第1話 妹のこと
それは妹の悠里と初めての喧嘩をした、次の日の朝のことだった。
朝起きて、自室から階下のリビングへ降りたぼくは、いつものようにテーブルに座り、朝のニュースをぼんやり眺めながらヨーグルトを口に運んでいる悠里の姿を見た。
ぼくの姿を認めると、悠里は昨晩の喧嘩のことなど忘れてしまったかのように、何の拘りも見せない笑顔で、スプーンを口にくわえたまま「ほふぁよー」とつぶやいた。
しばし見つめていたが、妹の表情は変わらない。少し眠そうに目を細め、笑顔でぼくの返答を待っている。「おはよう」とぼくも返し、喧嘩のことは無かったことにするのだなと納得し、さて牛乳でも飲もうかと冷蔵庫へと向かう。
コップに並々と牛乳を注いでいると、のんびりとした声が、背中から飛んできた。
「あっ…………そうだ、思い出した」
普通の、いつもの悠里と、何も変わらない調子だったと思う。
少なくとも、この瞬間までは何の違和感もなかった。
「何を?」
だから続きを促すぼくの声も、普通のものだったと思う。
予感など、何もなかったのだ。
ぼくはコップに注いだ牛乳を、零さないようにゆっくりと持ち上げていき、同時に口を近づける。
キンキンに冷えた牛乳が、喉を通り体の奥へと落ちていく。ごくごくと、音を立てて蠢く喉が心地良い。それほど強い拘りではないけれども、ぼくは毎朝、兎にも角にも牛乳を飲む。
そんないつも通りの朝だったから。
背後から当たり前のように掛けられた悠里の言葉にぼくは――、
「あのね、わたしね、前世の記憶があるの」
――思いも寄らない言葉に、ぼくはコップに口を当てたまま、固まってしまう。
その沈黙をどう捉えたのか、悠里は平坦な調子で言葉を紡いだ。
「前世のわたしはね、教会の聖女様として崇め奉られていてね、悪い魔女を退治したの」
ぼくは牛乳を噴いた。
♯♯♯
ぼくこと
まあそれは良い。
妹の
当たり前である。
ぼくに妹がいるのだから、その妹である悠里にも兄がいるのが当然で、実はそれが当然でない可能性があるとすれば、ぼくが一人称を『ぼく』と称するいわゆる『ぼくっ娘』的な姉である可能性だけれども、それは今回考慮する必要はない。つまりのところ、ぼくは妹の悠里にとって兄であるのだった。
兄が妹を守るということは、まあ当然のことであるという風潮が世間一般の常識として喧伝されているけれども、実態はわりと伴っていないという事実もまた比較的よく知られてもいる。しかしながらぼくと悠里の事情は、後者の現実とは大きく外れ、前者の世間一般の常識とやらにわりと近い状態であった。
そんな状態を、理解に易い言葉で何というのかぼくは知っている。
曰く――シスコンである。
ある種の蔑称としても使われるその言葉の状態にぼくがあることを、ぼくは自覚して受け入れていた。
なぜならば、ぼくの妹であるところの悠里が持つとある事情を語れば、ぼくがそれであることを、たいていの人に納得してもらえるからだ。
特に、ある程度社会的
「なるほど、そういう事情ならば仕方がない。シスコン結構。大いに励み給え!」
もちろんそんなあからさまな
まあつまりは「いいお兄ちゃんだね」的なそれで。
悠里は生まれた時から病弱で、少しでも気候が変わるとよく体調を崩し寝込んでいた。
成長するに従って少しずつ体力も付いてきたのか、幼い頃よりかはだいぶ寝込む回数も減ってきたと思う。それでも月に一度は必ずと言って良いほど寝込むほどの熱を出して、学校も頻繁に休んでいた。
学校の登下校の最中に動けなくなってしゃがみ込むなんてことも一度や二度ではない。
季節の移り変わり目なんかには、ほとんどが保健室登校だった。
幼い頃は病弱な悠里にばかり構う両親を見て、嫉妬めいた気分を持ったこともあった。
けれども小学校に入り、多少の分別が付くようになってからはぼくは、両親と同様、悠里を守らなくてはならない存在として、強く考えるようになっていた。
中学に入ってからはその行動はより顕著になっていった。
中学校の三年間のぼくは、三年後中学に入学する悠里のための下地作りに動いていた。
保健室に頻繁に顔を出しては保健室の先生との交流を深め、風邪を引いて休んだ生徒や体の弱い生徒のフォローを円滑に行うための組織作りを先生たちに働きかける。つまりは既存の保健委員会という組織の強化、そして権限の拡張。
その活動は概ね成功したと言え、ぼくが卒業する前ぐらいには、生徒会――とまではいかないにしても、風紀委員会とほぼ同等の強い権限を持つ組織に成長したと思う。
おかげでそれなりに深い信頼関係を先生方と築くことができて、ぼくは翌年入学してくる悠里のことを重々頼み、卒業していったのだった。
ぼくと悠里のことは、中学でもそれなりに話題になっていた。
なぜならば、中学校は小学校の隣の敷地にあり、頻繁に交流も行われていたからだ。
毎朝の登校を悠里と共に行い、下校時もまた、時間の許す限りは悠里を迎えに小学校まで行っていた。
明らかなる過保護だ、シスコンだと笑うヤツもいた。
けれども笑いたいヤツには笑わせておけばいい。
悠里を守れることに比べれば、ぼくが笑われることなんて、
――けれども悠里にとっては、小さなことじゃなかったことを、ぼくは気付いていなかった。
ともあれそんなわけで悠里の存在は中学の先生方も既知であり、ぼくが何のために保健委員としての活動を行っているのかをよく知っていた。
中学を出てぼくが通うこととなった高校はさすがに遠くなり、これまでのように頻繁に悠里を送り迎えするというわけにはいかなくなった。
けれども中学は高校への通学路の途上にあり、少し早起きさせれば、悠里と登校を一緒にすることは可能だった。
悠里が体調を崩した時には、ぼくの下校時に迎えに行くこともできた。
ゆえにぼくは何度も母校たる中学校に立ち寄ることがあり、悠里やかつての恩師たちから悠里の話を聞くこともできて、ぼくが作った組織は充分に機能を果たし、それどころかぼくが居た頃よりさらに洗練されている風なことも聞くことができた。
悠里を守ることができている。
そんな充足感を、その頃のぼくは十二分に味わうことができていた。
ひとり、満足していた。
悠里の気持ちも考えずに。
♯♯♯
過保護であることは自覚していたから、反抗期に入る悠里にとって、ぼくの過干渉はきっと鬱陶しいものであったに違いない。
その程度の分析は出来ていたけれども、実際に悠里はぼくに対して嫌な顔一つも見せることはなかった。だからぼくは、悠里の内心を深く考えることはせずに、いつものようにずっと過干渉を続けていた。
いつまでもこのままではいられない。
そんなことはわかっていたけれども、その後を考える切っ掛けはどこにもなくて、だからぼくはずっと、悠里を守る兄としての行動を続けていた。
切っ掛けは、ぼくが高校三年生になったある春の日のこと。
進路希望を訊いた、アンケート。
ぼくの机の上にある白紙の用紙を悠里が見つけたことから始まった。
「お兄ちゃん。大学、どこに行くの?」
思い返せばそれを訊いてきた時の悠里の言葉は、種々の複雑な想いによりわずかばかり震えていたように思う。
悠里の気持ちをこれまでほとんど考えてこなかったぼくに、その正確なことなどわかるはずもないけれども、今にして思えば、不安と期待と、いくつかの相反する願いが入り交じった、それはとても重たい意味を孕んだ質問だったのだろう。
けれども、そんな重要な問いに対して、ぼくは半ば誤魔化すように――しかし、嘘はつかずに、何でもないことのように、当たり前のように、気負いが無い風を装って、応えたのだった。
「行かないよ。高校を出たら、バイト先の店長の紹介で就職するつもりなんだ」
普通に応えたつもりだった。けれども悠里は、ひょっとするとそれは悠里の持つ不安から形成された猜疑心が導いたものだったのかもしれないけれども、ぼくの応えに納得しなかった。
「……どうして? お兄ちゃん、頭成績良いのに!」
ぼくは微笑む。
予想できた反応だったからだ。
けれどもぼくは、その反応に対してあらかじめ言い訳を用意することができなかった。
だからぼくは、
「大学行くことよりもやりたいことがあってね、だから、働きながらそれをやっていこうと……」
告げようとした自分でもわかっている下手な言い訳は、今まで見たことないほど鋭い目でぼくを睨んでいく悠里の視線に縫い止められて、最後まで喋ることはできなかった。
「うそ…………お兄ちゃん、またあたしのために、我慢しようとしてるんだ……」
そして顔を伏せて、小さい声で呟くように震える悠里に対して、ぼくはもう、誤魔化しを口にすることはできなかった。
「違うよ、悠里。これはぼくが望んだことなんだ」
「……うそ」
ここから通える近くに、ぼくの成績に見合った大学はない。
大学に行くとなると、ぼくはどうしてもこの家を出ることになる。
それはつまり、悠里と離れるということで、今までのように悠里を見守ることができなくなるということだった。
ぼくは、それはしたくなかった。
どうしてもその事だけはしたくなかったのだ。
「本当だよ。悠里を守りたいんだ。悠里にとっては、うざったいだけなのかもしれないけれども、それがぼくの一番の望み……」
「――っ、うそっ!」
「嘘じゃない」
「うそだっ! だってお兄ちゃん、まだ、アンケートに何も書いてないじゃないっ! 進路が決まってるんなら、やりたいことが決まってるんなら、書けば良いのにっ! 何も書いてないってことは、迷ってるってことでしょ! 他にやりたいことがあるってことでしょ!」
「…………えっ?」
突然大きな声を上げた悠里に驚き、声を出せずにいたぼくは、一拍遅れて、悠里の言葉の意味に気付き、疑問の声を上げた。
その瞬間、気付いて、ぼくの頭の中から一気に血の気が引くような錯覚に襲われた。
愕然として、唖然として、ぼくは自分の行動を思い返す。
脳裏に浮かぶのは、進路調査のアンケートに、文字を書き込もうとして、迷い、書き込めずにいる自分の姿。
悠里の言う通りだ。
ぼくは、何故書き込めずにいた?
何故白紙のままなのか?
やりたいことは決まっている。
進路は就職だ。それ以外にない。
悠里を近くで見守っていくためには、それ以外の選択肢はありえない。
けれども、なぜかぼくは、未だに進路を書いていなくて、迷ったまま机の上に白紙で放置してしまっている。
何故なのか。ぼくはその理由をまったく考えようとしていなくて、考えないまま、無意識で行動してしまった自分に気付いた。
その意味することは明白だ。
書き込めないでいるのは、ぼくの中で何を第一志望にするのか、まだ決まっていない、決めることができていない証拠なのではないか。
「お兄ちゃんは良いのっ! もう、あたしを理由にしなくても。あたしは、もう大丈夫だからっ!」
「大丈夫なわけないだろっ。先週も体育の授業中に倒れたばかりじゃないか。ぼくは、無理して悠里と一緒にいるわけじゃないっ。一緒にいたいから、いるんだ。だから悠里が遠慮に思うことなんてないんだ」
「うん、知ってる。お兄ちゃんに心配されることは嬉しいよ。それは本当。お兄ちゃんが無理してないってことも、本当だと思う。でもね……」
悠里は言葉を止め、ぼくを見る。
静かな目線だった。けれどもその瞳の奥に宿る力の、思いの他強い力の痕跡を感じて、ぼくは少したじろいだ。
「でもねお兄ちゃん。お兄ちゃんの可能性が、将来が、誰かのせいで歪められるのなら、あたしはそれが誰であっても許せないよ?」
――誰であっても。
それは、たとえそれが自分――悠里自身であってもということだ。
「だからね、朝――は良いとして、下校は別々にしよ? たまに偶然、終わりが一緒になった時に一緒に帰る、みたいにね」
悠里が心配だ。
毎日の通学路。
家を出る時は元気でも、ちょっとしたことで体調を崩す悠里が、学校へ辿り着いた時に元気とは限らない。
登下校中に動けなくなり道端に座り込むなんてことは、直近でもよくあった。
悠里は誰かの助けがないと、まともに生活ができない。
学校では理解のある教師や友人がいるからまだしも安心だ。けれども、登下校中はそうもいかない。
悠里のことが大切だ。
守ると誓った、可愛い妹。
ずっと体が弱くて、ちょっとしたことですぐに倒れてしまう妹。
片時も目を離したくなかったし、出来ることならば自分の手の中で、大切に包み込むように守っていたかった。
そんなこと、出来るはずもないことは当然のこと。
だからぼくは、妥協して、学校の送迎だけで我慢しているのだ。
けれども悠里は、それすらも拒否しようとする。
ぼくの望みを、妨害しようとする。
腹が立った。
理不尽な八つ当たりだとわかっていたけれども、腹が立った。
そうしてぼくと悠里は、初めての喧嘩をして、悠里は逃げるように自分の部屋へと駆け込んでいった。
ひとり取り残されたぼくは、悠里を傷付けた自分の言動に後悔した。
そして、悠里を傷付けたぼく自身に対して酷い怒りを感じた。
悠里を守ろう。
悠里を傷付けるもの、すべてから守ろう。
そう誓っていたはずなのに、他ならないぼく自身が悠里を傷付けてしまったのだ。
その事実は、いくらぼくのこととはいえ、到底許されるものではなかった。
――何がしたいんですか。
呆れをふんだんに含んだ自問する声が響いた。
ぼくはその声に返せる言葉を持たない。
悠里を守りたいのだ。
それは絶対の誓いだ。
けれども他ならぬそのぼくの誓い自体が悠里を傷付けることとなってしまっては、どうしようもない。
自縄自縛。
何をすれば良いのかわからず、ぼくは沈黙を続けるしかない。
――方向性を変えればいいのでは?
心に浮かんだ言葉は、現状の誓いとはまた別の方向性を示す。
それは今までの、登校の送迎という形ではなく、また別の形で誓いを叶えろと言う意味だろうか。
――妹離れをするという必要性は感じていたのでしょう?
その通りだ。
いや、その通りだろうか?
ぼくは妹離れができず、悠里もまた兄離れができない。
そう思っていた。
いや、それは今でも事実だと思う。
けれども少し違う。
ぼくには妹離れをするつもりは、なかった。
客観視すればその必要性に気付きながら、自分から行動を起こすつもりはまったくなかった。
けれども今回の悠里の行動は、言葉は、ぼくの希望を拒否した言葉は、兄離れをしようと悠里が決意した、その現れではないのだろうか。
悠里の行動は正しい。
この上もなく正しい。
悠里は来年高校生になり、ぼくは大学へ進学する。
二次性徴なんて時期はすでに通り過ぎていて、互いの性差に嫌悪を感じるタイミングは逃してしまっている。
けれども成長には欠かせないものだと、ぼくの中の客観的な何かが伝えてくる。それは常識だとか、世間体だとかいった、曖昧で形の無い物だったのかもしれない。けれどもそれらは社会生活を行う上では決して無視してはならないものだということを、ぼくは知っていた。
いい加減に覚悟を決める時が来たのだろう。
妹離れする、兄離れする時が。
そのことを思うと胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
何かがひどく恐ろしかった。
当たり前のように傍にあったものが、消え去っていこうとする恐怖。
けれども、それをせねばならないという強迫観念。
悠里は踏み出したのだろう。
兄離れしてひとり歩んでいく道程を、一歩。
けれどもぼくはまだ、歩き出せずにいた。
歩くための一歩を踏み出せずにいた。
繰り返し思う。
悠里が心配だ。
病弱な悠里が、ひとりで歩いて行けるのかどうか。
何も決められず、胸を締め付けられるような息苦しさを感じている。
どうしよう。どうすればいい。
どうすればいいのかは、決まっている。
妹離れは、しなくちゃいけない。
今じゃなくても、いつかはきっと。
どうせいつかはしなくてはいけないことならば、きっとこれは好機なのだろう。
わかっている。
けれどもぼくは、どうしても決められない。決めることができない。
♯♯♯
色々と複雑なことに気付いたような気付けていないような、自分でも混乱したまま、何も考えることができずにいて、ぼくは眠りに落ちた。
夢の中でもぼくの頭の中は混乱していて、考えているのか考えていないのか、とにかく色んな思考の欠片が渾然と渦巻いて、整理できないでいた。
ぼくは本当は何を望んでいるのか。
妹を守ることを第一に考えているはずだった。だから大学進学という道を棄て、傍で妹を見守る道を選んだのだ。
ならば、さっさと志望の用紙にそのように書けば良かったのだ。
成績はそれなりに良かったからきっと教師陣には進学を勧められるだろうが、自分の考えをしっかりと持っていれば説得は難しくない。
高校を出て、地元で就職をして、妹を見守っていこう。
それはぼくの希望だから、一番に望んでいることだから、きっと間違いじゃないはずだ。
けれども、ならば何故ぼくはアンケート用紙に何も書いていないのか。それは、心のどこかで、進む道に迷っているからじゃないのか。
不安は当然ある。
自他共に認めるシスコンだけれども、このままで良いとは当然思っていない。
いつかは妹離れしなくてはならない時が、必ず来る。それはわかっているつもりだ。つもりだった。
もっとぼくと悠里が成長して、大人になった時、悠里に好きな男が出来た時、ぼくはきっと悠里を見守ることを止めるべきなのだろう。
そのことを考えると、目の前が真っ暗になるような恐怖に襲われる。
本当にそれは刹那のことだけれども、謂わばぼくにとってそれは、希望の消失にも似た、終焉の情景なのだ。
妹離れをする。
その言葉はきっと成長を示しているのだろう。
けれども、悠里がぼくの前からいなくなる想像は、耐え難い虚無感を伴い襲いかかってくる。
絶望に似た感情。
死への恐怖にも似た、途方もない喪失感。
きっとそれは絶望そのもの。
時折、思い出したように考えてしまう。
幼い頃から繰り返し、繰り返し。
それがあまりにも恐ろしいから、自然と忌避し、考えないようにしてきた。
それを思考の停止と言うのだと、ぼくに教えてくれた言葉は、はたして誰のものだったのだろう。
初めて悠里の喪失を想った時のことを思い出す。
今よりもずっとずっと幼かった頃。
小学校に入るちょっと前のこと。
その頃から悠里はずっと病弱で、ゆえに両親も常に悠里に掛かりっきりで、ぼくはずっとひとりぼっちだった。
悠里さえいなければ、パパもママもきっとぼくのことを見てくれる。
正直、そんなことを考えて悠里を恨んでしまったこともあった。
悠里なんて、いなくなってしまえばいいのに。
けれどもそんなことを思った、明くる日か、数日後のことだったのか、悠里は風邪を引いて寝込んでしまった。
いつになく酷い風邪だった。肺炎を併発したのだとか、そんなことを両親が言っていたように思う。
何日も熱が下がらず、入院をしたりして。退院して家に戻ってきたと思えばまた熱が上がり、ひどく咳き込んでずっと眠っていた。
あまりにも苦しそうで、辛そうで、ぼくはそれを見ていられなくて。
ごめんなさい、ごめんなさいと、ぼくだけにわかる理由で、必死になって謝っていたのだった。
いなくなってしまえなんて、そんな言葉は本心からじゃない。嘘なんだ。
風邪が移るといけないと、妹に近づくことはなかなかできなかった。
けれども父が仕事に行き、母が買い物に離れたその隙に、悠里の部屋に入り込んで、ぼくは必死に謝った。
何かに向けて。
そうすれば悠里の熱は下がるとでも言うように。
そんなぼくに、熱で浮かされた朦朧とした思考の中で、悠里は何を見たのだろう。
熱で顔は真っ赤に染まり、汗は乾く間もなく次々と流れ落ちて、瞳の焦点は安定せずに揺らめいていて。
けれども悠里は、幸せそうに微笑んだのだった。
「にーちゃ、だいじょ、ぶ?」
幼い辿々しい声は、今でもぼくの耳の中に残っている。
悠里を守ろう。
そう誓った、その時からきっと、ぼくの
♯♯♯
闇の中で笑う声が聞こえた。
人を嘲るような、けれどもどこか艶めかしく蕩けた、蠱惑の香りがする声だった。
『――運命、運命ですって? そんなもの、認識から零れ落ちた事象の受け皿にすぎません』
…………?
言葉の意味を考えようとして、わからなかった。
意味不明だ。
何が言いたい?
『すべての事象は認識されることによってはじめて存在します。運命とは、認識されることのなかった事象――つまりは、存在し損なった事象の欠片をまとめたものにすぎない。欠片、屑、塵、なんでもいいですけど、そんなものに大層な意味を付ける理由なんて、どこにも存在しません』
つまりとか言われても、やっぱり意味がよくわからなかった。
しかし何やらとくかく
馬鹿にされているのだと認識はするけれども、あまりにも核心めいて喋るので、なんだか呆気にとられてしまいそれほど腹は立たなかった。
――それもあんたの認識にすぎないじゃないか。
意味がわからないなりに、そう返すことが精一杯だった。
『けれどもあなたはわたしを認識していません。ならば、わたしはあなたにとっての〝運命〟と言い換えても良いのかもしれませんね』
皮肉げに
けれども初めよりも嘲る調子は少し薄らぎ、柔らかくなったようにも思えた。
――何なんだ、一体。
『――夢です』
疑問を浮かべると、間髪入れずに応えが帰ってくる。
夢――ああ、そうだ、夢なのだろう。
まったくもって意味不明で、支離滅裂な夢だ。
だから、浮かぶ言葉は陽炎のように揺らめいて、定義も安定しない。
文法構造は解体され、言葉は決して噛み合わない。
何よりここには、
――ぼくしかいない。
闇の中にはぼくひとりだけ。
ここに妹は、悠里はいない。
『ならば、朝起きたら、ちゃんと話し合った方がいいですよ。きっと、お互い色々とすれ違いがあります』
その言葉で悠里と喧嘩していたことを思い出したぼくは、少し戸惑いながらもうなずいた。
その少しの戸惑いに、自分のどうしようもなさを思いながら。
♯♯♯
熱に浮かされた時に見るような支離滅裂な悪夢に襲われたように、妙な倦怠感を伴って目が醒めたその日の朝のことだった。
ぼくは悠里と話し合う必要性を感じていたが、悠里の様子があまりにも普段通りだったので、なかなか言葉を告げられないでいた。
とりあえず朝食を先に済ますかと、冷蔵庫を開けて、グラスに牛乳を注ぐ。
そのまま牛乳を口に含んだその時だった。
あまりにも普通に、悠里は呟くように、その言葉を放ったのだった。
「あのね、わたしね、前世の記憶があるの」
――ぼくは牛乳を噴いた。
アヴァロンには帰れない - HARMONIA ONLINE - 彩葉陽文 @wiz_arcana
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