配列05-5 / 月の影
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「――そしてわたしは、夜をひとり歩くのでした」
夜の街。
あの時から何も変わっていない。高校生くらいの男女の騒ぐ声や、ネクタイを緩めたスーツ姿の太ましい男の人のしゃがれた怒号などなど、まだまだ寝静まるということを知らない様相。
「……あはははっ」
「嫌われちゃったあ……」
好きとか嫌いとか。それも、もう、おしまい。
行く場所は考えていなかった。ただ歩いていないとすべてが止まってしまうような気がした。
飯村朱穂という人間は能動的である。しかしその実、動き続けるのは停止を恐れてのこと。そういうことを、もう何年も繰り返している。
――それなのにわたしは、心にぽっかりと穴が開いたような気持ちの治し方を、まだ知らずにいる。
「……痛い」
「…………痛い、痛い……」
傷が心をおかしていく。
「……痛い、よ…………」
やがて駅へとたどり着いた。
駅。人を吸い込んだり吐き出したりしているさまを数度見送ると、終電が近いことに気が付いて慌てて電車に乗り込んだ。……行く当てもないのに。
行ける場所は限られている。
電車。かかわりを遠ざけるように等間隔に、座席の上には人間が配置されている。自然な配置。激しい揺れに足が耐えきれなくなったところで、腰を下ろした。配置される。組み込まれることは心地が良い。安心さえ覚えた。
「…………」
人を吐き出すのを数度繰り返し、やがて電車は停止した。
改札を抜けると知らない風景があった。
「……あ」
普段はあまり来ることのない場所に、つい顔を上げる。はじめに乗った駅からはずいぶんと離れてしまっていて、いよいよ戻ることはかなわなくなった。
名前くらいは聞いたことのある駅だった。今はもう街全体が寝静まったように暗く、人もいない。歩く音のひとつひとつが響く。響く。淡々とした足音。ただ機械的に足を動かしていた。どれくらいかそうしていると、ふと通りすがった途中の細い道に、小さな看板がうっすら白色に輝いているのが見えた。
居酒屋だった。それもまだやっているらしい。店の前まで来ると、店内から男性が顔を出した。
「もうすぐ店じまいだけどいいの?」
「……ええ、はい、大丈夫です」
「こんな時間に変わってるね。まあ、来る人は皆等しく客であり私達にとっては喜ばしいことだ。何があったかは聞かないでおこう」
蝶ネクタイでグレーのスーツ姿の男性は見た目に似つかわしくない渋い声でそう言った。
「ごめんなさい。こんな時間に来てしまって」
入ってからでは遅かったが、席に着いてから思い出したように頭を下げた。
「いいさ」
"かなた" という名の店だった。珈琲豆の香りが漂っているものの、カウンター越しには半透明の瓶がずらっと並んでいて、そのどれもが中ほどまで液体が残っている。よく見るとボトルの首のあたりには小さなラベルが貼られていた。店内は静かなもので――まさか客が来るとは想定していなかったのだろう、スピーカーは音を発さずにいる――、裏方で回っているであろう換気扇の音が静かに聞こえてくるだけだった。
「ご注文は?」
わたしは手元のメニューを見ず、ありそうなものを頼んだ。少ししてドリンクが運ばれてくる。置かれると同時に、カラン、と小さく音を立てた。ジャックダニエルのロックだ。
一口嚥下しただけで喉が焼けるように熱くなる。はじめての感覚だった。つんと鼻を刺激するウイスキー独特の風味が、一口、また一口と飲む度に鼻にすうっと抜けていく。
……青さんはあの時、こういう感覚を味わっていたんだ。わたしには背伸びしても届かないオトナの世界。そんな距離感。
悪くないな、と思った。
グラスが空になると店員がオーダーを取りにやってきた。とても二杯目を飲む気にはなれず、それを断った。
目元が泣き腫らしたように熱い。鼓動が耳に聞こえてきそうなほどに激しく、熱く鳴っている。思考がまとまらない。良くも悪くもたった一杯のアルコールによる効能だ。
酩酊の中。
ふと、青さんと一緒に夢を見た日のことを思い出していた。
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