僕は苦しいです
第5話 724日の空白
「724日だって?何かの冗談だろう」
私は耳を疑った。耳クソのたまりすぎて聞き間違えたかな?いや、昨日掃除したからまんざらそうでもないか。じゃあ耳小骨か蝸牛に問題が?いや・・・
「残念ながら本当だ、山田」
「724日。たしかに僕はその間君が来るのを待っていたのだ」
「だがとにかく急いで、はやく村に逃げなくては。また狼男がやってくるぞ」
私は立て続けに起こる奇妙な現象の数々に頭がついていかなかった。少し頭が混乱している。とりあえず私の頭の中で整理してみよう。
まず私は田中の薬品を浴びて気を失った。で、気を失ってからしばらくすると私は空にいた。空にいりゃ誰だって落ちるだろ。で、高度数千メートルの高さから藁に堕ちた。それだけでも不思議なことだが、さらにそこに田中がいたことも不思議だった。なんで田中だけそこにいたんだ?で、それから天気がぐちゃぐちゃになって、私の頭もぐちゃぐちゃになった。そうだ、私は村に向かっていたのだ。それから村に向かって歩いていると、狼男が現れた。まあ人間の顔だったけれど。それを田中がかっこよく潰そうとしたら返り討ちにあって、まあ、ぶっ倒れた。
奇妙なことじゃないか?私は思った。何だって私はそれをありのまま受け入れられていたのだ?奇妙なことをどうして不自然にも思わず気分よく受け入れられたのだ?私はなぜ狼人間をわらっていられたのか?これは芝居ではないのか?そうだ、この世界は偽りだ。虚仮のはずだ。私はそう思っていた。
ではなぜ私はこの世界をおもしろがっていたのか?ようするにそれは、この非現実的倒錯状態においてメタ認知を必要としてしまったからではないか?ここが現実であると思えなければ、本気で生きようと思うことはないだろう。狼人間と戦おうとしないだろう。田中のよくわからないアクションも猿芝居だと鼻で笑うだろう。私はこの世界を一種の夢のように見ていたのだ。自己の解放?超越?大空を志向する鳥?全部夢だったじゃないか。そうでないと誰がいった?私にはなにも聞こえない。じゃあ私は・・・
「クソッ、いつまでチンタラしてんだ、世話のかかる」
私はハッと気がついた。また妄想に耽っていたのだ。
「わ、私は」
「お前はパニックに陥っている。とにかくついてこい」
私は考えるのをやめて村に急いだ。
***
NorthCranny村はウィンザール地方の北端に位置している。見ての通り雪は多く気候は荒い。およそ人の住む場所ではない。しかし何軒か木造の小屋があるところを見るとやはり誰か住んでいるようだ。それもこんな悪天候を好む物好き連中。
柵の向こうには馬小屋がある。驚いた、馬が住んでやがる。異世界と聞いたもんだからユニコーンとかケンタウロスとかそこらへんの怪物と共生しているのかと思ったが。何てことはない、現実を直視できないゴミが夢想した異世界は皮肉なことに現実とさほど変わらないってことだ。
それに馬乗りの連中。奴ら馬に何かしょいこんで金がどうの荷物がどうのとほざいているところを見ると、トレーダーか何からしい。ナイフとフォークに食料。布と染料みたいなものもあるな。それに本。彼らに提供しているものはどこからくるのだろう。いずれにせよこの村以外にも人間の共同体があるってことは理解できた。
門の前についた。怖い顔をした冴えない衛兵がいる。
「そこの者、止まれ。この村に何の用だ」
「くっせえ村だなあ。どおりで誰もいねえわけで」
「あ?」
「やめろ山田。俺だ、田中だ。この村の保安官だ」
「こいつは例の罅割の漂流者だ。長老に話をつける。中に入れろ」
「チッ・・・ また漂流者か、面倒事をもってきやがって」
「心配ない、俺がなんとかする」
「・・・好きにしな。NorthCrannyは誰でも漂流者を歓迎するぜ、誰でもな」
バリケードが開き村の門があいた。村人がチラホラいる。どいつも底辺暮らしか。良識のないサル共が収容されている檻。その監督官が田中というわけか?
「山田、村の人たちに不遜な行動は慎め。彼らは誇り高い人たちだ」
「え、ああ。悪かったよ。だけどこの暮らしぶりには笑えたんで」
「・・・忠告しといてやる。現実の価値観を一度捨てろ。さもないと痛い目にあうぞ」
田中が私に不満を漏らしたのは初めてだな。まあ田中と出会ったのはつい最近のことだし、前々からよく知っていたわけではないからな。所詮は他人だが、ここまで私を本気で忠告するとなると用心に越したことはない。用心は私が最も得意とする分野の一つだ。Discretion is the better part of valour. 君子危うきに近寄らずってね。ところでこのサル共が村に暮らしていたとなると、クソの後始末が大変だろうな。トイレはどこだ?私の記憶するところでは、日々の生活から「クソだしの記憶」を分離させるためには高度な下水処理が必要になってくる。つまり電力と水、それとパイプだな。ここのサルがそんな高度なテクノロジーを持てないにしても、この辺鄙な土地もあって、電力を都市部から供給するにはいささか面倒だ。つまりこいつらのクソ処理はのどかなカントリー流の「ぼっとんトイレ」に終始するわけだろう。農業もはかどるしな。だがここはツンドラだ。あるいはそれに類する気候。農業なんかできるわけねえだろ?だとしたら人糞を肥料にする必要性もない。こいつらは何の目的で人糞をこさえているのか?興味がわいてきたぞ。暇なときに究明でもしてやろう。
「君を村長に会わせる。くれぐれもさっきみたいな不敬は慎んでくれ」
「ああわかってるよ。それで、私になにをするんだ?」
「新顔はまず長老に顔合わせするところからはじまるんだ」
「それをやる必要は?」
「君に聞かせたい話がある。村と漂流者の関係について」
そういえば、村長とやらが村と漂流者の関係について知っているとか言ってたな。猿山の頂点に君臨するボスザルは今は老いたる耄碌ジジイ、なるほど田中が俺に聞かせたいのはジジイが宣う積年の妄想ファンタジーってわけだな。その武勇伝たるや数々の戦争経験と栄光の勝利、それと左胸にぶら下げてる金ぴか勲章。なに、それだけありゃぽっくりくたばったところで骨の飾りになるだろう。人間は死にかけた経験を美談にまくしたて挙げるのが好きだからな。ジジイになったんで今際になって生の証をしっかり残しておきたいんだろ。安易な発想。
「さて、ついたぞ。ここだ」
目の前には大きな木造小屋が立っている。BARと書いてあるところを見ると、ここがサル共が唯一無様にも喚いていられる「檻の外」らしい。作りはアメリカ風といったところか。西部劇のガンマンが酒場のウエスタンドアをバタンと開き、常連の差すような目線なんか気にもせず、目の前のカウンターに座って一言「マスター、うまいやつを頼む」なんて言いそうな陳腐な造形。驚いたことにここの連中は現実のそれとあまり遠くない文化の流れを汲んでいるらしい。実際、その方がタコタコ星人だかキノコ星人の触手が生えた「アール・ブリュット」的な建築様式を見せられるよりも都合のいいことだったから、私は深く詮索することなく酒場の門をくぐることにした。
しかし考えてみれば異世界の建築様式において根本的な異界性を追求する動きというものが現代に見られないというのはいかがなものか。確かに歴史を遡ること18世紀、イギリス流の「ピクチャレスク」はその審美性を幻想と荒廃に見ていたのは事実であったし、それはある種「異界への探求」を試みていた。しかしそれでさえ、現実という枠組みから生まれた芸術運動の1つにすぎない。私の友人が「ファンタジーは現実から離れた空想から生まれる」と安易に言ったものだが、それは果たして正しいのだろうか?異世界ファンタジー小説なんぞ書店に行けば腐るほどある。奴らの妄想は決まって「中世ヨーロッパ風」であるから自ら負けを認めたようなものだろう。つまりどこへいっても現実ありきのファンタジーってことだ。
ファンタジーはどこであろうと結局現実からのフィードバックで成り立っている。これが私の見た異世界の第一印象。この異世界を作り上げた創造主様には正直がっかりだね。見たこともない世界を見せられると思ったら、なんとまあ現実の様式を「切り貼りして」つくりあげたようなものだから。だってさ、このボロっちい小屋だってアメリカ風だぜ?外のツンドラはロシア風か?ハラショー!ハラショー!外に仲良く並んでそびえたってる高峰はミャンマー流?あそこで馬乗ってパカパカお馬さんごっこをやってる連中はジプシーか?いずれにせよ神は現代人でおわせられることは理解した。この「切り貼り」性こそ現代人の特徴だからだ。
現代について少し語るとしよう。現代というのは細分化された時代だ。たとえば君は傲慢にも人間の体について知りたいとする。どうやって理解する?頭の悪いサルが言うには「これが人間だよ!」ああ、いかにも、いかにも。これが人間だ。しかし人間が進化するにつれその価値観が微妙に変わってきた。人間は人間を分解することにしたのだ。これが頭です。これが胸です。これが腹です。これが腕です。これが手です。これが足です。どうです、「これが人間だよ!」ああ、いかにも、いかにも。しかしさらに人間が進化するとその価値観がさらに変わってくる。いいですか、これが頭です。頭の中には頭蓋骨と脳があります。脳はこれです。脳は3つの部分から構成されています。大脳、脳幹、そして小脳です。大脳は6つの部分から構成されています。すなわち前頭葉、中心溝、外側溝、頭頂葉、側頭葉、後頭葉・・・。
どういうことか分かるだろうか。つまりどんどん「細分化」されていく。研究対象をより細部まで分析し、分解し、そして統合する。これが現代的な科学の考え方。注目してもらいたいのは分解し、統合するという点。ここだ。これこそ私の言わんとしている「切り貼り」なのですよ。フラットに陳列された情報パーツ。これを駆使して面白いものを考えようとしたのが不幸の始まり、「切り貼り」時代の幕開けというわけだ。異世界ファンタジーはもともとヨーロッパと地続きだった。西欧の生活様式、宗教、社会関係。建築、そして歴史。アトモスフィアを理解するには実際にその場に行って体感する必要があった。しかし「切り貼り」の時代においては地続きなど無意味だ。コピー&ペーストで世界観を構築する。よし、なんかファンタジー作品でもつくっちゃるで。世界観はどうしよっかな。楽だし西欧ファンタジーでいいや。「西欧・中世・生活様式」で検索っと。お、この「ファンタジー辞典」ってサイトええな。クリック。ふむふむ、なーるほど、木造の家に広場に教会ね。はい完成!名前はNorthCrannyとでもしとくか?ファンタジーだから何か空想の動物出さんといかんな。まずはゴブリンでも配置しとくか。でヒロインを襲わせて主人公がそれを助ける!二人は幸せになりましたとさ。めでたしめでたし。
まったくどいつもこいつもだ。おい、世界中でこうなんだぞ。世界中がその史的リージョンに囚われないでみんながみんな同じように「切り貼り」してんだぞ。「切り貼り」のグローバリゼーションか?みんながみんなアメリカ的NINJAとSAMURAIにSO COOOL!なんだぞ。なるほど、つまり神は個性を失ったってわけだ。どこいっても異世界が現実の既視感から逃れられないのは神が神である理由を失ったからにほかならない。神は機械でもいいんじゃないか?「切り貼り」なら機械にでもできる。
つまりこの既視感がぬぐえない限り、私はこのクソッタレファンタジーを嘲笑し続ける。ここに住んでる連中も同様、どうせお前らなんかプロタゴニストたるこの私に比べて価値のない人間なんだから。所詮は代替可能なパーツ。それから・・・
「うるせええええええええええ!!!!!!!!!!!」
私はハッと驚いた。誰が私の心を読んだのか?だがそれはしばらくして杞憂であると分かった。バーの奥の席にいた古老人がビールをテーブルに叩きつけて大声で喚いたのだ。おそらくこの老人こそこの村の村長である。見た目は小汚らしく、ドブネズミが汚物を食い漁ってるようなブタ鼻、あとワキガ。こういうゴミこそ排水溝の底の底、わずかな金で息巻いてるお山の大将にふさわしい。
「おい若ぇの。さっきからボソボソうるせえんだよ。異世界ファンタジーがどうのこうのって」
後ろから声がした。振り向くとそこにも古ぼけジジイがいた。だがその風貌はあのドブネズミとは対称的に、清潔感があり良い家の出を思わせる。威厳のあるフードと紋章のついた杖。そしてやや長めの白鬚。私は不意をつかれた。
「え、どうして・・・」
「教えてやろうか。俺は人の心が読める。お前さんが今考えてる事がなーんでもわかっちまうんだよなあ。お前さん、あの空から降ってここに来たんだろ。そいつらがまず頭の中で考えることといったら異世界ファンタジーだ。どいつもこいつもくだらねえ。あんな連中の肩を持ったのは俺の不覚、人生最大の過ちってわけよ」
「長老、こちらが例の罅割の漂流者です」
「ああわかってるよ。この子が山田だろ。お初にお目にかかるよ」
「あ、あんたが長老か?」
「よく知ってるな。俺はNorthCrannyの村長、オールドマンよ。まあみんなオールド村長って呼んでるから君もそう呼んでくれていい。この村と仲良くやっていきたいならまず俺の顔を覚えろ。で、それができたら君に仮宿を提供することができる」
「それは感謝する。だが・・・」
「わかってるよ。お前さん不思議なんだろ。どうして漂流者を厚くもてなしてるかって。俺だって正直こんなことしたくないね。村をこんなボロボロにした連中を招き入れるなんて…。だけど田中はいいやつだよ。この村にやってきて2年余、いい仕事をしてくれた。だから認める。彼に免じて受け入れるとしようじゃないか」
何度か話に出てきたがこの村と漂流者の間ではいざこざがあったらしい。不遜は慎めとの田中の忠告もあったが、こんな田舎土人をリスペクトする言われもない。それに私が話を聞いたおかげでこの問題が解決できるかもしれないのだ。私は老人に尋ねた。
「この村と漂流者の間に何があったんだ?」
「すまんが今は言うことができない」
「なぜだ?やましいことでもあるのか?」
「・・・あー、そうだな。いいか若ぇの。世の中には知っていいことと知らなくていいことの2つがある。この場合は後者、知らなくていいことだ。それに、俺らはまだお前さんを信頼しきっていない。まだお前さんは他人だ。俺がお前さんの家にインターホンも鳴らさず土足で上がり込んだら嫌だろう。つまり『内輪事に首つっこむな』だ。わかったかな?」
この老人はなかなか説得力がある。ジジイのくせに頭もキレる。さすがは現役村長というわけか。それは認めよう。だけどインターホンって。
「ところで村長、先ほどの件について」
「ああ、うん」
「村の道中で追いはぎに襲われました。幸い傷は浅く済みましたが、私の『夕凪』が奪われてしまった。クソッ、いつもならこんなことには」
「心配するな。1度や2度の失敗はよくあることだ。それより生きて帰ってこれただけでも神に感謝することだ・・・よろしい。早急に捜索隊を手配させよう。だがお前は休め」
「ですが」
「田中、お前は怪我をしている。平気な顔をしているが、見ろ。ここのあざがひどいじゃないか。いくらお前が優秀な保安官だといってもこれじゃ足手まといだ。まずは休め。そして回復したら戻ってこい」
「ぐ・・・、お心遣い感謝します」
さっさと茶番が終わんねえかなーと思いながら私は傍観した。しかし全然終わらない。いい加減腹が立ってきた。だから田中にわざとらしくイライラしている顔を向けることにした。不敬だから口では言わないがね。幸いなことに田中はその意を察したらしい。
「山田、村長はお疲れだから今日はこれで失礼しよう。この後仮宿で仲間と合流する。そこでこの724日の空白を埋め合わせようじゃないか」
「部屋は3階の奥だ、若ぇの。いくら物分かりの悪いお前さんでも田中についていけばわかるだろう」
「やれやれ、じゃあ案内をたのむ」
***
見た目以上に大きい小屋だなと思った。宿泊施設なのだから妥当といえば妥当だが、この村の面積、荒廃具合に対して広すぎる。観光客やトレーダーのことを考えるにしても、ここまで広くする意味は?はああ、そうだ。ここの土人共は「マネジメント」って言葉を知らないんだな。無駄にでかくして客から多くふんだくろうって腹だったんだろうが、結局誰も来なくなってただのゴミ置き場になったようだ。まったくバベルの塔から何も学んじゃいない。人間の限りない利益への欲望と傲慢さ、それからマネジメント能力の無さから神はご立腹になったんだろうが。その結果言語は分断され隣人が両手を頭に据えて三跪九叩頭の礼よろしく「你好你好」ペコペコお辞儀したらどっかのジジイが"Здравствуйте"ってウォッカ片手にブルガリアンオーソドックスのコーラスを鼻歌まじりにいってくるんだろうさ。
そんなわけで「3階の奥の部屋」までの道のりが果てしなく遠いので田中と無駄話をすることにした。
「本当にオールドとかいうあのハゲ(Bald)は高橋のことを詳しく知っているのか」
「ああ、長老は詳しいよ。遠征隊の頃からずっとここに暮らしている」
「だったらなぜ私に共有しない?」
「歓迎されてないからな」
「なぜ?」
「自分の心に聞いてみろ。彼らにどういう態度だったのかを」
そうだ。私はこの村の住人を土人と称し蔑んでいた。クソッ、あからさまだったか。表は善良な人間を演じていたつもりなんだが。田中にも、そしてハゲ村長にも見抜かれていたらしい。私は少し申し訳ない気持ちになった。
「田中、さっきのことはすまないと思っている。だが」
「いい。まだ信頼を取り戻すチャンスはいくらでもある。それより山田、君は現実からこの世界に来るまでに何か持ってきたものはあるか?」
「ああ、学校帰りだったんで」
「結構。中に入ろうか」
大部屋の扉を開けた。そこには窓を彩るぜいたくなカーテンと寒さをしのぐには十分すぎるほどの暖炉、それから本が何冊か入った棚に、厳重に管理された鉄製の金庫が置いてあった。向こうには巡礼宿(アルベルゲ)を思わせる無造作に並べられた木造ベッドの数々。そして【NorthCranny】の看板と絵画。どうやら田中はここに住んでいるらしい。中央には17世紀あたりの時代にありそうな巨大な会議テーブルが一つおかれている。席には木製のボウルに注がれた暖かいミルク、よく磨かれた皿の上にパンとチーズが添えられている。テーブルにはべちゃくちゃ話している奴がいた。佐藤と鈴木、それからいつも影でこそこそしていた例の2人だ。
「お、おお。山田、山田太郎じゃないか。いやー何年ぶりだ?2年?3年?」
「2時間ちょっとだ」
「2時間ちょっと!なんとまあ、君が霧の中で妄想に耽ってる間、俺らは2年ほど賢くなったってことだよな?」
佐藤は相変わらずだ。
「いやー、若々しいなあ山田。世の中を舐め腐ったような、俺は何でもできるって思ってるような、その偉そうなツラ。学生気分のぬぐえない新卒社員でも見ているようだ・・・おいおいよせよ、本気じゃねえって。ただ俺がこの村にはじめて来た時を思い出したんだ。あの頃はこの異様な世界に心底驚いたもんさ。2年もいりゃさすがに慣れるけどな」
「あたしなんか2日で慣れたわよ。こんなところ」
鈴木は前より老け顔だ。苦労でもしたんだろうか。
「そりゃお前がファンタジー小説ばっか読んでたからだろ」
「そうよ、現実に生きてたアンタたちよりよっぽど精通してんだから」
「自慢にならねえよ・・・」
「あらそうかしら?アンタたち、未だにワタリガラスの生態すら知らずに古ミエルダの焚書を漁っているそうじゃないの。詩節18番『クソブリ・ゲリブリ・ウンコブリ。腹の好かせたカラスのウンコはウンチブビッビバのほとりにて』の解釈はノースアイランド地方のワタリガラスの生態を知らなければ解明できないことよ。あなたがいかに能無しハンターだとしても、こんなこと常識中の常識。カラスを追うって発想はなかったの?」
「はいはいまったく、アマゾネスババアの長広舌には恐れ入るよ、ほんと」
「誰がアマゾネスババアよ!」
異様な光景だった。下水の中で2時間ほど前に見た2人とはまるで違う。強く逞しく、自分達を本当のハンターか何かだと勘違いしている。恐れ入っただと?恐れ入ったのは私のほうだ。2年もここにいればおかしくもなるに違いない。今やこいつらは一流の底辺学生から二流の変態妄想家に落ちぶれた。その証拠にミエルダ(私の記憶するところではスペイン語でクソッタレの意)の焚書だかを追って詩節18番、我が愛しのゲリブリオウンコときた。頭がおかしいのか?
「みなさん静粛に」
田中が場を鎮める。
「今日は懐かしい顔ぶれとの再会だ。山田太郎。彼はもともと俺たちの計画の参加者ではなかったが、急きょ異世界に招き入れることにした。彼の知恵を借りようとおもってね。だが彼はこの本『異世界漂流概論』をまだ読んでいない。俺たちが死ぬ気で読み漁ったこの本、当分は彼にも読んでもらうことにしよう。それで・・・」
田中が一瞬息を詰まらせて顔をゆがめた。
「それから、とても残念な知らせがある。俺らが対異世界用に考案した光学兵器『夕凪』が追いはぎの手に渡った。山田と話をしている間に襲われたのだ。狼男。集団に囲われて、打つ手がなかった」
「狼男だって?あんな貧弱モンスターに何やってんだよ田中。」
「ああ、私もそう思っていた。だが佐藤、俺らを襲ったあの狼男に『夕凪』は効かなかった。無傷だったのだ。こんなこと今まであったか?」
「光学兵器の耐性・・・。狼男か。俺の知る限りでは前例がないが、どうだ鈴木」
「あたしも知らないわ。狼男は光学ブレードに弱いのよ。現にこの村の伝記には、英雄オールドマンが『光輝く剣』をもって狼男の群れを次々となぎたおしていったと書いてあるわ。それに田中だってその効果を今まで証明してきたじゃないの」
「・・・だとするとハイエルフの塗料か?あれは光学レーザーを反射する効果がある。しかし狼男にそれだけの知恵も人脈もあるとは思えんな。ならばトータイズの粉薬か?あれには肌を鋼のように固くする効果がある。しかしあれは伝説的な遺物、まさしく狼男が手に入れられるとは考えられん」
全員が深刻な顔をしていた。おいおい、こんな遊び事でそんな深刻な顔するなよ。まるで現実で冴えない嫌われ平社員がオンラインゲームになると途端に将軍クラスの司令官になって「この問題に対するケースは」とか「ロジカルシンキングがなぜできない」とか威張り腐っている哀れな社会弱者ようじゃないか。見ていて可哀想になってきた。場を明るくするためにジョークをいうべきだと私は思った。
「まあ田中がスイッチをつけ忘れていたとか、ありそうだけどな」
場が一瞬静まり返る。まあジョークってのは大抵スベるのが常だから気にもならない。
「おい田中、スイッチは入っていたのか?」
「いや、田中と話していたから気が付かなかった。まさか」
「『夕凪』は光学効果がなければただの刀。無傷でも不思議じゃないわ」
「山田、お前・・・」
「・・・」
ああ、なんと、ここまで性根の腐ったバカ共だったとは。異世界の住人であることを受け入れてしまったばかりに。現実であれば日常的なミスで処理できる問題も、こいつらの腐った脳みそに言わせれば「ハイエルフの塗料にトータイズの粉薬」だ。724日、724日だ。この724日の空白で、私と彼らの間の断絶は決定的となった。彼らは常識で物事を考えられることができなくなってしまった。気ぶれの如く、常識という観念を失ってしまったのだ。
「山田、正直俺はお前を見直したよ。性格は別にしてお前は優秀だ。やっぱり異世界に呼んでよかった」
佐藤が異様なまでに賞賛する。私も見直したよ、佐藤。もちろん良い意味で。
「まあ今更何が原因かなんて関係ない。とにかく『夕凪』を取り戻さなくては」
「まて、佐藤。俺は狼男の襲撃で負傷している。2.3日で治ると思うが、今は動くことができない。そこで・・・」
田中が私を指さした。
「山田。彼を連れていけ。山田と佐藤と鈴木、それに君ら2人の5人で戦線に合流しろ。ギルドの方々が助けてくださるそうだ。明朝5時。狼男のアジトに向かう」
「山田が?こいつを連れてっても何もできねえだろ」
「それでいい。山田には戦線に参加することそれ自体に意義があるのだ。山田は戦いを知らない。だから直接見せる・・・我々の戦いを。お前たち、山田のフォローを頼むぞ」
こうして私の異世界生活の第一日目は幕を閉じた。明日は狼男との戦闘、それに「夕凪」の奪還だ。私は休む前に今日の出来事を振り返った。今日という日は様々な出来事が立て続けに起こり、何が何だか分らぬままあっという間に終わった。ひどくむなしさを覚える。ここが異世界だからか?鈴木や佐藤がくるってしまったから?わからない。ただあの空の上でみたヒバリの逍遥はそれほど甘美なものではないってことは分かった。しょせんこんなもんだろう。
空の上で感じた自由への賞賛は、地に降りてみると大したことがなく、むしろ自由であることの障害というものについて私を考えさせた。自由を求めてバイクに乗った学生は、確かに自由を得たけれども、その自由は人間的観念を放棄し「野生に還った」だけである。野ザルの得た自由は動物園の暮らしよりも貧しいかもしれない。そのことをよく考えさせられた。やはり現実が一番だ。私はそう思った。結局、異世界なんてロクなもんじゃなかった。
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