みつまさん(81~90)

81.

 落ちてる……私、落ちてる!!

 ベッドは? 床も……マンション全部突き抜けて、アスファルトも……目の前に穴がぶわって開いて、私、落ちてく。

 落ちてく……地面の中を、私、すごいスピードで……!!

 これ、何? 夢見てるの、私?

 ああ、ああ……! 陽! 陽! お願い……私、私……!

 何か見える、ぶわああって開いてく穴の向こうに……赤くて、まぶしい……溶岩!? マグマ!? やだ、溶けちゃう、私蒸発しちゃう……陽!!

 …………溶けちゃわない。私、マグマの穴の中を、落ちてく……。

 私……地球の中を落ちてるんだ。地球の真ん中に向かって、すごいスピードで……。

 あ。光った、何かしら……空洞だ。ぽっかり開いた洞窟の中に、うわぁ、すごい! ビルくらいある大きな、結晶の柱? 森みたいにたくさん……! 天然の宝石の、鉱床、とか言うんだっけ。そんなところを、私、通り抜けてるんだ。すっごい光景。綺麗……見惚れちゃう。

 あ、また地面の中。ごつごつした岩の中を、落ちてく。

 ずっと、ずっと、落ちてく……どこまでも……。

 ……どこまで行くんだろう、私。地球って、こんなに深いんだ。

 朝になったら、私がベッドにぽっかり開いた穴の底の落っこちたって知ったら、お母さんとお父さん、どう思うかな。取り乱しちゃうかしら。学校のみんなとか、ファンの人たちとか、何て言うんだろう。ちゃんと、悲しんでくれるかな。

 陽。ねえ。私が死んじゃったら、悲しいって、思ってくれる?

 思わないか。私、もう彼女じゃないもんね。ただの他人。ちょっと有名になったからって調子に乗ってる、高飛車でバカな女って思ってるよね。

 そう、思ってるのよね? 陽。今はもう、私のこと。

 …………? 何だろう。真っ白で、まぶしくて……あ、落ちるの止まった。ここが終点なのかしら?

 何かしら、ここ。何かがどろどろに溶けて、それが、ぐるぐる回ってる……? 流れがあって……ところどころ、七色だ。光ってる。

「…………pi…………pi pi…………」

 あ……そっか。分かった。今、パッて分かった。

 全部分かった。呼ばれたんだ。私。

「…………pi pi ……u……pi………… pi……」

 ずっと私を見てた。ふうん。やっと、声かける決心が付いたってわけね?

 ずいぶん、やきもきさせてくれたわよね。怖がらせてくれたわよね。

「……pipi…………u …………pi……u………………pipi」

 ストーカーだと思ってたのよ? 私。あなた、そんなんじゃファン失格よ?

 でもまぁ、いいわ。許したげる。こんな遠いところから、私の歌、聞いててくれたんだもの。

「……『あなた』、なのね?」

「…………………………pi pi pi……………………upipi pi」

 繋がってるのね。私、今、あなたと。繋がってるんだわ。




82.

 ようやく調子の戻ってきた右手を握り締め、開いて、もう一度握り締めてから、おれは作業を始めた。失敗は許されない。ミスをすれば、取り返しの付かない惨事になりかねないのだ。

 みつまさんも横でおれを支えながら見守る中、最初のひとつを箸で掴み上げる……良い漬かり具合だ。カンは鈍っちゃいない。

 ガラにも無く緊張しながら、油の中へぶち込んでやったら……じゅうというこの、懐かしい音よ。 

「よォし。久しぶりのからあげディナーだ、派手にいこうや。なぁ」

「ふひゃぁはぁ……!」

 デスコの瓶を抱えて、みつまさんもようやく、懐かしいきらッきらした顔を浮かべた。

 ようやくだ。まだ少しばかり指は震えるが、それもすぐに収まって、こういう顔が貴重なモンじゃあ無くなる日が戻ってくるはずだ。

 だがおれはどうにも調子に乗っていたらしい、ひょいひょいと次々に揚げているうちに一瞬手元が狂い、箸から離れた鳥モモが派手に油へ飛び込んで、

「うおッつあ!!」

「りいちくゅん!?」

 こいつは危ない。浮かれている場合じゃない。

 慎重になってそろりそろりとひとつずつ丁寧に揚げていたら、事なきを得て安堵したみつまさんが、腕にぎゅむっとぶら下がってきて、おれをジトジトした目で見上げた。

「りいち、くゅん……?」

「あァん?」

 みつまさんも、そうなんだろう。こういう何気ない時間がひどく懐かしい気がして、おれと同じで、どこかたまらなくなるんだろう。

「……しゅき。しゅきぁよ、りいちくゅん。いぅも、あぃぁと……そぁに、ひッぅ、いぇぅぇれ……」

 またジトジト目をじんわりさせ始めたみつまさんに、するするとおれの口からは言葉が飛び出た。

「おう。もう顔見るのもイヤンなっても、ジジイとババアンなっても、胸焼けするほどいてやるから。覚悟しやがれ」

 みつまさんはがくがくと地震みたいに何度もうなずいて、袖で目元をぐしぐしと拭ってから、網に上げたひとつをつまみ食いして、塩っからいね。と言って笑った。




83.

 公園に吹く風はあたたかくて気持ちが良いですけど、あまり、私の気持ちは冴えません。

「いろいろ噂、聞いてきたわよぉ。ムクちゃん、大丈夫? 聞いたらもっと落ち込んじゃわない?」

「……お願いします」

 ちひろちゃんに大丈夫です、とは答えられませんでした。だって、落ち込まない、なんて言い切れませんもの。

 そっか、よし! と言って、ちひろちゃんは教えてくれました。

「高尾愛梨さんって、うちらのひとっつ上の人ね。みつまさんの、お仕事上のパートナーって感じ? でもプライベートでも仲良かったみたい。経験はそんなに無くっても、けっこう頼りにされてたんだって」

 できるだけ暗くならないように、なんて思ってくれているんでしょうね、ちひろちゃん。私、とても心配させてしまってますね。ごめんなさい。

 でも、胸がぎゅうって、なってしまうんです。

「で、うちらが入るほんの一ヶ月かそのくらい前に、殉職しちゃったんだって……ムクちゃん? 大丈夫?」

 何となく、そんな気はしていたんです。それなのに、思わず身体が、びくんッてしてしまいました。

「そう……なんですね」

「……うん。ほんと、大丈夫? 無理しちゃだめよぉ?」

「はい……続き、それで、矢田さんとは……どういう」

 ちひろちゃんが痛ましそうな顔をして、ああ、ごめんなさい。

 でも、聞きたいんです。私。

「付き合ってたー、とかじゃ、無いみたい。そういう話は聞けなかったの、ごめんねぇ? でも……多分だけど、うちの予想だけど、矢田さんはきっと、その人のこと……」

 お仕事中に、ちひろちゃんは時々、見ることがあるそうです。あの、お財布の中に張ってある小さなプリントシールを、矢田さんが懐かしそうに眺めて。時折、辛そうに眉を寄せて。でもすぐにいつもの明るい顔に戻って。ちひろちゃんの視線に気付いて、何事も無かったみたいに、どうしたの? って。

 そんな話を聞いたら、ますます私の胸は、ぎゅうって軋みます。だって……だって、私、それで、どうしたら。おばあちゃん、私、どうしたら。

「強敵よねぇ。矢田さんって、一途なヒトっぽいし」

 意味が良く分からなくて、ちひろちゃんを見たら、

「死んじゃった人がライバルかぁ、前途多難ね、ムクちゃん。でも断然、うちはムクちゃん派! ばっちり応援しちゃうわよぉ? だから、頑張って! ムクちゃんが矢田さんの傷心にこうね、するんって潜り込んでね、癒してあげるのよ! オンナは強かじゃないとダメなのよぉ? 悲しいのなんて忘れちゃうくらいに、矢田さんを誘惑して悩殺してやるのよ、ムクちゃん!」

 ちひろちゃんたら、いつもこんな調子です。とっても楽しくて、とっても優しくて。

「……ふふ。そうですね」

 とっても嬉しいお友だちなんです。




84.

「石村さんて、ボクのお母さんのこと、好きだったんじゃないですか?」

 この子のカンの鋭さときたら、彼女のそういうところをそっくり受け継いだかのようで、俺にはどうもいまひとつ、都合がよろしくなかったりもする。

「……何で、そう思ったんだい」

「あ、やっぱりですか? 顔に出てますよ、そうだって」

 カマかけが得意なところまで、そっくりときてる。やれやれだ。

 こうしてバーガー屋で陽くんと密会を重ねるのも数回、俺にもずいぶん彼のことが分かってきた。サッちゃんと違って、俺はなるべく関わらないことにしていたから、それはそれは新鮮で、そして懐かしさにたまらなくなる。

 同時に、ずっと彼に対して感じていた負い目が、ここ数日のやり取りで簡単に解けていくように思えるのは、ありがたくも複雑だった。

「あー。まぁ……そうだな、もう言ってしまうか。隠しても仕方ないか。誰にも、言ったことは無かったんだけどね」

「そうなんですか? 告白したりしなかったんですか?」

「簡単に言ってくれるなよ、君の母親で、人妻だぜ?」

 陽くんは心にどこか陰を感じさせつつも、それでいて年頃らしい明るさも持ち合わせている、繊細で複雑な男の子……のように、俺には見えた。それは親のない子供として施設で育った彼が、自然と負ってきた傷の落とす陰であり、そしてあの二人の因子を紛れも無く受け継いだことによる、危うくも奇跡のようなバランスなのだと、俺は深く納得した。

 あえて直情的な言葉で表現するなら、感動を禁じ得ない。あの二人の子供が、こんな風に成長してくれたことに、俺は。

「……確かにね。俺は、月子さんが好きだった。認めるよ」

「だから、石村さんって独身なんですか? お母さんのことが忘れられなくて?」

「君ねぇ、人の気持ちを考えないやつだって、言われたことないかい?」

 陽くんはにかっと笑い、すいません、と口だけで謝って、チーズバーガーを頬張った。俺がさして気にしていないことも、この子には分かっているらしい。

「カンの良い人だったし、気付かれちゃいたかも知れないけどね……でも気持ちを伝えようだなんて、俺は思わなかったよ」

「どうして? 好きだったのに」

「俺は敦則さんのことも好きだったからさ、ああ妙な意味に取るなよ?」

「分かってますよ、あはは」

 あの二人と接した時間の分、その重みの分、俺はこの子に負い目を感じてきた。あの時に救いはしたが、その人生に責任を持とうとまでは、どうしても思えなかった。そしてそのことを、ひどく後悔してきた。サッちゃんが渡してやる金でどうにか生きていけるはずだからと自分を納得させて、気持ちがひどく乱れるのを恐れて、あの院長先生に口止め料まで払ってやった。

 俺はそのことが恥ずかしくて、苦しかった。

 でも、この子とこうしていることで……俺は少しずつ、救われていく気がする。

「あ、そうだ、石村さん! 忘れてませんよね?」

「ん? ああ、サッちゃんか。うん、そうだな……近いうちに、必ずね」

 俺が先に陽くんとお茶してたなんて知ったら、サッちゃん怒るかねぇ。ふゃあーとか言ってさ。




85.

 私はずいぶん、ヤケになってるのかも。陽にフラれちゃったこともそうだし、あの夢みたいな経験もそうだし。ちょっとこの頃、色々ありすぎたものね。

 あいつのことを誰かに説明しても、とても信じてもらえるとは思えない。だから私は、何とか信じてくれそうな人を訪ねてみることにした。ちょっと今、それも後悔してるとこだけど。

「コーヒーでいいかね、えー。トキちゃん」

「タキです。いただきます」

 うわぁ。ビーカーコーヒーだ。本当にいるのね、ナチュラルにそんなことする人って。

「それであのう。酒井さん?」

「教授、と呼んでくれて構わんよ」

「……酒井、教授?」

 マンガみたいなヘンジンっぽい教授に、私はちょっともう帰りたくなってきちゃってるとこだけど。

 でもだって、しょうがないじゃない? ネットで一番色んなところで見かける専門家っぽい人の名前が、酒井伊佐治教授だっていうんだから。

「いやいやしかし、君のほうから来てもらえるとは! ずーっと探しとったんだがね。まさかこんな有名人だったとは思わんでね。知っとるよ、テレビにもずいぶん出とるよね、えー。マキちゃん」

「タキですってば」

 ……大丈夫かなぁ!? この人!

「って、探してた? 私をですか?」

「君とは限らんがね、条件を満たす誰かをね。私はここしばらく、ずーっと探しとったわけだ。いいかね、君」

 教授が何かファイルみたいのを持ってきて……何かしら、これ?

 人の名前と写真、それに個人情報っぽいのがずらずらずらって……あ、ほとんど処理業関係の人みたい?

「えーと。狭山幸一さん。倉田夏美さん。小野里祥司さんに、稲田雄介さん、堤田志保、杉平昌大、水口淳、高尾愛梨、八木菜々美……ナニ、これ? 何ですか?」

「あのハンターちゅうやつが死んだと聞いて、私ゃピンと閃いた、相性が悪かったんじゃあなかろうか? とね。人の脳はラジオのチャンネルを合わせるようには変えられんからね、ひとりがダメだとなったら次を探すしかない。そう、連中はチャンネルがピタリ合う人間を探しとるんでは無いかとね、あの浮遊型のアンテナタイプもヒントになったわけだが、あれが出てきたということはいよいよ連中目星を付けたか大詰めだと私ゃ踏んだわけで、そういう人間を探しとったというわけでね、そこに君が連絡を寄越してくれたとこういう次第でね、えー。ユキちゃん」

「タ・キ!」

 どうしよう、ひとっつも何言ってるんだか分かんないわ。

 記憶力もボケてるみたいだし、うーんやっぱり、早まったかしら?



86.

 あの夜、急に物悲しくなってどうにもならなくなったみつまさんが、公園でひとりで泣いてたあの夜。あン時気まぐれで、あったか~いのお汁粉渡してやったのがおれだったのは、こうなってみりゃ、みつまさんにとっては幸運だったと言えるだろう。お汁粉ってチョイスが今となっちゃどうだったかと思わないでも無いんだが、ともかくおれはそう自負している。

 金を貸したり受け取ったり、なだめてすかして払わせたり、眉毛吊り上げて追い掛け回したり、まぁ何だって良いが……そんな風に毎日金をいじくり回してると、そいつをいくらか効率的に増やす方法ってのも身についてくる。何でこの仕事を始めたかなんてのはもう覚えちゃいないにしても、それなりに長くやっているうちいつの間にかそうなっていて、それがおれとみつまさんの目標のために一役買っていたというわけだ。

 とはいえもちろん、金だけありゃ良いってモンでもない。

「ま、釜田くんには世話になったからねェ、このくらいの骨を折ってやるのはやぶさかじゃあない。しかしだねェ、金剛台の一等地を押さえてやるにあたっての私の苦労というものをだね、君、重々理解してはくれとるんだろうねェ?」

 そういう意味じゃ、おれはこの社長に心から感謝している……返済がたびたび滞るのと、鼻につく尊大さにはまぁ、目をつぶってやるか。

「……そりゃあもう。ええ、社長。分かってますよ、本当にね」

 おれも社長と呼ばれちゃいるが、この人にゃまったく敵わない。あんた大物さ、今は身を持ち崩して、おれにつまらないはした金をたかりに来るようなしょぼくれたオッサンだとしてもね。この人の昔取った杵柄ってヤツとコネが無けりゃ、そんでこの人がおれの客でなけりゃ、おれとみつまさんはもっとややこしくて面倒なやり方を模索するはめになっていただろう。

「後は、生形に継がせますんでね。良けりゃあ引き続き、よろしくしてやってください」

「彼かぁ、彼怖いんだよねェ、その筋の人みたいで」

 否定はしにくいが、そこは諦めてもらうしかない。何ならおれが辞めた後で別の店に鞍替えしてくれたっていい、そこまではおれの口出すところじゃあ無い。

 外まで見送ろうと杖を取り上げたおれを制して、

「ああ、君、無理せんで良いさ。私ゃ適当に帰るからさ」

「こりゃ……どうも。失礼します。生形ァ!」

 慌ててすっ飛んできた生形に送られて、社長は機嫌良く帰って行った。きっともう、会うことも無いだろう。椅子の上からで悪いが、せめておれはその後姿に、深く頭を下げてやった。




87.

「成績はそれなりに良かったな。お前や瀬古ほどじゃあ無いが、悪くは無かった」

 高尾さんのことは、剣持先生も印象深い研修生だった、とそう記憶していらっしゃるそうです。

「でもあいつのことを良く覚えてるのは、やっぱり性格だな」

「どんな……方だったんですか?」

 図々しくも押しかけてしまった私に、先生はこうして時間を割いていただいて。それにきっと、先生にとっても悲しいことだったんだと思うんです。それを私は、無理に聞き出そうとしていて。

 お辛そうにお顔を歪めながら、それでも笑ってくださる剣持先生に、私は申し訳ない気持ちと、それに感謝の気持ちでいっぱいです。

 それでも私は、聞いてみたいと思う自分を、止められなかったんです。どうしても、知りたかったんです。

「特別、取っ付きが良いわけじゃなかった。クチは悪いし、どこか斜に構えるってぇかな、ぶすっとしてることも多かったよ。それでいてあいつは、顔見知りも友人も多かったんだよな」

「ええと……それは、どういう」

「不思議な魅力のあるやつでな、あいつは。自然と誰かのところにいて、笑ったり捻くれたりしながら、何となく仲良くなってるんだよ。訓練がキツくてめげそうな奴がいりゃ、そいつの横にいつの間にか座ってて、愚痴を聞いてやってた……というより、一緒になって愚痴ってた。俺もきっと影じゃあボロクソ言われてたろうな、ははは。で、集団に馴染めないような引っ込み思案がいりゃ、何でもない顔をしてそいつを誘ってやったし、相性の悪い連中の仲を取り持って、フォワードとバックス務めさせるまでにお膳立ててやったこともあった。本人たちがあいつのおかげでそうなったって気付いたのは、随分後のことだったらしいがね」

 先生のお言葉はどこかとりとめが無くて、私に語って聞かせてくださるというよりは、思い出しながら懐かしんでいらっしゃるように見えました。

「あいつがそんなのを意識してやってたのかどうか、俺にはついに分からずじまいだった。けど、分かってたのは……あいつはこと自分についちゃ、てんで不器用だった」

 だから高尾さんは結局、研修中は誰ともコンビを組んだり、特定のパートナーを定めたりはしなかったそうです。きっと、あえてそうしていたわけじゃ無かったんだろうな、と、剣持先生は懐から一枚写真を取り出して、小さくため息を付きながらそう仰いました。

「あいつ写真嫌いだったからな、こんなのしか無くてな。笑っちまうだろ? むすーっとしててさ。俺の生徒だからって、勝手にこういうのを渡してやるのは、本当はマズイんだが……でもな」

 受け取った写真の中で、高尾さんはむっとした顔でぷいと目を反らしながら、カメラに向かって小さくピースサインをしていて。

 あの小さなプリントシールを見た時に、軽そうで浮ついていそうで、矢田さんと吊り合わなさそうなチャラチャラとした女性だと思ったことを、どこか自分があの笑顔に敵意を抱いてしまったことを、私は今になって、震えが来るほどに後悔してしまって。

「あいつのことを誰かが覚えててくれるってんなら、俺のそんなちっぽけでつまらん罪悪感なんぞは、丸めてゴミ箱に放り捨てておくさ」

 お会いしたことも無い方なのに、ぽろぽろと涙がこぼれてきて。肩がどうしても震えてしまうのを、私はしばらく、止めることができませんでした。




88.

 ムクちゃんはこれ、吹っ切れたのかしらね? 研修校の先生に会いに行く、って言ってたけど。

「何か、良いお話でも聞けた?」

「……そう、ですね……少し。私も頑張ろうって、そんな気持ちになって」

「それは良かったわぁ、はいっお給料」

 封筒を受け取ってぺこり、ありがとうございます、っていうムクちゃんのお顔。今日は、輝いてるわぁ!

 目の下ちょっと赤くなってるのは、気にしないであげるの。なぜってうちは恋のキューピッドちひろ、うわぁ来ちゃったわぁ、そうよね来るわよね。そりゃあそうよ、彼にもお給料あげなきゃあ。

「ウィーッスおつかれーーーッス!! 今日もサイコォプリチーッスねちばっち!」

「お、お疲れさまえしゅ……けほん、お疲れさまです、瀬古くん」

 ダメよちひろ、今日はびしっとした態度で! 慌てるのもダメ、いつもの噛んじゃうダサイやつも封印よっ!

「はい、お給料です。今日も一日、お疲れさまでした」

「よっしゃァサンキューちばっちありがとーッス! 今日はどうッスか、晩飯一緒どうッスかちばっち、オレっちとメシ!」

 毎日これだもの。毎日だもの。良く飽きないわよねぇ。

 今日は、びしっとした態度で!

「ダみゅ……んんっ、ダメよ、うちまだ仕事残ってるんだから。それに、瀬古くん? 年上の女性をほら、ちばっち呼びはほら、失礼じゃないかしら? ねぇ?」

「そッスかダメッスかー、でもオレっち諦めないッスよーちばっち、また明日誘うッスから! オッケーくれるまで諦めないッスよーオレっちこう見えてイチズなんッスから! 絶対今度、メシ! 一緒しましょーね、ほいじゃお疲れーーーッス!! 矢田さんも!」

「はいお疲れさまー」

 ……嵐のようにとはこのことよね。封筒受け取ったら、あっという間に行っちゃったわ。

 この、何ていうの? 付かず離れずっていうの? 絶妙な距離感なのよね瀬古くんったら。いい加減にしなさいっ! って怒るほどでもないし。もーゼッタイ、二度と誘わないでよねっ! ってほどでもないし。

「あはは、気に入られてるねぇ、ちひろちゃんは」

「やっややや、やめっくだしゃい……!」

 ヒトゴトだと思って、矢田さん笑っちゃって、もー!

 うちが一番恐れてるのは、このまま流されるままそのうちいつか、仕方ないわねぇ……なんて思っちゃいそーな、自分なのよー! もー!

 ああ、ムクちゃんが羨ましいわぁ。矢田さんはこんなに素敵なのに、うちのお相手、あれ? ねぇあれなの?

 ん、もー!!



89.

 石村さんが、やあ、って手を上げたからそっちを見たら、ボクは死ぬほどびっくりして逃げ出したくなった。

 ヤクザだ。前にどこだっけ、どこかで会ったあのヤクザだ。ヤクザみたいな人だ。

「よお。また会ったなァ、坊主」

「え、あ、や、え……もがっ?」

 びっくりしてキョドってたら、何か柔らかいものにもふって顔を包まれた……あれ、これってもしかして、この柔らかいのってもしかして、

「……よう、くゅん……っ!」

 ああ。そうだったんだ。あの時の女の人が、そうだったんだ。ヤクザの人の後ろに隠れて、ジトジトした目でボクを見てた。泣きそうに潤んだ目で、ボクを。あの時の。

 ぎゅうぎゅうと抱き締められたまま、もう分かりきってるのに、ボクはついつい聞いた。

「あの……佐和子さん、ですか?」

「っ、! ぅう、ぅぅゥウう、ぅああああああぁぁあゥ……!」

 ボクのあしながおばさん……なんて言ったら失礼なくらいの、まだ二十代半ばくらいだって聞いてたけど。佐和子さんは想像以上に小さな人で、この何ていうかスゴイ臭いが無かったら、ボクは処理業者だなんて思えなかったかもしれない。

「あーそうなるとしばらくダメだからよ……で、あんたが石村さんかい。みつまさんが、いつも世話ンなってます」

「こちらこそ、だよ。ようやく会えたねぇ釜田くん、サッちゃんが世話に……右手、動くようになったのかい?」

「おかげさんで、どうにかね」

 石村さんとヤクザの人が握手してるってことはつまりええと……佐和子さんの彼氏っていうのが、このヤクザの人だったのか。ヤクザでは無いかも知れないけど。いやだって眼帯とか付けてるしさ、杖突いててやたら貫禄あるしさ、これって何だか、あれだよね。

 ゴッドファーザーみたいだ。

「……ひッ……ぉぇん、ひっ、ンヒ……ぉぇんぇ、ようくゅん……ひっ……ぐヒ、ひィん……」

 ボクをぎゅっとしながら、佐和子さんはそうしてしばらく泣いていた。何かボクに言ってたみたいだけど、佐和子さんは石村さんに聞いてた以上に滑舌が悪くて、何を言ってるのかは良く分からなかった。

 分からないから、ボクはとりあえず佐和子さんの背中に手を回して、ぽんぽん、って叩いて撫でてあげた。

 佐和子さんは意外と力が強くて、抱き潰されて死ぬかと思ったけど……何だかその感触が、ボクは心地良くて、あったかくて。ずっと今まで、この人にボクは守られてきたんだってことが、はっきりとその実感が湧いてくるみたいで。

 気付いたら、ボクも佐和子さんのおっぱいに顔を埋めながら、お礼も言えないまま、わんわん泣いてた。

 タキちゃんには絶対見せられないや、こんなところ。




90.

 なんだっての? コイツ。クリオネ野郎。

「これ、どうなって……瀬古くん!?」

 ムッちゃんだって慌てる、そりゃそうだ。けどオレに聞かれッてもさ、何にもわかんねェんだなこれが。

 いつもの普通のムシどもは相変わらずで、歯剥いて走って飛んで、パンチャー一発でぶっ飛ばして。ムッちゃんがトドメ刺して。

「むぅしゃん、おちぅぃぇ……、ッ!」

 みつまさんのレンチもぎゃらららッて鳴る。

 そんでもって浮いてるコイツら。クリオネ野郎。

 歌ってやがら。

「……ッとォ!」

 手前のヤツの横っ面を一発貫通。黙らせる。

「こりゃ……コイツらが歌ってるってンじゃねェみたいッスよ、そりゃそォッスけど。きっとあれだ、混線してンッスよ」

「こんせん?」

 こいつらは電磁波でやり取りしてる、つまりは電波だ。拾ってやがるンだ。クリオネ野郎のアンテナ、あれが拾ってやがるンだ。

 歌を。

「今日はここらで、TAKIのライヴがあるッたァ聞いてねッスけどね……ッシャアッス!」

 邪魔だってェの! ラスト一匹、どかんと打ち上げてェ……ムッちゃんお見事、空中で狙いバッチシ! 仕留めてくれた。

 後は、コイツら。ふよふよ浮かんでやがるコイツら。

 なんだってコイツら、TAKIの歌、ラジオみてェに流してやがるンだ?

「みつまさん? あの、これ、どうしたら……良いでしょうか?」

 ピッタリ狙ったまんま、困ったムッちゃんが尋ねたら、みつまさん、神妙な顔して言ったさ。

「……いぅもぉおんなぃ。ぇんぅしょぃしゅうぉ」

 オレらの仕事にゃ変わりない、つまりは全潰し。確かにそうだ、そりゃそうだ。

 しかし、クラゲムシも器用なモンだよな。次から次へと、新技身に付けちゃ披露してきやがる。芸人かよ? お前ら。

 ……まッ、いいか。潰しちまッたら同じだ。人間様に出来ンのは、ブン殴って撃ちまくって、コイツら潰すことだけ。そンだけなんだから。

 そうだろ? それ以上に、オレらにどうしろってンだ?

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