第七章-01

チーン!

メイがオーブンを開けると、富野研の準備室いっぱいに香ばしい香りが漂った。

「ね、お菓子作りも結構楽しいでしょ?」

「はい、沙耶さん! 本当に楽しいです」

「これはね? 自分で食べるのもいいけれど、誰かに食べてもらって美味しそうな表情を見るのがたまらなく嬉しいのよ」


この状況には少し、補足説明が必要かもしれない。

一般的な学生が夏休みには言った頃、俺達は一般的な文系の学生とは違い模範的な工学部らしく多忙な毎日を送っていた。勿論俺自身は仕事との掛け持ちだし、同時に、論文のための実験に加えて護身用の武器を扱う訓練が更に加わっている。司馬と野村、村川の三名は時間を見つけては不在になっていたし、一成と俺と他の数名のスタッフが研究室に篭っている。

そこへ沙耶とメイが加わった。


沙耶は言う。

「あたし? あたしは思いっきり夏休みだし、時間あるし、俊樹の面倒を見る義務があるからね」

メイは言う。

「私はマスターのお側にいるのが当然ですし、お世話をするのもお仕事ですし…」

そんな訳で、毎日のように富野研に入り浸っている。更に加えれば、このヒトも頻繁に来るようになった。

「やぁやぁ、後輩諸君! 今日も元気かな?」

ノックもなく、元気な声が響く。そう、舞衣姉さんだ。

「研究ばっかやっていると、身体がカチコチになってしまうわよ? 合間を見てストレッチでもやるから、参加しない?」

そんな訳で当富野研は忙しいだけでなく、妙ちくりんなストレッチを行う異様に目立つ集団と化していた。


ストレッチを終えた頃になると、沙耶とメイが腕によりをかけたおやつが待っている。ちなみにそれを作っているのは富野研究室準備室の一角を司馬たちが改装し、ちょっとしたキッチンに仕立ててある場所でだ。占有するスペースの割に結構美味しくゴージャスなおやつが食べられる、と研究室の学生たちには大好評。時には富野研の学生を装った者まで食べにくる始末だ。

ちなみに、本日のおやつは他所の研究室からの差し入れによるりんごをベースにした、アップルパイ。隣の部屋からこんがりと焼けたパイの香りが漂ってくる頃になると、一気に室内の密度は2倍を軽く越してしまう。それくらい評判なのだ。

で、だ。

気がついた頃には妙ちくりんなストレッチにさえ他所の研究室生が加わるようになった次第である。


富野教授は相変わらず出張が多く不在がち。それでも研究室がちゃんと機能しているのは、もしかすると彼女らの作るおやつが貢献しているのかもしれない。


「は~い、ちゃんと人数分以上は確保してますからね~!」

と、メイの声。それに応えるうように、全員の声が部屋に響く。

「異議な~し!」

K大工学部富野研に集まってくる学生共は、こういう連中ばかりなのか? ほんとうに大丈夫か、この大学!? 第三者的に見てアップルパイを言葉の通り貪り食う学生を見て、食育についての論文が書けそうな気がしてきた。


「「はい、俊樹(マスター)の分!」」

同時に沙耶とメイからパイが差し出される。


さて、命題だ。賢明な諸君に問う。

こういう時は、どちらから先に取ればいいのだろう?


沙耶から取れば一番無難かもしれない。しかしこういう時に限って、メイの瞳が淋しげな光を放つのだ。


ではメイのを取るとしよう。すると途端に沙耶の機嫌が悪くなる。取り繕うのも一苦労だ。


…結論から言おう。俺は両手で双方のパイを受け取り、同時に口に入れた。


当然ながら間の抜けた顔になってしまう。それを見てか、クスクスと沙耶が笑った。

「本当に変わったね。今までなら、躊躇なく自分に近い方から手にしてたのにね。 …だからこそ」

突然、沙耶の声のトーンが下がった。

「なんだか知らないヒトみたい」

顔は笑っているが、どこか様子が違う。一体どうしたっていうんだ?

「沙耶さん?」

「ああ、メイちゃん。なんでもない、なんでもないのよ。なんでも、ね」

「…沙耶?」

「なんでもないってば!」

「お前…おかしいぞ? 俺、なんか悪い事したか?」

周囲の学生たちはシーンとしていた。俺、選択肢を間違えたか?


「俊樹クン、おいでおいで」

一成が手招きをする。俯いたままの沙耶をおいて、俺はそれに従った。

「キミ、あまりにも気が付かなさすぎるよ。もっと人間を勉強する必要があるね」


◇     ◇     ◇     ◇


「壱!弐!参!」

「壱!弐!参!」

大学から帰ると舞衣姉さんの掛け声で棒を振り、突く。

「壱!弐!参!」

「壱!弐!参!」

電磁ロッドを的確に、相手の急所に突き刺す訓練だ。これは人間想定というよりも、アンドロイドを想定としている。

勿論、人間にも有効。ただし、ロッドの出力を変える必要がある。


棒をエアソフト剣に持ち替えて、1対1になる。「始め!」の声とともに、俺達は真剣勝負で剣を交えるのだ。この特訓は思いの外体力と精神力を奪う。経験のある方なら理解できるだろうが、真剣勝負とは慣れてないと3分も対峙するとフラフラになるほど消耗するのだ。少しでも躊躇すると、舞衣姉さんの怒号がとぶ。「何をしている! スキだらけだ! 何故攻撃できない!?」と。

まるで俺達の知っている舞衣姉さんではなかった。そこにいたのは一人の教官だった。


時として、舞衣姉さんを相手に一成と二人がかりで組手をすることもあった。その度に、傷だらけになってこてんぱんに叩きのめされる俺達だった。こうして俺も一成も家に帰るとクタクタになって、横になるなりイビキをかくというような毎日が続いたのだった。


◇     ◇     ◇     ◇


「ねぇ、メイちゃん?」

あたしはいびきをかいている俊樹を横目に、食事の後の食器を洗っているメイちゃんに問いかけた。

「何度も聞くけど、あなた、本当は何者なの?」

「私は見ての通り、アンドロイドです。それ以上でもそれ以下でもありません」

「でも、誰もが知っているアンドロイドじゃない。あの場所で見た大きな装置を、舞衣姉さんが本体であり予備機と言っていたわ。あなた一体のために、あれだけ大規模な装置が必要だなんて …普通じゃ考えられない」

メイちゃんは無口だった。

「メイちゃん …あなた、実はとんでもないモノじゃないの? それも、アンドロイドじゃない、別の何か…」

「いいえ、アンドロイドですよ」

メイちゃんは静かに口を開いた。

「私は自律型ではありますが、ご覧になった通り尋常ではない大量のデータのバックアップを必要とする、特注のアンドロイドです。そのデータ容量はE(エクサ)バイトを遥かに超える、Z(ゼータ)バイトを瞬時に処理しています」

「ゼータって… 聞いたこともないわよ。せいぜいテラぐらいしか…」

あたしは混乱していた。昔のギガバイトや現行で多く使われているテラバイトくらいなら知ってはいる。実際、あたしの持っているPCは10テラバイトモデルだ。今聞いたエクサとかゼータとかって、聞いたこともない…。


「何かの本で、人の記憶容量が2000テラ位だって聞いたことはあるけれど、それだって、そういう記号ではなかったわよ?」

「だと思います。実質十数年前までは2P(ペタ)バイトだと、それが常識でした。でも、違ったんです。魂まで補完するには、あまりにも足りなさすぎたんです」

「…? 何のことを言っているの?」

クスッと微笑んだ後、メイちゃんは続けた。

「忘れてください。ちょっとした豆知識です」

「?」


「ねぇ、沙耶さん?」

「なぁに?」

「世界って、こんなにも美しいものなんですね。人為的には操作できない、本当に神様の造形物みたい」

「そうでもないわよ。前時代の負の遺産の影響はまだまだ相殺されていないし、現在は温暖化と氷河期の真っ最中で気候は極端になっているし、…数分に何種類と何らかの生物は絶滅しているし… ロクなものじゃないわ」

「それでも尚、凄いものだと思います。例え人為的に操作されていても、生き物はそれを自然な形に書き換えようとします」

「そんなものなの?」

「そういうものですよ」

窓から見える、月を見上げながらメイちゃんは言った。

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