ChapterⅠ 第一話『目覚め』


「…っ!?」

ばさり。跳ね起きた時の衝撃によって自らの上にかけられていた掛布団を弾き飛ばしてしまったようだ。時期は冬だというのに体中にびっしり汗をかいて、心臓はあたかも全力疾走した直後かのように早鐘を打ち鳴らしていた。

「またあの夢か…。もう因縁は断ち切ったと思っていたはずだったのに、結局はこのザマか」

力なく緩んだ右手に視線を落として自嘲気味に口角を上げる。瞼を閉じれば親父が拳を振り上げる姿が、伸びきった爪をこちらに突き立てる母の姿がありありと浮かぶ。

それらの光景はそんじょそこらのホラー映画や怪談なんかじゃ比較にならないほどの恐怖を誇っていた。そもそもホラー映画などは非日常的な恐怖である点から、ボク自身が感じている恐怖とは少々ジャンルが違うと言える。

例を挙げるとするならば怪談ののっぺらぼう。人の顔面にあるべき顔のパーツが影も残さず消え去っていた、という旨の話で、体験を家の人間に伝えたところ、その人間ものっぺらぼうだった。という所が基本的なストーリーだ。

その後、実はみんなが協力して主人公を驚かせようとしていただけだったり、流行り病に陥って顔のパーツが溶けてしまっていた、というものもあったような気がする。

もっと言えば狂っていたのは主人公で周りには何の変化も起こっていなかったというオチもあり、作品によって微妙に特色が違ったりする。

怪談やホラー作品などは読み手によって様々な解釈を起こさせ、非日常であるからこそああじゃないか、こうじゃないかといった議論を生む。


だがボクが感じていた恐怖はそれらとは少々ベクトルが異なる。前述の作品などは未知なる存在…架空と言い換えてもいい。

それらのものに対する人間が知性を持っているからこそ抱く恐怖だ。

ボクが受けていた恐怖はどちらかというと本能的な恐怖。遺伝子に組み込まれた進化の過程で培った力への恐怖心という心の抑止力。自らより強い力に対して無謀な戦いを挑まないようにするリミッターの起動を実感させられる類の恐怖だ。

逆らうと出血するまで殴り飛ばされた。酒に酔った父の近くへ行けば何もしていなくてもサンドバッグにされた。助けを求めて母親に泣きつけば無造作に振り下ろされた注射器が肌を貫く。あなたが居なければ死んでしまう、と鬼気迫る表情で語る母は嘘は言っていないようなのに平気でボクに凶器を振り上げる。

そう、そこにボク自身の命の有無は重要視されていない。むしろ反逆しないように殺したほうがよいとさえ思っているようだった。そこに解釈が踏み込む余地はない。あるのは暴力的なまでの事実のみである。


「朝から気分が悪いな…。」

額の汗を拭いながら部屋に備え付けられた時計を見上げる。

ボクは旅の傍ら、都心から数時間バイクを走らせた先にある港町まで来ていた。

水揚げされる魚の量は決して少ない訳ではないが、近くにあるこの数倍の規模を持つ別のみなとの報に人が流れていってしまったようで、あまり活気がない。

加えて交通の便が非常に悪い事が問題だろう。港町なのに周囲を山で囲まれた山がちな地形であるため、魚を運ぶにしても魚に負担がかかってしまう。だったら近場にある港を使ったほうがいい。

そのような考えを生むほどのアクセスの悪さが過疎化を助長していた。

実際、この港町に来るまでにかなりの時間を費やした。トンネルもいくつかしかなく、多くはある程度舗装された道路を山の形に添って上り下りしていくというもの。

ここまでして来た価値がこの場所にはあるか?と問われればまだ分からない、と答えるほかない。何しろ来たのが夜遅くだったことも手伝って、現在ボクが止まっている民宿以外電気すらついていなかったのである。

これまでの経験則から言って夜中に民宿や民家を訪ねたとて、嫌な顔をされて追い払われるのが普通だ。たまに心優しい人達が泊めてくれたりするもののごく僅かである。無論、ボクが逆の立場だったら迷わず同じ仕打ちをしただろうし悪いのはこっちなのだから向こうに対して憤る権利はない。

今回の民宿はそのごく僅かの例外に当たる。夜中…十時過ぎくらいだっただろうか。田舎の人は都市部の人間より生活のリズムがやや規則正しい傾向にあると聞く。旅をしてきた経験を振り返ってもあながち間違ってもいない。田舎の人、都会の人で分けるのはどうかと思うが。

ともあれ、普通なら予約などを入れなければいけないところを温情によって泊めていただいたことには感謝してもしきれない。何らかの形で恩返しができればいいのだが。

そんな事を一人思案しながらバルブをひねる。都会に住んでいた頃の自らの家の蛇口とは違ってレバー式のものではない。キュッと甲高い音を上げた後、蛇口から想像より少しだけ勢いよく水が飛びだした。蛇口という狭い折から解き放たれたことを喜ぶかのように放射状に広がるような形で流れ出る水は凍っているのではないかと錯覚してしまうほど、冷たい。冷たいのを我慢して顔にパシャリと水をかける。半分眠っていた脳が顔に鮮烈な刺すような冷たさを感じ取ったか、意識が一気に覚醒する。洗面所は広く、同時に五人ほどが使用できる。もっとも、今日はボク以外に宿泊客はいないようで、洗面所は静かに水が流れる音が響くのみ。どこか不気味な印象があるが、自然に溶け込むような安らぎも感じられる入り混じることのないはずの二つの感情が交じり合う不思議な空間だった。

「――おや?今日はお客さんなんていらしてたかしら?」

突如訪れたを耳にして反射的に飛びのく。いきなり声をかけられたことによって驚いたのもある。だがそれよりも囁きという言葉の通りボクに気配を悟られることなく耳元に接近していたという事実に戦慄した故にだ。

無論、寝起きで顔を洗っていたことで音や空気の流れには敏感になりきれていなかった部分もある。しかしながらそれを抜きにしても隠密の技術は並大抵のものではない。一人で旅をしていると危険な目に合うことも多い。旅人であれば猶更なおさら。旅をするということは在る程度金銭的に余裕がある者だという傾向が強い。加えてその土地や文化、言語にもうとい可能性が高いため多少強引な手法が取れる。要約するとその手の犯罪者にとってボク達旅人はカモなのだ。

そういうこともあって独学で気配を探る術を身に着けたし、刀も人並みではあるが扱えるようになった、というかした。森の中でただひたすらシュミレーションを重ね、基本の動きを試行錯誤しながら組み上げていった。ある程度動物と戦ったこともあった。イノシシやシカ、クマなどが相手だったが、クマだと大抵無傷では済まない。これもまだまだ鍛錬たんれんが足りない証である。独学と言えば聞こえはいいが、素人が素人なりに考えたもの以上のものはできにくい。武道や格闘術などははるか昔から創始者が改良に改良を重ねて、更に受け継ぎ手が更により良いものへと変えてゆく。そうして生まれたものであるからして、余ほどのことがない限り独学で何かをしても上手くいかない。

だからこそ自らの手でそれを練り上げる必要があった。各地を移動する以上、誰かに教わる時間が確保できないからだ。教えてもらえるならそれが一番いいのだが…。

話を戻すとある程度との相手なら刀を交えることも常に覚悟できているボクの耳元まで接近することを苦としない程の実力者ということだ。

警戒心を隠すこともなく、低く腰を落として戦闘態勢に入る。得物えものは部屋に置きっぱなしだが素手でも戦えるように徒手格闘の訓練も怠っていない。かなりの実力者だが逃げる程度の時間は稼げるはず。

暴れる心臓を押さえつけて隙を窺うが…あろうことか目の前の女性は口元に手を当て呵々かかと至極愉快気に、上品に笑う。けれども油断はなく、こちらが気を抜けば死角から首を刎ねられるのではないかとすら錯覚してしまうほど。

「そう身構えるでない。先ほどのはほんの冗談じゃ。少し驚かせてやろうと思ぅてな?…ちゃんとぬしのことは知っておる。安心せい。」

刹那、先ほどまでの油断ない緊迫した空気が弛緩しかんする。一転して朗らかな笑みを浮かべた女性は威圧感を微塵も放っておらず、中身が入れ替わってしまったと言われれば鵜呑みにしてしまいそうなほど先刻と印象が変わっていた。

「…キミは一体、何者なんだ?」

「あぁ、自己紹介がまだだったかの?あては水上摩耶みかみまや

気軽に摩耶って呼んでもろてかまへんよ。年齢は聞きにくいそうじゃから予め言っておくけど18歳やよ。

さしずめちぃと剣道だけかじっとる半端者っていうとこかのう。詳しいことはなんもわかりゃあせん。一応この民宿の経営者の娘やから料理とかは得意やけど、お父ちゃんに比べたらまだまだやなぁ。」

あて、と自らを呼ぶ少女はまさかの年下だった。決して老けて見えるという訳じゃないけれど、あまりに大人びた印象で勝手に年上だと認識してしまっていた。

腰まで届くほどの長い黒髪はヘアゴムによってキレイにまとめられており、顔立ちはよく見るとかなりの美女だ。魔性の女というイメージが近いだろうか。にこやかで人当たりがよさそうなのに付け入る隙を与えない駆け引きのプロフェッショナル。

ありとあらゆることに関して経験を積んでいるような気がする。

「けど…」

「?」

「相手の名前を聞く前に自ら名乗るのはマナーやで?澪田ミツルはん?」

「確かにその通りだな…一方的に話を聞くのはマナーに反している。こちらから名乗るべきだった。ボクの名前は澪田ミツル。

家庭環境の崩壊がきっかけでいろんなところを旅してるから決まった家はない。

年齢は19歳で、見ての通り男だ。外国人っぽいけどれっきとした日本人だから。」

「やっぱり旅人さんやったんか。ちょっとあては朝の散歩に行くんやけど、一緒にどうやろか?」

今一度言葉の意味を吟味する。美女から散歩のお誘いとは光栄だが、さっきの今で警戒したままだ。どんなに印象が変わったと言えども実力者と二人きりというのはなかなか落ち着かないものだ。

…とはいっても情報を手に入れるには多少のリスクも受け入れるべきだろう。

こういうところで姉さんにつながっていないとも限らない故にだ。

「構わない…。あまり面白話なんかはできないかもしれないけど。」

最後ににっこりともう一度だけ頷くとこちらに近づくように手招きし、朝靄の立ち込める外へと足を向けたのだった。

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