そのお弁当!もう食べなくていいよ!

奈名瀬

走り出したら止まれない

 1500のタイム。あいつ、また伸びてる。


 ユウの記録を盗み見た後、あたしは髪を解いてからヘアゴムをしまう。

 その後、バッグからタオルを取り出して、ぼふっと顔に押し当てた。

 ふんわりとやわらかな生地で顔の汗を拭うと、ふぁっとシトラスの香りに包まれる。

 お気に入りの香りでべたつく汗を拭うこの瞬間は、部活中の貴重なリラックスタイムだった。


 あたしはその場に腰を下ろして「ふぅ」と息を吐き、顔にタオルを押し当てたまま目を閉じて空を仰ぐ。

 すると、真っ暗なまぶたの裏に光が透けて差し込んできた。

 閉じた瞳の中に、何色ものもやが浮かんでは移ろう。

 そんな現実から離れた視界の中、涼しい風が吹き抜ければ心と体は一瞬だけ疲れを忘れられた。


 けど――


「姉貴。次、三年のタイム測るって」


 ――そんな大義名分を手に、ユウがあたしの顔からタオルをかっさらう。

 その後、弟は傍に置いてあったバックにタオルを放って投げ、あたしの隣に座るや否やくんくんと指のにおいを嗅いだ。


「姉貴、あの柔軟剤まだ変えないの?」


 乾いた声で放たれたその言葉に、あたしは何百と集まる蝉の声以上にイラっとする。


「いいじゃん。お姉ちゃんアレ好きなんだもん」


 ふんっとそっぽを向いて返事をすると、ユウは「まあ、いいけど」と声に出した後、手にした水筒をあおった。


 その言動にあたしは再びイラっとして、弟に向き直る。

 そして、すっと立ち上がり弟の持つ水筒をかっさらってやった。


「あのね! 人の好きなもの悪く言うのやめなさい。ママだって言ってたでしょ?」


 あたしがふんっと鼻を鳴らして怒ってみせると、弟はやれやれと言わんばかりに肩をすくめ――


「母さんはのもの取ったらいけないとも言ってたよ」


 ――生意気にも反論した。

 直後、あたしは三度みたびイラっとして、ユウの水筒に口をつける。

 そのまま飲み口を傾けて冷たいお茶を流し込み、ごくごくと喉を鳴らしてから口を離した。


「これは他人ひとのものじゃなくてのだもんね! だからいいの!」


 潤った声でぱんっと言い放ち、水筒を投げつける。

 弟はふわっと飛び上がったそれを受け止めると、むっと唇を結んだ。

 しかし――


「コラ、ユキ! 三年タイム測るよ! 聞いてなかったの!」


 ――コーチがあたしに叫んだ瞬間、ユウは意地悪く口元を解く。


「ほら、呼ばれてるよ。


 その蛇が笑ったような笑顔に腹を立てながらも、あたしはすぐさま踵を返して走り出した。


 しまっていたゴムを取り出し、ぎゅっと髪をきつく結ぶ。


「はい! 今行きます!」


 ポニーテールを頭にさげるあたしは今、立派な競走馬そのものだった。

 ……なんて、弟が聞いたら呆れるかな?



「なあ、ユウの弁当ってユキ先輩が作ってんの?」

「手作りだろ? うらやましー」


 昼休憩となり、部員が各々集まって昼食をとる中、そんな会話が聞こえてきた。

 あたしは自分の名前が出てきたことに驚き、思わず聞き耳を立てる。

 妙にテンションの高い後輩達の声に胸の奥がくすぐったくなる中、ぴしゃりと聞き慣れた声が放たれた。


「そんなに羨ましいか? 冷凍食品混ざってるし、これなんかちょっと焦げてるぞ?」


 そう言ってユウは箸で玉子焼きをつまんで同級生達に見せて回る。


「焦げてるって……ここか? そんなにいう程でもないだろ?」

「そうそう、うちのアネキなんか玉子焼き焼いたらもっとキリンみたな見た目になるぞ」


 じっと玉子焼きを覗き込みながら首を捻る同級生達を前に、ユウは「いやいや」と首を振って見せた。


「綺麗に見えるこれは氷山の一角。姉貴、あれでプライド高くてさ。俺に文句言われるの嫌だから、綺麗なのだけ俺の弁当箱に詰めるんだよ」


 その言い草に、弟の笑う蛇面が容易に想像できる。

 しかし、後輩達の手前、情けない姿は見せまいと必死に歯を噛みしめ我慢した。

 だが――


「それに、味もちょっと甘ったるくてさ。姉貴、玉子焼きに砂糖たくさん入れるから」


 ――その一言で怒りはピークに達してしまい、あたしは静かに立ち上がる。


「……ユキ?」


 その後、きょとんと不思議そうな眼差しを送る同級生に「すぐ戻るから」と残して、ユウ達の傍まで歩み寄った。


「ちょっと、ユウ?」


 最初は、にっこりと――


「そんなに、甘い玉子焼きがいやなら、お友達にあげるといいよ」


 ――次第に、語気を強めながら。


「あ、姉貴?」


 弟は背後から近づいたあたしにゆっくりと振り向くと、箸で掴んでいた玉子焼きをポロリと落とす。

 その玉子焼きを見た途端、あたしは自分の怒りのスイッチがオンになるのを感じた!


「だいたい! 甘い玉子焼きが良いって言ってたのはユウでしょ!」

「なっ、何年前の話だよ! それ小学生の時の話だろ!」

「だから何! 作ってもらえるだけ感謝なさい! 最近ちょっとタイムが良いからって調子乗ってるんじゃないの?」


 そして、一度こうなってしまうとあたし達は止まれない――


「相変わらず、仲の良い姉弟よね……」


 ――それはもう、まわりの声など聞こえなくなってしまうのだった。

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