幸福の形

いある

Prologue




何時だっただろうか。人と心から笑いあったのは。

物心ついたころには家族と口をきくことはできなかった。別段、家族と仲が悪かったとかちょっと反抗してみたかったとかそんなんじゃない。

…口をきけるような精神状態の家族なんてもういなかっただけ。自宅は阿鼻叫喚の渦中にあり、地面には所狭しと空になって何週間たったのかもわからない酒の缶や違法薬物に手を染めた母親が日常的に使用していた注射器なんかが散乱していた。

辛うじて食料だけは家で確保できたから碌に料理もしないまま食材を貪ることはできたものの、満足な食事という食事は家を出るまでしたことがなかった。

昔からいつもそうだった。キッチンを使用してお湯を沸かすことさえ酔った父親による暴力によってままならなかったし、買い物に出かけようものなら痩せこけた母親の被害妄想によって命の危機すら感じる状況だった。

両親の部屋とリビングは一軒家であるこの家の一階に位置しており、外に出るにはどうあっても両親の部屋の前を通らなければならなかった。

だけど両親の部屋のドアは開け放たれていたままで、外に出ようとすると痩せこけた母の光を失った瞳がギロリとめつけてくるのだ。

当時はまだ幼かった――小学校一年生くらいだっただろうか――ボクは唯一の心のよりどころである姉の部屋に入り浸っていた。

姉はとても優しかった。きっとそれは家庭環境が極端にひどかったからだけじゃない。本当に優しかった。

幼い僕が漢字の読みを聞けば辞書で調べてまで教えてくれたし、酔った父に殴られた時は救急箱を持ってきて、慣れた手つきで治療してくれた上、頭を撫でながら一緒に寝てくれさえした。

先祖返りの影響で欧米人の曾祖父の血が色濃く出た僕とは違い、日本人らしい長く伸びた黒髪、小さめの顔に埋まる漆黒の宝玉。そして聞くものを魅了する美しいアルトボイス。高校一年生という大きく年の離れた姉だったが、ボクの初恋はきっと姉だったんじゃないかと今更ながらに気が付く。

控えめに言って日本中の誰よりも可愛らしいと断言できる、ボクの自慢の姉だった。


そう。自慢の姉“だった”のだ。

そんな自慢の姉はある日を境にして突如姿を消した。ボクとは違い、親の目を掻い潜って学校に通っていた姉が居なくなったことは当然というべきか、瞬く間にニュースになった。親は何も言っていない、もはや失踪したことにすら気が付いていないのに警察が動き出し、各地の監視カメラを調べ上げてまで、血眼になって姉の姿を探す。ある種狂ったように日本という国が捜索を開始したのは彼女の持つ美貌が世界に通用するという価値が見定められたからだろう。美少女をはじめとする人気者というものは存在するだけで付加価値が生まれる。

例えば人気者があるメーカーの製品を使っていたならば、「じゃあ私も」となり、その製品が売れるわけだ。彼女の人並み外れた美貌を宣伝に利用できるとなると商業的価値は計り知れない。


でも、結局姉は見つからなかった。ネットの海の隅から隅まで調べても見つからなかった。

現実世界でもありとあらゆる捜査方法で姉を探し求めたものの、目撃情報も碌なものがなかった。様々な目撃情報があれど、そのどれとも姉は似ても似つかなかった。

そのままニュースも次第に姉のことを取り上げなくなり、人々の記憶からは失われていった。きっとボクの記憶からもやがて消えてゆくものなのだろう。

…だけどボクは諦めきれなかった。父親が遂にリストラされ、生活の資金すら確保できないと悟り、両親がボクを置いて自ら命を絶ったその夜。

姉が居なくなってから丁度10年。家じゅうの食料をかっさらって、今は亡き父の大きなバイクを無断で奪って日本中…いや、世界中に姉の情報を求めて飛び回った。

持っていけた食料は碌なものがなかった。精々生パスタと缶詰があったことが唯一の救いだっただろうか。あとは大抵腐敗の進んだチーズであったり虫の湧いた総菜の余りものなんかで、とても旅の食料なんて呼べたものじゃなかった。持ち物は着替えと財布、親の目を盗んでとった免許証とその食料、カメラとパソコンとスマートフォンに大量の白紙の日記帳と何本ものペンだった。




今から、そんなボクの旅の話をしよう。

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