誘惑
誰かに見られている気がする。
ここ数ヶ月、毎日のように。いや、もっと言うと四六時中。
けたたましい目覚まし時計の音で起きる朝も、入浴中も、トイレでも。夢の中でさえ、その視線は追いかけてきているようだった。
洋子がそう感じるようになったのは、高校の入学式の日。中学からの顔見知りがちらほらと見える教室で、担任の教師を待ちながら「入学おめでとう」とカラフルなチョークで書かれた黒板をぼんやりと眺めている時だった。
ぞくり、と背筋が震える感覚に突如として襲われた。洋子は驚いて慌てたように振り返ったが、入学式で皆が皆浮かれている中、真面目でおとなしい洋子を見ている者はいなかった。その時の洋子は、緊張しているのかな、とその悪寒を深く考えなかった。今思えば、あの時に原因を究明していれば、現在もソレに悩まされることは無かったのかもしれない。
*
「私が思うに、それはストーカーじゃないかしら」
ある日の放課後、洋子は一人で抱えきれなくなった現状を相談すべく、唯一の友人と言っても過言ではないリカを自宅に招いた。リカはロシア人の父とと日本人の母の間に生まれ、端正な顔立ちと華奢な体つきがまるで人形が生きて動いているかのような女の子だった。小学生の時、隣人としてリカが引っ越して来なかったら、洋子は一生関わる事がなかっただろう。当然の如くリカは男性から人気があり、物怖じせず素直なところは同性からも評価が高い。そんなリカが言う事だ。恐らくこれは、ストーカーに違いない。と、洋子は確信に近い思いを固めたが、一つだけ疑問が残る。
なぜ、ワタシ?
どちらかといえば地味で、どちらかといえば根暗で。男性から易々と好意を持たれるような人間ではない。
「今も見られてる?」
リカが言う。洋子は素直にこくこくと頷いた。突き刺さるような冷たい視線が、容赦なく洋子に降り注いでいる。毎日、四六時中。
「ねぇ、リカ。どうして私がこんな思いをするの?」
洋子は堪らなくなり、涙を隠すように両手で自身の顔を覆った。
「リカ。私、怖いよ。」
「大丈夫。私が傍にいるわ。」
リカはそう言って、震える洋子を優しく抱きしめた。洋子も縋るようにリカを抱きしめ返す。何よりも安心するリカの隣。洋子は、リカがいなければ自分は不安に耐えきれず死んでしまうだろうとさえ感じていた。
*
その日から、リカは洋子の家に寝泊まりするようになった。もともとリカの両親は出張が多く、一人になるリカを洋子の母が心配しよく家に招いていた事もあり、母はリカを歓迎した。洋子の母も、洋子と同じくリカの事が大好きなのだ。しかし今までと違うことが一つだけあった。それは、リカが最近飼いだしたシーニェという黒猫も、洋子の家にいる事だった。
「シーニェは本当に綺麗な目をしてるね。」
洋子のベッドの上を陣取っているシーニェを見つめながら、ため息を零すように洋子が呟いた。リカはそうかしら、と首を傾げたが、ひまわりのような黄金色をしているシーニェの瞳は吸い込まれてしまいそうなほど美しかった。
「私を見るあの視線も、これだけ綺麗だったら嫌な気持ちにならないのに。」
洋子は落ち込んだようにそう口にした。
その日の夜、洋子は奇妙な夢を見た。いつもは視線から逃れるようにどこかの建物に身を隠していたり、ひたすら真っ直ぐ走り続けていたり。ただただ視線を避けているような夢ばかりだった。しかしその日は違った。黄色い目が見ていた。寒気がするあの視線ではなく、その目からは愛おしさすら感じられる、熱のこもった視線。しかも、今までの視線は本当に人の形をしているのかすら危ぶまれるほど漠然としていたものだったが、その黄色い瞳は人の形をしている事がハッキリと分かった。またその瞳は、昼間の猫のように細く、針のような瞳孔をしていた。これはシーニェだろうか。しかし人間だと分かる見た目は猫であるシーニェを否定している。一体この輝く瞳の持ち主は誰だろう。そう思ったところで、洋子は久しぶりに味わった深い眠りから目が覚めた。
*
「昨日は良く眠れていたみたいね。」
奇妙な夢を見た次の日の夜、リカは何気なくそう言った。魘される事なく眠っていた事が根拠となったのだろうと予想する。洋子は嬉しそうに微笑み、リカを徐に抱きしめた。案の定、リカは突然の重みを支えきれず、洋子に押されるような形でベッドに倒れんだ。その様子を、シーニェが洋子の机の上から静かに見つめている。
「あのね、不思議な夢を見たの。すごく安心する夢。だからぐっすり眠れたんだと思う。」
「へぇ、そうなの。それはどんな夢だったの?」
自身を抱きしめる洋子の髪をリカは優しく梳きながら、やはり優しく問いかけた。
「誰なのかはハッキリとは分からないんだけど、きっとあれはリカなんじゃないかなって。」
「待って、よく分からないわ。一体どんな内容の夢だったの」
リカがそう聞いても、洋子はもう嬉しそうに笑っているだけだった。現実でも心強いリカが、夢の中でまで洋子を安心で包んでくれる。洋子はこれ以上ないほどの幸福に満たされていた。きっとこの先も、洋子はリカが隣にいれば幸せでいられるに違いない。そう感じ、今までよりずっと、洋子はリカの事が好きになった。
そしていつしか、あの背筋が凍る視線の事は気にならなくなっていた。
*
洋子がいつものように安らかな眠りについた後、リカは自分が寝ている布団から這い出ると、洋子が寝ている隣に潜り込んだ。洋子の枕元に、シーニェもそっと丸くなる。
「愛しい子。誘惑という悪魔と契約して手に入れた私の宝物。今日も私のことだけを考えてお眠り」
リカは洋子の耳元で甘く囁くと、青色の瞳を黄色に変えて、洋子の小さな唇にそっと口付けた。数秒経ち、名残惜しくも唇を離すと、洋子の頭の上で小さくお腹を上下させているシーニェを見つめる。
この悪魔に、洋子が震え上がるような鋭い視線を投げかけるよう命じたのはリカだった。洋子が感じていたあの視線は、リカが仕組んだことだったのだ。全ては、洋子がリカに依存するように。
リカと違う高校に入学した洋子に、今まで同様、悪い虫がつかない様に。
「イスクシーニエ。これからも私のためにその力を貸してちょうだい」
小さくそう囁くと、洋子の夢の中に入る為リカは自身の布団に戻り、ゆっくりと眠りについた。
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