みつまさん(71~80)

71.

 ちひろちゃんはなかなか有能だ。どうもおっちょこちょいで慌て者なところがあるけど、それでも聞くところはきちんと聞いてくれて、僕の言ったことはちゃんと考えながら、諦めずに最後までこなしてくれる。

「うん……うん。大分ミスも減ってきたね。はい、こことここ、それとここ、直しといてね」

「うぇぇぇ、こんなれす、ですか? へ、減ってはきたかもですけどぉ……」

「あはは、大丈夫だよ。すぐに慣れるよ、僕の最初の頃より、よっぽど上出来さ」

 何だか驚いた顔をされたのは、どうやら少しは僕も、上司らしくなってきたってことだろうか。

「ミスばかりしてたし、いつも石村さんに頼りっぱなしだったし、とにかく、僕は慌ててばかりだったよ……ああ。コーヒーの淹れ方だけは、褒められてたかな?」

「へぇぇ……全然、そんな風に見えないですけど……あ、や、いえ矢田さんのコーヒー、うちも美味しいと思いますけど!」

 一心に書類を直し始めたちひろちゃんに、僕はそのコーヒーを淹れてあげることにした。

 ついでに石村さんにも淹れてあげて、

「どうぞ」

「ああ……うん。ありがとう」

 カップを受け取りながら、石村さんは僕の顔を見て、またあの妙な顔をした。このところ、この人は僕を見るとき、良くそんな顔をするようになった。

 僕の変化が、奇妙に見えるらしい。

「矢田くんさ……本当に大丈夫かい?」

「ええ。大丈夫ですよ、石村さん。無理してるわけじゃないですから」

「そうかい。なら、良いんだけどね」

 戻りがてらちひろちゃんの机にカップを置いて、自分の椅子へ座る。

 不自然なくらいに落ち着いていると、僕にも分かってはいた。石村さんが心配するほどだから、よっぽどだ。

 でももう、終わったんだ。僕のするべきことは悲しむことじゃないし、ましてや泣き喚くことでも無い。そういう時期は、もう通り過ぎて終わったんだ。

 いつまで経っても、僕は、おっちょこちょいで慌て者のままではいられない。

 だって……そう、それってのはさ。彼女にカッコ悪いところは、見せられないじゃないか?

「ああぁしゅみませ、気付かなくって、コーヒーありがとごらましゅ……っ! いたらきます!」

「いいんだよ、ああ、そんなに慌てると火傷するよ?」

「いえだいじょぶで、あわちゃあっ!?」

 ちひろちゃんにはちょっと申し訳ないけれど、こんな彼女の慌てぶりが、より一層僕を冷静にさせてくれる。いや、悪いとは思ってるんだけどね。

 僕は、上手くやっていけると思う。だから、心配しないで。

 時々……寂しいけれど。でも、頑張ろうと思うんだ。

 だから……見守ってくれてたら、嬉しいよ。




72.

 このお店に来るのも、久しぶりかも。前はばくばくチーズバーガー食べて、コーラもごくごく飲んでたけど、それも今じゃちょっと問題アリ? ハンバーガー一個だけにしておこうっと。

 でもそんなの全然苦にならないくらい、私今、はしゃいじゃってるのが自分でも分かる。ああもう、何よもう!

 だって、不意打ち。陽のほうから誘ってくれるなんて、思わなかったもん。

「お待たせ、陽!」

「ああ……タキちゃん」

「なーによ、急に呼び出したりして。私、こう見えて忙しいんですからね? 用件は手短にしてよねっ」

 なんて少しだけ、突き放してやったり。だってずるい、今までさんざん私のことほったらかしておいてさ、急にさ、今日会えない? なんて。そんなのずるいもん。

 ああでもダメよ、ニヤけちゃダメ。ちゃんと、怒ってるんだからね? って顔してないと。ツンってしてないと。

「それで、ナニ? ご用件は? 例の何とかいうの、今さら、私に相談する気になったわけ?」

「うん……ごめん、手短に言うよ。ボクたち、別れよう」

 ほらね、まったく陽は、結局ひとりじゃダメなんだから。彼女の私がいないとね。もう、てんでダメ男なんだか、ら……。

「…………なん? ……なんて……」

「ボクたち、もう無理なんだよ。タキちゃんと分かり合おうって、伝えようって、思ったけど。何でも打ち明けようって思ったけど……でもダメなんだ。ボクは結局いつも、自分の中だけでまとまって。何でも分かった気になって。タキちゃんの気持ちも考えないで……」

 まって。まってまって。

 待って?

「あの、ナニ、え? 陽、何、それ……何、それ何、言って……」

「……いや。やっぱりダメだ。タキちゃんを前にしたら、ボクは甘えちゃうんだ。ガキなんだ、どうしようもなく……それで、ボクはそんな自分が、たまらなくイヤなんだ」

 分かんないよ。

 分かんない。ぜんぜん分かんない。

 何、言ってるの? 陽?

「わか……わかんな、それ、何、言って…………?」

「もう、正直に言うよ。ボクは弱いんだ、すごく弱い。タキちゃんは、そんな風に呼ぶのも失礼かな、もう彼女じゃないんだし。黒滝さんは、強いよ。自分の夢に向かって一直線で、すごく前向きで、頑張ってて……テレビで見てても、本当にきらきらしてて。光ってて。ボクは……そんな風にされたら、ボクは……すごく、惨めな気分になる」

 きらいに……なったの?

 私のこと、きらいになった? だからそんなこと、言うの?

 私……すっごく、好きなんだよ? 陽のこと、好きなんだよ?

「ああいや、違う、黒滝さんのせいにしたいわけじゃないんだ。ボクが本当に、弱いからダメなんだってことを言いたいんだ。黒滝さんといたら、ボクはもうずっと、多分このままで。それはすごく、ボクは、イヤなんだ。惨めでたまらなくなるんだ、だから」

 やめて。やめてよ。お願い。言わないで。

 やっぱりウソって、もっかいちゃんと付き合って、彼女でいさせて、ウソって言って。

 陽。

「別れよう。ごめんね、今までありがとう。ずっと応援してるから。頑張ってね、黒滝さん」

 やだよ。そんな風に、呼ばないでよ。

 だって、私、ゆかりって……呼んでくれるの……ずっと、待って……。




73.

 うちはやっぱり事務方で良かったなぁって、どうしても思っちゃう。だって戻ってくるなり、ムクちゃんたらもう、ぐったりしちゃってるんだもの。そりゃハードよね、クラゲムシの駆除だものね。

「ねえムクちゃん、大丈夫? 無理してなぁい?」

「いえ……ありがとう、ちひろちゃん……心配してくれて。でも大丈夫、ですよ?」

 うーん、全然そう見えない!

 年近いし女の子だし、やっぱり気になっちゃうなぁ……なんて思ってたら、救世主登場ですよ。ふふふ。

「……ダメだよ、椋鳥ちゃん」

「あ、矢田、さん……!」

 真面目でいっつもキリッとしててカッコよくて、瀬古くんにはあんなに容赦無いムクちゃんも、矢田さんの前だと何だか可愛くなって、大人しくなっちゃうのよね。ふふふ。

「少しでも体調が良くなかったり、キツイなと思ったら、絶対に! 無理をしないで、そう言うこと。少しでも身体に異変を感じたりしたら、すぐに! 申し出て、医者の診断を受けること。いつも言ってるよね?」

「あの、はい……すみません」

「椋鳥ちゃんと瀬古くんが来てくれてから、みつまさんの負担も減って、すごく助かってるけど。それで椋鳥ちゃんが怪我しちゃったら、何にもならないんだからね」

 あらら、もう頬っぺた真っ赤っかーよムクちゃん。矢田さんじーっと見つめちゃって、分かりやすいんだからもう。

「仕事に穴を開けちゃうとか、思っちゃダメだよ。原さんのところに連絡すれば、いつでも代わりの人なら寄越してくれるんだから。絶対に! 無理はしないこと。分かった?」

「は……はい……」

 で、トドメにあの美味しいコーヒーを優しく手渡されちゃったら、ぽーっとしちゃって、可愛いんだからもうムクちゃんったら!

 恋するオトメってやつよねー、でもムクちゃんっていかにも奥手そうだし、うちが口出しちゃったほうがスムーズかなぁ。さしずめ恋のキューピッドちひろ……ってあら? そういえば矢田さんって、彼女とかいるのかな?

 まぁいてもおかしくは無いわけよね、あれだけ仕事が出来て頼りがいがあって誠実そうで、すらっとしてて顔だって全然悪くないっていうかむしろイケてて……。

「……ちひろちゃん? どうしたの、ニヤけちゃって。さっきの書類の直し、終わった?」

「!? はひ、しゅぐにただいまお持ちいたしゃます……!」

 キューピットどころじゃない、慌て者のうちを助けて! むしろ!



74.

 ……パネェッス。ただのデブでハゲでチビたオッサンかと思ってたら、とんでもねェや。原さん、パネェ。オレなんかじゃ全ッ然タチウチできやしねェ。応援に来たはずだってのに、助けてもらってたのはこっちのほうだってンだから。

「ふーっ、お疲れさまでした! いやぁお三方のおかげで、ラクな仕事でしたなぁこりゃ! はっは」

「う、うス! お疲れッしたッス!」

 つーか考えてみりゃ、そりゃそうなんだよな。みつまさんと、もう死んじまったけどハンター? とかってやつと、そんでその次か次くらいに名前が出てくる人だもんな。最前線で死ぬほどムシとやりあってきた、みつまさんと同じくらいの古株で、最年長の処理業者で。

 こーいう人を、本物ってンだろうなァ。

「……マジ、パネェッス! 原さんスゲェッス、オレマジソンケーするッス、ライフル百パー命中じゃないッスか! パネェーーー!!」

「いやいや、とんでもない! 私ゃもう引退間近のロートルってやつでしてな、後は君たち若いモンに託してね、老兵は消え去るのみ! って奴ですな、はっは」

「ええッ、原さんやめちまうんッスか? マジッスか!?」

 そりゃ、もったいねェーーー!!

 こんだけやれるヤツなんて、オレら世代じゃ出てくるかどうかってとこじゃねェのかなァ。そりゃもったいねェッスよ、原さんマジで!

「いやね、私ゃずるずると、随分長くやりすぎましたからなあ。石村さんの勧めもあってね、つい先日になって、ようやく決心したっちゅうわけですわ。それに……」

「それに? ッスか?」

 原さんは、ちょい離れたとこでゲーゲーやってるムッちゃんと、その背中をさすってやってるみつまさんを見て、何か遠い目ェをした。歴戦のツワモンが後進に託す思いってやつだなこりゃ、シブィッス。原さん!

「私ゃどうも、若いモンが死ぬとこ見るのに、疲れっちまいましてな。同時に、それに慣れすぎたってのもある……そんな自分に、どうにも嫌気が差してきましてな。こいつは潮時だ、って思ったわけです」

 重てェなぁ、重てェ言葉だ。

「後は、まぁ……どうもね、心配ごとのひとつがね。こりゃあきっと大丈夫そうだ、って思えてきましてな」

 そんでもって、目ェ細めてみつまさんを見ンだ、原さん。

「ちょいと気を揉んでたんですがね。瀬古さん、君や宮村さんみたいな若モンが側にいるなら、きっと彼女も大丈夫でしょう。私ゃもう、見守ってやることもできなくなりますからなあ……後は、よろしくお願いしますよ。ねえ、瀬古さん!」

 ごっつい手をオレの肩に乗せて、原さんそう言った。

 重てェなぁ。重てェ言葉だ。

 けど、嬉しい言葉だ。嬉しいッス、そんな大役、オレに任してくれて。

「マジでェ……嬉しいッスーーー!! オレやったるッスよ、任しといてください、安心して引退してくださいッスマジで!!」

「いやいや、こりゃ頼もしいですなあ! はっは」

 見ててくださいッス! オレ、原さんやみつまさんみてェなスッゲー仕事人に、いつかなってみせまッスから!



75.

 近所に良い公園を見つけたので、お昼に、ちひろちゃんとみつまさんをお誘いしてみました。

 あとはその、矢田さんも、お誘いしてみたりしたんですけど。

「はいはいはいオレっちも誘われたいッスヨロシクッスウーーーッス!!!」

「瀬古くんはウルサイから却下です」

 矢田さんを、お誘いしたんですけど。

「いや……僕は、ちょっと。遠慮しておくよ。仕事もあるしさ。三人で、行っておいでよ」

 って、ちょっと困ったみたいなお顔をされて、断られてしまいました。それなりに広くて、人も少なくて静かで、なかなか良い公園なんですけど。

 ……別に、傷ついてたりしないですよ?

 公園のベンチに並んで腰掛けて、揃って紙袋からサンドイッチを取り出します。さっき駅前のパン屋さんで、一緒に買ってきたんです。矢田さんのオススメのお店だそうで、ちょっと、期待してしまいますね。

「そーいえば。ねえ、聞いて! うちのお友だちの知り合いの子がね、今度結婚するんだけどねー」

 と、ちひろちゃんがサンドイッチをはむっと食べながら、唐突な話題を振りました。ちひろちゃんは結構おしゃべりで、口を挟む間も無いくらいに矢継ぎ早にお話してくれるので、私とみつまさんは、聞き役に回ることが多いんです。明るくって、楽しくって、ふふ、嫌いでは無いですけど。

「旦那さんがね、金剛台に新居買ったんですって! 羨ましいわぁ、羨ましいわよねぇ」

「それは……すごいですね、確かに羨ましいです」

「『金剛台地区ってねー、地質学的にムシが通り抜けられないカタい地層が地面の下にあるって証明された超・々! 一等地なのよーん、ちひろちゃん知ってるぅー? 知ってたぁー?』って知ってるわよぉ! もー悔しいったらっ」

 あ……美味しい。このサンドイッチ、美味ッしい! さすが矢田さんです! 目の付け所が違いますよねっ。

「ああうちも早く、優しーぃカレシとかぁ、ダンナ様とかが欲しいわぁ……」

「土地のお話では無かったんですか、……?」

 このままで、とっても美味しいサンドイッチなんですけど。気付いたら、みつまさんがチキンカツサンドに勢い良くかけてらっしゃる、これ、このソースは……何でしょう?

「え、っと……あの、みつまさん、それは……?」

「ぅん? かぁいのしゅきらかぁ、あぁし。むぅしゃんぉ、かぇぅ?」

 って勧めてくださいましたけど、私は呆気に取られてしまって、必死に首を振るしかできません。だって、見ただけで分かりますもの。ものすごい色なんですもの。

「あらっみつまさん、何ですかそれ? うち辛いの結構好きなんですよねー、ちょっとうちにも味見させてもらっても良いですか?」

「ぅん、いいぉー、ぁいっ」

 ああ、ちひろちゃん、好奇心旺盛すぎますから! 無理ですから! 絶対無理ですから!

「あー、んむ……う、ん? ……れっ!? これっなっなっ、なんれしゅ、かッ!!??」

 これ、絶対無理なやつですから……!



76.

「り~い~ち~、くゅんっ」

「うおう」

 店を閉めて出た途端、ぼすんとみつまさんが飛び込んできた。どうやら早上がりで待ち構えていたらしい。

「おっかれしゃまー」

「おう、そっちも。んじゃ、メシ買って帰るかァ」

「ぅん」

 昔はこう、おれが腕に引っ付いたみつまさんを引きずってるような感じだったんだが。それが今じゃ逆で、杖突いてるおれがみつまさんに支えられてるようなモンだ。情けないと思うんだが、まぁ、これがどうして悪かない。

 悪かないんだが。

「ぇね、ちひぉしゃんぁ、ふわぁー! ぇしゃぇんれね」

「そりゃまた、千葉ちゃんとやらも災難なこったな」

 最近増えたって同僚と一緒に昼飯食ったなんて話を聞いてると、イマイチ調子の戻らない右手がどうにも、恨めしくなってくる。 

 メシを作ってやれないってのは、これがけっこう痛い。何せ彼女は、ただでさえ偏食がすぎるのだ。きっと昼のサンドイッチとやらも、油ッこいカツサンドあたりにしこたまデスコかけて食ってるだけだろう。何も考えちゃいないのだきっと。

 栄養偏るだろうに。おれがキッチリ、管理してやらにゃ。

「……あー」

「? ろしゅぁぉ、りいちくゅん?」

 ふっと。パッと、浮かんできた。時折思い出す。みつまさんに美味いモン食わせてやろうと意気込んでた、キミちゃんのバカみたいな笑い顔を。激辛フェアの失敗にも懲りずに返って息巻いてた、あいつの顔を。

 今更に思う。おれはあいつに、何かをくれてやったんだろうか。少しはいい夢見ながら、あいつは逝ったんだろうか。

 こんな世の中で、おれもみつまさんも、あいつのバカみたいな笑い顔に、どれッくらい救われてたか分からない。

「……んぅ」

 みつまさんが、いっそうきつくおれの腕を抱いた。それなりに長い付き合いってやつで、おれが何考えてるのか、何となく分かったんだろう。

 おれはみつまさんの髪にむちゅうと唇をくっつけてやりながら、取りっぱぐれた金のついでにサービスでぶっ建ててやったあいつの墓を、今度はいつ参ってやろうか、と考えた。




77.

 なんだっての? コイツ。クリオネ野郎。

「まず、一匹……! 瀬古くん気をつけて、次来ます!」

「あいよォッ、オラァッシャーーーッス!!」

 手前のデカイのをォ、パンチャー! イッパツで貫通、撃破ァ!

 ってのはいいとして、なんだっての? このクリオネ野郎は。ただ浮いてるだけだ。

 コイツが妙なのは、オレらを気にしようってそぶりが全く見えねェとこだ。他の連中は相変わらず、ガチガチ歯ァ鳴らしてガッツいて飛んできやがるってェのに、うらァ! もう一匹!

「ッシャアッス、みつまさん! 同時行くッスよォーーー!!」

「ゥゥゥ、ィィィああああああァァァア!!」

 ぶっ飛ばしてェ、パァス! みつまさんガッチリキャッチしてェ? 歯車ブン回してェ? グシャッっと逝ったァーーーッス!!

 ってのを、コイツはじーっと見て……や、見てもねェのか。パラボラくるくるしながら、フワフワ浮いて、何か……オレらじゃねェ、何か違うモンを見てやがるんだ、コイツらは。

 妙だ。そりゃオレもそこまで多くムシ見てきたわけじゃねェけど、それでもコイツ、何か妙だ。

 何なんだ? お前、何やってンの? 何のためにそーやって浮いてンだ?

「三、四……! 五匹目!」

「おっけムッちゃんサイコォ、一気行くッスよォ!」

「援護します……、ッ! うあああ!」

 ムッちゃんも手馴れてきたなァ、さッすが天才! 丸ノコズバァ! ドバァ! 惚れそう! まァ今オレってば、ちばっち気になっちゃってンだけどね、あの慌てぶりとか超サイコォプリチー。

 …………まッ……いいか。気にしててもしゃァねェ。ムシが何してッかなんて、オレの知ったこっちゃ無い。コイツらが何企んでンとかそーいうのは、学者なんかの気にする仕事だろ。

 オレはただ、コイツら、ぶっ殺すだけだ。

「ッシャア、ラストォーーーッス、オラァ!!」

「……お見事でした。どうしてこぉ、仕事だけはできるんでしょうね、瀬古くんは……」




78.

 原さんとこうして顔を突き合わせて話すのも、きっと最後になるだろう。

 彼は言わば、戦友だ。そう呼んで差し支えはないはずだ。俺とサッちゃんは常に、本当に長いこと、彼と肩を並べてやってきた……例え管轄区域は違ってたとしてもだ。

「……お疲れさまでした」

「いやいや、なあに! 人より少しばかり、長くやってたってだけですよ。はっは」

 引退を前に、原さんはいつものように朗らかに笑う。この笑顔が失われてしまわないうちに、彼がこうして現場を去ることができるのを、俺は心底喜ばしく思う。

 原さんは今後、娘夫婦と同居するのだと語った。亡くなった奥さんも、これでようやくほっとしてくれるだろうと、そう言って笑った。

 ふと、彼はその笑顔を少し複雑そうな表情に変えて、

「石村さんは……いつまで、おやりになるつもりです?」

「私ですか、さて。これがどうにもね」

「あなたも、彼女もね。随分と長くおやりになってきた。今にして思いますが、あまりこんなのは、長くやる仕事じゃあない……」

 原さんのこんな顔を見たことのある同僚が、どれだけいるだろうか。彼は本当に、得がたく代えがたい古強者だったのだ。

 先が見えなかった頃なら、業界を去る原さんの置き土産のような言葉に、多少なりともぐらついたのかもしれない。たが今はもう、途中で席を立つなんてことには、俺はきっと耐えられない。

 アンテナ持ち。ヒントはきっと、あいつらだ。

 予感がしていた。ここにきて、何かに区切りが付きそうな、そんな予感が。

 いつの間にか俺はまた、難しい顔をしていたらしい。原さんは今度は苦笑いに表情を変えて、

「難儀なもんですな。ご無事をお祈りしてますよ、皆さんのね……いつか家へ遊びにいらっしゃい、美味い酒、見繕っておきます」

「恐縮です。お元気で」

 最後は、ちひろちゃんや宮村さん、瀬古くんを連れて矢田くんが出てきて……小田切さんの腕を引っ張りながらサッちゃんも顔を見せて、全員でお辞儀をしながら見送った。ひらひらと軽く片手を振って、もう片方でつるりと頭を撫でながら、原さんは職場を去っていった。




79.

「ちばっち、ウィーーーッス!! 今日もプリチーサイコォッスねちばっちは、ラビューーーンッス!!」

「いあ、や、だってうちとしゅえ、年上だし、あわてんぼうらしおっちょこちょいでほら……もーっからかわないでよぉ、瀬古くん!」

 矛先が私に向かないのは、少し、ほっとしてますけど。

「オレっち年上のお姉さまラビューなんッス、それもちょっと抜けててトボケてて可愛い感じの、ちばっちドストライクなんッス! ウッス!」

「これうちバカにされてない!?」

 何だか……何でしょう。お二人は最近、仲が良いみたいです。

 瀬古くんに絡まれているちひろちゃんは可哀想ですけど、私もあまり、他人のことは言っていられません。

 だって……この人を見ていたら。

「椋鳥ちゃん、大分慣れてきたみたいだね。調子上がってきたみたいで良かったって、みつまさんも言ってたし」

「……はい、ありがとうございます。褒めていただけて、嬉しいです……ふふ♪」

 矢田さんにそんな風に言っていただいたら、頬が火照って、胸がどきッて、してしまうんです。

 好き、とか。なんて。私には、縁の無いものだと思っていたんですけど。いつかそんな人が、ムクちゃんにも現れるわよって、おばあちゃんの言った通りになりましたね。

 何だか恥ずかしくて、むず痒いですね。おばあちゃん。

「でも、水を差すみたいで申し訳ないけど。くれぐれも……」

「はい。絶対に! 無理はしない、ですよね?」

「うん、偉いね」

 にこっと笑いかけてくださる、笑顔がすごく素敵です。矢田さんの素敵な、とっても大人な笑顔です。

「……あら? 矢田さん、これ、落としまし……」

 矢田さんのポケットから何かが落ちて、拾い上げた拍子に。ぱらりと開いて、見えました。

 二つ折りのお財布の、小銭入れのところ。

「おっとと、ありがとう。あはは、僕もまだまだだなぁ、こういうところは……」

 小さなプリントシール。私はそういうものは、撮ったことがありませんけど。

 子供みたいな顔で、今とは全然雰囲気が違ってて。苦笑いを浮かべてる、矢田さんと。

 隣に……派手な感じの、軽い感じの。ぎゃる、とか言うのでしょうか? 私の見たことの無い、あまり矢田さんとは吊り合うように見えない、笑顔の女の人。

 それを見つめた、矢田さんの……とても暖かな眼差しを見て。私の胸は締め付けられるように、ぎゅうっと軋んだんです。




80.

 さすがにもういい加減、踏ん切りもついたはず。まるで他人事のようだけど、そんな風に思い切って石村幸四郎さんを訪ねてみたら、石村さんはボクを見るなり、ひどく……なんて言うのかな。難しい顔をした。

 会社の近所の公園に連れて行かれて、ベンチに並んで座りつつ、

「……参ったな。いや、どこから話したもんかな……」

 煙をぷかりと吐き出して、煙草を吸うのは十数年ぶりだと笑ってから、石村さんはゆっくり、話し始めた。

「十三年前、もうすぐ十四年か……つまり世界で初めて、地上にムシが這い出てきた日だよ。君の年齢と同じでもあるね。その時、生まれたばかりの君を抱えて逃げたのが、俺だったんだ。その後で、君を施設に入れようと提案したのもね……正直に言って、どうしたら良いのか分からなかったんだよ。てんで若造だったのさ、その時の俺は、まだ」

 石村さんは、煙草から昇ってく煙を透かして青空を眺めながら、時折ボクの顔にちらりと視線を寄越しながら、言葉の通り、話す順番を考えあぐねてる……そんな風に見えた。ボクにどういう言葉で伝えたらいいか、迷っているみたいだった。

「それでつまり……あー」

「構わないです。大丈夫ですから」

「そうかい。つまり、あー……君の両親は、世界で初めて、クラゲムシに襲われた二人ってこと」

 予想はしてたんだ。あまり、驚いてはいない……多分。きっとそうなんだろうな、とは思ってた。

 ムシに食べられたんだろうな、って。

「俺は、君のお父さんの部下だったんだよ。何てことの無い、普通の広告代理店の上司と部下。彼はまだ若いのに部長で、面倒見が良くて優秀な人で……」

「……石村さんが、そうなんですか?」

「うん?」

「ボクに、その、お金を……」

 石村さんが、その後に初めてムシの処理業を立ち上げた人たちの一人だ、っていう記事は見た。だからあのお金も、石村さんがそうなんだろうかと、おぼろげながらにボクは思ってた。でも、石村さんは重そうに首を振って、

「……いや。それは、別の人。あの時彼女は……そう。今の君と同じ年の、中学生だった。気が強いけど甘えたがりで、可愛らしい子でね、いつも敦則さんの後ろをくっついて回ってた……」

 あつのりさん、というのがきっと、ボクの父親の名前なんだろうな、と分かった。佐久間あつのり。ピンと来ない。

「彼女はね、君のお父さんの妹なんだ、ああ母親が違うんだけど。異母妹というやつだね。で、君の叔母さん、ということになるかな」

「おばさん」

 唐突に出てきた単語が、これもまたピンと来ない。

「その人が、ボクに……あの、名前は? 何て……いうんですか?」

 でも、知りたかった。ボクのあしながおばさんの名前を、どうしても。

 どうでも良いと最初は思ってたけど、そうじゃなかった。ボクはその人のことを、ずっと知りたかったんだ。

 石村さんは煙を吐き出して、しばらくためらうように黙ってから、やがて諦めたように、ぽつりと口にした。

「……三妻佐和子さん。世界で初めての、クラゲムシ処理業者だよ」

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