陽の光が僕の瞼を突き抜けてきた。
感じる、暖かくて優しい光。
ここは何処だ?
そう思い、ゆっくりと眼を開けた。
飛び込んできたのはどこかの喫茶店のような雰囲気の天井と、鼻をくすぐる柔らかな紅茶の匂いだった。
痛む体を無理矢理起こし周囲を見渡してみた。
大正・明治を彷彿とさせる和洋折衷のその空間は、まさしく喫茶店のような場所だった。
僕が寝ていたのは革張りの煤けたソファ。目の前には味のあるアンティーク調のテーブル。それらがこの空間に3組あった。ここは小さめの喫茶店といったところか。
お客さんが入るであろうこのスペースより少し離れた所にカウンターがあった。
そこには洋風の良くわからない置物や、無駄にリアルな鎧を着た騎士の人形、豪華な装丁が施された本などが置いてあり、そのカウンターの向こう側には人が居た。
女性のようだ。
細くてスタイル抜群の身体で、髪の長さが腰のあたりまであった。それだけでも普段見ない位の異質さだというのに、さらに髪の色がピンク色だった。
後姿を見る限り、あきらかに日本人ではないことが分かる。
あの人はだれだろうか。
僕は一体どうしてここにいるのだろうか。
自らに問いかけても『空っぽ』の僕は何も答えてはくれなかった。
最後の記憶は、死のうとして衝動的にあの素敵な丘から飛び降りた時だ。けど、あの後は?
僕はどうなったのだろうか?
考え事をしていたからだろうか。ついに僕は彼女に話しかけられるまで、自らの思考に嵌ってしまっていた。
「やっと起きたか。槙野」
ふぇ? と間抜けな声を出してしまった。
ふと顔を上げると、そこには――現実離れした美人の女性が立っていた。
外国人とのハーフだろうか。いや、それとも外国人そのものなのかもしれない。なにせ服の露出がハンパじゃない。胸のあたりなんてガバっと空いている。僕が住んでいた辺りでは、こんな変な人、見たことがない。
日本人で普段からこんな格好している人なんてどこにもいないだろう。
「おはよう。と言ってるんだ。挨拶くらいできんのか……? それともなんだ? こんな美人を目にしたことが無くって緊張してるのか? かわいい奴めっ♪」
カラカラと笑う女性。
そこまで話してようやく僕は彼女が話している言葉を認識することができた。
夢から覚めた心地だった。
「お、おはよう、ございます」
挨拶をしていなかったことを指摘されたので、挨拶を返した。いったいここは何処なのだろう?
もしかして地獄か? いや、こんな女性が居るくらいだ。地獄なんてことある訳がない。
それにしても、挨拶を返したというのに女性から反応がない。
僕は彼女を見つめるし、彼女も僕を見つめるだけだ。
そうして数秒が経過したあたりで、たまらずと言った様子でピンク髪の彼女が声を発した。
「……それだけか?」
「へ?」
それだけかと問われた。まったく意味が解らない。
「もっとこう、なにか――ないのか? 僕を助けるなんて何て事してくれるんだー! とか、お前は一体何者なんだー! とか、そういうのは無いのか?」
ああ――と僕は納得する。
この人は普通の反応を求めているのか。
「わああ、知らない綺麗な女の人が居る……僕は自殺しようとしたんだけど、どうしてこんなところに――」
「なんて棒読みだ……もういい。つまらん……」
どうでも良過ぎてちょっと演技が過ぎてしまっただろうか。でも、生きる気力なんて今の僕にはない。空っぽな僕なんて、生きる価値もないのだから。
「いいか? 君は今日から私の弟子だ。というより使いっ走りだ。わかったか?」
「ちょっと待ってください」
当たり前のように言う彼女が益々意味が解らない存在に思えてきた。
使いっ走り? 僕が?
混乱が過ぎると話が飛ぶと言う噂は本当だったのか、と僕は改めて新しい発見を歓喜した。いや、喜んでいる場合じゃない。
「説明を、求めます」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「槙野結城。君は自殺を試みたな? いや、正しくは自殺を終えた……というべきか。違うか? 違うなら反論をしてくれ」
彼女は言い切ると、僕の出方を伺うような目をして手にした暖かい紅茶を僕と自分が座ったソファの目の前に置いた。
良い匂いだ。紅茶の匂いなのか、この人の匂いなのかは分からない。
「……僕は自殺をしました」
「それはなぜだ」
答えなんて決まってる。
「僕は、空っぽなんです」
「そうだな。君は――君の定義しているその曖昧なものの視点から見ると、見事に空っぽだな。いや、違うか。そうだと君自身が思い込んでいる」
今、僕は素直に驚いた。いや、ビビったと言ってもいい。彼女の視線があまりに鋭く、僕の総てを見透かしているような瞳をしていたから。
だが、話の内容はまったくの見当はずれだ。
思い込んでいるんじゃない。間違いなく、僕は空っぽの人間だ。
生きていてはいけない人間なのだ。
「……違う。本当に僕は空っぽなんです」
「ほう、なら、どんなところが空っぽだと言うんだ? 教えてくれ。槙野」
思わず、反論をしてしまった。
だが、僕が空っぽなのは誰よりも僕が知っている。
空虚な夢、空っぽの行動原理、中身のない人付き合い。
言えばきりがないことを説明すると、彼女は同意すらしなかった。相槌すらも打たない。ただただ、僕の考えを聞くだけだ。
それが悔しくて、何をいってるんだと馬鹿にされている気がして。
自身が空っぽの理由をつらつらと言っているうちに、僕の目には涙が溢れてきた。
それでもかまわずに、心中を吐露する僕。
全てを吐き出した後、彼女は僕に尋ねてきた。
「なるほど、なら、空っぽなキミは、空っぽだとどうして君自身が分かるんだ? 空だと断じているソレ、つまり、『自分は空っぽだ』と君の脳に叫び続けているものは一体何なんだ? 教えてくれ」
彼女の言葉は決して僕を非難するものではなかった。
ただ純粋に、相手の事が知りたくて――そういう思いが詰まっていた。
だから、真面目に考えた。それ故に、僕は答えられなかった。
「質問の意味が、解りません」
答えを探しているうちに口に出てしまった言葉。
「なら言い方を変えよう。どうやって君は自身が空であると思えたのか、と聞いているんだ。なにも思わない、考えない人間は、自身が空だと気付かないと思うが?」
どうやって僕自身が空だと思ったのか、だって?
質問の意味なら、最初から分かっていた。
だけど、またしても僕は答えられない。
空虚だから? 何をもってして空虚だと判断した?
行動原理が空っぽ? その思考はどこから持ってきた?
中身のない人付き合いが空っぽだというのなら、中身のある人付き合いを僕は知っているという事になる。
知ってて、やってなかった?
それも違う気がする。
多くの矛盾、成立しない僕の考え。自らの考えが浅はかだと思い知らされた。
この成立しない論理では、目の前の女性を納得させることはできない。
「……答え、られません」
「……ふむ、ならば君は――空っぽだと思っていたが、実は空ではなかったということか?」
いや、そうじゃない。
それだけは断じてそうじゃないと言える。
でも、それを主張できる材料が、僕にはない。
「夢は空虚なものだ。空想に向かって進むのが夢という者もいるし、眠るときに視る夢、そのすぐに消えてしまうものが本物の『夢』だという者も居る。
君はどちらだ? いや、どちらだろうと同じことだろうな。
君は自身で自らを空であると断定し、さらには自らを殺すに至った。そして、この無意味な生から解放してくれと願った。そうだな?」
はい、と口にするしかない。
「なら、空っぽだった君は確かに死んだ。間違いなく、君が望んだとおりに、解放されたと言っていいだろう」
「……え?」
朗らかに話す彼女を見ると、満面の笑みでこの空間全てを表すかのように両手を広げていた。
「見てみろ。この空間を。もう既にここは君の知らない世界だ。空っぽだった君の死んだ後の世界でもある」
ここが、僕の死んだ後の世界?
確かに、さっき僕は死んだはずだ。だが説明がつかない。窓の外は僕のお気に入りのあの丘が見えるし、僕が通っていた学校のチャイムも聞こえてくる。
「でも、ここは僕が住んでいた街で――」
「そういう事が言いたいんじゃないんだ。……ふむ。こういう言い方をすればいいのか。ここには君の存在を覚えている者はいない、と」
それを聞いた瞬間、真っ先に思ったこと。
それは――
「胡散臭いですね?」
「おい、弟子よ……師匠の力を信用してないな? それなら自分の眼で確かめてみるといい。槙野。家に帰ってみな。それで分かるから」
最初から疑問に思っていたが、なんで僕は弟子にさせられているんだ。どうして僕の名前を知っているんだ?
一体この人が何を考えているのか分からないが、これでお別れなのだろうか。
いや、別れたほうがいいのかもしれない。
弟子にされたとはいえ、今の僕にはそれがさして重要な事柄ではないのだ。
とにかく一度、家に帰らなければ。
自殺したのは間違いないが、この機会を逃してしまったのだったら他の手を探さなければならない。
「それじゃあ、僕、帰ります」
「槙野。その紅茶、飲んでいきたまえ。それで帰って来れるからな」
「……? ええ、ありがたく頂いていきます」
僕はすっかり冷えてしまった紅茶を一気に飲み干し、へんてこな喫茶店を後にした。
お金払わなかったけど、いいのかな。
―――――
喫茶店から出て一つ路地を曲がると、そこは見慣れた僕の通学路だった。
着の身着のまま衝動的に家を出てきたので、あれからどれくらいの時間が経っているのかは定かではなかった。
しかし曜日だけは知っている。
僕が自殺しようとしたのは金曜日の夜。
だとすれば、今は土曜の朝か昼だ。
土曜だったら母さんが帰ってきているはずだ。
自宅の前に着いたのは、そんな思考をし終えた後だった。
いつもの要領で扉を開けようと玄関の扉に手を掛ける。
返ってきたのは固い手ごたえ。
鍵が、掛かっていた。
変な汗が流れる。
なんで鍵なんかかかってるんだ? もしかして僕を探しに――?
そこで、僕は聞いた。
「あら……?」
聞きなれた声。
見慣れた姿。
間違いない、母さんだ。
いつもと変わらない姿に安堵さえ覚えたが、違和感がある。
そう、違和感だ。
母さんを見つめる一秒ごとに、その違和感は確信へと変わっていた。
「あの、どちら様でしょう? なにかご用でしょうか?」
――いつも僕を迎えてくれた暖かな眼差しは今や見る影もなく、今の母さんの眼差しは、まさしく他人を見るソレだった。
「っ……。かあ、さん?」
「――あの、失礼ですけど、私は貴方の母親じゃありませんし、私たちには子供はいませんよ……?」
余りの衝撃に、ドクン、と僕の心臓が跳ねた。
今や母さんの眼は怪しい人物を見る目に変わっていた。
「ま、まちがえ、ました。ごめん、ごめんなさい。失礼、しました」
僕は脱兎のごとくその場から逃げ出すしかなかった。
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