僕は苦しいです

第4話 墜落


私は空にいた。信じられないかもしれないが確かに自分は飛んでいた。いや、厳密にいえば落下していた。バンジージャンプもスカイダイビングも経験したことのない私は、この股間がむずがゆくなる感覚が耐えられなかった。股間が委縮するのだ。どうやら落下しているのは私だけらしい。田中は?佐藤は?鈴木はどうなった?いや、他人のことより今は自分の心配をしよう。私は「落下している」のだ。


私は大の字になり全身に吹き抜ける風を感じた。さっきまでの頭のもやもやが嘘のようだ。体全体に滴る汗が風に当たって気持ちがいい。「生きてるってこういうことなのかな」私は思った。人間がこの喜びのために生きているとしたら、私の今までの人生はとても悔やまれるものだったに違いない。どうして、誰も教えてくれなかったのか。このすばらしい世界の躍動を。


雲を抜け出した。私は額を地に捨て、手と足を天に投げ出した。宙一面には灰色の雲海が広がっていた。そして私が落ちた雲の隙間から一筋の光が差し込んでいる。図像学には詳しくないが、信仰を代償に自由を得たルシファーは、たしかこのような態勢で天の頂から堕落したらしい。ミルトンの『失楽園』に描かれているギュスターヴ・ドレの挿絵はその象徴性を確かにとらえていた。この堕天をも彷彿とさせる私の転落は、おそらく神の支配からの解放であった。「父なる神よ!」私は叫んだ。「主なる神よ!私は天国とおさらばします!スマートドラッグなんてもういりません!理性の寵愛などいらないのです!うわーっはっはっはっはっは」私は哄々として両手を広げ逆十字をかたどる。その手の広がりはタカの跳躍のシンボルであり、人間の一義的な生を根本から裏付ける1つの紋章であった。


天海から地平に目をむけるとそこには胸に迫るような情景があった。鉛色の雲海と広大な大地の隙間から赤褐色の天体がほとんど僅かに、しかし依然として虚空の乱雲を深淵から照り続ける限りにおいて、顕在しているのであった。曇り空に直面したことのある者だったら誰もが想像つくであろう、天地の境界を明確に分かつその時空の裂け目から、扇状に広がる中骨がこの世界を讃歎する様を。その要では燦然と輝くエピステーメの憫笑が、鵬の峻厳さをも匂わせながら、あたかも羽の捥ぎれたイカロスを優しく、しかしどこまでも優越的に嘲謔しているかのように、この極めて主観的な体験を象徴づけていた。私はこの光景が脳裏に永遠と焼き付くのを見た。あれはプロヴィデンスの眼だ。私をじっとにらんでいる。彼は見ることができるが、私は注目すらできない。彼は私の墜落をどう考えているのだろうか?カゴの中の非力な鳥が、余命まもない事実を知らされぬまま、大空にはばたくその姿を哀れながらに見ているのだろうか?


しかしその答えはすぐにわかった。地上だ。私は地上に叩きつけられて死ぬ運命にある。何かしなければ。私は地上のありとあらゆる可能性を見渡した。前方には2,3000mと見える鋭くとがった巨大な山脈がどこまでも連なり、後方には草原とも荒地ともつかぬ氷原が延々と続いている。いずれも落下に適しているとはいえない。そうか、わらがある。数千mの高度から落下したとしても藁の山なら重力を吸収してくれる。私は眼下に目を向け藁を探した。目線のわずか2、300m右下に、小さな村があるのを確認した。が、そこに藁と思しきものはない。私は目を少し上方に向け注意深く観察した。すると、あった。小さな丘に掘っ建て小屋と藁の山がひとつ。高さも申し分ない。そしてわずかに人影が見える───、田中だ!


「おーーい!ここだ! ここに降りてこいよ!」


高度はざっと500m以内か。私は着陸の準備をした。着陸の際に気を付けることは3つ。1つは頭から入らないこと。もう1つは手を下に降ろさないこと。最後にケツを地面と平行に向けること。これだけでも骨折は抑えられるだろう。後は・・・運だ。運なんてものに今まで頼ることはなかったが、この際仕方がない。


「ああああ神様!どうか私をお助けください!!!!!!!!!!」


神に見放されたときでさえ、都合よく「神様、どうか助けてください!」なんていえるもんだから、人間とはよほど都合のいい生き物らしい。宗教とはいつの世も都合が良いものである。うんこ色の空が突然開け、天使が舞い降りて、私を神の国に近づけてくださるなんて思えるのは、要は私がそう思っているからだ。花は確かにうつくしい。しかし「美しい花」というものがこの世にあるわけではない。美しいと思うのは私だ。神は確かに優れよう。しかし「優れた神」というものがこの世にあるわけではない。優れていると思うのは私だ。神が世を救い、私を救い、どうみても救いようのないあのブサイク鈴木でさえ、神が救うと思っているのは私だ。すべて私なのだ。


無数の私が、私が「そう思うこと」から個別具体性を切り離し、「そう思うこと」だけを一般化し、別の私が持ちうる「そう思うこと」にことさら共通性を見出し、かくして体よく編纂された「そう思うこと」の集合を教義という形で客体化するプロセスを宗教と呼ぶことにするならば、この「神様、どうか助けてください!」は、かつて私が名もなき偶像に抱いたものと同様、ある種の陳腐な願掛けを思わせるのであって、私は「そう思うこと」の都合良さを否が応でも認識せざるを得なかったのである。それはつまるところ、恐怖というものに帰着する。


人間は宗教によって恐怖から目を逸らし続けてきた。ペストと呼ばれる大災害、宗主国の利益のために国が分裂しひたすら内ゲバを繰り返す不毛な代理戦争、あるいは宇宙人の侵略。そのいずれにおいてさえも宗教という装置が大衆のホスピスとして機能を果たしてきたのは言うまでもない。そもそも宗教の起源こそは、自然に対する畏怖と夢想から沸き出でたものではなかったか。こうした宗教の成立から私のしょーもない願掛けに至るまで、人類が何ひとつ変わらず、危機に対して反射的に宗教を求めてしまうのは、人類が何一つ進歩していない証拠であろうか。


そんなつまらないことを考えながら藁に飛び込もうとしていたら、急に不安になってきた。というのは藁の中に干し草フォークがあるかもしれないからだ。「あるかもしれない」だと?私は疑問に思った。一体何をいっているんだ?今しがた天にまします我らが父に内なる罪を告白し、心に潜む神の存在原理を解明し、真の意味での宗教の意義を理解して、ようやくありとあらゆる不安に対する無知・忘却を獲得したのではなかったのか?その覚悟にも似た情熱的な信仰告白に対して「干し草フォークがあるかもしれない」だと?・・・ばかな!だったら私が500m上空から今の今までに考え続けてきたこの深淵なる自己問答はいったいなんだったというのだ?


頭の中のごちゃごちゃとは関係なく、私のケツは藁の山にダイブした。藁にケツがついた瞬間、いちいち何か考えることの無意味さを知ってもうどうでもよくなった。ああ、本当に藁だ。藁の触感がケツに食い込んでほどよく気持ちがいい。ガサガサと藁の音がする。山の大きさも圧力を吸収するには十分だったようだ。周囲に静寂が訪れたとき、私は気の緩みから無意識にすかしっぺを放ってしまった。音の無い静寂の余韻を嗜むにはちょうど良い配慮だった。


ともかく、助かった。


「よく無事だったな、山田」

「君もだよ田中。あんな旅はもう二度とごめんだ」


これはまったく本心からの言葉だった。私は異世界漂流に薬品の力を借りるとは聞いていなかったのだ。


「ところで、他の5人はどこにいった?」

「・・・・・・」

「田中?」

「・・・あ、ああ。村にもういったよ」

「でも山田、信じられるか?ここに村があるんだぜ」


村といってもそれは廃村に近かった。取って付けたような小屋が数件立っており、それらをひとくくりにする柵と門があるだけである。看板にはこう書かれていた。


【幸福の村/NorthCranny】


「NorthCranny... 北の罅割か」


私は空を見上げた。雲の裂け目がまだ残っている。あんな高いところから落ちてきたのか。よく生きていたものだ。


「よし、いくか」


私は重い腰を上げて丘の下にある村を目指した。


***


そういえばここは少し寒いな。平野から吹き荒れる谷風のせいだろうか。いやそればかりではない。アルプスを思わせる強壮な山々の頂に積もる山雪が示唆するように、この土地全体が冷気を帯びているのだ。気候区分でいうと寒帯といったところか。確かにここでは木々が見当たらない。平野に目を向けるとこげ茶色の大地には小麦色の低木、小豆色の地衣類が植生している。いわゆるツンドラ地帯を思わせる時の静謐。どこへ行っても生物らしい生物が見当たらない。


「異世界、ほんとにあっただろ」

「あ、ああ…、まったく信じられない」


だがそれ以上に信じられないのは、この景観を前にしていっそう冷静でいられる田中の方だ。まるで以前にもこの世界を見てきたかのような堂々とした態度。


「田中、ここはいったいどこなんだ」

「ここはノーザンアイランドの北端、ウィンザール地方だ。アレクセイ・ウンコスキーがその地に降り立った初めての場所だよ。彼もまた、俺らや君のようにあの空の狭間から降り立ってきたんだ・・・あの藁に尻もちを付いてね」


ウィンザール地方、聞きなれぬ名だ。おそらくウンコスキーが名付けたんだろう。確かにここをロシアと形容するよりも、"Winter"(冬)に近いウィンザールなどと呼んでいた方が無難である。だがおそらくウンコスキーはイギリスのウィンザー地方を知らぬほど、文献を良く漁らないずぼらな人間で、知見の狭い男なんだろう。


「・・・で、そのアホも同じようにあの村に足を踏み入れたと」

「まあ、そういうことだ。かつて大勢の若年男女数十名が一斉にあの村に訪れた。当時としては村が大騒ぎだったろう。まあそのせいで今じゃ廃村なんだが…、とにかく、続きは村長に聞いたほうがいい。ウンコスキー遠征隊のことは彼が誰よりもしっている」

「ウンコスキー遠征隊?」

「ウンコスキーと漂流成功者たちのことだよ。・・・そうか、君はこの本をまったく読んでないんだったな。あとでこの本を渡そう。だが今は急がなくては。直に嵐が来る。不安定な気候もここウィンザール地方の特徴なんだ。ついてこい」


田中の言う通りだった。まもなく光は色を失い、ついにその姿を雲の裏に隠してしまった。ぽつぽつとみぞれが降りはじめる。だが不思議なのはここからで、みぞれが降ったかと思えば雹が降り、その後熱帯気候特有の暴風雨に転じたかと思うと、空が急に焦げた黄土色に染まり、2月上旬によくある「出歩きたくなくなるほどの」気温にまでさがったところで、その期待を裏切るかのように今度は空に積乱雲がもくもくと現れた。次には雨が降るんだろうとおもっていたら雪が降った。


なんて天気だ。


それはまるで老舗の寿司屋に入ったつもりが、カウンターにはイタリアンコックがいて、なぜか不機嫌そうな顔をしながら、流暢なドイツ訛りの英語で"Guten Tag! May I help you?"などと客に無理やり迫るようなものだった。案の定日本人と見える家族連れの親子は「スミマセーン!スミマセーン!ワタシエイゴワカラナイヨ!」と身振り手振りでどうにか伝えようとするのだが、私もまた「スミマセーン!スミマセーン!ワタシイミガワカラナイヨ!」とでも言う他にないような、どこか自分だけがこの異質な現状を察知できないような、そういう曖昧な無秩序の中にあったのである。


しかし田中は表情一つ変えずただ村に向かって走っていく。彼はこの異常現象をものともせず、何気ない日常の出来事として捉えているようだった。そういえばあの時、田中は私が空から降って来るのを見て、どこか感動にも似た驚きの表情を隠しきれずにいたのだった。それからさっき私が5人の安否を聞いたとき、彼の表情が一瞬曇ってたのを私は見逃さなかった。彼がなぜそんな表情を私に見せたのかは見当がつかないが、結局田中は自分のことでさえ「ここウィンザール地方の特徴なんだ」とかいってごまかす・・・


「──来るぞ」


突然遠くから猛然とした獣のうなり声が響く。その轟音を耳に聞く間もなく、狼の群れが死角から襲い掛かった。正確には狼ではない。狼の体躯に人間の手、そして明らかにウェアウルフとは異なり、私たちと同様の人間の頭を持っていた。


「下がっていろ山田。 こいつは少々厄介だ」

そういうと田中は腰にかかった鍔をカチリと鳴らし鉄の擦り切れる鋭い静音と伴に、その刃をいとも簡単に抜き出した。西欧には見られない反りのあるしなやかな刀身をもち、柄には何かを意味づける紋章が描かれている。どこか日本刀に近かったが、明らかに日本刀ではない。これはおもちゃの刀だ。私はそう結論づけた。鞘から刀を抜き、基本態勢の構えに入り、見事な足さばきで先陣を切るに至るまで、ものの5秒もかからなかった。


「──仙境の幽邃、風致の蕭条。一の太刀、夕凪」


ズバンと刀は狼を切りつけた。だが狼人間に傷はない。当たり前だろ、と私は思った。だっておもちゃの刀じゃねえか。狼人間は怒り声をあげ、田中を散々に蹴散らす。そして最後に田中の「夕凪」とかいう刀を奪ってどこかに逃げて行った。


このとき私が理解したのは、田中という男が異世界に来てとうとう頭がおかしくなってしまったということだけだった。おいおいマジかよ?おもちゃの刀に「夕凪」なんて一丁前な名前をつけるか?それでいて「──仙境の幽邃、風致の蕭条。一の太刀、夕凪」って。繰り返すが「──仙境の幽邃、風致の蕭条。一の太刀、夕凪」である。帝国うんち大学まで出ていて未だにこのレベル・・・


「──仙境の幽邃、風致の蕭条。一の太刀、夕凪・・・ブコフォ」

しばらく私は田中の妙に格好つけたポーズと声を真似をして面白がっていた。それを田中が聞いていないわけがない。


「満足か?」

「なんですか、これ」

「俺の技だ。この異世界で身に着けた最初の流儀。それが夕凪なんだ」


わりと本気で笑えないレベルになってきたぞ。こいつと話しているとこっちまでおかしくなる。このガキは未だに中学生か?まあ確かに中学生ならものの1日で「──仙境の幽邃、風致の蕭条。一の太刀、夕凪」なんてセリフを覚えりゃ技の巧拙なんて関係なくちょっとかっこいい自分を演じられるだろう。


「田中、私にはにわかに信じられないのだ。君はこの異世界に来てまだ1日も経ってないだろう。仮にウンコスキーの書にチャンバラごっこの秘伝の法が隠されていたとしても、だ。そんなものが1日で通用すると思っているのか」

「なんだと? まさか、お前・・・」


田中はしばらく黙っていた。何も言い返せないようだ。これに懲りて中学生じみた真似はやめることだな。まあ、若気の至りってことで今回は赦してやろう。


しかし田中は次の瞬間、奇妙なことを言い出した。

「・・・わかった、お前を混乱させまいとおもって隠しておいたが言うことにしよう」


「君が空から落ちてきたのはついさっきだよな」

「ああ」

「俺が空から落ちてきたのもついさっき」

「そうだろ まだ1日も経ってないぞ」


「・・・・・・」

「・・・・・・・・え?」


「山田、俺がこの異世界に来てから今日ここでお前と出会うまでに、もう724日が経ってるんだよ」


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・は?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る