みつまさん(21~30)
21.
「……愛梨ちゃんがやられた。準備して」
がしゃんと受話器を放り投げて言った石村さんに、僕はまたしても間抜け顔で聞き返してしまった。
「……じゅん……て?」
「労災申請書とか作るから。そこの資料持ってね、ひとまとめにしてあるやつ、そうそれ」
タクシーを拾って急いで現場に駆けつけたら、途端に何匹かのムシの死骸と飛び散った赤いのが目に入って、一気に気分が憂鬱になった。
愛梨ちゃんは建物の壁にもたれて、両膝を立てて額にくっつけて、屈んだみつまさんの袖を握りながらぼんやりしていた。どうも頭を刺剣がかすめたらしいけれど、ひとまず大事というわけじゃ無いみたいで、ほっとする。
そしたらすぐに原さんに、
「ああ矢田さん、こりゃどうも、お世話になっとります。いやあしかし、横へ1cmもずれてたら致命傷でしたなあこりゃ! 運が良かった、無事で何よりですわ! はっは」
彼は管轄外だっていうのに、いつもすぐに応援に駆けつけてくれてありがたいけど、そんな風に聞かされて、僕は気が遠くなった。
思った以上にほっとしているらしい自分が、何だか不思議に思えるけど。ともかく仕事をしなきゃ。それが愛梨ちゃんのためでもある。
「サッちゃん、いいかな。話聞いとかないとさ。原さんもちょっと、お願いします」
「……ぁい」
石村さんが肩を落としたみつまさんと原さんを向こうへ連れて行ったので、僕もペンと資料を取り出そうとしたら、愛梨ちゃんに袖を掴まれた。何となくおろおろしていたら石村さんがこっちを見て、ちょっと大きくこくんとうなずいたので、僕はしばらく愛梨ちゃんについていることにする。
「…………なんか……見えた……」
「うん? 見えた? なんか?」
愛梨ちゃんがぎゅうぎゅうと袖を引っ張るので、隣に腰を下ろす。いつも騒がしい彼女が今はひどく弱々しくて、赤いのが滲んだ包帯を頭に巻いていて、こんなにも頼りなく見えることに、僕の胸はわけも無くざわついて仕方が無い。
「……光、違う、あれは……真っ白で……どろどろに溶けてて……それってのは、ぐるぐる回って……流れがあって……七色の……」
僕へ言っているんだろうか。うつむきながらぽつりぽつり、まだひどく混乱しているらしい愛梨ちゃんはそんな言葉をぽろぽろと、しきりに地面へこぼしている。
しばらくそれを聞いていたら、僕は急激にぞっとして怖くなってきて、それに仕事もしなくちゃいけないわけで、それが愛梨ちゃんのためでもあるわけで、資料の束を抱えて立ち上がろうとしたら、
「ごめん。ごめんね。待って……」
ぎゅうと愛梨ちゃんの冷たい手が僕の手を握ったので、心臓が飛び出しそうなほどに驚いた。
「ごめんね。矢田くん。でも、ごめん……もすこし……ちょびっとだけ、このまま……」
おねがいだから、と言った後は押し殺した泣き声で、言葉にならなかった。
後でだけど。その時だけは、あのひどい臭いが少しも気にならなかったことに気がついて、僕は妙な気分になった。
22.
外面は良いけど、きっとこの人はそういう、こずるい人だと思ってたんだ。
「石村? 石村何さんですか?」
「幸四郎……」
「その人が、そうなんですか?」
院長先生は何か知ってるんだろうっていうのはボクのカン、というかもう確信だったけど。ちょっとつついてみたらこの通り、あっけない。
施設に来るのは久しぶりだ。相変わらずここは居心地が良くて、そしてどこか胡散臭い。そうだって気付いたのは、もちろんここを出た後だったけれどね。外の世界で、少しは大人になったんだ、ボクもさ。
「陽……先生な、言わないでくれって言われてるんだよ。お前には教えないでくれって。分かるだろ? お前もずいぶん大人になったんだから。お前はまだ知らなくていいことだから、黙っていてくれって、先生そう言われて……」
「先生。先生」
カマかけはもう少し後にしようかと思ってたけど、駆け引きするのもバカらしくなってきたので、
「ボクは、先生。ボクへの援助を、先生が少しずつチョロまかしてたことなんて、全然、まったく気にしてないんですから」
院長が、ひゅっ、と声を出した。アタリらしいけど、別に嬉しくは無いかな。
「いや、陽……それは」
「大人になったから、知るべきだと思ったんです。そして先生は答えを知ってて、ボクに教えてくれる。その対価だと思ってます、今は」
院長の顔が、困ったように歪んでいる。何だかんだで分かりやすいんだ、この人は。
ボクのあしながおじさんあるいはおばさん探しは、思い立ってみればそんなに難しいことでもなくて、案外すぐに見つかってしまったのかも知れない。何だかそれも少し、あっさりしすぎな気がするなぁ。いいけどさ。
「……いや。陽……やっぱりこれは、先生の口から話すべきじゃない」
む。意外と頑固だ。もう少し揺さぶりが必要かな?
「陽。聞きなさい。この施設には色んな子供たちが、色んな理由でやってくる……本当に色んな理由だよ。中には本当にひどい経験をして、ここへ……」
「……先生」
「ああ、いや! ああ、分かってる……俺が言えることじゃないのは分かってる、今さらお前に説教してやれるような立場じゃないのは、じゅうぶん分かってる。けどな……きっとこれが最後だろうから、言わせてくれ」
痛い。肩、掴まないでよ。化けの皮が剥がれたというのに良くやる、この人も。
「先生な、お前を見てて、ずっと思ってた。無理して大人になる必要は無いんだよ、陽。お前はまだ中学生なんだ、まだ子供なんだ。焦ることは無いんだ。お前はお前のスピードで、ゆっくり歩いていけばいいんだよ。なあ、陽」
なんだよ。それ。
もういいよ。そういう、クサイ演技はさ。
23.
「オラ、口開けれ。あーん」
「あー……んむぅ」
寝ぼけッツラのみつまさんの口へ、スクランブルエッグを放り込む。無表情にむぐむぐとしばらくやって、飲み込んだ。
みつまさんはこの、あーんってやつが好きじゃないらしい。おれであっても、未だに口ン中を見られるのは慣れないんだとか。
みつまさんが連中の針だかトゲを歯でガッチリ受け止めたって例のハナシを、嘘っぱちだと笑い飛ばす野郎には、この寝ぼけッツラの口をぐいと開いて覗かせてやりたい。ヤブ医者がひどく苦心した末の前衛芸術的な歯並びだとか、三分の一もフッ飛ばされた舌の切れッ端なんぞを見りゃ、そいつがマジ話だと理解できるだろう。もちろんおれも、そうやって理解したさ。
まぁ、今さら他の野郎に見せる気も無いが。代わりにそいつの鼻っ柱へでも、一発入れてやれば済むことだ。
「次。ほれ、あーん」
「あー、むぅ……」
今はともかく、みつまさんの口へ食い物を放り込む。直でいつものデスコヴィルを突っ込んでやったほうがシャッキリするような気もしつつ、朝からは胃にもたれるそうだからやめておく。
立ち直りが早いはずのみつまさんのこの落ち込みようも、もう三日目だ。四日目だったか? 仲の良い同僚って話だから、無理も無いが……今夜あたり、またからあげディナーといくか。いや今月はもう二回目だ、さてどうしたもんか。
のたくたと身繕いを整えたみつまさんを、おれは今日も送り出す。
「いっへぃあしゅ」
「おう。気ィつけて」
その時におれは決まって必ず、思いっきりみつまさんを抱き寄せて臭いを嗅ぐ。そうあの臭いだ。これが最後でもう二度と嗅げないかと思うと、どんな悪臭だって愛おしく思えてくるんだから不思議だ……おれは毎朝そうしてから、みつまさんを送り出す。
明日もそう出来るとは、限らないから。
24.
よう。俺様だぜ。今日も天使をウォッチしてきたぜ。
相も変わらずみつまさんは凄かった。あー、レンチでドガーってぶっ叩いて、ギャリリリーンブチーって引き千切って。ブン回してぶっつけて。あー、もう一人が、あれ、そういや今日は天使ひとりだったな。まいいや。
やっぱり大した時間もかかんなかった。鮮やかでした。おわり。
そういや、今日の現場もちょい暗かったんだけどさ、あいつらやっぱり虹色にぴかぴか光ってて、綺麗なんだよなー……またまた見入っちまってさぁ、俺様うっかり。
最近思うんだけど、ヒーローとかヒロインが華麗に活躍するためにはほら、強大な敵ってやつが必要だよな? 人類の存在を脅かすとてつもない強敵、みたいのがさ。メカものだったら敵性組織が操る巨大ロボとか、超能力バトルものなら強力無比の能力を持つライバルのイケメンとかさ。そういうのが必要だって思うわけ。
クラゲムシっつうとちょっとまぁ響きがショボイけどさ、あいつら結構、その素質あるんじゃね? と思ったりしてんのよ。俺様最近さ。
いや例えばあれが、宇宙からやってきた異星の侵略兵器群! とかだと思えばどうよ? それっぽくね? 裏で黒幕のイケメンがさ、でかいモニタ見ながら言うわけよ、おのれヴァルキリー! 我が侵略の尖兵をこうも容易く退けるとは……しかし見ているがいい、次のクラゲムシはこれまでの三倍の強さを誇るのだ。貴様にとって最強の刺客となるだろうぴ、ククックククク……。
ごめん、やっぱねーわ、クラゲムシ。締まらねー。
つーわけで、募集します! あいつらにふさわしい、ラスボスくせーカッコイイ名前募集!
あんまゴツゴツしたのは、っつーかあいつら綺麗だから、こう透き通った感じのが良いと思うんだよなー。うぴ。俺様ネーミングセンスだけはねーから、なんも浮かばねーけどさ!
なんか思いついたってやつはコメント欄まで。センスのイイネーミングを頼む!
シクヨロ! なんつって。
25.
カマちゃんがこんな風に回りくどいってのは大抵、俺になんか頼みごとがある時だ。それも俺を三階の事務所まで呼びつけてってんだから、ますますいつものカマちゃんらしくない。こりゃイチ大事だ。
「なんだいカマちゃん、俺にできることがあんなら、言ってくれよ! 俺とカマちゃんの仲じゃねえか、なあ!」
「カマちゃんはよせ、な? あー、お前ンとこの店な。確か、扱ってたよな」
しばらく喋りの中にあーとかえーとかうーとか入れながら、どうにも言いづらそうにしてるんで、俺が何を? って聞いてやったら、カマちゃん俺をもうほとんど睨みつけるくらいの勢いで、
「チケット」
と言った。
最近のコンビニはタカクケーエーが基本とかでそりゃもう色んなモンを売ってるから、確かにそういうのも扱っちゃいる。
「何のチケットだい? モノによっちゃ用意してやれるぜ、映画? 舞台、ライブ?」
「コンサート」
ははァん。ピンときた。こりゃあれだ、みつまさんに頼まれたか、でなきゃご機嫌取りだな。
多分、ご機嫌取りのほうだな。
「誰のコンサートだい? 調べてくっからさ、言ってくれりゃ、完売でもしてなきゃすーぐ用意してやるぜ。何たって、カマちゃんのためだからな!」
「完売、はしねえと思うんだがなぁ、駆け出しのペーペーってハナシだから。あとカマちゃんは」
「で、誰のコンサートだい?」
またしばらくあーとかえーとか言ってから、
「タキ」
と言った。TAKIか、最近良く聞く名前だ。ソンガーシングライター? なんつって、確か中学生か高校かそこらだしペーペーにゃ違いないが、絶賛売り出し中で人気急上昇中の注目株ってやつだ。チケットを、まぁ二枚分だろうな、用意してやるにゃあちょいとばかり、苦労するかも知れない。
なんてことを、俺はもちろんカマちゃんに言ったりはしない。カマちゃんが欲しいってンなら絶対に手に入れてやるのが、俺の友情の証ってやつなのさ。
なんたってカマちゃんは、俺のヒーローなんだからな!
「よーーーッしゃ! 任せなカマちゃん! TAKIのライブチケット二枚、絶ッ対俺が手に入れ」
「ああ三枚な、三枚用意してくれよ。なんなら多少値が張っても構わねえから」
「三枚?」
「おう。三枚」
俺は、首を捻りながら店へ戻った。
26.
「ぶおッはあ!?」
何だ。なんか見たぞ、ヘンな夢見た。
……あれ、何だっけ。どんな夢だっけ……。
「愛梨ちゃん……そこ一応、応接間ってことになってるんだからさ。仮眠室行ってきたら? 眠いんなら」
ミョーにダルくてソファでぐったりしてたら、矢田くんが仕事しながら言った。ちらって、ちょっとだけちらって、背もたれから顔を覗いてみたら、
「え、あ、まだ調子悪いの? だいじょぶ?」
「ああ、うん。や、うん、だいじょぶ。もう眠くないから」
「そう? 病み上がりなんだからさ、その、無理しないでさ……」
あたしは飛び起きて、自分の机にどっかんって座って、そんで突っ伏した。
何だよ。何だよぅ。もう。あたし見て、顔赤くするなよぅ、矢田くんよう。
あたしまで照れッちゃうジャン。何だよぅ、もう。
この前のあれからどーも、あたしはチョーシ狂いっぱなし。いや体はもう治ったし、頭も痛くねーし、たぶん後遺ショーもないだろって医者のおっちゃん、言ってたし。
みつまさんと一緒なら、またいくらでもムシをぶっ殺せるよ、あたし。もう大丈夫。
だってのに、何だよぅ、矢田くん。あたしのほう見て、顔赤くするなよぅ。照れるなよぅ。
あたしまでなんか、ホッペタ熱くなってくるジャン。
矢田くんがあたしを見て赤くなるってのはさ、それってのはつまり、いやでもあたしなんてさ、ほら臭いしさ、最近特にニオってきたしさ。だってそれに矢田くんってほら、あれだしさ、
「あいりしゃーん! かれしぁね、ちえっと、とっれうぇたぉー」
「おわあああああありがとっ!? みつまさん! え、マジで!? ありがと、楽しみだよねー!」
「? ねー!」
びっくりした。シンゾーに悪いけど、なんかちょっと冷静になれた。
そりゃそうだよ。矢田くんはだってみつまさん、ああもうそんなポカーンて顔するなよぅ、矢田くんよう。そんでもってあたしのほう見て、赤くなるなよぅ。
あとさりげにさ、あたしのこと名前で呼ぶなよぅ。矢田くんよう。
27.
少し、イライラしてるかもしれない。
「TAKIー、あんたもーすっかり有名人じゃーん? 頑張ってね、応援してんだからさー」
「有名じゃないってば、まだまだこれからよ。でも、ありがと」
名前が分かったとして、その人がどこの誰で何をしてる人なのかとか、そういうところまでは結局、全然分からない。どうやって調べたらいいのかも、さっぱりだ。
探偵……みたいのを雇うとか? お金ならあるし、今のボクなら、そこまで非現実的な方法じゃないって気もする。
でも、どうだろう。漫画とか映画じゃあるまいし、そこらへんに探偵なんて人がいるものだろうか。いたとして、怪しくないんだろうか、そういう人って。
「有名になっても、たまには俺らには付き合ってくれよなー。ってわけでカラオケいかね? 今日オフって言ってたろ」
「あーうん、まあね、ああー! そうだ、それならさあ」
「何急にそのヘンな声」
タキちゃんに……相談してみようか?
「えっと、あのね? たまには、たまにはね? いつものメンバーじゃなくて、他の人も誘ってみたらいいんじゃないかしら?」
「ほか? 他って誰?」
……ダメだ。頼るな。すぐ、そうやって。
ボク一人でって、そう決めたんだ。そうじゃなきゃ、意味が無いんだ。
意味が、無いんだ。
「……佐久間ぁ? 何でまた……」
「あいつ何歌うの? アニソンとか?」
「いやその、たまにはって……ねえちょっとよ、佐久間ー?」
うるさいな。
「……何? 黒滝」
「ナニ、って……あの、良かったら私たちと、カラオケ」
「用事があるから帰るよ。それじゃ」
タキちゃんが悲しそうな顔をしたけど、悪いけど、ボクもあんまり余裕が無いんだよ。
「で、どうする、他に誰かいる?」
「俺のダチでも呼ぶ? すっげーオンチだけど。TAKIちゃん、どーする?」
……なんか……イライラするな。
28.
撃つ。殺す。仕留める。思えば、付き合いも長い。撃つ。穴を開ける。
うぴ。
分かっているんだ、私には。撃つ。穴を開ける。お前は電磁波で干渉してくるようだが、撃つ。撃つ。結局のところ微弱で、そっくり何もかも書き換えられるわけじゃない。全部を書き換えてしまうには恐らく、よほどに適合しなければ撃つ。穴を開ける。
相性というものがあるんだろう。お前の考えが私は分かっているような気がしていたが、きっとこれは勘違いなんだろう。お前のことが、私には分からない。うぴ、きっと相性が悪いんだろう。
撃つ。撃つ。撃つ。穴を開ける。殺す。仕留める。
殺す? 殺したことなんて一度も無い。撃つ、それは分かっている。もう、分かっているんだ、でももう、遅いんだ。
少し、遅かった。負けた。敗北だろう、これは。私の。紛れも無い。
しかし、まだ、まだ私は、うぴぴ、
「ぶおッはあ!?」
何だ。何か、頭に、おっと。
トリガーを引く。今日はこれでラストだ。どうにか生き延びた、やれやれ、ほんの少しではあるが。
思えば、付き合いも長い。長すぎたくらいだ。そろそろ、ケリを付ける頃合なのかも知れないな。
できたらその時までに例の、何とか言う女と一度でも、会ってみたい気もするが……儚い希望というやつかな、これは。まぁいいさ。
最後まで、撃ち続けてやるさ。最後の瞬間までね、なあ、聞いてるか?
29.
屈んで手を合わせるサッちゃんの背中を見ていると、嫌でも二人の顔を思い出す。いい笑顔を。そしていつまでたっても胸は痛む。
こうやって二人の墓を参るのも、今年で十三年目ときた。時が流れるのは早い……最近はそんなことを、少しずつ痛み始めた節々に感じたりする。やれやれだ。
「……ふへぃ。いしむぁしゃん? ぉういーぉ」
「終わった? そんじゃ、帰ろっか」
供えた饅頭やら、彼女の好きだった果物やらを持って帰ろうとすると、サッちゃんがまた悲しそうな顔をした。どうも不義理をしているような気分になるらしい。毎年のことだが、慣れないそうだ……気持ちは分かる。
サッちゃんと二人で霊園を歩く。十三年目か。年取ったもんだ。
無情な時の流れにぎりぎりと奥歯を噛み締めていると、サッちゃんがあっ、と声を出して、
「いしむぁしゃん、あしゅぁ、あいりしゃんと……」
「ああ、明日ね、聞いてるよ。ちゃんと矢田くんから。原さんとこにも念のため連絡入れてあるからね、一日二日くらい大丈夫。たまにはゆっくり休んでさ、楽しんでおいでよね」
「……ぅん♪」
何でも愛梨ちゃんと、サッちゃんの彼氏と、何とか言う歌手のコンサートへ行くらしい。ただでさえ働き詰めだから、休みを取ってくれるのは俺としてもありがたい。
休み、か。さて。
そろそろ休んでも良いものかな、と、確かに思わなくも無い。何しろ十三年だ、俺も年を取ったし、サッちゃんもこれで結構ガタが来ている。心臓にも悪い、こうやってずっと側で見守ってるっていうのは。
やけに足取りが軽い、浮き浮きとした様子のサッちゃんを眺める。彼氏ね。サッちゃんがそんなことを笑顔で語る日が来るとは。願わくばってやつだが、このまま何も無いまま、その釜田くんとやらに引き取ってもらって引退、うん?
「ああ……なるほど」
「? なぃ?」
「いやね、ちょっと思い出してね」
カマタくんね。どこで聞いたもんだか、ようやく思い出した。
30.
うおお何だこりゃ。駆け出しぺーぺーって話だったのに何だこりゃ。満員どころか、ハコからあふれてやがる。
ドンドコスピーカーはやかましいし、人混みはうっとーしいし……けどまぁみつまさんは楽しそうで何よりだ。あの顔のためだと思えば、ドンドコやかましいのは我慢してやったっていい。
とはいえおれにはちょっとこりゃあ付いていけそうにないので、
「よお! 高尾ちゃんよ!」
「はあーい! 何スかぁ!」
「お前さんな、みつまさん連れて、前のほう行ってこいよ! 任せた!」
「ええー! いいんスかぁ! みつまさん独り占めしちゃっても!」
「あー! 任せた!」
と言ってやってから、おれは二人の臭いが少しばかり気になったが、入る前に死ぬほど香水を引っかけてたから、多分大丈夫だろう。これ見よがしに鼻つまむような野郎がいたら、おれがそいつをへこませたっていい。
みつまさんはおれへにこにこ手を振ってから、例のミョーな踊りを踊りながら二人で前のほうへ……おおパワフルだなぁ高尾ちゃん、人混みン中ぐいぐい行くわ行くわ。確かにみつまさんの同僚としちゃ、ああいうタイプが安心できる。
しかし、まだ中坊ってんだからどんなモンかと思いきや、なるほどこのタキって子もなかなかだ。底抜けの笑い顔できらッきらしてて、それに歌も上手い……もちろんおれは素人も良いとこだが、それでもテッペンと底辺の違いぐらいは分かる。この子はきっと、ずっと登ってく側の人間なんだろう。
おまけに時々おどけた変顔まで披露して、客を笑わせてやるユーモアだってある。こいつは大したもんだ。
中坊の頃か、おれは何してたっけかな……スッと浮かんでこないくらいだから、どうせロクなことはしてやしなかったんだろうが。この子は中坊らしい青ッ臭い悩みとか、色恋どうのとか、そういうののひとつやふたつでも無いんだろうか。何たってこの子はそれほどに、きらッきらしてるのだ。
人混みの切れ目に、楽しんでるみつまさんと高尾ちゃんの顔が見えた。
きらッきらしてやがる。
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