配列05-2 / 月の影
「え゛、青さん働いてるの? 嘘だよね?」
「いきなり失礼すぎなんだけど……」
ここ数日で会得した、私が持ち合わせる常識では量れない相手なのだった。
「信じられない」
とまあそんなことは昔から知っていることなわけで。
「そういう朱穂は」
「んー、働いてたよ?」
「……過去形なんだ」
「今日辞めてきた」
「ええっ?」
知らず、声が上擦った。
「タイムリーでしたねー」
「そもそも何してたの」
「ひみちゅ」
「……あのさ」
「酔ってなーいよ」
「私の言葉を当てるなっ」
「えへへ」
「飲まないの?」
「じゃあ、これとこれとこれ」
「……こんな時間から食べ過ぎじゃない?」
「一緒に食べようよ。一緒に。ねっ?」
「……まあ、いいけど」
朱穂が頼んだのは、チーズの盛り合わせと鶏肉のアヒージョ、それにバゲットだ。
次いで、カシスソーダをひとつ頼んだ。
続く形で私もジャックダニエルのロックを注文した。
「おっとなー」
「大人ですから」
「青さんはいつだって大人だね」
「……そんなこと、ない」
「そう?」
ほどなくして言葉が途切れた。どちらからでもなく自然に。
店内のスピーカーから小気味の良いサウンドが流れる中、ほか数名の客は歓談に興じている真っ最中。
静かだな、と感じた。
「……あっという間だったね」
朱穂が呟く。
「最後に会ってから?」
「そうだね」
私の読みは外れた。……と、思う。
「あの日――」
朱穂の言うあの日、とは私が朱穂に出会ってしまった日の夜のことだ。
終電を逃した朱穂を私の家に招き入れた。その道中で電車に揺られながら、私と朱穂は深い眠りに落ちた。
そうして、いくつかの夢を見た。
夢の内容はすっかり忘れてしまったけれど。
「……もう思い出すのやめない?」
朱穂が過去の栄華に想いを馳せるのを見たくなかった。……なぜかって、そんなの恥ずかしくて口には出せないけれど。
「そだね。ごめんなさいっ」
昔と変わらない調子で、朱穂は笑いかけた。
やがて注文の品が来ると、朱穂はすぐさまグラスを空にしてみせた。
「ねえ青さん。青さんって今も一人暮らし?」
「今も昔も一人暮らしですが何か」
「今晩泊めてよ」
「無理」
「えー」
「無理なものは無理」
「ええーー」
「だから、語尾を増やすな!」
「終電、逃しちゃって」
「その手には乗らない。だいいち、まだ稼働してるから。電車」
「心の終電がもうないんです……」
「意味分からないし都合よすぎ」
次いで私は言う。
「…………でも」
「んー?」
まただ。
また、この顔だ。
きっと私がオーケーサインを出してくれると信じて疑わない、無邪気な笑み。
飯村朱穂は何も変わってはいなかったのだ。
そして私もまた、何も学んではいないのだと思う。
だってその証拠に、こんなにも心は躍っている。
「……知らない男につかまりそうだから、守ってあげる。今日だけね」
「ぷっ」
「~~~~~っ。なんでそこで笑うわけ」
「青さん不器用すぎっ」
「うぬぼれるな、このっっ」
「久しぶりに会うから緊張しちゃった?」
「そんなことない」
朱穂はいつも私の想像の外をゆく。それが少し羨ましくて、同時に腹立たしかった。無邪気な笑みと悪魔的な笑みを内包した朱穂の表情は、感情も感性も非常に豊かな証なのだと思う。
私にはないものを持っている。
人間と関わることに意義を見出している表情だ。
「さっさと食べてくれる?」
「えー。一緒に食べようよ。一緒に!」
「はいはい」
朱穂が今までどんな場所で過ごしていたのか。誰といて、どこで何をして、何を感じて生きていたのか。
それらを私は知らない。もちろん、知ったことは一度足りともなかった。
会ったのは実に1年と半年ぶりだったのだから。
「意外と部屋狭いんだね~。ベッド座ってもいい?」
返事を待つより早く、朱穂はベッドの縁に腰掛けていた。いいけど。
やはり朱穂はぶれないな、と思う。根っから失礼なところとか根っから失礼なところとかっっ。
「容赦のかけらもない」
「よく言われるっ」
当の本人は悪びれる様子もないまま、枕元に置かれた週刊誌を開いていた。
私の部屋。
たぶん特別なものはひとつとして存在しない、普通とされる空間。
ミニマリストという言葉が流行ったのも今や昔の話だ。しかし朱穂はというと、週刊誌を戻したかと思えば、爛々と目を輝かせながら部屋全体を見回していた。
「……楽しいものでもないよ?」
「いいのっ。わたしにとっては特別だから」
「特別って……」
もっと素敵なものとか、キレイなものを見た時に使うべきじゃないかな、その言葉は。
「そういう言葉が自然に出せるの、ちょっと羨ましい」
「もしかしてばかにしてないかな?」
「してない。本心」
普遍を特別と感じられる豊かな感性は、私にはないものだ。自分にないものは自分に分かるわけもなく、しかし輝いて映っていた。
「シャワーだけでいい?」
朱穂は頷きひとつで返事をした。
「青さんのシャンプー」
「別に、大したもの使ってない」
「青さんのもの、って付加価値だけでご飯が美味しいですっ」
よく分からなかったので頭を軽く小突いておいた。
「いーたーいー」
「早く入って。明日早いから」
「明日もお仕事?」
「そんな感じ」
「仕事とわたし、どっちが大事なのっ?」
「仕事」
「世界から仕事がなくなればいいのに」
「そんな時代は来ないんじゃないかな……人間が人間である以上はさ」
仕事は人間が必要とする営みのうちの一つだ、と私は思う。
「わたし人間じゃないので」
「はいはい」
風呂入って、と手振りで朱穂を誘導しようとする。
「着替え持ってる……わけないか。ちょっと待ってて。……ええと……これでいい?」
大きめサイズのTシャツを手渡した。
何枚か替えがあるうちの一枚。部屋で着るには非常に着心地も動きやすさも抜群だ。
「うんっ、ありがとー」
朱穂が風呂場に入るのを見届けた後。
「これって夢だよね?」
私は、私のおかれている状況を夢だとしか思えなかった。
消灯された自室。
いつもならすぐに眠りにつく私が、今日は目を閉じることさえ難しい。
横向きに寝転がりながら、自身の鼓動を鮮明に感じ取ってしまう。逸る心臓の動きに伴い、身体ごと揺らされているような感覚すら抱く。
ギシ、とベッドのスプリングが音を立てた。静かだ。ここにいるのは私だけではないのに。
朱穂がつぶやいた。
「……寝よっか?」
「うん」
ボリュームを抑えすぎて、返事をした私の声はかすれていた。
ふふっ、と朱穂は私の背中で笑っていた。何がそんなにおかしいの? 酔いはとっくに醒めているでしょう?
――あぁ、またこれだ。
私っていつの間にか、生活とか仕事とか放っておいて、朱穂のことばかり考えてる。
最初に朱穂と会ったあの時もそうだった。単純な好奇心に急かされて、ライブの余韻だって置き去りにしてしまった。
「……朱穂」
「んー?」
「……………………」
「んーー?」
「……なんでもない。おやすみ」
「……ん。おやすみ」
聞きたいことはたくさんあった。
次って何の仕事するの? なんで私のいる場所わかったの? 明日何時に起きよっか? いつ帰るの? 明日暇なの? とか。
けれどそのどれも聞けなかった。踏み込んでしまったら、終わる気がしていた。
私は私の予防線を、今でも引き続けていたのだ。
……まるで踏み越えられるのを待ってるみたいに。
「――ねえ、青さん?」
後ろから手が回される。頭から肩、肩から腕、腕から腰へとゆっくり移動する。
くすぐったい。声が出そうになる。でも止めてほしいと思わない。不思議な気持ち。怖い。自分の気持ちの行き先がわからなくて怖い。
……あれ、さっき返事、したっけ。
「青さーん……?」
朱穂から回された手を握る。
「ごめんね。ありがと」
「どうして、謝るの」
「だってわたし、隠してること、いっぱいあるよ?」
囁くように朱穂は言った。言葉はどこか甘美な色気さえ含んでいるように思え、知らず、胸が高鳴った。
「隠してることって、なに」
身体を半回転させ、朱穂の方に向きなおった。…………ち、近い。
吐息の熱まで感じられるほど接近していてなお、朱穂はその表情を、仕草を、何一つ崩しはしなかった。
……私だけ動揺して、なんだかばかみたいだ。
「うーん」
朱穂の隠していることの、そのすべてを知ることができたなら、私と朱穂はもっと近い関係でいられる?
……きっと、そうじゃない、と思う。
「ひみちゅ」
「また、それ」
「……ふふっ」
「でもまあ、別にいい」
「いいの……?」
「無理して言ってもらう方が嫌だから」
気持ちと言動がひどく乖離している。気持ちの所在は落としどころを持たないまま、ふわふわと胸の中をさまよっている。
言葉はそのままの意味で、朱穂へと伝わっていく。伝わってしまう。
「……ん。ならいい」
「……………………でもさ」
「ん?」
「代わりに、抱きしめて」
「うん」
驚くほどすんなりと朱穂は私のお願いを受け入れてしまうのだった。
少し身体を起こすと、すぐさま朱穂の両腕が私の背中に回される。あたたかい。
そのまま、私が朱穂に覆い被さる形となった。
「苦しくない?」
「だいじょぶ」
苦しいのはこっちだ。朱穂を前にするとどうしてか素直になれなかった。
「青さん」
「え?」
「好き」
条件反射的に、布団で顔を隠した。
それからすぐに、朱穂の両腕から身体を剥がし、再び背を向ける。
「…………おやすみ」
「むー」
「おやすみっ」
呼吸が、乱れている。
――たった二文字。それだけでどうしようもなく乱されてしまう自分がきらいだ。
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