7.キュレーションメディアは悪か?

👉ポイント

・きっちりルールを守ればキュレーションには大きな可能性があり、web小説との親和性が高い

・引く情報の選択、順序、独自解釈で作家性が強く表出する


※今日は図なしです


 昨年末、DeNAによる医療情報サイトWELQの杜撰な運営実態が明らかになったことを皮切りに、キュレーションメディアへの批判が殺到しました。運営企業のリーダーたちが語る「新時代のメディアを作る」といった大言壮語と、お粗末なサイトの中身のコントラストが印象に残っている方も多いかと思います。


 しかし、私はキュレーション自体がまずいとは思っておりません。では、なにが悪かったのかというと、①デタラメを真実であるかのように記載した点 ②他人の権利を侵害してコンテンツを提供した点 であります。手法がどうとかいう以前の問題ですね。逆に言えば、基本的なルールにさえ気をつければ、運営者の言うような今までにない魅力を持ったメディアに化けるかもしれません。


 上の二点に注意してキュレーションを行うにあたって、web小説は最適なメディアではないでしょうか。まず、小説というのは自明にデタラメですから、間違った情報を流布する危険性はありません。さらに、多くのweb小説は一次創作であります。いわゆるテンプレ小説の面白いのは、鳥の目で作品群を眺めると同じような作品ばかり並んでいるように見えても、いざ虫の目で個々の作品を見てみるとオリジナリティに溢れているところです。


 また、各運営会社は利益を追求するあまり無茶な行動に走りましたが、「1.未開拓の領域はどこだ?」で述べたように、web小説家は必ずしも金銭目当てに動くわけではありません。



 バカなことを、と思われるかもしれません。キュレーション的な小説の例を出しましょう。


 田中康夫の小説に『なんとなく、クリスタル』があります(以下の記述は2013年の河出文庫新装版に基づきます)。大学生への仕送り金額が極小値を記録している現代の視点で見ると、クリスタルなアトモスフィアだなんて、何言いよるんかという感じですし、内容はどうでもいいです(ちなみに私はルビサファ世代です)。注目すべきはそのレイアウトであります。本文は右ページだけ、左ページは全て注釈に充当されています。


 このことはどのような効果をもたらすでしょうか。高橋源一郎は解説で、本文と注が別の作品のように見えるとした上で、「『注』とされる部分こそが、この作品の『本文』なのではないか、とさえ思うようになった」と記しています。「注」は付属物ではないのです。言ってみれば、このキュレーション的な項目の羅列が小説の少なくとも半分を構成しているわけであります。


 では、注が作品の根幹を構成していることによって田中の作家性は損なわれているのかと言いますと、むしろ逆でしょう。注を入れる語の選択、順番、そしてなにより独自解釈を多分に含んだ注の内容に田中の視線の鋭さが光っているわけであります。


 幸い、(もちろん権利を侵害しない範囲で)我々は膨大なインターネット上の情報を活用することが可能です。客観的な部分の説明は外部のソースに依存したりggrksで放り投げたりすることができるわけですから、アナログ時代と比べてはるかに容易に作家性の部分に専心することができます。恵まれた環境を生かさない手はないでしょう。

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