芸術家

和姫雄

第1話

 私は今、美大に通った意味はあったのだろうかと自問している。

 いや、きっとそれなりの意味があり、そして何もなかったのだろうと玉虫色の答えを出す。

 画家としてこの歳では異例の評価を受け、比較的安定した生活を送っている私であるが、そんな順風満帆の最中にこのようなことを考えたのにはそれなりの訳がある。

 三日ほど前のことだ。私のアトリエに――といっても一人暮らしには少し広いアパートなのだが、そこに絵を描いてほしいと言う初老の男性がやってきた。それなりの額を出すといい、描くとも答えていないのにいくらかの金を前払いだと言い押し付け、絵のモチーフだけを伝えると私が何か言う前にそそくさと帰ってしまったのだ。

 絵の世界ではそれなりに名があると自負している。だからそういったのを聞きつけて暇なアートにお熱の金持ち爺様がコレクションを増やす為に来たのかと思えば、どうやらそうではないらしい。描く気など毛頭なかった私だが、絵のモチーフを言い渡されたときに、背中に冷や水をたらされたようなそういった気味の悪い衝撃が走った。

 老人は「ゴースト」を描いてくれ。と言ったのだ。

 ゴースト、取りも直さず日本語では幽霊だとかお化けと呼ばれるものだ。

 具体的なことを聞く前に老人は帰ってしまったから、私は彼がどういう絵を描いてほしいのか今一つ想像がつかなかった。私のセンスにすべてを丸投げした「絵」を描いてほしくて来たのかと思ったが、考えれば考える程それは違うのでないかという疑念が募っていく。

 彼はゴーストを描いてほしいのではなく、私に描かせたいのではないか。

 そう思い始めてしまったのだ。

 老人が帰った直後、私は彼が今度完成したであろう絵を受け取りに来た時に、そんなものを描いてる暇はないと金もろとも押し返す気でいたのだが、二日目には描いた方がいいのではないかと思考が堂々巡りを開始して、現在では描かねばならぬと何故かそう強く感じている。

 ドロドロと溶けたように働かない脳みそをリフレッシュすべく、私は散歩に出た。アパートは江ノ島電鉄の江島駅付近に建っていて、昼間の今、外は観光の外国人だらけで散歩に適した土地とは言えない。ごった返した人ごみの中で炎天下の日差しを受けながら歩いていると、外に出たことを少し後悔し始める。江ノ島駅から江ノ島へ通じる道にはいくつもの看板が並び、食事処には共通してしらす丼、もしくは生しらすの文字。唯一の救いは毎度営業しているのかと不思議でならない土産屋と写真館。脇道に外れ江ノ島の反対方向を目指して歩いているうちに人は大分少なくなった。しかし日差しだけは私を執拗に追いかけてきて、心が休まる暇がない。

 照り付ける太陽光が道を熱して、ふと道のずっと奥を眺めるとゆらゆらとした陽炎がまさしく幽霊のように立ち昇っていた。私が老人の依頼した幽霊を描かねばならぬと、強迫観念のようなものに襲われるのにはきっとあの男が関係しているに違いなかった。

 そしてその男は私がゴーストと言われると、真っ先に連想する人物に他ならなかった。

 私は日陰になっている軒下に逃げ込み、輝かしき私たちの青春を回想することした。



 高校時代、まさに今日のような夏日のことである。

 今は鎌倉に住んでいるが、当時は東京の親元で暮らしていて高校も特徴のない二流の公立高校に通っていた。

 そこで私はある男子生徒と親友と言っても過言ではないほど親しくしていた。

 私の通っていた高校は詰襟の学ランが制服だったのだが、彼ほどしっかりと着こなしていた学生を他には知らない。似合っているいないの問題ではなく、校則通りの、何の工夫も遊びもない、ただただ生真面目に制服を着ていただけなのだが、どうもそれが違和感なくぴったりだったのである。だからといって品行方正かつ文武両道の優等生だったのかと言えば、むしろまったくの対極にあるような存在だったのだ。

 彼は支配を嫌い体制側には絶対に屈しないと言い放ち、嫌いな教師には真正面から喧嘩を売りつけ、血を沸騰させ怒りに飲み込まれたとみると、さっさと逃げの一手を打って後処理をしないままに私たちの前から姿をくらます、そんな男であった。したがって教師は彼を初見では優等生だと決めつける。しかし三か月もたつと誰もそんな戯言を真に受けなくなる。少なくとも彼にかかわる教師はみなそうだった。

 その舌鋒は一流の槍兵ですら舌を巻くほどの鋭さで、哲学者すら口を閉ざして目ん玉をひん剥くような一見論理的に聞こえる詭弁、陸上の選手ですら地に膝を折り両腕を突く逃げ足のすばしっこさ。どれもが一流かつある意味で三流の変人と呼ぶに値する変態人間であった。

 必然的に彼と交流を持てる人間も限られるだろう――と思いきや、そうではなかったのだ。彼の放つその退屈な日常を壊してしまえるのではと思えるハチャメチャなオーラは、惰性的な日々を繰り返し倦怠に埋もれていた私たち諸学生、主に男子生徒ばかりであったが、その全員からある種の絶大な人気を誇っていた。無論、女子生徒の視線は夏であろうと身も凍る、冷ややかなものだったことは語るまでもない。

 そんな彼と親友と呼べる関係にあったのは本当に幸運なことだったと思う。

 当時の私は画才があるからと努力を欠き、上を目指すつもりがあるわりには行動と言動のつり合いが取れていない、思春期特有の全能感のようなものに浸っていた。

 そんなある日、自身の画才を過信していて学校の教師程度相手なら何をやっても許されると考えていた私は、学校を抜け出し校舎に近い川辺でスケッチに没頭していた。それも修練の意味合いはかけらもなく、ファッションの意味合いで周囲の奇異の視線を少し心地良く感じながらのスケッチだ。

 しばらくすると段々熱が入り始め、次第に本気で描くようになった。今でも変わらないことだが、私は結構な負けず嫌いで偏屈な人間だから、この時も途中から「天才たる自分の絵がこの程度でいいはずがない」とでも思ったのであろう。今では憶えていないが、きっとそうに違いない。

 どれほど時間が経ったか、ふと背後に気配を感じて振り返ると見慣れた男が立っていた。

 彼は有名人だったから、私も当然のように彼の事を知っていたし、多分、彼も私の事を知っていたのだと思う。彼は私の絵をじっと黙って見ているだけで話しかけてはこなかった。それはまるで奇妙な体験だった。最初は私の集中を削がないように黙って絵だけを見ているのかと思っていたのだが、私が彼をどんなに見つめても一切の反応がない。私よりも絵に集中しているように見えたのだ。私も絵に戻る。あまり集中できずに時間だけが過ぎていくの肌で感じていると、彼が動いたのが分かった。もう一度振り返ると彼は少し離れた場所で木にもたれかかって難しそうな文庫本を読んでいた。

 唯我独尊、天衣無縫の神の御業によって産まれたのが自分だと今では恥ずかしすぎて穴があったらブラジルまで掘り進んでしまいたい所存だが、そう傲慢に生きていた私でさえ、彼の噂はかねがね耳にしていたし自分に匹敵する逸材なのではと上から目線ではあるが、思っていたのだ。必然的に興味を引かれた。

 私は生来、交友関係を持つことを苦手としている質で決して自分から話しかけるような人間ではなかった。これも当時は高慢ちきで赤っ恥そのものの思考回路だった私は、しかるべき人間以外は私に話しかけることすら許されないと、そう信じていたのだ。

 しかしどうしても彼とは一度話してみたいと思っていた。

 私はまるで恋する乙女のように、真っ赤に熟した林檎ですら頬を染め目をそらすような初々しさと緊張を持って、なけなしの勇気と共に彼に話しかけた。

「なあ、何読んでるだ?」

 彼はまるで今私の存在に気付いたという表情をした後、にやりとして「本」と人を食ったような返事をした。

 また奇妙な感覚に囚われる。彼は本当に今の今まで私に気付いてなかったのではなかろうか?

 曖昧模糊としたつかみどころのない不透明な疑念が浮かぶ。

 小粋で人を馬鹿にしたジョークに何も言えないでいると、彼は困った顔してごめんごめんと謝ってきた。

「怒っているわけじゃない」私は無愛想に言う。

「そうかそうか、ならいいけど」

 次に何を話すのかと考えを巡らせているうちに彼は読書に戻ってしまい、私は何かを言おうとした状態で固まってしまった。仕方なくあまり集中できないであろうスケッチに戻ることにした。

 どれほど時間がたったのか。少なくともあまり集中できていなかったスケッチにのめり込んでしまう程度の時間が過ぎていたころだ。

「暑いからアイスを食べに行こう」

 独り言かと思ったがそれにしてはどうも声が大きい。ちらりと視線をくれてやると彼は紛れもなく、私の方を向いてそう言っていた。

「はあ?」

 意図がつかめずに困惑していると、彼は私の腕をつかみ無理矢理体を起こさせた。

「これだけ暑いんだ。休憩もいれずにそんなことしてたら暑さにやられてしまうだろう。さ、今日だけは奢ってやるからついてこい」

「おい僕は忙しいんだ」

「忙しい? 学生の身分で、なおかつ授業をさぼってこんなところにいる時点でそんな言葉を誰が信じると言うんだ」

「忙しいから授業をさぼるんだ。あんなものに費やす時間が僕にあるわけないだろうが」

「おおっ。傲岸不遜ここに極まれり。素晴らしいよそれは、その考えは。最高に青春してる」自惚れって青春だよね、そう軽やかに呟いた。

 私をつれてずんずんと歩き出す。明らかに歓迎していない私に彼は言った。

「君は青春をどうとらえてる? さ、ささ、聞かせてくれよ」

「青春なんて知らない。僕は絵を描いて描いて大人にはやくなれればそれでいい。既にそれだけの力があるし学生って身分はそれだけに窮屈だ。我慢できない」

「へえ。勿体ないなあ、君は。やはり今しか出来ないことをするべきだろう」

 私は彼に至極がっかりし失望した。そんな一般人の凡才どものような発言を彼が? 私の思い描いていた彼の像が、所詮は幻想でしかなかったと思い知らされたような気がして気分が悪い。

「はっはー! そんな目に見えてがっかりしないでくれよ。君が俺をどんな風に見てるかは知らないけどね。今しか出来ないことは今だからこそ価値を感じないけど、大人になってみればとても良いもののように思えるはずさ。子供のころに買ったソフビ人形を大切に保管してたら、今になって信じられない値段がつくようなものさ」

 うちの親の話さ。と悪戯っぽく彼は笑った。

「青春……今しか出来ないこと……ねぇ……。しかし僕は部活動や学生生活にてんで興味がわかないし、それが将来必要になるとは思えないな」ソフビ人形だってただ与えられたものではなく、自分が欲したものであろう。私は学校生活などカケラたりとも欲していない。

「誰も授業に出ろとか部活動に時間を費やせ、なんて言ってないよ」

 そうだなぁ、と彼は考える仕草をした。

「授業をさぼるのは学生時代にしか出来ないだろう。他には、そうだな……今俺たちは未成年だ。だから未成年の飲酒とか喫煙とかの若気の至りも今しか出来ない。女生徒ならば援助交際もそうだな。女学生ってブランドに頼るなら、だけどね。……いやほんと極論だけど」

 私はどれだけ呆けた表情をしていただろうか。口を大きく開けて目を見開いて……阿呆の極みといった表情をしていたに違いない。

「本当に極論ばかりだな」

 徹頭徹尾、優等生風の彼が口にするにはおおよそ似合わない、物騒だったり不良じみた内容だ。だが言われてみればその通りであると私は頭の片隅で言い負かされ、納得している節があった。私の親戚にも高等学生時代に飲酒や喫煙をしたという人は山ほどいるし、だからといって全員が人の道を踏み外すような失敗をしているわけではない。どころか、人並み以上の生活をしていて、各々が家庭を持ち、度合いはあるものも家族からも愛されている。

 つまりは程度の問題なのである。

 程度をわきまえなければ巨悪となるような悪行でも、悪戯染みた小さなものであれば許されるのだ! …………許されるのだろうか? いや流石に許されるということはなかろう。自重と好奇心の間で大海原に迷う小型漁船のように揺れに揺れ、判断力を身に着けて嵐を越えること、取りも直さず世渡りのうまさを磨くということだろう。

「いやはやしかし援助交際は言い過ぎだ。あれは……その……どうにも学生時代云々抜きにして後々の禍根を残すことになりかねない」

 その手の話を苦手としている初心な私はもごもごと言った。

「だから極論だと言ったじゃないか」

「極論中の極論ではないか!」

 私は情けなく悲鳴のような声をあげた。

「ならブルセラならいいのかい?」

 彼はまたあの悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 こうして若き日の私は、実は財布の心もとなかった彼に安いアイスキャンディーを奢ってもらい、それを肴に飽くことなく夕暮れまで語りあい友となったのである。



 座り込んでいた日陰を出てコンビニへ向かう。

 あの安くて水っぽいアイスキャンディーが無性に恋しくなったのだ。

 歩みを進める。道のずっと奥には、やはり陽炎がゆらゆらと私を嘲笑うかのように立ち昇っているが、あれらとの距離は一向に縮まる気配を見せない。そういうものなのだ。

 高校卒業から既に十年近く経過しているが、卒業以降彼に会っていない。手紙を書くような性格ではないし、それは彼にも同じことが言えた。美大は私が思っていたよりもずっと魔物の巣窟染みていたし、錆びかけていた闘争心も磨き上げられ、そういった意味では美大に意味はあったのかもしれない。

 十年も経つと駄菓子屋などは大分少なくなってしまった。

 結局私は海沿いを走る道路脇のコンビニに入った。

 店員が「しゃっしゃっシャース」と言った。

 コンビニ店内はクーラーで快適な温度に調整されていたが、地獄の窯のように煮え立った外を歩いてきた私は汗が冷やされて寒すぎるように思えた。

 アイスを買って外に出る。一瞬全身を撫でた熱風が気持ちのいいように思えたが、すぐに考えを改めなおした。

 熱くなったり寒くなったり忙しい。

 ビニールを破いてアイスを咥える。ゴミを捨てて私は歩き出した。

 私は今、もう十年も会っていない親友だった男との思い出を掘り返す為、ひいては依頼された絵を是が非でも完成させるためにあまりにも遠く思えるあの日々を回想している。 なんだか本当に遠くへ来てしまったものだ。夢は現実となり、理想は病的ですらある今へと変わった。想像していたものよりもずっと辛く、ずっと楽しい。

 

 〇


 彼と私はお互いの夢について幾度も語り合った。

 夏季休暇の間、私たちは互いの家に行き来し、親睦を深めた。なにをするでなく、本棚に雑然と並んだ小説を借りたりおすすめの音楽をかけたり、油絵の制作過程を見せたこともあった。彼は「参考になる、ありがとう!」と大いに喜んでいた。なんとなく何の参考になるかは聞かないでおいた。そういう話は自分からしてきたときに真摯に聞いてやるものだ、それが私の美学である。

 彼を題材に絵を描いたりもした。出会った時と同じように気に背をもたれかけて読書する彼を、周りの景色と一緒に描き上げた。出来上がった絵を見て「たいそうなものだなあ、この男が俺か? そうとは見えないくらいに良く描けている」と言った。

「見えない? お前らしく見えないって? そうか、じゃあ描きなおすから返してくれ! いや、返せ!」と私は応じた。重ね重ね、負けず嫌いなのだ。

「冗談だ冗談、ただ俺はもう少し格好いいはずだ。毎日鏡で確認してるから間違いない」とキャンバスを私から遠ざけるように持ち上げて言った。

 絵はプレゼントした。彼がどうしてもというから修正は加えていない。

 そうこうして実に学生らしい夏季休暇の使い方をした。勿論、宿題なるものの存在は最後まで知らないふりを通したし、それで単位が取得できなかろうと私は困らない。絵で食っていけばいいのである。

 夏季休暇も終わり、始業式の日。

 私たちはどうせ何もない始業式など参加する意味もないということで同意し、新学期初日はとても短い夏休み延長日と定め、二人で川沿いを散歩した。

 そんな折、彼がふと呟くように言った。

「君は画家になりたいんだろう。その道は大変なんじゃないのか?」

「大変も何も僕にとってはなることは当たり前なんだ。なんせ絵を描けばいい。描けば誰かが僕を気に入る。そうすればあれよあれよと頂点まで上り詰められるに決まっている、決まっているよ」

「……相変わらず強気だなあ、少し羨ましい」

 彼は一息ついて何かを思案するように斜め上を睨みつけた後、後頭部に手をやってがりがりと掻きむしりながら言った。

「俺は小説家になりたいんだ、なりたい、なんとしてもなりたいんだ。なんていうか、それ以外のなにかになる自分を信じたくない、そうなるくらいなら死んでやる方が百倍も千倍も万倍もマシに決まってる。俺は……うん、やっぱり小説家にどうしてもなりたいと思ってるんだ」

 まくしたてるように彼は一気に言い切った。

 私は少し呆気にとられてから一言。

「そっか」と言った。

 彼が小説家になりたいのを、私は前々から気付いていた。油絵について、美術史について、おおむね私の詳しい分野について彼はかなりの頻度で質問をしていて、聞くたびにポケットから小さなメモ帳を取り出して何事かをどんどん書き込んでいくのだ。私と雑談している時でも、ふと何かを思いついたような顔をするとすぐさまメモしはじめる。

 次第にそれがアイデアを書きつけていたり、プロットを作成しているのだと私は気づいたが、彼が直接私に話してこない限りは黙っておこうと決めていた。

「知っていたよ」

 彼は私をじっと見つめていたが、それから破顔した。

「そっかそっか」

 彼も言った。

「そうだ」

 私も言う。

「君は絵を描くのが怖くなったりしないのか。自分の理想に、周囲のレベルに……残された時間で結果が出せるのか。俺はそれが不安でたまらない。耐えられないんだ」

「怖さなんてない。周囲の有象無象は関係ないからな。僕は僕自身が納得する絵を描き上げなきゃいけないけど、同時に観客は僕一人でいい。そのおこぼれを凡人たちが素晴らしいと褒めそやして、それが職業になるんだから」

 私はいつもに増して大仰な態度でものを言っていた。私は目の前の友人をどうにか元気づけたいと思っていたのだ。私だって健全な人間であるからには感情があり、恐怖だって感じる。自身の絵に苛立ちを感じるのは毎日のことで、次第に自分が怖くなることだってある。そこで潰れないのは私が本物の天才であり自信に繋がる確固たる功績が存在しているからだ。入賞の数、今まで参加してきたコンクールの数……しかし目の前の友人にはそれがない。

「俺は本当に怖いよ。毎日夜になると一日何して過ごしたかを思い返すんだ……今日は必死になれたか、悔いのない一日だったか、確実に前進しているのか、怖くなって布団に潜り込むのも時間の問題だ。だって何もしていないんだから。書いた小説を片っ端から捨てて、捨てて、捨てて、いつの間にか楽しい気持ちもどこかに行ってしまって……なんで書いているんだろう、なんで辛い思いしてこんな駄文を書き連ねているんだろうって、夢と手段が逆転してしまった気がしているのに、それすら否定できない。どこを探しても自分が見つからない、どこかの偉い作家の言った言葉ばかり真に受けて、書き方一つとっても異端的な変わった書き方を体が拒否する。変化を拒む、凡庸なものを嫌って個性を求める癖に変化が恐ろしいんだ」

 私たちは橋下の影に差し掛かったところだった。

「俺は幽霊になりたくない。自分の作風すら見つけられずに駄文の海をふらふら彷徨うなんて、そんなのは嫌だ。一体自分が何を志して何を伝えたくて小説を書いているのか、まるで自分の器を失ってしまったみたいに浮遊するばかりで、帰るべき場所……それか行きつくべき場所がどこにも見当たらない。見えているのは〈小説家〉という概念の殻だけ。偉い人が、自分が小説家だと信じて物語を綴ればそれは小説家だと言っていたけれど、俺は小説家って名前の殻を身にまとって〈小説家〉であろうとしてる。……俺はそんな幽霊なんかになりたくない。そんな空っぽなんかに……」

 私には彼の悩みが理解できなかった。

 自身のアイデア、そして生み出される芸術、創り出すことを恐れる意味が理解できなかったのだ。自身の作品が評価されない――審査委員の目が節穴である可能性を恐れることや、自身の不甲斐ない作品に苛立ち、恐れるのならまだ理解できるのだ。

 この場合、生憎と言ったほうがよかろうが、私は才能も家庭環境も自身の近くを固めるべき物事全てにおいて、恵まれていた。

 私はひどく残酷で、きっと過去をどれだけ振り返ってもこれほどに彼を傷つけたことはないだろう言葉を放った。

「進むべき道が分からないのしょうがない。何故なら歩いて歩いて、人生を賭けて歩き続け、ふと背後を振り返ったときにある一条の黄金色の足跡こそが我々の軌跡となって、そうして僕らが偉くなったときにそれを道と呼ぶんだから。道とはただの言葉の綾で、辿るべき道なんてものは存在しない」

 きっとこれは正解で、けれども若すぎた私達には最も間違った答えだったに違いない。

 橋下から出る瞬間の光に包まれ、彼の表情を窺い知ることは出来なかった。願わくば、それが救われた笑顔であってほしい。そんな幻想に未だに囚われている。



 日が暮れかかっていた。夕日が眩しい。

 もう夕方なのか……。

 海沿いの道は観光地から外れたため人が少ない。煙草を咥えて火をつけた。

 高校時代に私は彼と一緒になって煙草を吸った経験がある。たった一度の事だけど確かに憶えている。

 彼が創作を――創り、生み出すのに経験に勝るものはないと言ったからだ。私たちは耄碌して年齢の確認すらままならないような老婆が店番をしているタバコ屋で、彼の好きな作家が吸っているという銘柄の煙草を買った。ふたりで川沿いのくさっぱらに座り込んで吸ってみたけど、すぐに喉が痛くなって半分以上燃え残っている煙草をコンクリートにこすりつけて捨てた。箱も川に向かって思い切り投げ入れた。ライターはどうしたか忘れてしまった。捨てたか、彼が持ち帰ったと思う。

 彼が「これを吸うやつの気が知れないな」と言い、私も「まったくだ」と返した。

 二人で、きっとこんなものは未来永劫吸わないだろうと笑いあったものだけど、今私は煙草を吸っている。ちゃんと短くなるまで吸っている。

 私はたまにしか吸うことがないのに、何故か外出するときは煙草を持ち歩くようにしている。心のどこかで、もう一度だけ、大人になった彼と一緒に吸ってみたいと思っているのかもしれない。

 携帯灰皿に吸い殻を押し込む。

 歩く私の影が長く伸びる。どこまでも伸びて、その像はいつか私から切り離されどこかに行ってしまうのではないかと思うほど、私とは別種のものに思えて仕方がなかった。私が彼の脚を押さえつけているのだ。影とは私そのものであり、私の感情を全て切り離した能力の塊のように思えた。きっとこの影は私と同じくらい上手で、けれども無機質で何も感じさせない絵を描くに違いない。

 芸術とは私が世界と交信するための手段である。

 自然を描く。私が何も感じずに立っているだけなら、それらは私の背景としての意味しか持たない。私が自然を見つめ、そこから感じる波動のようなもの、生命が個々で有している神のようなものを受け取り、描くことによって芸術として完成する。そうしてようやく私は世界と交信することが出来る。

 私は私の影を絵具に見立てて、薄暗いアスファルトの道というキャンバスに絵を描き入れ、私なりの表現という思想を広げる。

 影が道に――地球の表面に映し出されることで私は世界と繋がった。しかし主導権は私が握っていて、彼は勝手に飛び立つような、一つの芸術家としてどこかに行ってしまうようなことはない。

 私の友人は――彼は、自分の影に、何を求めてしまったのだろうか。

 幽霊になりたくない。

 彼はそう言っていた。

 昔、夜寝ぼけていた私はトイレに行った帰りに姿見に映った自分を幽霊だと勘違いして飛び上がったことがある。

 彼が思い描き、恐怖してしまった幽霊とは……彼自身のことではないのだろうか。

 目を瞑ると潮騒がすっと心に入り込んできた。

 若かった私たちが未来を思い浮かべるとき、きっとそこには成功した自分、夢を叶えた自分だけでなく、失敗してしまった自分も現れてしまう。そんなのは嫌に決まっている。誰だって輝かしい未来の想像に水を差されれば嫌な思いをする。けれどもそれは私自身なのである。三つか四つか、どれほどいるかは知らないが、きっと多くの未来の自分がいて彼らは各々の人生を若い私たちに聞かせるだろう。あのときこうしていれば、あの娘とは実は両思いだったから告白すれば付き合えるとか、一社目の企業が倒産するからやめておけとか……嫌な未来も憧れる未来も皆が私自身なのである。彼らを否定してはいけない。失敗する自分を受け入れなければならない。

 彼は失敗した未来の自分を幽霊と呼んでしまったのではないのか……。私はあのとき、彼にそれもお前自身だと言い聞かせてやればよかったのか。

 残酷だがそうなる可能性だってある、と。

 彼は自分の影に、それこそ当時好きだった作家の影を求めたのかもしれない。私が自分の影を幽霊だと思い込んだように、彼も自身の未来を幽霊の様だと思ってしまい、あまつさえ自身の芸術に誰かの影を求めてしまった。

 幽霊とは比喩的に実際には存在しないものだという。

 他人の影を追い求めた彼は次第に自身の存在を薄れさせ、自分の影も他人の影も全て見失ってしまった。

 自分の影。他人の影。自分自身の存在。若き日の夢。彼の語った幽霊。

 そして、ゴースト。

 私は駆け出していた。一刻も早く筆を握らなければいけない。

 私の中で反響する彼のゴーストを救ってやらなければいけない。



 玄関で靴を吹っ飛ばすように脱ぎ捨て、アトリエに転がり込む。吐き出す息が私の内側の熱量を物語っていた。

 キャンバス、油絵具、パレット、筆……その他もろもろ道具の準備をする。

 構図を考える必要などなかった。私の内側にいて、そこに佇んでいるのだから当たり前だ。私がモチーフにした人物という意味では、彼が最も多い。学生時代は頻繁に彼を描いた。

 私にとって幽霊、ゴーストとは彼のことなのだ。

 私にとっての彼は、あの光に包まれて表情を窺い知ることのできなかった、あの瞬間から、いやあの瞬間の彼こそが私の心を縛り付けている幽霊の正体なのだ。

 未来を照らす輝かしい光こそが私に彼の存在を強く印象付けた。

 彼は誰よりも才能を求めた幽霊なのだ。

 自分自身を失い、代替を探し求めていた彼が。

 彼が最初に私の絵を見た時、彼は私ではなく私の才能が溢れだした象徴たるスケッチを――才能そのものを見ていた彼こそが。

 技法はどうする。

 グリザイユ。彼は未来の色彩が分からなかったのか?

 点描法。多くの輝かしい未来、しかし望んではいない未来の輝かしさを恐れたのか?

 色彩分割。確かな未来を信じようとして不確かなものを見てしまった恐怖か?

 フォーヴィスム。望む未来、望まない未来、その明暗を分ける影に恐れたのか?

 ドリッピング。望む未来へ至るための偶然性を、自身が主導権を握ることのできない状況を恐れたのか?

 私にこもった熱量が消えることはない。この絵を完成させるまでは絶対に消えない。

 熱量は彼そのものだ。私の中の彼なのだ。

 身を焼く熱さに感動すら覚える。

 ふいに頬を伝う冷たいものに気付いた。

 描く、描く、描く。

 視界は段々と曇っていきキャンバスを覆い隠してしまう。右腕で強引に拭うと視界は開け、胸のつかえが少しばかり取れた気がした。しかし、またすぐに涙が溢れてくる。

 自分でも何故かは分からない。

 けれども真っ白だったキャンバスに、次第に彼の像が、ゴーストが描き出されていくうちに無限に思えるほどの魂の雫が溢れ出てくるのだ。

 熱量が思考を奪ってく中ではっきりと感じる彼の感覚。

 そうだ、私は彼を描いているのだ、ゴーストを、彼を――描くことで成仏させようとしているのだ。

 自分勝手な思いだ。

 彼を解放しようと。

 私の中で、未だに、あの瞬間から囚われ続けている彼を、なんとも無責任なりに、不器用で自己中心的な思いで彼を助けようとしている。

 現実の彼とは違う。

 私の中に住む、あの顔の見えない男を。

 光は輝かしい未来だけを讃えればいいのだ。

 彼の感情を――世界と交信する手段を遮断して独りぼっちにするためじゃない。

 私は己と対話する。

 私は彼と対話する。

 私は世界を表現する。

 私は彼が絶対になりたくないと言った、彼自身の未来を――しかし紛れもなく彼自身の一つであるそれを、ここで殺そうとしている。

 熱量が力に変わる。

 感情が世界へ侵入していく。

「ごめんよ、ごめんよ」

 涙と共に言葉が漏れる。

 私は一心不乱に描き続けた。



 その絵が完成したのは深夜二時の事だった。

 何度目の深夜二時なのか、私には見当もつかない。

 ほぼ不眠不休で描いていたのだ。空腹感も眠気もとうに限界を越していた。

 今すぐ後ろにぶっ倒れて寝てしまいたいものだが、そうすると次に起きた時に栄養失調で起き上がれないかもしれない。もしかすると起きることすらないかもしれない。

 私はよろける両足で必死に踏ん張り冷蔵からミネラルウォーターのボトルを取り出す。ボトル一本をそっくり飲み干す。キャップを開けるのにすら難儀したほど疲れていた。それから食パンを無理矢理口に詰め込んだ。もう一本ミネラルウォーターのボトルを開けて、無理矢理パンごと飲み干す。

「はぁ……はぁ……」

 朦朧とする意識を繋ぎとめて布団に向かうが、途中で力尽きてしまった。

 倒れる間際、私の目に移り込んだ絵画は、これまでの偉大な画家が描いたどんな作品よりも気高く、美しく、そして悲しげであった。



 あの絵を完成させた日から五年もの月日が流れた。

 私の見た目はすっかり三十路のおじさんといった風情になってしまい、あの頃の若い自分はどこかに行ってしまったように思えた。けれどもきっと十年後、二十年後、私は同じような感想を抱くのだろう。しかし幾つになろうと私はあの頃の私が成長しただけで、あの頃の私は今もここに立っている。

 私は今、姪を連れて街の大きな本屋に来ている。

 親から頻繁に結婚しろとせっつかれる歳になってしまったが、妹が結婚して子をもうけたお陰で私への風当たりは今の所弱めである。

 そういった意味でも、私は妹への感謝を込めて姪の遊び相手になってやることが多い。時間を作りやすい職業だからこそできることだ。

 あの日、私が描いた絵は美術界で大きな評価とそれに見合った批判を受けた。そのお陰もあり未だに私は画家という不安定な業界で生き抜くことが出来ている。

 評価と批判。どちらにしろ、我々芸術家は無関心が最大の敵であるのだから、どういった意味合いであろうと歓迎だ。

 さて、私が滅多に来ない本屋に来ているのにはそれなりの理由がある。

 姪に絵本をねだられたのだ。

 五歳の姪の可愛さはさしもの私でさえ、何の文句もなしに従ってしまうほどの効力を持っている。

 ただし、絵本とは絵であり、こと絵の世界に関しては私も黙っていられない。歳を重ねてナルシストぶりが鳴りを潜めたと言われる私であるが、この時ばかりは話が別である。そんじゃそこらの絵本作家に、私の可愛い姪が満足できる絵を描けるはずもないと断定し、「おじちゃんが描いてあげましょう!」と言ったのだが「おーちゃんのつまんない!」と言われてあえなく撃沈してしまった次第である。

 漫画家ではなく画家なのだ。ストーリーには目を瞑って欲しい。

 姪が楽し気に絵本を選ぶ。やがて散々悩んだすえに一冊の絵本を持ってきた。

「おーちゃんこれかってー」

 なんと可愛いことか。私は思わず、何冊でも買ってあげよう、さあ好きなだけ持ってきなさい。と言った。

 すると姪は「だめ! おーちゃんにいっぱいかってもらうのだめっておかーしゃんいってた!」と言った。

 なんと賢くて良い娘なんだ!

 私は感動のあまり、もっと甘やかしてしまいたい気持ちになったが、そこはぐっと堪えた。

 レジに向かう。前の人が会計をしている間、なんとなくレジ前の小説の平積みコーナーが目に入った。

 それは直感的であり、必然的であり、運命的であった。

 多くの本が平積みにされている中、私の目はある一冊の本に釘付けになっていた。

 思わず手を伸ばす。

 本に触れたのは何年ぶりだろうか……。

 帯に〈衝撃のデビュー作〉、等の内容を絶賛する旨の文が書かれていた。

 見ずとも分かったかもしれないなと、ふと感じる。

 ここには私がいて、彼がいる。

 これは彼の本だ。間違いない。

 あの日、絵を描き上げたあの瞬間、私が受け入れ、乗り越えたあのゴーストを、彼もまた受け入れて乗り越えたのだ。

 熱いものがこみ上げてきて、場所が場所でなかったらその場で大泣きしてしまったかもしれない。ぐっと堪える。堪えきれず鼻だけすすった。

 やはり姪を甘やかしたと思った。姪は滅多に来ない本屋に私を連れて行ってくれた。姪がいなければ、こんな奇跡に出会うこともなかった。

 最高のお礼がしたい。

 ふと、あることを思いついた。

 私はきっと、あの青春の日々、彼が浮かべた悪戯っぽい笑みを浮かべている。

 彼は怒るだろうか?

 小説以外の文を綴ることを断るだろうか?

 小説家以外の道を全否定したあの日の彼。

 私たちは長い月日をかけて大人になった。酒も煙草も好きに出来る。

 絵本を作ろう。

 私が――いや、僕が絵で、彼が文。

 姪もプロの小説家の書いた内容ならつまらないとは言うまい。

 彼は怒るだろうか?


 いいや、きっとあの日々のように悪戯っぽい笑みは浮かべてこう言うに違いない。


「ああ、そいつはいいね。面白そうだ!」

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芸術家 和姫雄 @kazukiyuu

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