第十二話 誘う香

 鐘の音が鳴り響く。

 鐘。

 鐘。

 鐘。

「――まった現れたのかよ!!」

 吼えながら圓井は愛刀を引っ掴んで当直室を飛び出た。同じく夜警当番として待機していた同僚たちも一緒だ。誰もがうんざりした顔をしている。ただ一人、朱雀隊隊長たる帯鉄だけは常の凛とした面持ちを崩さない。

「多いな」

 それでも、流石に一言零さずにはいられないようだったが。

「多くないっすか隊長ぉ」

「ああ、如何に言っても、な」

「これじゃあ仮眠もおちおち出来やしねえっすよ」

 禍者の出現を告げる鐘の音を背に、現場へと走る。案の定沸いている禍者に舌打ちが漏れる。手だけは無意識的に二振りの愛刀をすらりと抜き放つ。申し訳程度に鎧を着込んだ人型数体と、取り巻きのような山犬の形の禍者。人型の手には刀。典型的な新型と旧型の組み合わせ。走りながら圓井は他の気配を探る。眼前の連中が囮となり、隠れた弓持ちが交戦中に矢を仕掛けてくる、なんていうのは今や良くある連中の戦法だった。そして、そうした混乱に乗じて改史会の連中がこちらを掻き回してくることも悲しいかな今では当たり前のように行われている。故にこそ、五感を圓井は研ぎ澄ます。音、匂い、空気の流れ。幸いにも、今回は目の前の集団で打ち止めらしい。

「圓井!」

「あれだけっす!」

 自慢という程ではないが、圓井の五感は人のそれより鋭い。帯鉄の問い掛けに応えを返せば、彼女は小さく頷く。隊長に信を置かれている誉れは、こうした場でもこそばゆいものだった。

「【先駆け】、撃て!」

 叩くような帯鉄の声に、銃声が重なる。

 朱雀隊には様々な武器を所有する者がいるが、大別すればそれは二種類に分けられる。即ち、近接か、遠距離か。青龍隊は誰もが刃を手にしている。各々が思うままに暴れ回り、切り裂き、禍者を蹂躙する。朱雀隊は違う。隊長や隊長補によって様々な武器を持つ者たちは区別され、適切に運用されていく。効率良く禍者を屠る為に。そして、多くの人間が生きて帰ることの出来るように。

 駆ける圓井の前で火花が光る。【先駆け】と名付けられた銃の使い手たちが一斉に引き金を引いたのだ。禍者へ殺到する鉛玉。刀持ちの新型は流石にそれらを自らの刃で退けたようだが、獣の方はそうはいかない。山犬たちが吹き飛ぶ。全部ではないが、相当数が鉛玉に倒れていった。残りは両の手で数えられる程度。夜警の為に控えていた人数は少ないが、これならば後は残りの近接に秀でた者で十二分に処理出来る。横一列に並ぶ【先駆け】を追い抜きながら圓井は己の獲物を探す。同じ隊にいると言えどその能力には差がある。敵に対して何人で挑むべきか。どの敵に当たるべきか。

 朱雀隊は集団にて禍者を屠る部隊である。

 属する者は、与えられた役割に忠実たれ。

 圓井は半ば直感で獲物を選定する。脅威であり、己一人で屠れるのはどれか。考えるより刀を振るう方が早い。鉛玉の雨を掻い潜って生き残った山犬の一匹へ肉薄。既存の生き物を上っ面だけを模した化け物とは言え、その弱点はそう変わらない。飛び掛かって来る山犬。大きく開かれた顎へ怯むことなく左手の刀を差し込む。山犬に己の勢いを殺す術はない。ずるりと肉の奥に刃が引き込まれる感触。ぬらりと湿った口腔へ飲み込まれる愛刀。圓井は迷うことなく左手を離す。頽れる山犬。その脳天へ右手の刀を突き刺した。頭蓋をも砕く鋭い刃が脳天から顎下へと貫通し、地面へと突き立った。両の手から刀を手放した無防備な態勢。狙われぬ筈がなく小賢しい人型が上段から圓井の脳天を砕かんと太刀を振り下ろした時には、圓井の左手は山犬の口から刃の片割れを引き抜いていた。油断なぞあろう筈もない。手入れを怠らない愛刀は抵抗一つなく圓井の左手に収まる。後は、身体を捻りながら頭上から来る手首を刎ね飛ばし、頸を断てば禍者とて骸に成り果てる。

 今回は、これで十分。

 圓井の周囲は既に戦闘の気配が褪せつつあった。

 乱戦混戦ならともかく、明確な判断をもってめいめいに飛び掛かった朱雀隊の隊員たちが苦戦なぞ有り得ない。

 たった一人で人型に挑んだ帯鉄も例外ではない。

 圓井の向けた視線の先、鎧を纏った禍者が盛大に吹き飛ばされていた。帯鉄の白い足が真っ直ぐに禍者の中心を捉え、蹴り飛ばしたらしい。無様に転がる禍者が刀を握った手を動かすより早く、彼女の刀は鎧の継ぎ目、首元へと吸い込まれていた。いっそ優雅な所作で振り抜かれる右手。ずるりと断ち切られた首から吹き出る血を浴びながら、眉一つ動かさず帯鉄は戦場を見回した。足元には幾つかの禍者の骸が転がっていた。

「負傷者はいないか」

 誰もが否を返す。血に塗れた顔が微かに緩められた。

「ご苦労だったな。連日連夜の戦闘、お前たちも疲れているだろう。さっさと戻って休むぞ」

 応と声を上げ、それぞれに朱雀隊は踵を返す。そんな中で圓井だけが、じいっと先程までの戦場を見つめていた。

「どうした市吾」

「多分なんすけど、人死に出てますね、此処」

 緩やかに帯鉄が息を詰める。

「……そうか」

 恐らくは圓井だけだろう。戦場に残る、禍者のそれではない血の匂いを嗅ぎ取ったのは。

 そして。

「避難は完了していたと聞いていたが……改史会か? ……いや報告しておこう。一先ず戻るぞ。……市吾?」

「あ、いえ、大丈夫っす」

 淡く空気に溶けゆく奇妙な芳香を捉えたのも。





「隊長朱雀隊からの報告書が上がりました」

「ありがとうねぇ。机の上にでも置いておいて」

「すみません、こちらの資料は」

「それは僕が貰おう」

隊長端鳴はなりから白虎隊の使いが」

「おや、もう来ちゃったかぁ」

 玄武隊は常ならぬ騒々しさに包まれていた。あちこちに資料が山のように積み上げられ、普段は静かな玄武棟には絶えず人が出入りしている。

 戦場。

 そう呼ぶに相応しい状況だった。

 禍者の葦宮の首都、桜鈴への侵攻は無事収束させた。だが、一息吐く間もなく禍者の対処へ追われることとなったのだ。

「隊長、白虎隊の方は私が」

「そうだねぇ。幸慧君、お願いするよ」

「はい」

 両手に書物と報告書。更には周囲の机に資料を山積みにした倉科隊長に代わって、混迷を極める室内を後にする。

「使いの方は」

「応接室に、隊長補」

「分かりました、ありがとうございます。貴方はご自身の仕事に戻ってもらって大丈夫です」

「はっ」

 慌てたように室内へ踵を返す背を見て、小さく息を吐いた。誰もがそれぞれに仕事に追われている。

 反攻作戦の成功。それを待っていたかのように葦宮全土で禍者の出現頻度が劇的に増加した。禍者の出現を告げる鐘の音は時間を置かず日に何度も鳴り響き、それが収まれば戦闘に赴いた部隊からの報告書が上がる。交戦し、集められた情報を元に禍者に対する研究、理解を深めていくのが玄武隊の仕事だ。当然、それぞれの報告書は精読される。また桜鈴の祓衆は謂わば本隊。地方各地に点在する分隊からも情報は上がってくるのだ。桜鈴の玄武隊は、常に情報の処理という戦いの渦中に置かれている。これまでであればそれでも隊長の指示の下、それなりの余裕さえもって成せていたものではあるが、以前の比ではない程に禍者の情報が集約される今となっては限界近い稼働率でもってどうにか処理しているのが現状だった。

「お待たせしました。玄武隊、本隊長補の松尾です」

「端鳴白虎隊の真藤まふじです。忙しいでしょう、こちらは」

「……まあ、そうですね」

 思わず苦笑。流石に、強がれはしなかった。対する真藤さんも仄かに口元を緩める。

「愚問でしたね。ここは祓衆の本部。こんな状況で忙しくない筈がない。白虎隊の本隊長に挨拶を、と思ったのですが捕まらなかったですし」

「各地を回っていますからね、隊長は」

 白虎隊は何処もそうだろう。禍者に対する斥候役を担うことも多いが、同じくらいに各地の伝達役、生ける情報網としての任も帯びている。禍者が何処に現れたか、分隊たちの動向は。そんなあらゆる情報を己の足で集め、伝えていく部隊。

 特に初鹿隊長は並外れて足腰も強いし持久力もある。他の隊員の数倍の仕事を嬉々としてこなしていることも少なくない。個人的に倉科隊長の私用も受けているようであるし、尚のこと捕まえるのは至難の業だろう。

「それで、端鳴の様子は」

「ああそうだ、話が逸れてしまいました」

 私個人としては他愛ない会話も悪くはないが、残念ながら時間に余裕があるわけではない。そっと本題を促せば、空気は自然と引き締まる。

「中々に酷いものです。体感としては……そうですね、三倍は出ています。端鳴だけではなく、周辺もですね。こちらは端鳴程ではないのですが、それでも忙しない。一応こちらが」

 懐から取り出された紙が開かれる。しっかりと折り畳まれていたのは二枚の地図だった。

「端鳴玄武隊によって製作されたここひと月の禍者の出現分布図です。もう一枚は一年前の物ですね。うちの玄武隊より託された物です、宜しければお役立てください」

「ありがとうございます。活用させてもらいます」

 受け取りながら、地図に目を走らせる。一目瞭然。一年前のそれより、出現数は何処も軒並み極端に増加していた。もっとも——それでも此処桜鈴に比べればその増加率はまだまし、なのかもしれない。

「それと」

 やや渋い表情。不思議に思いながら視線で促せば、真藤さんはそっと、何かを机に置いた。

 何か。そう思ったのは私にはあまり見慣れない物だったからだ。重厚感のある、深い黒のそれは、恐らくは金属で出来ているのだろう。安価な物では決してない。

「開けても?」

「大丈夫です」

 断って、それに付いた小さな蓋を開けてみれば、ほんの微かな甘い匂いが鼻腔を掠めた。覗けば、少しの燃え滓……ほとんどが燃え尽きた灰が底の方で溜まっていた。

「香炉、ですか。これは」

「ええ」

 真藤さんは居住まいを正した。

「それは、禍者との交戦後発見された『手』と共に回収された物です」

「手」

 自然、眉が寄る。

 つまりは、手以外は見付からなかったのだろう。悲しいことだけれど、残念ながら珍しいことではない。

「そして、禍者に襲われかけていた改史会の人間が所有していた物でもあります」

「改史会の持ち物、と」

「恐らくは。……先の『手』も、そうでしょう。わざわざ、喰われに出ていたのだと思います」

「そう、ですか」

 少しだけ。

 少しだけ、安堵を覚えた自分を私は自覚している。喰われたのが、改史会の人間で良かった、と思う自分がいることを。自己嫌悪はすぐに振り払い、そっと香炉を持ち上げる。見た目よりもずしりと重い。

「そこまでなら然程の意味を見出すこともなかったのですが……その襲われかけていた改史会の連中、些か妙なことを口走りまして。曰く、」

 ——これは神使をお招きする法具である。

「立て続けに見付かったのもそうですが、連中の言い分も奇怪極まりない。自ら香を片手に喰われに出向くなど、悍ましいことこの上ないでしょう。ですから、本隊にお預けしたいのです」

「……神使に、法具ですか。確かに、妙なお話ですね」

「ええ。それにこの香炉を持っていた改史会の人間ですが、それはそれは異様なまでに禍者に集られていましてね。それも気味が悪くて」

「神使を、お招き……」

 まさか、と言う程ではない。改史会の言い分を噛み砕けば、容易に想像はつく。

「禍者を、呼び寄せる香、と、そういう訳ですか」

「言い分を信じれば。まあ、それにしたって禍者を神使だの何だのと良くもまあ、勝手なことを言う連中のことですからにわかには信じ難いのですが……如何せん実際に見てしまってはね」

「……調べた方が良いのは明白ですね。分かりました、これは本隊で預かり調査します。ありがとうございます」

「いえ。燃え滓ですから問題はないでしょうが、くれぐれも扱いには気を付けてください」

「勿論です。他の者にも伝えておきます」





「――成る程、それでこれを預かってきたんだね」

「はい。話だけではその、にわかには信じがたいのですが……」

 情報の処理に追われる中、取り敢えずは此処まで、という倉科隊長の鶴の一声で玄武隊が業務を終えたのは日もすっかり沈んだ頃だった。普段なら夕方には玄武隊としての仕事は終わっているのだ。三々五々解散していく玄武隊たちが顔に色濃く疲労を滲ませていたのも無理はないだろう。

「そうだねぇ。今まで禍者は人間にしか反応しない、って思っていたのにねぇ」

 祓衆の仕事場と居住空間は階が分けられている。誰もが常のそれを超過した時間業務に追われていれば、尚のこと仕事が終われば仕事場である階は静寂に包まれる。夜のこんな時間に明かりが点いている部屋なんて、恐らくはこの執務室くらいだろう。

 そんな静かな空間で倉科隊長とお茶を飲みながら言葉を交わすのは、穏やかで嫌いじゃない。会話の内容が不穏なものであっても、だ。

「確かに、ちょっと匂いはあるねぇ……でもそんな、取り分け変な匂いって訳でもなさそうだけれども。これが特別に禍者を呼ぶのかなぁ?」

 不思議そうに香炉を観察する倉科隊長の目は爛々と輝いている。白手袋に包まれた手は忙しなく香炉の表面をなぞり、丸眼鏡の奥の瞳は眇められたり見開かれたりと真剣な様子で検分を行っていた。幾分の興奮さえ感じさせる所作は倉科隊長にしては珍しいものだった。

「ひとまず預かりはしたのですが、どう調べたものでしょうか……」

 匂いという不定型なものを調べることは流石に経験がない。おまけに私は都たる桜鈴から巨大な山脈一つ隔てた寒村の出なのだ。香、なんて高尚な――というのも偏見かもしれないのだけれど――ものに触れる機会なんて今までなかった。

「そうだねぇ」

 さしもの倉科隊長もううん、と少し唸る。が、少しして微かに口元を綻ばせた。

「餅は餅屋、かな」

「え?」

「土生隊長補にお願いしてみよう。彼女の家は貿易商だ。家で多くの品物を扱っていた筈だし、彼女自身、結構な趣味人だったと思うからねぇ」

 成る程、と頷く。中々お目にかかれないような精巧な車椅子を用意出来る土生家は海向こうの国の品々にも、無論この葦宮全土の物品にも詳しいと聞いたことがある。都羽女さんならば、もしかしたら何か分かるかも知れない。

「明日辺り、持って行ってみましょうか」

「うん、そうしようか。じゃあ今日はこれでお開きにしよう。ごめんねぇ、こんな夜まで付き合わせちゃって」

「いえ! 私はこのくらいは全然大丈夫なんで!」

 頭脳労働は性に合っているからか、本当にそこまで堪えてはいなかった。ぐっと拳を作って答えると、倉科隊長はふっと相好を崩した。

「流石だねぇ。頼りにしているよ」

 そんな会話を交わした次の日、早速私たちは白虎隊の隊長たちの控える執務室の扉を叩いていた。少しの間を置いて返って来た応えに従い、部屋に入れば部屋の主である都羽女さんはにこやかに出迎えてくれた。

「どうしたんだい、お二人さん。揃って来てくれるなんて珍しいじゃないか」

 名目上、隊長と隊長補の為の部屋ではあるけれど、もう一人の主である初鹿隊長は外に出払っている時の方が多い。その影響だろう、執務室にはどちらかと言えば都羽女さんの趣味であろう調度品があちこちに飾られている。そのいずれもが、恐らくは相応の品の筈だ。倉科隊長は調度品に囲まれた部屋を突っ切り、都羽女さんへと歩み寄る。

「今日はねえ、ちょっと、君を頼りたくてね」

 言いながら、香炉を執務机にことりと置いた。

 途端、普段は緩く閉ざされている目が鋭く開かれて香炉を観察する。つんと跳ね上がった眦を持つ眼差しはあくまで真摯で、香炉を扱う手もゆっくりと、慎重に香炉の上を撫でていく。

「こりゃまた随分と良いもんを持って来てくれたねえ」

 私たちの持ち込んだ香炉を一瞥するや否や都羽女さんはそう一言落として、何を問うでもなく薄い手袋を着けた。流石に状況把握が早い。

「見立てを」

 倉科隊長の一言と共に受け取った香炉を、都羽女さんは真剣な眼差しで検分する。

「これは、何処で?」

「禍者に喰われた改史会が持っていた物でねぇ。禍者を呼ぶという曰く付きだよ」

「そりゃまた物騒なもんだねえ」

 はは、と乾いた笑いを零して都羽女さんはことりと香炉を机に置いた。

「これ自体、中々きな臭いもんだってのに」

「どう言うことかな」

「一級品さね、これは」

 頬杖を突きながら都羽女さんはつい、と香炉の蓋を撫でる。

「中々どうして相当な品だよ。勿論、残り香を嗅いだ限りじゃ中身もかなり良い物を使っているんじゃないかね。禍者を呼ぶってのは分からないけれど、これを持てるのはそれなりの地位の人間だと思うよ」

「同じ物が、実は複数個見付かっているんです」

「本当かい? それは……まあ随分な金持ちの仕業だねえ。それを禍者を呼ぶのに使うなんて一体どんな気狂いなんだか。喰われたってのはお偉いさんか何か?」

「恐らくは、違うのではないかと」

「改史会ってのは景気の良い組織なんだねえ。お貴族様でもない人間には余りにも不釣り合いな物をばら撒くなんて、ねえ」

「参考までに聞きたいんだけれど、この中身がどういう物か、と言うのは調べられるかい?」

「そうさね……」

 燃え尽きた屑を少し嗅いで、土生さんは小さく唸る。

「まあ、時間を貰えればある程度は分かるんじゃないかねえ。匂いとしては別段特殊とは思えないし」

「お願い出来るかな?」

「あんたの頼みじゃあねえ。あたしは断れないさ。何せあんたはうちの隊長のお気に入りなんだからさ」

「そう言って貰えるとありがたいねぇ」

「凌児……いや、うちの隊長を使いっ走りにするのも程々にしといておくれよ?」

「善処はさせてもらうよ」

「全く……まぁ、あいつも嫌々じゃあないから仕様がないねえ」

 肩を竦めて都羽女さんは笑う。きゅっと上がっている目尻が僅かに解けて、そして薄らと開かれる。

「色々と嗅ぎ回るのは構わないけれど、早死にするような真似はするもんじゃないし、させるもんでもないよ」

 その瞼のあわいから漏れる、鋭い光。思わず背筋の伸びるような、強い声色。不意に向けられたそれを直視しながらも、倉科隊長は柔らかく微笑する。

「肝に銘じよう。君たちの隊長を僕の私情で死なせやしないよ」



 


「君ならやれる。そうだろう?」

 事もなげにそう言い放った倉科は、真実そう考えているのだから初鹿に返す言葉はない。純粋に思考し、能力を鑑みて、見出した。それだけのことなのだ。一種冷徹と言われる倉科の采配が、結局の所彼からの全幅の信頼であるのだ。それなりに長く付き合って来た初鹿は良く心得ていたし、内密に、と優秀な男から任を任されるのは悪い気はしなかった。

 侵入し、情報を得よ。

 場所は、帝の御座す朝廷。

「改史会は、きっと朝廷にもいるだろう」

 任を告げられた日、確信した声色で倉科は言った。

「いや、恐らく、朝廷の中にこそ、改史会の中心人物はいる。あの用意周到さも、見目美しく整えられた主義主張も、確かな権力と知識を有する人間でないと成し得ない」

「そいつを見付けろってか?」

「それもある、けれど……優先順位は低いかなあ」

「はァ」

 思わず生返事が零れた。この微笑を常に浮かべている男が真実何を考えているかを理解出来たことはない。初鹿の会った人間の中で、倉科は一等頭が良く、理解の及ばない存在なのだ。故に、面白がってこうやって付き合ってやっているのだが。

「じゃァ、何を探れってんだ?」

「改史会が生まれた理由」

 さらりと倉科は言う。

「正確には、朝廷に何が起きているか、なのかな。改史会を支える柱たる『誤った歴史』はどうやって生まれたのか。ついでに改史会がどれだけ朝廷内に蔓延っているか。そうしたことを、探ってきて欲しいなあ」

「また随分と曖昧なモンだなァ。俺ァ分かんねェぞ」

「ま、難しいことは考えずにきな臭そうな所を手当たり次第に見て来てくれよ。何が見えたか逐一報告してくれれば、後の分析は全部僕がするから、ね」

「質の良し悪しは保証しねェぜ」

「十分さ。朝廷内を生で見た者の言葉であれば、何だってね」

 そんな言葉を受けたのはほんの数か月前。それから機会があれば初鹿は内密に朝廷の調査を行い、あちこちに足を運んでいる。

 拍子抜けな程に、初鹿の潜入は容易かった。幼い頃に盗賊の手伝いをしていた分、心得はあった。

 否。

 それ以上に、この朝廷は穴だらけだった。

 何度目かの侵入を果たし、初鹿は天井や屋根、死角を利用しながら朝廷内を気ままに動き回る。

 人が少ない。

 何処か呆けている。

 朝廷に蔓延しているのは、停滞と諦念。

 大事な何かがごっそりと抜け落ちてしまっているかのような朝廷の中を、初鹿は死角を縫うように歩く。

 改史会。誤った歴史を改めるなどと宣う連中の影は確かにあった。動向を気にする者は決して少なくない。ただ、積極的に関わっている者はどうにも見つからない。そういうものだろう。幾度かの報告でも倉科がそれ以上を求めることはしなかった。むしろ、改史会よりも朝廷そのものの方に興味を持っている風であった。

 だから、初鹿も改史会には拘らず朝廷を見ることにした。

 故にこそ、知ることが出来たのだろう。

 朝廷内は広い。しかし、如何に腑抜けていようとも侵入者である初鹿が動き回れる場所は限られている。幾度かの試みの結果、帝の御座す内裏には流石に入れはしなかった。だが、政に携わる貴族たちの部屋が立ち並ぶ大廊下は別であり、数回かの侵入を果たした今となってはいっそ面白い程に初鹿の侵入を許していた。

 そんな大廊下を歩くと、微かに漏れ聞こえてくる。

 ――また方違えを。

 ――今日は忌日で。

 ――魔除けの札が。

 ――外洋の呪いは。

 とうの昔に廃れた筈のしきたりが息衝く会話が。

 大廊下を支える太い柱の陰に潜めば見える。

 覇気のない顔をした貴族たちが何かに怯えるように紙切れなどを有り難がる姿が。

 大昔に生まれて消えていった筈の、それこそあの倉科さえ否定した筈の呪術は、葦宮の最高機関では確かに在るものとして、扱われている。

 それは恐らく、決して暴かれてはならないものだった。

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