蘭鋳

    らん‐ちゅう〔‐チウ〕【蘭鋳】

 金魚の一品種。体つきが丸く、頭部に肉こぶが発達し、背びれがなく、尾が小さい。


 陽が落ちようとしている。傾いてきた夕日が溝臭い匂いを放つ河を美しく照らしている。夕暮れ時。少年は河川敷で横たわり、口を閉ざしたまま駱駝色の空を眺めていた。幼い頃から訪れていたこの河川敷には、楽しかった思い出だけでなく、そうでない思い出も詰まっている。しかし少年は、昔を想うノスタルジックな感覚の意味を理解する事が出来なかった。

 何をしていても虚無感に蝕まれ、少年自身も消えてしまいそうになる。幸福感でさえ希薄に感じ、他人の存在意義を見つける事ができない。恋人や、思いをはせる女性の一人でもいれば違ったのかもしれない。けれど、少年は女性の裸体を見ても肉欲を刺激される事は無かった。

 ──自分も他人も、全て消えてしまえばいいのに。

 思春期が齎す不均衡に、彼は飲み込まれていたのだ。

 


 浮遊していた太陽が地平線に吸い込まれようとしている。それからはあっという間で、世界は黒を纏い夜を艶やかに映し出す。少年は芝生の上、帰路につくために立ち上がった。横たわっていた時よりも強烈な川の匂いが鼻にこべりつく。

 何か、いつもと違う。潮の香りとも、腐敗臭とも違う臭いを感じる──少年は嗅覚を頼りに、異臭の正体を探し始めた。どうやら匂いの根源は川の近くにあるようだ。生え茂る叢をかき分け進む少年。

 叢を抜け不愉快な気分にさせる異臭が一段と強くなった瞬間、彼は地面に漂流している肉の塊を見つけた。

 それと目が合った瞬間、少年は硬直した。

 目の前には黄緑色の丸い肉の塊が横たわっていた。所々長い毛が付着している。

 膨張された胴体は、所々削れていた。顔と呼んでいいのだろうか?その頭部だった部位も風船のように膨れ上がっており、鼻と口だった場所は腐敗して崩れ、凝視してやっと確認できる程。おでこの辺りにできた肉瘤のような物体が瞼の辺りを不気味に覆い隠していた。

 見た事もないその肉の塊が「水死体」だという事を認識するのに少年は少々時間を有した。

 しかし、水死体を前にしても、少年は叫び声を上げる事もなく、無表情のまま口を閉ざしているだけであった。


 しばしの沈黙の後、少年は水死体に触れた。

 少年の人差し指を伝う、滑り気のある皮膚。

 その皮膚の感触を脊髄が捉えた瞬間、少年の陰茎が膨れ上がった。




 真っ暗な部屋から何かが軋むような音が聞こえてくる。それは一定のリズムではあるが、速度はとても遅い。振り子時計が鳴るように、ギィ、ギィ、ギィと気味悪く鳴る。

 その音は少年の腰を振る音と共鳴している。少年のとてつもなく遅いピストンがベッドを軋ませていた。

 「あぁ……あぁ……あぁ……」

 少年は喘ぎながら彼女に満面の笑みを向けている。対称的に彼女は表情一つ変えようとしない。

 それどころか、その顔は壊れていた。水死体である彼女の顔はたった二度の情事でも致命的に崩れ始めていたのだ。手の先や足の先だけ赤みがかり、骨が飛び出ている。水を吸い膨張しきった胴体は少年の骨盤がぶつかる度に、薄気味悪くぶるぶると震える。

 それでも少年は、湧き上がる愛しさを抑えきれず、波打つ胴体に顔を埋め、彼女の頭皮を撫でた。ほとんどの髪が抜けた頭皮を触り、少年の手のひらに茶色く腐敗した頭皮が付着する。彼女の一部が自分の手の平と同化した感覚に陥り、少年の快楽は極限に達する。

 少年は彼女の耳元で小さく喘いだ直後、オルガズムに達した。少年の体がビクン、ビクンとしなる。多幸感が脳から全身を駆け巡った瞬間、少年は力尽き、そのまま彼女の胸に顔を埋めた。常人なら、たまらず気を失いそうになってしまう程の異臭も少年にとっては幸せを感じる一部に過ぎない。今まで味わった事のない幸福を身を持って感じ、

「──幸せだ……」

 と呟きながらおでこの辺りにある肉瘤を撫でた。

 彼女と意志疎通できたらもっと幸せなのに──しかし、死骸である彼女とそんな事ができる筈がない、少年は深く溜息をつくと。

「──私もです」

 どこからか返事が聞こえてきた。少年は慌てて周りを見渡す。しかし、彼女以外誰もいない。

 まさか──

「そうです、私です。貴方の目の前にいるこの私です」

 彼女の口許は爛れたままで動いていない。しかし、彼女から声が聞こえてくるのだ。

「君は生きていたのか?」

 少年は震える口で彼女に問いかける。

「いえ、私はとうの昔に死んでいます。貴方が初めて私を抱いた時、私は目を覚ましました」

「良かった!僕等はこれで語り合う事だって出来る。ずっと一緒にいれるじゃないか」

「そうはいかないのです!……私には時間が残されていません」

 彼女の声は次第に力細くなり、少年の心を締め付ける。

「生前の私はとても醜い姿をしていました。そのせいで幼い頃から罵られ、暴力も受けていました」

「今の君はこんなに美しい。だから関係ないじゃ──」

「どうかそれ以上言わないでください」

 祈願するように問いかける少年の言葉を、彼女は慌てて遮った。

「私を美しいとおっしゃたのは、人生で貴方が初めてです。親でさえも私を醜いと言いました……だから駄目なのです。私の体は日を重ねる事に腐敗していきます。今以上に、腐り、爛れ、崩れ落ち、いずれ蛆虫も湧くでしょう……」

 その言葉を聞いた少年は思わず、言葉を失ってしまった。

「──それでも貴方は私を愛してくれますか?」

 少年は一瞬言葉を詰まらせたが、すぐにこう返事をした。

「……勿論だよ」

 真っ暗な部屋の中で、ベッドの軋む音が聞こえてきた。

 

 少年は毎日彼女と体を重ね続けた。彼女の腕が崩れ落ちても、足が崩れ落ちても、彼女を抱き続けた。彼女から滴り落ちた肉片達は、自宅の庭に埋める事にした。

 初めて彼女が話すようになってから数日が経ち、学校から帰宅した少年は、今日も肉片を黒いポリ袋に詰めていた。彼女と会話ができる様になり、幸せな時間を過ごしていたのにも関わらず、少年の表情は暗かった。

『私の体は日を重ねる事に腐敗していきます。今以上に、腐り、爛れ、崩れ落ち、いずれ蛆虫も湧くでしょう……』

 少年の脳内で、彼女の声が反復している。彼女が口にしていたように、日が経つにつれ彼女の身体は崩れやすくなっていた。

 彼女が彼女でなくなっていく。その事実がどうしようもなく不安でしょうがなかった。

『──それでも貴方は私を愛してくれますか?』

 彼女の言葉が少年の胸を締め付ける。

(僕は、姿が変わっても彼女の事を愛せるのだろうか?)

「僕は……」


 部屋に戻り、彼女を見つめる。

 ベッドの上にいる水死体の胴体は肉と肉の間で糸を引き、体中の骨がほとんど露わになっていた。

『──それでも貴方は私を愛してくれますか?』

 彼女の近くで何かが飛び跳ねている……無数の蛆虫だ。少年は思わず、顔を歪ませてしまう。

『──それでも貴方は私を愛してくれますか?』

 蛆虫達は床にも飛び散り、少年の部屋を悠々と闊歩している。

『──それでも貴方は私を愛してくれますか?』

 初めて出会った時とは違う醜い彼女が、

「……おかえり」 

 か細い声で、そう少年に声をかけた。

 朽ち果てた彼女を見た少年は返事もせず、裸足で蛆虫を踏み潰し、彼女を抱き抱え、家を飛び出した。


 二人は、河川敷にいた。

 無言のまま見つめ合う少年と水死体。

 少年は彼女から目を逸らし、叢に横たわる彼女に灯油をかけ始めた。腐敗臭と灯油の臭いが混ざり合った強烈な臭いのせいで少年は嗚咽を繰り返す。それでも少年は彼女に灯油をかけ続けた。

 ──こいつは死んでいる。だからもう一度殺しても変わらないじゃないか。こいつもどうせ人間なんだ──少年は言い訳のように、そう自分に言い聞かせていた。

 灯油が入ったポリタンクの中が空っぽになった事を確認すると、少年は一瞬、彼女を見た。

 彼女は家を出てから、ずっと無言のまま。

 そして少年もまた無言のまま、彼女に火を放った。

 勢い良く燃え盛る炎。あっという間に彼女を包みこみ、醜い姿を隠す。

 そんな彼女の姿を見た少年は、現実から目を背けるように瞳を閉じた。

 ──僕は、彼女の事を愛していたのだろうか?

 少年は彼女との時間が本当に恋だったのか自問自答していた。

 自らの胸を襲う虚無感の理由も分からない。

 彼女に抱いていた感情も分からない。

 少年は未だ人間が分からないままでいた。

 ただ、彼女が炎の中で放ったその言葉を聞いて、一つ決心をした。

「──ありがとう……こんな私を愛してくれて、ありがとう……」

 少年は、涙を流しながら、他人を拒絶する事をやめた。

 自分の中で、やっと生まれ始めた「何か」を噛み締めながら、少年は彼女に小さく謝罪した。


 燃え尽きた彼女の姿は、黒い蘭鋳のようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

伊丹地獄 伊丹正章 @itami_masa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る