配列05 / 月の影

その日、私は陽射しの降り注ぐ中、ヒールをかつかつと鳴らして歩いていた。

急いでいたわけではない。目的があったわけでもない。

ただ、何の気なしに歩く同性や同期、はたまた上司の傲岸不遜な顔つきに嫌気が差していたのかもしれない。

ここの人間はあまり好きではなかった。

「……ったく、早く帰らせろー……っての」

オフィスワークに慣れ親しんでどれほどの時間が過ぎただろう。今では仕事に忙殺される日々を送るばかりだが、これは非常に良くないなと思う。

かつて学生服に身を包んでいた懐かしくも輝かしい日々は、もう二度と戻りはしないのだと実感したのはつい最近のこと。

「……っあーだめだめ、マイナス思考は何も生まないって学習したばかりでしょうに」

週刊には七通りの法則があって、それを守るだけで人間何とかなっちゃうみたいな有名な自己啓発本を読破したのは昨日のことだ。

それでも私は、ここの人間は好きになれなかった。

ううん、もっと言えば――自分と遠い距離にいる人間はみな、汚れているように見えた。

それだけのことだ。

だから好きじゃない――嫌い。簡単なことでしょう?

「青さん青さん、すみません、ちょっと伺いたいんですが……これの承認ってどの手順でやるんでしたっけ?」

自席に戻ると、隣席の新人から質問攻めにあった。

「管理者に提示。そしたらトークンもらって解決」

繰り返される質問と、それに対する簡素な受け答えをその後6回くらい繰り返した。

「ふう」

……疲れたな、なんか。

「ちょっと休憩いってきます」

私の言への返事は誰からもなかったのだった。


街全体の眺望。

都市を象徴する赤い塔、その子どものように並び立つビル群、空を切る赤い光、その下に群がる人、人、人。

「ふう……」

景色から目を離し、紫煙を燻らす。

「にしても、青さん、か」

そのように呼ばれるようになったのは、いつのことだったか。誰かの呼び方を、気づけば皆が真似していったように思える。今では慣れてしまったものの、それでも多分に気恥ずかしさがあった。

「最初は……そっか。そういえば」

記憶からはすぐに取り出すことができた、最初の日。

突然に出会ったかと思えば、いきなり私を指差して青さんだと呼んだ女がいた。

飯村朱穂。

「飯村、朱穂」

何年振りかにこぼしたその名前は、不思議と抵抗も違和感もなくするりと口から出ていった。

そして出て行ったかと思えば、私の頭の中に停滞している感覚もあった。

「すぅー……」

じじ、と静かに煙草の先端が音を立て、より一層赤くなった。

「お疲れ様。なんか荒立ってない?」

「別に」

声をかけてきたのは私の同期だ。同期だった気がする。同期だったっけ?

名前は……確か……?

「春日井だけど」

「……あの、声、漏れてた?」

「やっぱ疲れてるんだな」

「ごめん。本当に忘れてた。忙しくて」

「……それは心外……」

「だって、部署も違うし業務内容だって別物。同期なんか入ったそばから皆辞めていくんだから、残っているのを覚える方が大変」

「アウトオブメモリーってか」

「仰るとおり」

「ふうん」

春日井は煙草をくわえる前に、

「そういえばUL打ち上げ、参加する? メール飛んでたよな」

「ああ……うーん」

「面倒だよな。上の人間も同席するって話だし。おれはパスするつもり」

社交的なやつかと思ったら、案外そうでもないらしい。

「意外」

「パワハラには屈しない主義だ」

ただの出欠確認をパワハラと称すのは如何なものかと思う。

「たまには同期メンバーでも集めてさ、飲み行かない?」

「打ち上げの日に、ってこと?」

「それでもいい」

「それじゃあULがいないし意味ないんじゃ」

「じゃあ別日だな」

「まあ、いいけど」

どうせ独り身ですし?

「おっけ。また連絡するわ」

春日井は灰皿に煙草をねじ込む――煙草はまだ半分以上も残っていたけど――と、

「それじゃ。お互い、無理ない程度に頑張ろうな」

「そうねー」

喫煙室の分厚い扉が重い音を立てて閉まる。

春日井のいなくなった喫煙室は元の通りすっかり静まり返ったのだった。

「すぅー……はぁー……」

こんなにノリの悪い女を誘って、春日井は何が楽しいのだろう。

よく分からなかったけれど、実のところ私自身も飲み会に行きたいか行きたくないかさえ分からなかった。

「戻ろ」

………………

…………

……


時刻は20時を回ろうというところ。

世間様はいわゆる華の金曜日。私は孤独をもてあそぶ。

「……はあ」

自然、溜め息がこぼれた。

いくら他者を嫌い嫌いと言っていても、結局のところ一人ぼっちな自分様が一番寂しいのだ。情けないことこの上なくってもう。

私はどうしても一人にはなれなかった。

当然っちゃ当然、だって本気で一人がいいだなんて思っていないんだから。

「寂しい、なあ」

小さな呟きは電車の揺れにかき消える。


……それでも、相手が誰でもいいってわけじゃない。


時刻は21時を回っていた。

カラン、とグラスと氷のぶつかる音がした。

透明なドリンクはオレンジ色の光を浴びて、妖しく反射している。

私では地に足のつかないカウンター席。

光の街。

その光の当たらない影の場所。

自身が普段生きている世界との乖離に、現実感を喪失しそうにもなる。

それは目の前に置かれた透明な液体がそうさせているのか、それとも。

「――ぷはっ」

一気に口内へ流し込み、嚥下した。

……私はこの時間が好きだ。

誰にも邪魔されることのない、ひとり夜に耽る瞬間が好きだ。

周囲の喧騒は私の方までは届かないから。届いても意味をなさないものだから。届かないのと同じ。

……けれど。

独りがいいってわけじゃない。孤独を愛するには私はまだ幼すぎたし、真の意味で他の誰とも接続しない状態は、もはや人とは呼べないものだ。

接続していないと、人は人を認識できないししてくれないのだから。

それでも人でい続けられるほど、私は強くない。

だからつい気分で、酩酊に浸りたくなる時だってある。

その時々の気分でどうとでもなってしまう自身のスタンスには自分自身でも振り回されつつ、すっかり慣れたものだ。

一人でいたい時もあれば、独りを厭うこともある。

きっとめんどくさい女なのだろう。我ながら、そう思った。

「わたしは私のうちにある世界を、ほんの少しだけ外に出してやれるだけだよ、ってね……」

そんな詩を歌ったのも昔の話。今では自分の世界なんて指の先ほども残っていない。六次的な隔たりのどこにでも私は立っているのだ。

酩酊は詩的な頃の自分をどこかからか連れてくる。今では創作活動などは遠い日の夢のようなものだ――音楽なんかは特に――。

「……でも、そういえば」

ふと思い出す。

私は本当は、あのとき、赤色が好きだったのだ。

「すみません」

「?」

「隣、いいですか?」

「ええ、どうぞ」

「…………………………って」

「ふふ」

「…………朱穂???」

そしてそれは今でも変わらない、古びた過去の中で燦然と輝き続ける、私の標。


から後のことはたぶん神様とかそういうよく分かんない存在が決めてくれたのだ。

これは未来に起きた、かつての私の運命をゆだねた結果のお話だ。

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