ファントムって何よ?

 ソルファがファントムの意味を知ることになったのは翌日の帰りのホームルームであった。

「昨晩、学園都市内で生徒が暴行される事件が起こりました。犯人は未だに分かっていません。似たような事件がここのところ多発しているので、皆さんは早く寮に帰るように」

「はい」

「では、解散」

 生徒全員がそう答えると、担任の教師は出席簿をもって教室を出て行った。同時に教室が一気にざわめき出す。

 ソルファもさっさと帰ろうかと考えたが、肩を叩かれた。振り返るとミハエルがいかめしい顔で立っていた。

「あれ、何か用ですか?」

「お前、実は何か知っているんじゃないのか? 例の事件について」

「例の事件って、さっき先生が言ってた連続暴行事件の事?」

「そう、それだ」

 ミハエルが頷く。

「昨日寮に深夜に戻ってくるのを見かけたからな。ひょっとしたら、お前……犯人なんじゃないのか?」

「僕が? まさか」

「とぼけるなよ」

 ミハエルの表情がよりいっそう険しくなっていき、肩をつかむ手の握力は強くなった。

 ソルファにしてみれば知らないものは知らなかった。

「いや、本当に知らないんだって。昨日帰りが遅くなったのは、僕がその事件が目の前で起こるのを見てしまったからだよ。職員室に連絡入れて、お腹空いた中でさんざん取り調べだのなんだのやったんだ。学校来ても君はそれを僕にするつもりなのかい?」

 めしを取り上げられるのは嫌だ。全力で拒絶する視線を送る。

「ああ、いや。その悪かったよ……」

 そう言ってミハエルは怪訝そうな顔をやめて、肩から手を離した。

「あんまり気にしてないよ。ところで、僕はあんまりこの事件について詳しく無いんだけど、何か知ってるの? あとファントムって何?」

「ファントムってのはこの事件の犯人のあだ名だよ」

「あだ名?」

「そうだ。幽霊みたいに気配が無くって現れるのはいつも夜。夜中街を歩いていると突然目の前に現れて決闘を申し込んでくる。もしその要求を拒めば、また幽霊みたいに消える。まあ、こんなことが起こっているって噂だ」

「噂……ね? ミハエルはその辺り詳しくはしらないの?」

 そう聞くとミハエルは肩をすくめた。

「詳しくは知らないさ。ただ、生徒の間じゃギャンブルが横行して、誰がファントムを倒すか? なんてものもあるらしい。また、自分の腕試しがてら夜に外をわざわざ出まわる輩までいる始末だ」

「なるほど、どうにも僕は噂話に疎くってそこまで知らなかったなぁ」

 休み時間中もずっと本を読んでいて、放課後はさっさと図書館に行くからか友達はいなかったし、こんな噂をする人もいなかった。

「みんな、ファントムを恐れてはいるが、楽しんでいる。しかし、あれは学園の風紀を乱す。あってはならない存在だ。必ず俺が倒してやる」

 新しく就任した生徒会長は使命に燃えているようだった。

「まあまあ、そういう難しい事は先生に任せておいて肩の力を抜きなよ」

 ソルファはにへぇと笑う。

「む、まあ、それもそうか……」

「それに、ギャンブルしている連中には君がファントムを倒すことに賭けている人間だって少なからずいると思うんだ。君がそう動いて儲かる連中もいる。まずはファントムを突き止める前に、賭け事をやっている人間を取り締まるのもいいのかもね」

「むう、お前にしては鋭い。それも確かに一理あるな……」

「じゃあ、頑張ってね」

 そう言ってソルファは席を立った。早く図書館に行って、鋼の魔術の研究の続きがしたかった。

「アージェ」

「ん、何?」

「やること終わったら、さっさと家に帰れよ。出来れば日が暮れる前に」

「ぜ、ぜぜぜぜぜぜ善処……す、するよ……」

 ミハエルの顔がまた厳しくなった。

 ソルファは引きつった笑みを浮かべて視線をそらした。

 全くもって自信が無かった。ここまで聞いてもなおファントムの話は割とどうでも良くって研究に集中したいという思いが勝る。

 そして、没頭すればいつだって日が暮れきった閉館時間間際だったりする。ほぼ九割以上の確率で。

「アージェ。前から言おうと思っていたが、お前だけ本当に図書館出入り禁止にするぞ?」

「すいません。それだけは勘弁して下さい。死んでしまいます」

 ソルファは目にも止まらぬ早さで、身体強化を行い、そして全力で土下座した。

「お前は本当に変わっているな」

「へ、なんで?」

ソルファはきょとんとした顔を上げた。

ミハエルがソルファの顔を覗き込む。

「執着が無くて、何も持とうとはしない。なんでも持っているのに何も持っていないかのように振舞う」

ミハエルが何を言っているのかが分からず、首を傾げた。

「もういいよ」

そう言うと、ミハエルはソルファの前から立ち去って行った。

「とりあえず、図書館出入り禁止はさ、避けられたのかな?」

その事にだけ安心すると、ソルファは今日も今日とて図書館を目指した。



そんなわけで、今日も今日とて勉強に励んでいたら、閉館時間に気がついた。

「の、ノオオオオオオオオオオオオ!」

何故図書館に来れば必ず、閉館時間まで眠ったように勉強し続けてしまうのだろうか。

無意識にある自分の存在に問いただしたかった。

本の虫とか笑われている自分をなんとか変えたいという意思はある。意思はあるのだ。強固な、強固な意思はあるのだ。

しかし、ほどほどにしようと思うほどに、本の虫加減は酷いものになっていくのだ。

今回はやめるべきだったのだ。早急に引き上げる必要があったのだ。

門限に遅れれば。また、運悪くファントム事件を目撃してしまえば、生徒会長命令で、ソルファだけ図書館にいることを禁止されてしまう。

それは、それだけは避けたかったというのに……この体たらく……。

 ソルファは悲しんだ。己の自我の弱さを。ソルファは強く憎んだ、あまりに本能に忠実すぎる無意識と、悪しき悪政を引こうとしている生徒会長を。そして、この葛藤を生み出したファントムを!

「あの、葛藤するのはいいんですけど、さっさと帰ってくれませんかね?」

すぐ後ろにいた司書がそう言った。

「あ、はい。すいません。あとこれ借ります」

「はい」

ソルファが本を掲げると司書が受け取り貸出の手続きを行っていく。ソルファが一冊本を借りるという事を分り切ってか、必要なものは全部持ってきていた。

さくさくっと手続きが終わり司書が去って行く。机の上に広げていたものをかき集めて、カバンの中に詰め込むと、図書館を後にした。

「さっさと帰りたいけど、今日もお腹空いたからなぁ。食べて帰ろう。何か忘れてるような気がするけども」

一人ごつつぶやく。ミハエルの警告はもはや意味がなくなっていた。この段になってもはや忘れていた。

 昨日は店を閉めていたあの定食屋も今日はやっていることだろう。そこへ行くことを心に決める。今日は肉をたらふく食べることを心に決める。

 夜の街は気を付けて観察してみればいつも以上に静かだった。

 普段この時間まで営業していたお店も、店を閉めている。何らかの形で昼間に聞いたファントムの噂。というものが、効果を成しているのだろうと思った。

 レストランに向けて歩いて行くと、不意に気配を感じて先を凝視する。

 そこにいたのは全身を黒い衣装に覆った男だった。

 黒いマントに身を包み、大きな黒い布で目以外の全てをすっぽりと覆い隠している。下に来ている服は体にフィットしたもので引き締まった体躯をしているのが分かった。

 杖は魔術師が多くの場合持っているものとは少し、異質で真っ直ぐな棒だった。

 その男から発せられる気配というものが薄かった。

 男はこちらを指でさす。

 ソルファは一瞬気を取られた間に黒ずくめの男は走り出していた。

「あ、待て!」

 すぐさま、バベルズアトラスを付与して追いかけるが、差は縮まらず。角を曲がり追いかけて角を曲がったら、男は消滅したかのようにいなくなっていた。

 とりあえず次の角まで走って辺りを見渡すが、完全に見失ってしまったようだった。

「あー、畜生。また逃げられちゃったかー」

「え? え? 何?」

 振り返るとそこにいたのはこの学院の教師であるマリア・ルルーだった。長い黒髪に、紫の瞳。女性にしては背が高く、普段穏やかそうな顔をしていることが多いが、今は全力で顔をしかめている。

「あら、ソルファ。ダメじゃないこんな時間に出歩いちゃ。ひょっとしてあなたがファントムなの?」

 そう言いながら、マリアはタバコに火をつけて一服した。

「勘弁して下さいマリア先生。僕、昨日通報して聞いたの先生でしょ?」

「ああ、それもそうだったわね。悪いことしたわ」

 ひるがえってやわらかく微笑むマリアだった。

 昨日ソルファが念話をかけて、受け取ったのはマリアだった。それなりに仲の良い教師がマリアしか心当たりが無かったのは大きい。

 その通報から現場に駆けつけて、一通りの事情聴取だのを行った中にもマリアはいた。

「あー、でも何しにこんな夜遅くまで? 昨日も外出てたみたいだけど」

「今日も図書館ですよ。それで帰ろうとしたら変なの見て、追いかけてたらこう……ね」

「ああー、なるほどねー」

「先生は?」

「あたし? あたしは幽霊退治だよ」

「幽霊? それってファントムのこと?」

 マリアはこくんと頷いた。

「そ、さすがに被害が大きくなりすぎてねー。ちょっと先生達も本腰入れて探し出そうかなってところ……なんだけど、今日は見つけるまではうまくいったけど取り逃がしちゃってねぇ……」

「ってことはさっき見た黒ずくめの男が……ファントム?」

「あら、っていうことはあんたも見ていたのね。彼を」

「うん。さっき見かけて逃げていくのを追いかけてた感じ。先生は、僕のこと、逆に見かけなかったの?」

「さてね。さっき見逃してからかんでいろいろ探し回ったけど、あんたが見失ったって言うんならもう見付かりそうも無いね」

「まさか。僕なんかより先生の方が早く走れるでしょう?」

「あんたほど強烈なバベルズアトラスをかけて走れる人は先生にもそういないものよ。せいぜい個人言語領域に、肉体変化があるくらいのものね」

「あれま、そんなもんなんですか?」

「ソルファ。そういうこと安易に言うんじゃ無いわよ。たどり着きたくてもたどり着けない領域にあなたはいるんだから」

「はい」

 そうは言ってもソルファにはよく分からなかった。

 自分は自分のやっていることで精一杯だし、もっと凄い奴もたぶんいっぱいいるだろうと思ってやっている。それがしばしば反感を買うらしい。

 その分からなさを、マリアにはよくよくたしなめられていた。

「あのさ、もし良かったらなんだけどさ。ファントム捕まえるの協力してもらっていいかな? ちょっとばかし優秀な生徒の手伝いが欲しいんだよね」

「まあ、それは構いませんが先生」

「なに?」

「お腹、空きませんか?」

 笑顔でソルファが言うと、マリアは一気に脱力して虚ろな目をして引きつった笑みを浮かべた。

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