うんち
第6話 かつて見た子どもの王国
私は夢を見た
とても古い夢だ
なにもない部屋に
赤い玉座がひとつ
パーティー帽子を被った私が
ただ一人笑っている
私は夢を見た
とても古い夢だ
子どもたちが広い遊び場で
楽しくボール遊びをしている
芝生はドームに囲われて
天井には網目のガラス
目の前には
白い布の被り物をした
実体のない大人
彼が私に近づいて
私を遊び場から連れていく
誰も知らないドームの外へ
外には廊下
暗い蛍光灯
静かな病院
足音
先もなく後もなく
延々と続くひとつの無明
何をするでもなく
どこにいくでもなく
私をどこかへ連れていく
私は夢を見た
とても古い夢だ
私だけが
大人になれない日
***
「・・・生存者だって?」
「ええ、下水道の中で学生が1人見つかったそうです」
「容態はどうなってる」
「重症です。意識がほとんどありませんし、脈も弱い。それに・・・」
「それに、何だ」
「これを見てください。ウンチゲリノプロパン、ベンピクソチルゲリキレジー。知ってますか?これらは最近『指定薬物』として法規制を受けた劇薬ですよ。本来一般人が持っていいはずの物じゃない」
「彼はそれを使ったと?」
「ええ、ですから意識が戻るかどうか」
「・・・とにかく救護班を要請しろ。意識が戻ったら直接聞く。それから」
「この件は決して外部に漏らすな。上層部と私たちだけで処理する。内密にな」
俺は意識が曖昧だった。
誰かが俺を、どこかへ連れていく。
しくじったか。
俺は周りを置いて出てしまった。
***
目が覚めたとき、俺は病院の中にいた。
辺りを見渡す。見覚えのない場所だ。暗い部屋。壁の色は白いようだが、どうも明かりが弱いらしく世界が灰色に見える。壁の上の方には長方形の大きな窓がある。そこからスーツを着た奴らが何人か俺を見ている。俺の容態をみて頷いたり隣の奴とボソボソ何か話しているのが見える。なにも聞こえないが。
「気がついたかな?」
目が冴えてきた。俺の前に誰かがいる。
「誰だ、アンタ」
「私の事を深く知る必要はないよ、高橋君。だがそれで満足しないようであれば、私のことをモーリス博士と呼んでくれて構わない。知人に頼まれて不可解な事件の解決に協力している。もちろん、私の善意でね」
「・・・なぜ俺の名を」
「君のことを調べさせてもらったよ。事件の容疑者として。・・・ウンコ製薬襲撃事件。心当たりは?」
「さあ、まったく」
「若いのにニュースも見ないなんて感心しないな。・・・では言い方を変えよう。ウンコ製薬なら君も知っているだろう。若い子の間で人気だそうじゃないか」
おそらくモーリス博士は「子どもたばこ」のことを言っているんだと思う。健康エキスに中毒成分を配合した誰もが楽しめるシガレット。あんなものが厚労省の認可を得たなんて信じられんが、かつて反骨性の象徴であった「たばこ」を社会順応的な「健康」に摩り替えたウンコ製薬の功績は大きい。皮肉なことに現代における反骨性は「禁煙をすること」らしく、彼らは無意識のうちに厚労省の意の中にあるというわけだ。
「そのウンコ製薬だが・・・研究所に何者かが侵入し、いくつかの危険薬物を盗みだした。いずれもまだ社会に広く出回っていない薬品で、扱いに十分危険が伴うものだ。それで国家転覆を狙うテロ組織に渡ることを何としても防ぎたい政府の意向で、急きょ対策本部が敷かれたのが昨日。まあ、そんなことするまでもなく現代の優れたテクノロジーと、我らの治安維持に対する『偏執狂的な』国民性をもってすれば、容疑者を割り出すことなど1日もかからない。そうして見つけたのが君だ」
博士はライトの明かりをつけた。
「私たちは君の消息を追った。この監視社会において君を追うことなど造作もないこと。君がマンホールの中に入っていく姿がカメラに写っていたよ。下水道。どうしてそんな場所に入り込んだか理解できないが、下水を好むドブネズミがよくやりそうなことだ。『国家転覆』『テロリズム』。私はすぐさま警護を向かわせた。君に存在が悟られないようこっそりとな。しかし奇妙なことに下水に入ってから約20分後、警護隊が君を発見したとき、君は意識不明の重体で倒れていた・・・それも一人で」
「国家転覆!」
俺はわざとらしく言ってやった。
「冗談だろ。俺はただ・・・自殺を図っただけだ。あそこだと人目がつかないからな。こんなクソッタレな社会に希望なんてない。いいか、アンタみたいな高給要職にありつけるほど、誰もがみんながみんな恵まれてるわけじゃねえんだ。あんたにはわからんだろうが、俺は小さい頃から煮え湯を飲まされてきたんだ。恵まれて育ったアンタ以上にな。それで俺の心はゆがんだ。誰も信じられなくなった。・・・俺は社会から見捨てられた哀れな人間だ。若者らしい服装もしてない。人と心から分かち合うことができない。俺には知恵も、体力も、金も、なんにもない。そんな底辺に追いやられた人間の末路は?俺と境遇を同じくする同類どもが、俺よりも認められたくて、俺より何かができることをいちいち鼻にかけているってことさ。哀れだろ。所詮どんぐりの背比べ、些細なことで『俺の方が給料いい!俺の方が体力ある!』なんて比較したところで俺らが社会に見捨てられた存在ってことには変わりねえのにな。そういうわけで俺はこの社会が大嫌いだ。自殺こそ救いに思えたね。宗教に没入する人間どもの愚かさに同情するよ。俺ですら神にすがらなけりゃ生を長らえることすらできなかったんだからな。だけどそれももう終わり。俺は天国に行きたかった。だから人目につかない下水道を選んだ。俺にふさわしい末路だろ」
そう言い終えた時、俺は機械に縛られていることに気がついた。
「それよりもこの機械を外せよ。クソッ!一般人にこんなことして許されると思ってんのか」
「まあまあ、落ち着きたまえ、高橋君。コーヒーでもどうかね。ん?気持ちが和らぐぞ」
「いらねえよ」
「結構・・・だが心配には及ばない。私は君に危害を加えるつもりが一切ないのだから。もっとも私の言うことを素直に従ってもらえればだがね。さもなければ私の孫が好むような醜悪な痴態を世に晒すことになる。・・・まあ冗談はさておき、本題に入るとしよう」
「高橋君、申し訳ないが私には君の苦労話に耳を傾けている時間的猶予はない。事態は急を要する。上層部をあまりに長くお待たせすることはできないからね。しかしそれでも、君がおせっかいにもあのくだらないお涙頂戴話に同情してほしいと思うのであれば、私がこれからするいくつかの質問に迅速かつ的確に答える努力をした方がいいだろう。なぜなら時間というのは、効率的に用いれば用いるほど余剰が生まれるからだ。暇な時間があれば無駄なことにつかえるだろう?・・・さて、私が君に頼みたいいくつかの質問だが、それほど難しい問題じゃない。私が思うに、君にとってはごく簡単なものだ。テスト範囲を記憶した優等生が満点をとるようにね・・・失礼、学生時代に成績があまり良くないんだったね」
博士はクリップボードに何やら書きこんでそういった。
「モーリス博士、俺はあんたの思い通りにはならないぞ」
「おや、そうかね。だが君はものの5分で真実を白状することになる。試してみようじゃないか」
そう言うと、博士は俺に人差し指を突きつけた。
「第一に」
博士は白っぽい粉の入った袋を俺に見せてこう言った。
「この粉のことは知っているかね?」
「そんなものは、知らない」
俺は嘘をついた。しばらく博士は沈黙したが、見透かされていたようだった。
「高橋君、君のことはわかっているんだ。わがウンコ製薬の研究所から重大な盗難が行われたこと、その正体がこれであること、そしてその犯人が君であることもね。ウソはいけないな、高橋君。君が私にウソをつくなら、私も君にウソをつかなければならない。たとえば」
博士は奇妙な実験器具を取り出してこういった。
「高橋君、人間の最大の苦しみというのは2種類あるそうじゃないかね。ひとつは精神的苦痛、そしてもうひとつは肉体的苦痛だ。わからないかね?人間がこの世に生を受けて以来、死ぬまで被害を受け続けるのが精神的苦痛だ。そしてそれに匹敵する肉体的苦痛というのは、たとえばキンタマを潰されるようなことを言うのだろう?」
俺は冷や汗をかいた。
「ハハハ、結構なことだ。だが安心したまえ。これがウソであるかホントであるかは君自身が決められるのだ。さあ質問に答えろ。この粉のことは知っているね?」
俺は小さく頷いた。
「この粉はクスリだ。それも劇薬。ウンチゲリノプロパン、ベンピクソチルゲリキレジーの化合物。君はこれを何の用途で扱うか知っているだろう」
俺は黙っていた。
「この薬物はおそらく誰も知らない。多くの人間にとってはね。私でさえ、科学情報誌のコラムで偶然見つけたものだ。簡単に言えば精神を分解するもの、分解し再結合するもの。再結合された精神は、現実のそれとはまったく異なるものになるようだ。それに興味深いのは、再結合された精神を誰かと共有できるという点だな…」
そう言うと博士は俺に写真を見せた。ロシア風の顔立ちだが、見たことのある顔だ。
「この男がコラムに載っていた。『異世界漂流概論』という書物の抜粋とともに。彼の名はアレクセイ=ウンコスキー。聞いたことは?」
返答に迷ったが、モーリス博士は答えを求めていないようだった。
「ウンコスキー。ロシアの異端児。私は学会で彼に一度あった。彼は狂人だよ。この書物にある通り、異世界は存在すると痛切に訴えていた。馬鹿げているだろう?だが彼の理論を覆せる者は誰もいなかった。勿論動物実験は行った。しかし動物たちが何を見ているかなんて、どうしてわかる?少なくともこれは生物の主観に関わる問題だ。皮肉なことだが、この学会においてウンコスキーは誰よりも実証的だったし、学会において最も実証的だったはずの教授たちが、生物倫理だの何だのいってお得意の検証を避けていたのは残念だった・・・」
博士は苦々しい笑みを浮かべてこちらを向いた。
「君は彼の書を読み、それを実践した。そうだろう」
「・・・・・・」
「さて、本当に聞きたいのはここからだ。君はあのクスリを吸い込んだ後いったい何を見た?ウンコスキーの説が正しければ君は異世界に飛んだはず。異世界には何があった?人はいたのか?怪物は?その奥にあったものは?」
俺は答える気にならなかった。
「あんたに言う必要はない」
「キンタマは?」
「必要ない」
「結構」
博士はそういうとまた別の機械を取り出した。
「さて高橋君、君のご自慢の口はつまらない見栄と尊厳を守るために堅く閉ざしているようだ。だが君はこんな僅かな粉薬のために精神の鍵を痴呆の神に譲り渡し、かつて異世界を飛び回ったのだろう?クスリ、ダメ、ゼッタイ。しかし君はその誘惑に負けてしまった。要するに君の意思はそれほど堅くないというわけだ。そこでこの機械にかかれば、君の堅牢なる口は腐食した鍵穴の如く簡単にこじ開けられ、鯉の如くパクパクと、坊主の如くポクポクと、君の知るあらゆることを洗いざらい話すことになるだろう。私はただ君の見た異世界が知りたいだけなのだが、君はそればかりでなく、過去のトラウマやスケベな妄想までうっかりと語ってしまうのだ。さあ、最後のチャンスだ。言うか、言わないか?」
迷惑をかけたくない、という思いがあった。たくさんの人に救ってもらったし、恩があったからだ。だけど、敢えて言った方がいいんじゃないか、とも思う。こいつらの正体はよく分からないが、少なくとも「あの」異世界を変える1つの契機にはなる。ひどく陰鬱な世界。闇の勢力が光を覆うあの世界では。
「・・・わかった、教えよう。俺が見た世界のことを」
***
「モーリス博士、あんた俺がこの世界に戻ってきてからどのくらい経った」
「また奇妙なことを。先日研究室から薬品を盗んでまだ5日ほどだろう」
「アンタにとってはな。俺らの世界では事情が違う。この世界の時間の流れとはまったくの別なんだ。俺は・・・そう。あそこに20年ほど近くいた」
「なに、20年だと」
「驚いたよ。現実だと俺はもう40歳だからな。今でも20の体であることに感動すら覚えている。まあ異世界に長くいて正気を保っていられる方が驚きだがね。あそこはひどい場所だった。自分が住んでいる世界を『本当にある世界』と思えなかったらやっていけなかった。今でもどこかにあると思っている。どこにあるか知らんけどな」
「君はどうやって異世界から帰ってこれたんだ?」
「俺は時空の歪みを経て異世界にやってきた。だから同じ時空の歪みを見つけて帰ってきたんだ。みつけるのにとても苦労したよ。何せ20年かかったからな。例の帝国を散々に蹴散らした後に王と司祭を騙くらかしてようやく見つけたのだ」
「すると、戻る手段はほとんど無いのかね」
「ああ。歪みは希少なんだ。異世界の住人だってそれを知ってる。そこから来る奴の危険性も。だから扱いに慎重になる。それを巡って宗教が生まれたし、戦争も起きた。俺が神の使いのように扱われたりしてな。あれは傑作だった。『タカハシ様!我々に啓示を!我々に新たな光を!』もともと俺なんか、昼遅くに起きてずっとゲーム、それから夜中コンビニバイトで生計を立てていたフリーターだった。だから笑っちまうんだよな。この世界を作った創造主様も、案外照れ屋でうだつの上がらない、どこにでもいそうなフリーターかもしれないぞ。・・・とまあ俺の知ってるのは大体こんなところだ。他にも野生ウサギの食べ方とか、北の土人の風習なんかも語ることもできるが、アンタには知る必要ないだろ」
「ふむ、やはりそうか・・・」
「今度は俺の質問に答えてもらっていいかな、モーリス博士」
「ああ。何かね」
「アンタたちは何で俺のことを調べてんだ?アンタといい、あの壁の向こうで俺の動向をじろじろ見てるお偉方といい、単なる盗難の事情聴衆にしちゃ、扱いが深刻すぎないか?」
モーリス博士はしばらく黙っていたが、
「君はただ質問に答えていればいいのだ」
という他に、言い訳を思いつかなかったらしい。
「そうですか。じゃあ、ウソにはウソで返さないといけないな。人間の最大の苦しみというのは2種類あるそうじゃないかね」
俺は殺傷魔法の態勢に入った。指先から光の胞子を放ち周辺機器に打撃を与えて威嚇した。研究員はどよめいたが博士は周りより少し冷静だった。
「ぐ、分かった。分かったからその光をしまえ。・・・ただしこれは極秘だぞ。君が協力してくれるなら隠す必要もないのだが」
「内容によるだろ」
***
「実は・・・我々も異世界を追っていたのだ。とある上級議員の命でな。異世界の研究と国策の関係についてしばしば利権が掴めないかというお達しが来ていた。彼の考えていることは私にもわからん。ただ、もし異世界が本当にあるとしたら、そしてその中で時間の流れを短縮できるとしたら。幅広く多くの人間が異世界に移動できるシステムを彼はたちまち構築してしまうだろう・・・政財官のコネを駆使してな。つまりIT革命以来の、新たな金の流れが生まれるということだ」
異世界に多くの人間を送る?バカげていると思った。
「あー、博士、残念だがそりゃ無理だ。異世界に行けるのは『学生時代に特定の友達を有さず、本ばかりを読み、人間関係が不得手な人間ばかり』でないといけないんだ。でないと異世界に飛ぶ過程で死ぬ。ウンコスキーの本にそう書いてあっただろ」
「そんなことは分かっている。だが高橋君、現在我が国では年々自殺率が増加し、生きる希望を持てない若者が年々増えているということを知っているかね?国民アンケートによれば現実世界に希望が見いだせないとする回答が実に5割を超えている。さらにデータによると、彼らは自分で友人をつくることが苦痛らしい。わかるかね?もはや国民の半分が、人間関係の不得手な人間ばかりなのだ。彼らに対する年金補助は、これから先の少子高齢化に対して重荷でしかない!彼らは現実から逃避したがり、我々は彼らの負担を減らしたい。Win-Winではないかね?彼らが現実から消え失せ、異世界に逃避してくれることが社会と異世界の共存につながるのだよ」
博士の独善的な考えに俺はイラついた。
「それはアンタのエゴだ。第一、もしそれが成功したとしても、だ。いきなり大勢の人間が異世界に来て異世界はどうなる。何も起こらないわけがないだろう。大航海時代のコロンブス、フロンティア時代のピルグリム・ファーザーズ、あるいは現代の『戦争難民』たちが、新たな土地を求めて彷徨い歩いたときその結果は決まってこうだ。元から住んでいた人間と、新たに入り込んできた人間との対立。確執。アンタらが一斉に異世界に難民を送り込むとき、もともと住んでいた連中はどうなる?きっとモーリス博士のご自宅なら、100人の来客を抱え込んでも気前よく全員にビールを振る舞うんだろうな」
「放っておけばいい。異世界の人間は我々に到底及ばぬほど野蛮な連中だ。宗教だと?戦争だと?それに野生ウサギの調理法?そんなものは文明化されたこの時代に似つかわしくないよ。いいかね高橋君。我々は科学者の立場から、また1人の政治に参加する者の立場から言わせてもらうが、我々は我々の独力で宗教を克服し、戦争を克服し、野生ウサギの調理を克服したのだ。もちろん部分的にだがね。そしてこれからも克服していくだろう。高橋君、人間の歴史はcolonization(植民地化)の過程にすぎないのだ。野蛮な文明を高度な文明が食らう。世界はおよそそうして作り上げられてきたのだろう。我々は常にこれ以上維持ができない社会の『余剰』を植民地に送り出してきた。彼らは己の鬱然とした環境からの解放を求め、メーテルリンクの青い鳥よろしくおおらかな自由を求め新大陸へと向かうのだ。イギリス人はアメリカに、スペイン人は南米に、そして我々は異世界に、だな」
「『余剰』とは何か。それは君たちのことだ。君たちは社会に貢献する術を持たず、家の中で陳腐な妄想と共に、起きて食ってはクソして寝る生活に甘んじている。社会の成功者を妬み、自分の劣悪な環境を社会のせいにして憂さを晴らす。自分が被害者だと信じてやまない。・・・そうでもしないと生きる希望を見いだせないからね。そうして自分は特別だと思っているんだ。だが、君らは社会不適合者だ。現実社会でもはや君らにできることは何もない。あるとすれば・・・そう、異世界漂流しかない。そしてこれ君ら自身が求めていたことだ」
「いいかね。何度も言うが君らは現代という豊かな社会が生んだ『余剰』にすぎないのだ。あらゆる無駄を省くというのがマーケットの原則である昨今、『余剰』による社会参画の意思がないのなら、彼らを追いやってなにが悪い?しかも彼らが異世界ファンタジーだか何だかの影響で心から切望していたあの異世界に招待してやるんだぞ。そこで何のリスクがあろうが私の知ったことじゃないよ。移民とどうつきあっていくか・・・それは彼らと異世界の住人次第だろう」
「話を逸らすなよ。俺が聞いてんのは『異世界の住人』のことだ。確かに俺ら社会不適合者には異世界漂流の動機がある。だが、問題はそこじゃない。異世界の住人にとってはどうなのかってことだ。異世界には異世界の秩序がある。ルールがある。習慣がある。彼らの価値観がある。考えたことがあるのか?俺は20年そこにいたから言わせてもらうが、彼らが異世界で対立し闘争する最大の要因は『漂流者』だった。俺の時はまだマシだったが、数十年前、ウンコスキーの旅団が異世界を訪れたとき、異世界は一度地獄を見ているんだ。だから俺は最初の数年間は、どこへ行っても警戒された。モーリス博士、俺らは『戦争の火種』なんだよ。いつ本土人がこの異世界を侵略するかってビクビクしながら生きてるやつもいれば、俺らを利用して異世界を統治したがる奴もいる。俺を神として崇めるやつ、或いは暗殺の対象にしていたやつもいた。いいか、俺が見てきたものだけでさえこれなんだぞ。ここに何万の社会不適合者を送ってみろ。結果は火を見るより明らかだ。博士、アンタは彼らをそっとしてはおけないのか?」
「ではそのために社会不適合者を見殺しにしろと?」
「・・・」
「今この瞬間でさえ、何万人もの社会不適合者が穏やかな死を待っている。そしてその数は年々増え続けている・・・いったいなぜこうなってしまったのか?それは彼らの居場所がないからじゃないのかね」
「だが博士」
「君の考えは有意なものではあるが、まずは君らの現実を直視したまえ。君は異世界に住んでいたから文句ないだろうが、20年前に君が異世界に行かなければどうなっていたか想像するがいい。妄想に逃げるばかりの人生は虚しいものだぞ」
「・・・・・・」
俺はしばらく考えた。俺は20年間異世界を旅して周り、ようやく現実にたどり着いた。俺はその間生きるのに必死だったし、現実の方がまだマシだと思っていた。だが、クソッ、確かにモーリス博士の言う通りだ。異世界での俺の人生は確かに充実していた。生きている実感があった。昼は野盗と怪物相手に狩りの技術を磨き上げ、夜は酒場で大いに笑う。ギルドの精鋭として帝国に招聘されたこともあった。俺は数多くの古典的なコミュニケーションによって現実で失われた心の交流を取り戻した。これは俺ばかりが享受すべきものじゃないはずだ。
現実では、無邪気にも異世界に飛びたいと思う人間が急増している。戦後のシステムを何も考えずに現在まで維持してきたことが原因だ。彼らはパターナルな年長者に対し「席を譲らなければならない」という強迫観念に襲われている。彼らの力点は年長者に対する労いのサービスであり、彼ら自身にはないのだ。そう思うと哀れになってくる。彼らを異世界に導いてあげることが、俺のできる唯一の救いかもしれない。
だがかれらは異世界に飛んで、異世界がそれほど幻想に満ちた夢の世界でないことを知るだろう。中世という時代に対して幻想を抱くこの国の若者は、中世という時代の暗黒性について何も目を向けていない。
たとえば中世ではペストが流行した。現代の優れた医療機関に囲われて温水に浸かって育った現代人からすれば中世への旅路は天国に旅立つような気分かもしれないが、そんなことはない。ペストの苦しみを彼らは知らないからそう言えるのだ。そして戦争。戦争を経験したことのない世代が戦争の苦しみを理解することはない。彼らは人を殺した経験がないからだ。飢えを凌ぐために泥水を飲んだ経験がないからだ。そして友人が殺されたことも。こうした気風から人間の不安と恐怖、そして猜疑心が募っていく。その結果が魔女狩りだ。誰もが世界から与えられる困難に対し、自らが持つ信仰を揺らがせる。結果、誰かを疑うことでしか自分を信じられなくなり、最後にはあらゆるものの血の惨劇で幕を閉じる。中世とはこういう時代なのだ。それを理解していない現実の若者は、俺が経験してきた数々の地獄を想像すらできないだろう。
俺の見てきた世界は・・・まさしく中世に近かった。剣と魔法のおとぎ話といえば聞こえはいいが、実際はもっと悲惨、もっと悪質、より根源的で野生に近い世界。何よりその世界の住人が現実のテクノロジーを破壊するほどの魔法を持ちながら、テクノロジーの発展が見られないという構造に彼らは注目すべきだ。魔法を知らない多くの現実世界の人間にとって、異世界は安易に植民していい場所じゃない。異世界に人を送り込むリスクというものは想像以上に大きい。
「モーリス博士。あんたは異世界というものを甘く見ている。確かに移民のはけ口には適しているだろう。実際、人間不信に陥っていた男が、異世界を訪れることでたちまち本来の強さを取り戻し、現にアンタの目の前でこうしてたくましくなっているのだから。だがそれで終わりじゃない。重要なのはこの世界と異世界は『つながっている』ってことなんだ。異世界の苦難と対立、そして飢え。これらに巻き込んだ人間がアンタの擁する上級議員の手によるものだと知ったら?彼らは俺が血眼になって探し求めたように時空の歪みを見つけ出し、上級議員やアンタ、それにアンタの仲間たちを次々に殺していくだろう」
博士は少し戦慄した。
「それでもやるかい?」
博士はしばらく考えたのち、こう返した
「・・・高橋君、この問題は私だけで判断することはできない。一旦休憩にしよう。ここで1時間ほど休みたまえ」
そういうと博士は鉄の拘束具を少し緩めた。
「1時間だって?そんな待ってたら異世界の・・・」
まてよ。俺は博士との問答に気を取られていて重大なことを見落としていた。そうだ。俺の仲間は?6人の勇敢な漂流者たちは?
「モーリス博士、その前に1つ」
「何かね」
「俺が発見された現場、確か下水道だったな」
「そうだ、あのクソまみれの汚い場所だ」
「そこにいたのは俺だけか?」
「ああ、君だけだったよ高橋君」
どういうことだ?俺以外の人間が消えてしまった。俺は異世界への漂流が精神と肉体の乖離だと認識していたが、どうやら違うらしい。身体そのものが消えてしまうのだ。こんなこと『異世界漂流概論』には書かれていなかったぞ。クソッ、ウンコスキーの野郎にしてやられた。これじゃあ彼らに会うどころか俺が飛ぶとき彼らの時間軸に調整することもできない。
待て、そうなると彼らが現実に帰ったときにどの時間に戻ったかということが分からないぞ。俺が発見されてもう数時間、未だ彼らが下水道で発見されたという報告は聞かない。いや、これだけ待って来なかったってことは、歪みを見つけられなかったんだろう。だが、じゃあなぜあの北の罅割の爺さんは遠征隊のことを知っていた・・・?時間の流れからして彼らが異世界に訪れたのは数十年前、つまり異世界では何百年も前だ。にも拘わらずあの長老はまるで数十年前の出来事のように語っていた・・・。
俺はまるで山田がよくやるように少し頭が混乱していたから、少し息を整えた。山田・・・。そういえば山田ってやつもいたな。あの時の俺は人が怖くて挙動不審で、なにもできなかった。だからやつの歪んだ性格を除けば俺にとって山田は目指したい目標だった。事実、17年ほど前に狼人間の群れに襲われたときも山田は巣に入って俺を助けてくれた。・・・素直になれない俺は山田のグループからそのまま離れたっけ。あれが彼らとの最後だと思うと、やるせない思いがある。
それに・・・俺の家族。20年間両親の顔を見ていない。ずっと恋しかった。クソッ、家族の尊さを今になって実感するとは。こんな放蕩息子でさえ、俺の家族は見捨てることはなかった。俺がどもりで人と話ができない人間だと分かっても、いつかお前は良くなるといってくれた。ものの20分かそこらで治っちまったんだから笑い話だが。山田や他の5人の件もあるが・・・彼らとはもう会えないだろう。普通の手段では。だが、とにかく今は家族に会いたい。俺は生きて帰ってこれたのだから。ちきしょう。いつになったらこの研究所は俺を解放してくれるのか。
***
「例の漂流者はどうだ」
「ええ、順調ですよ。上級議員。彼は思った以上のデータを我々に提供してくれそうです」
「というと?」
「ご覧になっていたと思いますが、彼は優秀です。多くの異世界漂流者が正気を失っているのに対し、彼だけは唯一現実をしっかりと捉えられている。彼を利用すれば確実に異世界の計画を進めることができましょう」
「ふむ、よくやった。モーリス博士。第一段階は達成できたということだな」
「ええ、ただ・・・」
「なんだ」
「異世界の反乱の問題。この件については検討外でした。彼によると異世界は現実と異なり魔法の力学に基づいてテクノロジー化がなされている。我々生態的な特徴を考えるならばこれは深刻なことですぞ。我々はこの1万年という人類の歴史の中で、外界の脅威に対しそのすべてを『物理的な外骨子』を形成することによって耐えてきたのですから。我々の生態的特徴は未だに脆い。炎に触ればやけどする。海に落ちれば溺れる。毒蛇にかまれれば死ぬ。魔法はその脅威を克服し、我々に与える可能性がある」
「では博士は異世界植民に反対だと?」
「いえ、リスクをご承知いただきたく」
「博士、この件はもう散々議論してきただろう。この社会が限界に近付きつつある中、我々にはもはや選択肢が残されていない。社会的弱者を異世界に送り出すことができれば、彼らに配慮してその費用を彼らに割くことはなくなるんだ。それが我々人類の存続にどれだけ寄与するか分かっているのか?それに優生学の観点からしても、人種的選別が極めて有意に行われる。科学と学問こそが人間の発展にかかせないものだ。人権だの宗教だのコンプライアンスだの、そうした無駄な要素がなければもっと素早く成果が得られたというのに」
「しかし彼が納得するかどうか」
「なるほど・・・よし。私が彼に会って直接話をしよう」
「は、本気ですか」
「ああ。おいお前、車の手配を」
そういうと彼は電話をガチャリと切った。
「フー、これでいいのか」
「おうどうした、モーリス。顔色わりいな」
同僚のデイビッドが私を励ます。
「彼は少し物事に無理やりな点がある。データも前例もない中、慎重な選択を怠るとどうなるかというのを、政治家は分かっていないのだ」
「ハンッ、あんな連中は国民が支配できればそれでいいのさ。それが破滅に近づことになろうともな」
「デイビッドもそう思うか?」
「だってそうだろ。優生学なんてイマドキ異端も異端、クソの理論よ。第一、優れた人間を意図的にまとめ上げるってのは、人間があらゆる点で『優れた点』を認識しているって前提がないと効果がねえ。まだ認識不足の中で人工的な選別を行ったら、人類がいまだに出くわしていない危機に対処できねえだろうし、新しいものも生み出す可能性を削ぐことになる。結局勉強ばかりやってきて評価を得てきたお坊ちゃんの考えそうなことだよな。もっとも秩序維持には適しているんだろうが」
「デイビッド、この社会はこれからどうなるのだろう」
「いずれ滅ぶ。近いうちにな。だが我々にとっては関係のないことだろう。俺らは異世界だろうが現実だろうが要職には変わりない。どっちかが危なくなったら反対側に逃げ込む。それだけさ。で、この技術を提供して生計を立てる」
「学者が勝つ時代か。なるほど、いい時代になったものだ」
「ああ。だからこそ俺らは政治家の言いなりになってればいいんだよ。愚直にな」
「ハハハハハハ」
「ハハハハハハ」
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