妄誕キネマ


 本の虫で女っ気が無い僕にも、十七にして初めて彼女が出来た。

 それも聞いて驚け、二つも歳が違う十五歳の百合のような麗しい少女だ。実に可愛らしい。文学にしか興味がなかった僕も彼女を見た時、雷鳴轟くような衝撃を受けた。所謂ところの一目惚れ。勇気を出して彼女に何度も声をかけて、恋文を渡して、なんとか僕の彼女になったのだが。

「まだ正志は手も繋いでいないのか。折角出来た彼女だと言うのに勿体無い」

 我が家の食卓で共に夕飯を召している友人の吾郎は「うまい、うまい」と母が作ったコロッケを頬張りながら僕に嫌味を言うてきた。奥手の僕とは違い恋愛経験が豊富な吾郎は、出会い頭に子を作ってしまような破廉恥な男なのだ。

「吾郎は気が狂っているぞ。何でもかんでも手を出したらいいというものではない」

「何言ってるの正志。男は男らしくないといけないのよ」

 そう言って母が食事をしているちゃぶ台の前に座り込んだ。何やら今日は味噌汁を作り忘れたらしく、台所と食卓を忙しなく行き来している。今日の夕食はごはんとコロッケ。後はほうれん草のおひたしと味噌汁だ。いつも学校の給食のようだ。と言ってやるのだが質素な我が家ではこれが限界だろう。

 何より学費を払う事がやっとの貧しい環境で暮らしている吾郎の前では口が裂けてもそんな事は言えない。今日も吾郎の親は仕事で帰って来ないのでこうやって我が家で夕食を食べているのだ。きっと有り難みは感じているだろう。

「兎に角、僕はちゃんとした場所で彼女とちゃんとした事をしたい」

「真面目な正志らしいな。もっと柔軟に考えればいいのに」

「吾郎ちゃんごめんね。真面目だけが正志の取り柄なの」

 そう言うと吾郎と母がどっ、と笑った。馬鹿にされているような気分になったが、確かに僕の取り柄は真面目な事と本の速読ぐらいしかない。

 彼女もよくこんな僕と付き合ってくれたなぁと思う。

 身長も高く精悍な顔立ちをしている吾郎とは違い、僕は中肉中背で癖毛で童顔。彼女とデェトをする時以外は基本的に着物を着ているので吾郎からは「売れない作家のようだ」と比喩される。良い良い。僕は僕なのだ。僕を好きだと言ってくれる彼女がいて僕は幸せ者だ。

 僕はそう自分に言い聞かせながらコロッケを頬張った。


 夕食を食べ終わった後、僕は吾郎を家まで送っていく事にした。

「そういえば。言い忘れていたんだけど」

 帰路に立つ最中、吾郎が思い出したようにそう口を開いた。

「うん?」

「来るらしいぞ、あれが」

「何だ、勿体ぶって」

 並んで歩いている僕らは顔を合わせず前を向いたまま会話を始めた。

「あれって言ったら一つしかないだろ。『暁大鼬』だよ」

「あの有名な見世物小屋の集団か」

「おう。その暁大鼬が近々この町に来るらしいんだ。おっかないよな」

 暁大鼬と言えばただの見世物小屋集団ではなく、人身売買や人体実験の噂も絶えない極悪集団としても有名だ。そんな彼らが来るのを楽しみにしているモノ好きな連中もいるとは思っていたが……吾郎の顔を見ているとどうやら彼も同じらしい。顔に「楽しみだ」と書いてある。

「見世物小屋などあまり興味無い。吾郎一人で見に行けばいいじゃないか」

「別に俺だって興味があるわけじゃないよ。ただ、世間話で正志に話したかっただけだ」

 嘘だ。今度は顔に「残念だ」と書いてある。こういう吾郎の素直なところが女子達は魅力的に思うのだろうか。

「恋事とは分からない物だな」

「え?何だって?」

 僕がふい口にした言葉に吾郎は疑問符を連ねるばかりのようであった。

 その後僕らは他愛もない話をしながら街灯に照らされる夜道を歩んでいった。


                      

 今日も何事もなく学校が終わった。それぞれがそれぞれの帰路に立つところだ。

 僕は机から学生鞄と学生帽を取り出し、そそくさと帰る準備を始めた。

「そうだな、正志様は今日忙しいからな」

 そう僕に声をかけてきたのは勿論、吾郎だ。吾郎と僕は同じ教室で勉強をしているので下校時も一緒なのだが、今日は違う。

「申し訳ないね。今日は情報を得るための大事な日なんだ」

「わかってるよ」

 そう、今日は大事な日。彼女が今何が欲しいかを探る重要な日なのだ。一緒に下校して何気なく聞き出す。僕は気合を入れるために学生帽をいつも以上に深く被った。僕は心の中で深く頷き、木造の廊下に足を踏み出した。彼女は近くの女学校に在学している。自転車で急げば十分とかからない。僕は駆け足で廊下を抜け、学校を抜け、自転車で外に繰り出した。

 ペダルが泣き声のようにキィキィと泣っている。

 心地よくも冷たい秋風が頬を伝う。

 赤橙色の夕日が僕を照らしている。

 向かうは麗しい彼女の元──

 僕は向かい風に学生帽を拐われないように頭を少し屈ませながら、女学校へとつながる河川敷を渡っていた。あと少し、あと少しで、彼女に会える、彼女に会える──

 そんな事を考えならペダルを漕いでいると、突如として強烈な風が僕を襲った。砂埃が舞い上がり、眼球に纏わりつく。視界は痛みと共に霞んでしまい、前方が見えないので、前輪がゆらゆらと揺れてしまう。

 いけない、このままでは転倒してしまう。僕がそう思った、その時であった。

 自転車の前輪が「何か」を轢いた。否、轢いたというよりも接触した対象が大きすぎて「乗り上げた」と言っていいだろう。自転車はブレーキがかけれず、そのまま接触した物体を最終的に「乗り越える」形となった。

 転倒はしなかったものの、取り敢えず何を轢いたか気になり、すぐ後ろを確認した。

 猫か犬か、それとも死体か。僕は砂が入った目を擦りながら、その物体を確認した。

 「それ」は猫でも犬でも、ましてや死体でもなかった。

 うぅと呻きながら俯せで体を震わせている黒い物体は紛れもなく生きた人間であった。

 何て事だ。僕は生きた人を轢いてしまった──それにしてもおかしい、何故この人はこんな道端の真ん中で横になっているんだ?取り敢えず僕はその黒い服を身に纏った人の元に駆け寄り

「すいません、お怪我はないですか?」

 と謝罪した。彼か彼女かは分からないが、黒服は無言のままゆっくりと起き上がり、こちらにその姿を見せた。

「何だね君は……」

 気怠そうに言う黒服の容姿は明らかに異様だった。老人のような声をしている「彼」が身に纏っているのは白紋付きの喪服。しかし、この人は何歳なのだろうか?年齢が分からない。

 何故なら顔の殆どが包帯で覆われており、彼の顔は右目と口しか見えない。首や両手にも包帯が巻かれているので彼の肌は顔の僅かな部分しか見えていない。肝心の右目には黒いシヤドウが。唇も何やら黒い口紅のようなモノが付着しており、実年齢が一切分からない──

 いずれにせよ黒服改め包帯男は明らかに気が触れた人間の容姿をしている。

「あーもう止めてくれ。僕の見た目に関して何か言いたいのなら、君をあの肥溜め臭い河川敷に投げ飛ばすぞ」

 やっぱり気狂いだ。絡まれていると言っても過言じゃない。

(長引く前にもう一度しっかり謝ってこの場を立ち去ろう……)

 僕は気持ちを固めてから再度口を開こうとしたのだが──

「いいか?僕は君の何十倍、何百倍も生きている。だから君の言いたい事はすぐに分かる。とんだ気狂いに絡まれてしまった。そうだろう?」

 包帯男はそう言うと人差し指を天に差した。

「そして次に口にする言葉はこうだ『どうして包帯を巻いているのですか?』。皆口を揃えてそう言う!所詮四半世紀も生きていない貴様らからしたら、分からないだろうな!気が遠くなる程の時間を生きている僕の思考が!」

「え、えーっと」

 男の奇妙な演説に僕は思わず口篭ってしまう。

「ああそうだ!体中に包帯を巻く理由を知りたいのなら五百年生きてみるといい!道のど真ん中で横になる理由を知りたいのなら千年生きてみるといい!きっと貴様にも分かるはずだ!あまりにも退屈でしょうがない『悠久を生きる者』である僕の思考が!」

 男はそう言うと人差し指を僕の右胸に突き刺しグリグリと押し付けてきた。

  包帯の間から見える血走った目は妖怪のそれで、少しずつ恐怖の感情が芽生えてきている。

「全ては退屈しのぎなんだ……時代や次元など関係なく、奇天烈な出来事が起きる場所へ飛ばされ、それを見せられ続ける世にも奇妙なストーリーテーラー。黒いサングラスでもかけてやろうか!?あぁ!?」

「言っている意味が分からないです!貴方を轢いた事はお詫びしますが──」

「わかってたまるものか!」

 そう言うと男は僕の胸ぐらを掴み僕の顔を自らの顔に引き寄せた。

「いいか、一度しか言わないからよく覚えておけ。貴様の身にもうすぐ奇妙な出来事が起きる……貴様はいてもたってもいられなくなるだろう。しかし!貴様を待っているのは素敵な素敵な大団円だ。全ては貴様の行動次第だがな」

「全く意味が分からないです!貴方は気が狂っている!」

 僕は男の手を振り払い、後ずさりながら男と距離を作った。

 男の表情は相変わらず分からないままだが、恐怖に怯える僕を見て、僅かに見える口角がゆっくりと釣り上がり、妖しい微笑みを作った。

「貴様は愚か者だな……別に誰が悪いわけでもない。全てはナンセンスなのだよ。意味を考えるな!全て受け入れろ!不均衡な現実も意外と悪くない」

 男は満足そうにそう言うと喪服の長い袖を大袈裟に振り払い、空に向かって高笑いを始めた。

 ──この人と一緒にいると僕まで気がふれてしまう。

 逃げるように自転車に乗った僕は全力でペダルを漕ぎその場から立ち去った。

(一体何なんだよ彼奴は……)

 僕は心の中で呟いた、すると──

「僕の名前は『清』だ。もう一度会いたくなったら心の中で『清に会いたい、清に会いたい』と叫んでみるといい。そうすればもう一度貴様の前に現れてやってもいいだろう──」

 そう僕の耳元で返事をしたのは、遠い向こうにいるはずの包帯男「清」。

 その清が僕の自転車の荷台に乗っている──

「うわああああ!」

 僕は驚きのあまり体ごと自転車を転倒させてしまった。

「やめろ!あっちへ行け!やめてくれえええええええ」

 地を這い蹲る僕は清に向かって鞄を投げたのだが、

「…………あれ?」

 もう、そこには誰もいなかった。

 目に見えるのは美しい斜陽と河川敷。聞こえてくるのは雀の囀りと子供が燥ぐ声。

 いつもと変わらぬ日常が只々広がっていた──。

「何だったんだ……」

 僕は白昼夢でも見ていたのだろうか?

 それとも気が狂ってしまったのだろうか?

 僕はそのまま茫然と立ち尽くす事しか出来なかった。


                        ※


「あ、千代。こっちだよ、こっち」

 校門の前で辺りを見渡している彼女、千代に向かって僕は手を振った。

「正志さん!」

 千代は満面の笑みを僕に向け、こちらに駆け寄ってきた。

「ごめんね、遅れて。ちょっと色々あってさ」

「ううん。いいの。待ってる時間も案外悪くないもの」

 そう言うと千代は悪戯っぽく舌を出した。

「さぁ行こう」

 僕らは二人で帰路に立った。

 夕日は沈みかけており、薄紅色の空が人気の無い道を包んでいる。

 特に会話はしない。二人でこうして並んで歩いているだけで僕は幸せなんだ。

 しかし、千代はどうなのだろうか?

 僕は横目で彼女の顔を見た。 

 黒いおかっぱ頭に日本人形を思わせる嬋媛な顔立ち。

 小柄な体だが、女性らしい健康的な肉付きをしている。勿論彼女の……ふくよかな胸も非常に魅力的だ。

「正志さん?どうしたの?」

 僕は無意識の内に彼女の事をじっと見ていたようだ。

「い、いや!何でもないよ!」

 自分の下心を覗かれたくない僕は、あたふたしながら視線を地に落とした。

「ふふふ、今日の正志さんなんだかおかしいわよ?何かあったの?」

 千代に言われ僕が真っ先に思い浮かべたのは、喪服を着た包帯男、清だ。

「実はさ──」

 僕は清の話を切り出そうと口を開いたのだが、

「いや、何でもないよ」

 やはり止めておいた。僕が遭遇した清は明らかに気狂いだが、彼の話をしたら僕も気狂い扱いされてしまう。

「ふーん。変な正志さん」

 千代はそう言うと、フフッと軽く笑った。

 その微笑みを見て、僕は自分の心臓が高鳴っている事を自覚していた。

(なんて可愛いんだろう……)

 ──初めて彼女を見たのは近所の本屋だった。

 下校時、吾郎と一緒に帰宅していた僕は、欲しい本があったので何気なく本屋に入った。お目当ての本を見つける前に僕は初恋を見つけてしまった。

 高まる胸の鼓動。一目惚れをしたのだ。

「あ、あの……」

 僕は考えるよりも先に彼女に声をかけていた。

「……はい?」

 彼女は大きな瞳をパチクリとさせながらこちらを見ていた。

 そんな彼女に向かって僕は──

「友達になってくれませんか?」

 気づいたらそう発していた。

 僕の唐突な行動に吾郎が驚愕していたのをよく覚えている。

 それから僕と千代は本当に友達になり、付き合う事になったのだ。

 いやはや、自分ながらよくやったと思う。

 ただ、一緒に遊びにいったり、下校するだけで彼女と言えるのだろうか?

『まだ正志は手も繋いでいないのか。折角出来た彼女だと言うのに勿体無い』 

 脳内で吾郎の声が響く。

 駄目だ駄目だ。僕は今日、彼女の欲しい物を聞いて、誕生日にその物を渡して、そこで手を繋いだり……接吻したりするのだ。

『あら、何言ってるの正志。男は男らしくないといけないのよ』

 男らしくする……

 僕はもう一度、彼女の方をチラリと見た。

 アア、可愛らしい。本当なら汚してしまいたい。

 僕にはそれが出来る権利がある。だって僕は彼氏なんだから。

 無言で下校するだけじゃきっと千代もつまらないだろう──

 僕は自分にそう言い聞かせながら、彼女の左手に自分の右手を近づけた。

 そうだ。手を繋ぐ事ぐらいどうってことない。

 あと一寸程で彼女に触れれる。

 あと少しで──

 僕は思い切り生唾を飲み込み、彼女に触れようとした、

 その瞬間──

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 何処からか、太鼓の音が聞こえてきた。

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 太鼓の太い音なのにも関わらず、気が抜ける独特な拍子をしている。

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 僕と千代は辺りを見渡し、どこで太鼓の音が鳴っているのか探し始めた。

「何かしらこの音……」

 千代はどこか不安気だ。

「分からない一体何が──」

 僕がそう口にした、その時だった。

 ドン

 僕のすぐ後ろで太鼓の音によく似た鈍い音がした瞬間、頭に激痛が走った。一瞬にして視界がぼやけ、全身から力が抜けてしまう。

「いやああああああああああああああああ」

 千代の悲鳴が聞こえる。

 千代の声を聞いて僕はやっと気付いた。 

 僕は何者かに襲われたのだ、と。

 後頭部から生温い液体が溢れ出てくるのを肌で感じる。きttp血が出ているのだろう。しかし、不思議と痛みは無かった。

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 ぶれる視界の中で僕は「それ」を捉え、絶望した。

 和太鼓を叩く三ツ目の男。手拍子をする蛇女の足に群がる無数の芋虫。楽しそうに体を揺らしている双頭の犬。両手両足の関節が逆に向いている美少年。紙吹雪をまき散らしながら大騒ぎをしている小人症の男。彼等の後ろには大きな看板が掲げられており、そこには『暁大鼬』と書き殴られていた。

「──助けて!助けて正志さん!」

 僕の助けを呼ぶ声。千代の声。僕は声がした方に顔を向けた。

「可愛い女子だぁ。体いじくるには勿体無い程麗しいなあぁ」

 全身の肌が鱗に覆われた大柄の男が千代を抱きかかえている。 

「千代!」

 彼女に伸ばした手は、頭上から振り落とされた蛇女の足によって虚しく静止した。女性のものとは思えない重圧が僕の腕にかかる。グリグリと踵を押し付けてくる蛇女の足から大量の芋虫が這い寄ってきた。むず痒い感覚と不快感が押し寄せてくる。

 先程までの幸福な時間が嘘のようだ──

 僕は絶望しながら、再度やってきた後頭部への痛みと共に、瞼を下ろした。


                        ※


 視界に入ったのは真っ白な天井と垢で覆われた電球だった。

 ここはどこだろうか?僕はズキズキと痛む体を溜息がてら起こし、薄暗い部屋の中を目を細めながら見渡した。錆び付いた鉄壁と、正面には黒い鉄格子に囲まれた鉄網。部屋の四隅にいる鼠と蟋蟀の死骸の山。僕は今牢屋にいるのだろう。しかし、そんな事は二の次だった。

「──千代!どこだ!どこにいる!」

 真っ先に思い浮かんだのは他でもない千代の安否。希望薄しと声を上げるものの虚しく響くだけ。畜生……僕はうな垂れるように埃っぽい床にへたり込んだ。これからどうすればいいのだろうか。暁大鼬に拉致されたのなら、このまま人体実験でもされるのだろう。見世物小屋の演目か商品の一つにでもされるのだろう。

 そんな事を考えていても、自らの事より千代の事が心配になってきた。

『可愛い女子だぁ。体いじくるには勿体無い程麗しいなあぁ』

 千代を抱きかかえていた男がそんな事を言っていた。

 僕よりも先に千代が何かされていたら……

 考えるだけで怒りがこみ上げてくる。

 どうしようもない現状に対し、僕は唇を噛み締める事しか出来なかった。

 一体どうすれば……

 僕が思考を巡らせていると、ある言葉が脳内を横切った。

『もう一度会いたくなったら心の中で『清に会いたい、清に会いたい』と叫んでみるといい。そうすればもう一度貴様の前に現れてやってもいいだろう──』

 清だ──

 あの異常な男が絶望の淵に立っている僕を救う手立てになるかもしれない。

 何故なら清はこうも言っていたからだ。

『──貴様の身にもうすぐ奇妙な出来事が起きる……貴様はいてもたってもいられなくなるだろう。しかし!貴様を待っているのは素敵な素敵な大団円だ。全ては貴様の行動次第だがな』

 もしかしたら清はこうなる事を知っていたのではないだろうか?

 清が何者かは分からない。ただの気狂いかもしれないし、本人が言うように本当に「悠久を生きる者」かもしれない。

 しかし、今はそんな事どうだっていい。

 少しでも可能性があるのならばそれに賭けるしかないのだ。

 僕はゆっくりと目を閉じ、胡座をかいたまま心の中でその言葉を呪文のように唱え始めた。


 清に会いたい、清に会いたい、 清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、 清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、 清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、 清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、清に会いたい、 清に会いたい、清に会いたい……


 ──どれぐらいの時間が経ったのだろうか。

 自分の感覚で三十分程経過すると、僕は唱えるのを止めた。

 時には「清に会いたい」と口に出してもみたのだが、清は現れなかった。

「……畜生」

 僕は先程よりも小さく呟くと、胡座をかくのを止め、横になる事にした。

 胎児のように体を丸くさせると、空腹のせいでお腹がぐうぅと鳴った。

 アア、これから母さんのコロッケが食べれぬまま死んでいくのだろうか。

 そんな事を考えていると、部屋の隅にいる腐敗した鼠と目が合った。

 ──きっと空腹のあまり気が狂いそうになったら、虚ろな表情のままお前を頬張るのだろう。

 ムシャムシャと食事をする乞食のような僕が目に浮かぶ。

 気を悪くしないでくれ。僕も直に死ぬから……


 心の中でそう鼠に語りかけてみた。

 すると……

「……ふざけるな。死んでもなお人間の……それこそ食い物にされるのは御免だ──」

 死んでいる筈の鼠が喋った!僕は清のように気が狂ってしまったのだろうか。

「い、今お前が喋ったのか?」

 僕は体を起こして鼠に近づいた、横たわる鼠の体は所々腐敗しており骸となっている事が分かる。

「何を怪訝に見ている。喋っているのは他でもないこの私だ。何がおかしい?」

 口は動いていないが、間違いなくこの鼠から声が聞こえてくる。

 奇怪な現実に唖然としていると、突然鼠が小刻みに震え始めた。

 鼠の口内から蛆虫が飛び出てくる。腐敗した眼球が黒い血の涙を流しながら飛び出てくる──

 何が起きようとしているんだ!?僕は思わず尻餅をついてしまった。そんな僕を横目に鼠は振動を強くさせてゆく。ブルブルと震える鼠の口許がゆっくりと開き始めた。口は限界まで開ききったかと思われたが……これまた異常な事に鼠の口は、がま口財布程の大きさになり、バケツ容器程の大きさになり、やがてはちゃぶ台程の大きさまで広がっていった。

 奇々怪々な光景を目にし、僕は恐怖のあまり身を震わせていた。

「助けてくれ!もうたくさんだ!」

 錯乱状態に陥っている、僕の耳元で聞き覚えのある声が響く。

『夢なんかじゃない……言っただろ?現実は時にナンセンスなんだよ。な、ん、せ、ん、す。頭の悪い君でも分かるだろう?』

 待ち望んでいたその声。老人のようなその声の持ち主。鼠の口内から包帯だらけの腕を伸ばし、掌を鼠の顎にかけ、大きく口から現れたのは、

「──良く出来ました……と褒めてやりたいところだが、残念ながら君の行動は常にアベレージ。予想の上をゆく事はない。生きていて楽しくないだろう」

 喪服を着た包帯男「清」。上半身だけ鼠の口から放り出して、涅槃仏のように横たわったままこちらを見ている。腐敗した鼠から飛び出ているその姿は、どこか滑稽だ。

 兎に角、僕はこの現状を打開したい。その一心で清の元へと縋った。

「清さん!お願いです!僕を……千代を助けてください!気狂い集団の暁大鼬に捕まったんです!」

 そう言うと僕は清の前で土下座をした。

 僕の言葉に返答がないので、恐る恐る顔を上げてみると、清は横になったまま僕に背を向けていた。 

「嫌だねー。僕は貴様の前に姿を現すとは言ったが、助けてやるなんて一言も言っていないからな」

 包帯だらけの後頭部を割ってやりたい気分になったのだが、どうにか怒りを堪え、僕はもう一度祈願した。

「お願いします!清さんは、僕らを救う方法を知っているのでしょう!?僕は素敵な大団円を見たいのです!」

「……本当に大団円を見たいのか?」

「はい!僕は千代を救い、大団円を見たいのです!」

 清は両手を床に置き、そのまま前方に体をぐいっと引き出し、全身を露わにした。

 そのまま座禅を組んだ清は、鼠の口内に右腕を突っ込んだ。

「なら一つ条件をやろう!」

 そう言って右腕を口内から取り出したのは黒のハット帽子。僕はその帽子に何か意味があるのでは、と考えていると清は「あ、間違えた」と軽く呟きハットを被り、鼠の口内を再度弄り始めた。清は「そうそう、これこれ」と独り言を言ってから、右手を思い切り引き抜いた。

 清の右手には妖しく輝く日本刀が握り締められていた。

「暁大鼬の団員をこの刀で全員殺せ。千代を救いたいのだろう?貴様の大事な女を一人救う代わりに、大勢の人間を殺すのだ!」

 日本刀を握る清の手は力を相当の力を込めていのか、微かに震えている。

「この刀、『天狗刀』は妖刀でな……持ち主が振りかざす相手を怨めば怨むほど切れ味を増す、いわくつきの刀なんだ……その怨みと切れ味は劣る事無く次の持ち主へと渡り引き継がれる。お前も奴等を怨めば怨むほど、この天狗刀に怨みが貯まっていくというわけだ……」

 僕は迫り来る清の剣幕と、人を殺すという事への躊躇で、思わず刀から目を逸らしてしまった。

「僕が人を殺すなんて……」

 清は刀を持った右手を僕の胸元に押し付けながらこう続けた。

「殺せぇ!殺すんだよ!貴様が憎いと思った人間を全て殺すのだ!それが条件だ!でなければ貴様は大団円を迎える事ができない」

 清がぐっと僕に顔を近づけてきた。

「貴方は、何故そんな事を僕にさせるんですか?」

「暇潰しだよ……悠久の時を過ごす俺のひねくれた趣味。十七年しか生きていない貴様には到底理解できないだろうがな」

 そう言った清は僕から離れ、わざとらしく咳払いをした。

「いやいや、間違えた。僕は君を助けたいだけだ……君はそう思っていたまえ」

 僕は無言のままだった。

 千代を助けるためとはいえ、人殺しなんてできない。

 けれど、彼等を殺さなければ千代は助からない。

 苦悩している僕を見かねた清は一度深い溜め息ついてから口を開いた。

「……なぁ、正志よ、お前は本当に千代の事を愛しているのか?」

 清は微笑みを作らず──包帯で表情は見えないが──恐らく真顔でそう聞いてきた。

「何を急に!勿論──」

「勿論愛しているだろうな。そりゃ、そうだ。口で言うのは簡単だ。誰だって口にできる。俺だって千代を愛しているのだから」

「そんな……嘘だ!」

「あぁ嘘だよ。でも何が本当かなんて分からない。口にするのはあくまで過程なのだから」

 清は座禅を崩し立ち上がった。刀を握ったまま両手を広げ、わざとらしい身振り手振りをつけて話を続ける。

「でも本当に愛しているなら言葉なんてどうでもいいんだ。過程なんてどうでもいい。特に女にとってはな」

 そう言うと清は目を閉じ、左手を自らの胸元へと置き瞳を閉じたままこう言った。

「俺が貴様なら千代と毎日一緒に下校するよりも先に、千代を抱く。接吻し、愛撫する。千代の体が火照ってきたら俺の肉棒を千代に捻じ込むんだ」

「なんて破廉恥な!清!許さんぞ!」

 僕の咆哮を耳にした清は目をカッと開き、獣のような血走った瞳でこちらを睨み付けた。

「これだから精子くせぇ童貞は嫌いなんだよ!黙って聞きやがれ!……ハハハハハハハハハハッ!」

 清は僕の頭を撫でながら、三十秒ほど狂ったように笑い散らした。

「いいか!?女が求めているのは結果じゃない!論理じゃない!ロジックじゃない!過程じゃない

プロセスじゃない!結果が全てなんだよ!分かるか?どんだけ大事にしても、どんだけ言葉で伝えても、愛してくれている証明がなければ愛せない生き物なんだよ!」

「もし、そうだとしても今、そんなの関係な──」

「今までお前は千代のために恋人として何かしてやったか?」

 清の言葉に、僕は狼狽してしまう。

「それは──」

 僕は初めて出来た彼女に対し、臆病になっている。それを言い訳に僕は……彼女に対して恋人らしく何かをする、という事から逃げているのではないのだろうか。

 僕は気づかないうちに俯き、唇を噛み締めていた。

「性交というのもある種、結果なんだよ。二人が愛し合った結果だ!そう!過程はどうだっていい!貴様は口づけ一つせずに、千代の誕生日を迎えるんだ!きっと千代は寂しかっただろう!友人に相談しただろう!正志は何もして来ない臆病者だって!そうだ臆病者だ!今だって人を殺すことを躊躇い、千代を見捨てようとしているじゃないか!」

 優しさという感情だけで彼女に接しているだけで、僕は彼女に何かしてあげただろうか?

「僕は……僕は……」

 今こそ彼女を助ける時じゃないのか?

 恋人として、愛を証明する時は今じゃないか?

「正志ぃ……いいのか!?千代を見捨てても!?今苦しみもがいている千代を救う方法は、殺戮以外ないんだ!愛しい人を守るために殺すしかないんだよ!」

 千代の苦痛に浮かぶ顔が目に浮かぶ……駄目だ。愛しい千代を僕は放っておけない──

「だから今やるんだよ!彼女に結果を示すんだ!奴らを皆殺しにして、彼女に愛している証明を見せつけろ!性交を始めようじゃないか正志!?」

 沸々と僕の中で湧き上がる感情。

 暁大鼬への殺意と千代への思い。

 今、この瞬間も暁大鼬の手によって酷い目にあっているに違いない。

 なら……千代を傷つける奴等を殺す事こそ──

「そうだ!千代を傷つける奴を皆殺しにして、助ける事こそが恋人の役目!行動を持って粛清しろ!下らない自分とはおさらばしろ!迷っている場合じゃない!殺戮を持って愛を証明するんだ正志!」

 僕の脳裏に千代の純粋な笑顔が突き刺さる。

 汚れを知らぬその笑顔を、僕は殺戮を持って守らなければいけない。何故なら、僕は恋人なのだから──

「千代を救えるのは今、お前だけだ!愛しくて純粋な千代が奴らに汚されてしまう前に、愛を示せ!でなければ貴様は性不能者と同じだ!」

 清はそう叫びながら、指をパチンと鳴らした。

 すると突然、牢屋の中で風が吹いた。

 僕が唖然としていると、清が僕の後方に向かって顎をクイっと向けた。釣られて後方見てみると、先程まであった鉄格子は綺麗さっぱり消えていた。

「行け!行くんだ正志!暁大鼬から……純粋で汚れを知らない千代を守るんだよぉ!」

 そうだ……僕は彼女を救わなければいけない。

 一緒に下校するだけが恋人じゃない。彼氏なら、彼女を救わなければいけない。

 例え何を犠牲にしても、

 僕は、奴等を皆殺しにしてでも、千代を助けるんだ──

 意を決した僕は……清の手から天狐刀を奪い、脱兎の如く走りその場から立ち去った。

「そうだ──そうだぞ!正志!俺に本当の愛を見せてくれ!」

 清は歓喜の声を上げていたが、僕はもう清の方を振り返ろうとしなかった。

 一刻も早く千代の元に向かわなければいけない。

 どうか──どうか無事でいてくれ、千代。

 僕はそう願いながら、兎に角走る、走る、走る。

 監禁されていた牢屋の外は錆びれた細い廊下が延々と続いている。 

 しかし、僕には見える。長い長い廊下の終着点である大きな扉が。

 その扉の前にいる鱗の肌を持つ大男と、双頭の犬が。

「うあああああああああああああああああああああ!」

 僕は雄叫びをあげながら男に向かって、歩を速めた。

 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ──

 僕の脳内で僕の声が、他人の声のように反響し続けている──

「お、お前!なんで牢屋から!」

 男はそう言うと両拳を握り、こちらに向かって駆け出した。

 僕と大男の対角線は逃げ道などない一本道。

 僕が奴に向かい、奴が僕に向かっている。

 殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ

 千代を守るんだ、千代を守るんだ、千代を守るんだ、、千代を守るんだ──

 恐怖など感じなかった。僕の頭の中は今、千代を助ける事……すなわち全員を皆殺しにする事しか考えれない。

「千代おおおおおおおおおお!」

 僕は彼女の名前を叫びながら天狐刀を両手で握り締めた。

 両手にジワリと滲む微かな手汗。

 その汗さえも握り締めながら、僕は刀を振り上げ、歩を止めた。

 男は速度を落とさず、僕に突進しようとしている。

 僕は生唾を飲み込み、

「俺は千代を愛してる、それを証明するんだ──」

 そう呟いてから、勢い良く刀を振りかざした。

 空気を斬った。その感覚しかなかった。

 それでも、目の前は瞬く間に赤が広がった。

『殺せ!皆殺しだああああああ!あ~~~はっはっは~~!』

 血飛沫が舞い踊ると同時にどこからか清の声が聞こえてきた。

 赤い霧に包まれた僕の体は一瞬にして紅に染まった。断末魔さえも上げず、男は命を落としたのだ。男の体は突進した勢いのまま僕の後方で倒れた。

 一瞬で散ってしまった男の命。その骸を見つめて吐き気を催している自分に気付いた。別に彼の骸が陰惨だからではない。人体実験を繰り返す、この見世物小屋の下衆な男が千代に触れたと思うだけで、気持ちが悪くなってきたのだ。

 僕は血で染まった学生服さえも不快の対象となり、上着とシャツを脱ぎ捨て上半身裸のまま足を進めた。

 なんだ……簡単じゃないか……思っている事を行動に移すだけ──

 それだけの話じゃないか──

 そしてまた──清の声が聞こえてくる。

『あぁそうだ。お前は下らない論理に縛られていただけなんだ。我々は人間である前に生物だ。腹が減ったら食い。眠くなったら寝る。守りたい存在がいたら守る。そう、殺したい奴は──』

 扉の前で双頭の犬がこちらに向かってキャンキャンと五月蠅くと吠えている。

「殺すんだよ──」

 そう呟いたのは清ではなく、僕自身であった。 

 その小五月蝿い片方の首を天狐刀で切断すると、もう片方の頭も同時に命を落とした。

 殺戮なんて怖くない。彼女を守るためなのだから。

 僕はついでにヒクついている双頭の……今となってただの犬の胴体へ刀を突き刺すと、犬はピタリと静止し二度と動かなくなった。

 これで門番はいなくなった。

 僕は息を飲み扉に手をかけた。

 向こうには団員がいるのだろうか?

 それとも千代だろうか?

 どちらにせよ僕はもう後戻りできなくなってしまった。

 僕は一度目を閉じ、千代の顔を思い浮かべた。

「千代……今助けに行くから、どうか無事でいてくれ……」

 僕は無意識の内にそう発していた。右手は刀を、左手は扉を握りしめている。一度大きく息を吸ってから僕は、扉を開けた──


 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 ドンドコドンドン、ドンドンドン

 ドンドコドンドン、ドンドンドン     


 畳で出来た安っぽい舞台。両袖には旭日旗。舞台の真ん中には『暁大鼬』の大きな看板。そして僕の足元には切断され血にまみれた「両腕と両足」

「あ──」

 舞台の周りで番傘をくるくる回しながらはしゃいでいる小人。

 気の抜けた拍子で楽しそうに和太鼓を叩いている三ツ目の男。

 全裸のまま大蛇を飲み込み、口から血を流しながら自慰をしている蛇女。

 そして、両手両足の関節が逆に向いている美少年は舞台の上で、四股が無い全裸の達磨女と性行為をしている。少年が達磨に腰を突き刺す度に団員が歓声を上げる。

 達磨女も頬を赤らめながら、恍惚に満ちた表情をしている。

 少年が達磨女に聞く。

「どうだ?男の陰茎は?さぞ気持ちが良いだろう?」

 達磨女は涎を垂らしながら、悦楽に顔を歪めながら答える。

「は、初めてではないです。これで五人目です」

「そうかそうか。ならばより気持ちが良いだろう」

「はい!気持ち良いです。今までで一番気持ちが良いです!」

「あの男……あの男よりも愛おしいか?」

「はい……貴方の方が愛おしいです!」

 そう言って嬉しそうに唇を交わす二人。

 どぉぉっと歓声を上げる団員。

 そして僕の足元には切断され血にまみれた「両腕と両足」──

 僕は目の前で起きている光景がとても現実のものとは思えなかった。

 しかし……僕の眼球はこの光景を脳内に映し出している。これは幻覚じゃない、夢でもない。受け入れ難くも紛れもない現実なのだ。

 あの達磨女は奇形の少年の陰茎を受け入れ、悦び悶えている。 

 もっと、もっと、と欲している。快楽を、男を──

 僕の意識は深い闇に落ちかけていた。

 しかし、その闇を静止したのは他でもない、僕自身の怒り、そして悲しみであった。

 咆哮しそうになっている喉を嗚咽で抑え、覚束ない足を無理やりに前に進め、僕は駆け出した。

 『嗚呼──なんて、なんて可哀想な正志!』

 清の声が背景音のように響く中、僕は発狂しながら団員の群れへ突入し、刀を右へ左へ振りかざす。

 こんなに辛いのに、不思議と涙は流れなかった。

 流れるのは、振り回す刀によって傷つけられた奇形の怪物達から溢れる、汚らしい真紅だけ。

 真っ二つになり、吐瀉物や便が血飛沫に混じって吹き飛ぶ小人の体。生首が飛び血の涙を流す三ツ目の男。腹を切られ腸が向きだしになる蛇女。

 躍る。躍る。僕と天狗刀と、切り刻まれた怪物達の肉片と残骸、血の粉雪が舞い躍る。

『待ち望んでいた大団円がこんな結果だったなんて!』

 千代、大好きだった千代はもういない。

 こんな大団円、受け入れれる筈がない。

 血にまみれた僕は、達磨女と少年の元へと足を進めた。

 僕に気付き、驚いた表情を見せる達磨女。

「なんだよ、そんなに夢中になっていたのか?」

 僕の言葉を耳にした少年は、こちらに向かって微笑みを浮かべた。

 その微笑みは、僕の殺意を後押しするには十分すぎる程であった。

 僕は迷わず刀を振り下ろし、少年の首と体を引き離した。

 少年の首筋から噴水のように血が吹き出し、愛液にまみれている達磨女を艶やかに染めた。

 僕は、暁大鼬を皆殺しにした。残るはこの達磨女だけ。

 達磨女は僕に向かって泣き叫びながら弁明しているが、何も聞こえない。

 聞こえる訳がないのだ。先ほどまで恍惚に顔を歪めていた、この忌まわしい達磨女の声など、僕の耳に入ってくる訳がない。

 僕が達磨女を見下したまま静止していると、宙に清の生首が陽炎のように浮かび上がった。

 『正志……哀れな正志よ……人を殺してでも助けたかった存在は、どうやら貴様を待っていなかったようだ──』

 空っぽになった僕の心の中に、清の言葉が注がれていく。

 『貴様は意味もなく殺戮をしたわけだ──うん?誰の為に人を殺したんだっけ?』

 僕は千代の為に人を殺めたのだ──

 奇形な怪物達から千代を助けるために殺したんだ!

 『だが、しかし……貴様の愛した、美しくも穢れをしらない、百合のような千代はもういない──』

 清が言葉を漏らす度に崩れ落ちていく。千代と過ごした思い出が、彼女との出会いが、彼女の笑顔が崩れ落ちていく──

 『これは裏切りだ──貴様は初恋に踊らされ、弄ばれていたのだ!』

 僕は人を殺してまで千代を助けたかったのに──なのに彼女は──

 刀を持つ手は無意識に力が込められていた。小刻みに震え、爪が掌に食い込こむ。

 千代への愛は、裏切られた哀しみと……それ以上の怒りへと変貌していく。 

 僕を見ている達磨女は何かを察知し、狂ったように喚き始めた。 

 『千代はもうこの世にいない……さぁ正志、貴様は目の前にいる薄気味の悪い不貞行為を楽しむ達磨女をどうしたい?』

 目の前にいるのは、奇形の怪物の陰茎を受け入れ悦ぶ、淫乱で陰惨な見世物小屋の達磨女──

 僕はこの達磨女を見ていると、未だかつて感じた事のないような不快感と殺意を覚えてしまう。

「──ち、違うの正志さん!これは無理矢理、暁大鼬に!」

 千代はこの部屋にいなかった……もう消えてしまったのだ。

 さようなら、僕の初恋。

 ありがとう千代、愛していたよ。


 僕は無表情のまま、千代に天狗刀を振りかざした。

 


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