第8話 ショック

 信じられない。


 この目で見、この耳で聞いた。でもそれは、まったくリアリティが無い。


 いつもの座席車の窓から夜空を見上げた。確かにキラキラと瞬く星々。アレの正体が岩や金属、もっと言えばガスとガスの燃えカスだってことぐらい現実味がない。


 初めて見た時は確かに、不思議な印象があった。近づけないオーラ。でも、話すうちに彼にはすごく親しみを覚えたんだ。俺は子供の頃に戻ったようにはしゃいでた。彼と過ごす日々は何をするでなくても退屈とは縁遠いところにあった。時間は瞬く間に過ぎて、彼との時間をいつも待ち遠しく思っていた。


 そして、それは今も……。


 引き上げた簡易テーブルに直に乗せた頬がずっしりとした重みで痛い。


 俺の知らないユズキ。


 見たこともない彼が、見る事の叶わない彼が存在する。


「気分でも悪いの?」


 背後から落ちてきた声に、ハッと閉じていた目を開いた。俺はゆっくり、テーブルへ凭れていた上体を持ち上げ、声の主を見た。


 そこには、白いスーツ、白い靴全身に白を纏った。琥珀がかった茶色いビードロ玉の瞳。手にはいつもの文庫本を持つユズキがいた。


 ふわりと微笑むユズキ。彼は彼の席に腰を下ろした。


 嬉しいさと、焦りが俺の体内をグチャグチャに掻き回す。声を掛けないと。そう気持ちは急かすのに、何を話せばいいのか、言葉を失ったように何も出てこない。


 目の前のユズキはそんな俺をあどけない視線で見つめてくる。ふと浮かんだ感情。


――俺を放ったらかしにして、さっきまであんなことをしてたくせに。


 ユズキが微笑んで、いつもの席に座っている。俺たちの席に。俺の胸の内に宿った気持ちはどんどん膨らみ、ゴウゴウと渦を巻く。その不満は全てユズキへの怒りになった。地響きのような唸り声が溢れる。


「何しに来た?」


「え?」


「今更何しに来た?」


「トキオ……くん?」


 ユズキの無邪気な表情が剥がれ落ちていく。それを見続ける根性がなかった。俺は視線を落とし、そのまま窓の外へ目を向けた。


「忙しいんだろ。戻れば」


「トキ……」


 ユズキの発したニ音は震えていて、俺はそれを聞くのが怖くて遮るように次の言葉を放った。


「恋人がいるんだな。そいつのところに帰れよ」


 俺は何を言ってる。これじゃ、嫉妬男まるだしじゃないか。ユズキは大事な友達なのに。


 静かに立ち上がる音がした。俺の前から影が動く。窓には俯くユズキの後姿。俺の焦りは吹き上がり、さっきまでの怒りの感情を飛び越える。気がついたら俺はユズキの手をガシッと掴んでいた。


 自分から跳ねつけたくせに、今は引き留めている。自分の感情がコントロールできない。


「……恋人じゃない」


 詰まるような低い声がポツリと落とされた。グイッと振り払われそうになる手に力を入れ握り、逆に思いっきり引き寄せた。俺の目の前に袖から伸びた白い手首が現れる。ユズキの反対側の手が伸びてきて、俺は隠されてしまう前に捲れ上がった袖口を押さえた。


 そこにはクッキリと蛇のように手首に巻きつく赤い痕があった。


「なにこれ……」


「なんでもない」


「なんでもないって返事になってないよね」


 ユズキは押し黙り、悲しげな顔を伏せた。時が止まったかのように流れる沈黙。これからどうすればいいのか見当がつかないでいた。俺も。たぶんユズキも。


 俺はそんな状況にいたたまれなくなって、なんでもいいから沈黙を打ち破りたかった。


「なぁ、」


「……恋人じゃない」


 切り出した俺に、もう一度ユズキが繰り返した。


「うん。わかった。……座って話そう? さっきは、ごめん。その……頼むから」


 今にも消えてしまいそうに儚い顔をするユズキ。それでも、俺の願いに頷いてくれた。握る手の力を弱め、繋ぐように優しく握り直し、ユズキの席に誘導する。


「恋人じゃないって? じゃあ、あれは……」


 ユズキは俺がアレを目撃したという事実に動揺を見せなかった。俺もハッキリとした言葉で何を見たのか伝えてはいないけど、ユズキは理解している。なのに動揺を見せないって事は、麻痺と諦め。動揺などもうとっくの昔に捨ててしまった感情なのか。


「父さん」


「えっ、だって……」


 てっきり何を見たのかわかっていると思ったのに、相手は父親だと言う。そんなはず、あるわけがない。だって俺が見たのは男同士の……。


「本当の父さんじゃないんだ」


 ユズキは静かに教えてくれた。男との関係を。この列車に乗る前の事を。



 中学の時、父親の仕事の都合で海外に移住することになったユズキたち。その時乗っていた飛行機がエンジントラブルを起こし、飛行中に機体が炎上した。丁度、機内トイレにいたユズキは一命を取り留める事ができた。


 ユズキの祖父母は両方とも既に他界していて、遠い親戚が葬儀を行い、一人帰国したユズキを迎えた。


 ユズキは当時十四歳。親の遺産があったにせよ、まだ保護下にいるべき年だったが、遠く離れた見ず知らずの年頃の男の子を引き取ることを皆が渋った。孤独に一人自分の身の振り先を別室で待っていると、酒の匂いを振りまく一人の男が現れた。


 ユズキの前に立つと男はニタリと顔を歪ませ、その場でユズキを犯した。男は他の親戚に自分が引き取ると言って嫌がるユズキを引っ張り無理やり連れ帰ったらしい。



 あまりに惨い過去に俺は放心した。何も言えないけどただ、ユズキの両手をグッと握った。


 どれぐらい経っただろう。ユズキも話し終えたまま、表情も作らずにジッと握られている手だけを見つめている。


「なぜ、まだあいつといるの? もう保護なんかされなくてもいいよね?」


 そういう俺にやっぱりユズキは悲しそうに微笑むだけだった。

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