第十一話 朱色の疑念

 赤い鉢巻きが虚空を舞う。いっそ優雅にすら見える赤のはためきを目に映しながら、圓井の身体は宙を舞う。いやにゆっくりと流れる風景。目をぎらつかせる巨猪が下で吼え、片河の叫びは遠くに聞こえた。

 しかし身体は自動的に受け身を取る。

 毎日毎日叩き込まれた戦闘の術。敵を屠り、そして己を守る術が、圓井の思考より早く身体を稼働させた。

 次の瞬間には背に衝撃。肺から一気に空気が漏れる。喉が軋んだ。咳き込みそうになる反射を抑え込み立ち上がる。木に叩き付けられたらしい。両の手にはまだ刀が握られていた。僥倖である。

「市吾!」

「……っ、あー、大丈夫だ、動ける」

 骨は折れていない。感覚的には何処にも違和はない。両足で地面を踏み締めながら、先程自分を跳ね飛ばした禍者を睨み付ける。巨猪の姿をした禍者は鼻息荒く周囲を走り回っている。人の背の二倍はあろうかという体高も相まって下手な人間では近付くことも難しい。朱雀隊も青龍隊も巨猪には近寄らないように雑魚共を蹴散らしているのが現状らしい。

「新型新型って最近は言ってたけど、旧型も十分やべえよなあ」

「っつーか、こんなでけぇのは俺ぁ初めてなんだが。……くそ、常葉もどっか行っちまってんのかよ」

 規格外。その言葉が似合う巨猪を前に片河は舌打ちをする。軽口を叩いてはみたが、圓井とて身体が余計に強張っているのを自覚している。

「市吾、肚ぁ括ったか」

 片河が言う。いっそ愉快なくらい固い声だった。だがその手の魁龍はぎらぎらと煌めいていた。逡巡する暇はない。やばいかもしれない。不定形の危機感に珍しく圓井の思考が捉えられる。

 ふと。

 場違いに松尾の顔が過った。

 彼女ならば、どうするか。

「適材適所、って奴だろ」

 それなりに鍛えてきた。正直、そこいらの同僚より強い自覚もある。長く自身の腕っ節だけを頼りに生きてきたのだ。隊長にお墨付きだって貰っている。

 であれば、自分こそが、止めなくては。

「難しいこと言うじゃねえか」

「ゆきの受け売り」

「成る程ねぇ」

 訳知り、と言わんばかりの片河の声色に緊張が解れる。指先まで血が通う。得物の二振りの刃の先にまで己の神経が通ったようだった。

「いっちょ、やってやろうじゃねえか」

 図ったように巨猪は市吾と向き直り、地面を蹄で掻く。どうやら先程仕留められなかったのが腹に据えかねているようである。上等だ。頭を振り、突進の構えを取った巨猪。圓井は息を詰める。受けるか捌くか。

 ――受ける。

 地面を踏み締め息を吐く。意識が目前の巨猪に収束する。暴れるその姿の細かな所まで圓井の目は捉えていく。何時来るか。その刹那、弾けるように巨猪の身体が躍動した。圓井めがけた突進。単純だが、その巨体は脅威以外の何物でもない。足が地面を擦る。

 だから、目の前に人影が割り込んで来た時には思わず頓狂な声が漏れた。

 その人影は押し寄せてくる巨猪に対して余りに華奢だった。ゆらりと圧を受けたように身体が揺れる。

 しかし、決して見目の通りではない。

 向かい来る巨猪。それを目前に人影――帯鉄はすらりと抜き放った刀を真っ直ぐ差し向けただけだった。

 少なくとも圓井にはそう見えた。

 だが。

 切っ先に触れた巨猪の姿が掻き消えた。

 否。

 吹き飛ぶように横転したのだ。

 帯鉄自身も弾かれるように巨猪とは反対方向に転がったが瞬き一つの間に体勢を立て直し、巨猪へと飛び掛かる。

 帯鉄が刀を使い、絶妙な力加減で巨猪の力を横へ逃がしたのだ、と圓井が理解した時には彼女は巨猪の柔い腹をすっかり切り裂いていた。血脂の絡んだ刃を腰の帯で拭った帯鉄は表情一つ変えずに周囲を見渡す。圓井たちが巨猪と対峙している間に雑魚共は狩られたらしい。戦場はずいぶんと落ち着きつつあった。鋭い眼差しが戦場を映し、それから圓井へ向けられる。自然、身体が強張った。

「怪我は?」

「な、ないっす」

「そうか」

 一瞬、帯鉄の眦が緩んだ。かと思えば眉根に深い皺が刻まれる。

「勇気と無謀をはき違えるな!」

「す、すみません!」

 びり、と空気の震えるような声に思わず圓井の身が竦む。

「間に合ったから良かったものの……もし力負けしていたらどうなっていたか。当たり所が悪ければ」

 鋭い眼差しが不意に和らいだ。

「だが、お前たちのお陰であの大型の禍者の被害が抑えられたのもまた事実。……大きな怪我がなくて良かった。戦闘も落ち着いた。少し、待機しておいてくれ」

 ほう、と息を吐いて帯鉄は踵を返した。

「市吾、大丈夫か?」

「あんなの、説教には入んねえよ……隊長も流石に疲れてんのかな」

 ひりつくような帯鉄の気配がゆっくり遠ざかる。彼女は朱雀隊の長である。彼女が目を向けるのは圓井たちだけではない。圓井の視線の先、先とは打って変わって慈愛と心配に満ちた眼差しを湛えて朱雀隊の面々と言葉を交わしていた。その隊員の制服に真っ赤な染みを認め、思わず眉が寄った。

「落ち着いてみりゃぁ、結構こっちもひでぇもんだな」

「……ああ」

 同じものを見たであろう片河の呟きに頷く。戦闘の興奮がゆっくりと冷めつつある今となって、ようやく周囲の状況がきちんと認識出来るようになる。

 周囲にあったのは、薄くはない血の匂い。禍者の生臭いそれとは違う、人間のもの。軽い負傷で済んでいる者も勿論いたが、先の隊員のように深手を負っている者も少なくはなかった。中には骨の折れている者も数人いるようだった。周りの抉れた地面、薙ぎ倒された木々。圓井は、否応なしに先程屠られていった巨猪を思い出す。一歩間違っていれば、自分だってそうなっていた。思い至り、ぞわりと鳥肌が立った。

 あの瞬間を目の当たりにした帯鉄の心境たるや。

「……いや本当、隊長にぶん殴られてもおかしかなかったな、さっきの」

 うう、と圓井は無意識に腕を摩りながら呟く。落ち着いた戦況に思い返せば、自分がどれだけ無茶をしていたか。ふつふつと湧き上がる罪悪感に自然と視線は下へと向いていく。

 その視界の端に銀色が閃いた気がして、ふと顔を上げる。

「随分と疲れた顔してんなァ市吾よ」

「は、初鹿隊長」

「おう、良く働いたなァ。俺もちっと疲れた」

 色々と、な。そう言ってにっと笑う初鹿の表情に僅かな翳りを認めて、瞬き。翳りは瞬き一つの間に消え失せていた。気のせいか、と思い直そうとした圓井の前で、初鹿の眼差しが常ならぬ剣呑さを帯びた。

「――少し、お前さんとこの隊長借りるなァ」



   ・・・・・



「随分と、手間を掛けさせてくれたねぇ」

 ふふ、と穏やかな笑声を零す倉科隊長。その表情は雪原の如く冷ややかだ。

 屯所内に大型の禍者を引き入れるという前代未聞の凶事。引き起こした祓衆の裏切り者たちは大鹿の禍者を倉科隊長が屠った後にあっさりと全員捕縛された。恐らくは倉科隊長が松尾の側に向かった間に、江草さんが動いたのだろう。険しい顔をした江草さんは、戻って来た倉科隊長を認めると僅かに相好を崩した。

「ご苦労さんじゃのう、いきなり走ってからに」

「済まなかったねぇ。でも、助かった。後は僕たちが預かろう」

 一見は朗らかな応答。しかし、そう言って内通者たちの放り込まれた部屋を閉め切った後に零れたのは先の冷ややかな一言だった。

「僕は残念で仕方がない。僕の記憶している限り、君たちは優秀な人材だったと把握している。君たちの長の――ああ、皆朱雀隊か、そう帯鉄隊長も評価をしていた。だと言うのに、君たち何故、僕たちを裏切るような真似を?」

 傷塗れの内通者たちの視線が互いに交差する。やがて、一人が敵愾心もむき出しの目はそのままに口を開いた。

「我々は、ここに忠誠などくれてやってはいない」

「ふうん、そう」

 微塵の温度も感じさせない声。

「つまりは、君たちは皆、改史会に命を捧げているという訳だ。怖いねぇ。何時からこうしようと?」

「貴様らに言うと思うか?」

「まさか。一応……まあ礼儀みたいなものだねぇ。僕の方で大方の予想はついているし。軍学校に入る頃……思想の育成も含め、その一年くらい前から仕込まれてたのかなぁ」

 黒々とした倉科隊長の目はひたりと相手に据えられ微動だにしない。僅かの変化も見落とさない、そんな目だ。

「答えなくて良いよ。こっちで判断するからねぇ」

 にこり。取り繕うような笑みは恐らく故意。本当なら、もっと自然に笑えることを私は知っている。この人は、徹頭徹尾己の場と自身を作り上げるのだ。

「こういうものはね、思想を植え付けやすい幼い頃から仕込むものだよ。でないと、下手に学ばれては扱いに困ってしまうからね。ただまぁ、そうして結果的にきっちり此処に潜り込めていた訳だから、君たちの元締め、見る目はそれなりにあるのかもねぇ」

「貴様があの方を評価するな」

 あれ、と倉科隊長の後ろでそっと観察する。先程までは彼らなりに冷静に努めていたというのに、途端に感情を剥き出した。余程、なのだろうか。それは崇拝? 否、ただの刷り込みなのか。

「随分と慕っているんだねぇ……仕込みは上々、君たちがもっと優秀なら元締めもさぞや喜んだろうに」

 ぶつ、と音。倉科隊長と相対する内通者の唇が血を流していた。痛い所、なのだろう。分からなくはない。私だって、同じような立場なら口惜しいなんてものじゃない。

「しかし何故、朱雀隊に? 動きやすい訳でもないだろう、あそこは。隊長の庇護が篤いということは、目が行き届いているということだからねぇ」

「……我々は別段、希望してはない」

 不承不承に答える。

「確かに此処に入れとは言われたが、それだけだ。祓衆に入りさえすれば良いと。我々が一つ所に集められたのは、我々にも想定外だった」

「おや、そうなのかい」

「獅子身中の虫となれれば、我らはそれだけで良かった。あの方の命令に応え、来るべき時にここを落とせれば十全だった。だが、我らは、成せなかった」

 ぎり、と音の出るくらいに噛み締められる歯。

「暴かれれば意味はない。あの方に、報えぬ」

 弾かれるように、倉科隊長の身体が動いた。真正面に捉えた内通者の口内へ躊躇なく手を突っ込んで、床へと捩じ伏せる。

「っ……!」

 常ならぬ、倉科隊長の焦燥。

 だが遅かった。

 押さえ付けられた身体がびくりと跳ねる。筋肉が異様な収縮を見せ、倉科隊長の下で内通者の身体が藻掻く。それは、多分、意識的なものではないのだろう。命が損なわれようという時の、本能的な蠢き。彼だけではない。気付けば、他の二人も床に四肢を泳がせ、苦しみ藻掻いていた。

 どこか冷静に、私はその様を見ていた。呆然と、身体は動かないのに。命の損なわれる瞬間を。

 少しして、倉科隊長が身体を起こす。ざら、と流れる黒髪のあわいから表情は見えない。倉科隊長の下には白い泡を零した人だったものが転がっていた。白目を剥いた表情は苦悶をありありと残している。背中を冷たいものが落ちる。

「幸慧くん、大丈夫かい」

「……はい」

 そこまでして、死にたかったのだろうか。

 それを選んでしまえるくらいに、盲信していたのだろうか。

「人が死ぬのは初めて見ました。でも、思ったよりは冷静でいられるみたいです。だから、大丈夫です」

「酷いものを見せてしまったねぇ」

「改史会は」

 そんなに、命は軽いのだろうか。

「改史会は、これが常套手段なんですか」

「……幸慧くん」

「でないと、隊長でもあんなことは出来ない、ですよね」

 躊躇いのない死の選択。倉科隊長がそれを察せたのは、つまりそういうことなのだろう。

「そうだねぇ」

 あっさりと、倉科隊長は頷いた。

「連中は、こういうのばかりなんだよ。蜥蜴の尻尾切り。自分の信仰のためなら命だって捨てられる。そういう手合いだ。本当なら、警察に押し付けてやりたいのに、どうにも連中は祓衆ぼくたちを目の敵にする。それでも、君にこうした人の死体を見せるつもりはまだなかったんだけれどもねぇ」

 困ったように倉科隊長は笑む。

「ままならないねぇ、このご時世」

「大丈夫ですよ、私も隊長補ですから」

 改史会。

 本当に得体の知れない、理解の範疇外の存在。

 彼らは一体、何をしたいのだろうか。

「……でも、朱雀隊、朱雀隊かぁ。何の巡り合わせかな。それとも……謀り合わせか?」



   ・・・・・



「よォお前さん、随分なことになってんじゃあねぇか」

 銀の髪を怒りに揺らめかせて低く唸る初鹿に、帯鉄は不思議そうに眉を顰めた。

「どうした、初鹿」

「謀ったのは手前か」

 ともすれば大きくなりそうな声を抑えて詰問する。

「謀る……?」

「屯所に禍者をけしかけた馬鹿がいる」

 はっ、と驚愕に見開かれる瞳を睨め付けて目を眇める。

「まだこっちにゃ伏せてるがなァ。その馬鹿はどこにいたと思う?」

「――内部にいた、と」

「朱雀隊にいたんだよ、隊長さん」

 息を詰める帯鉄に、初鹿は一歩歩み寄る。と、眼前に紺色が広がる。疎ましいとばかりに視線を上げれば、甘やかな顔立ちに不穏な色を乗せた常葉とかち合う。

「退きなァ」

「大事にしたくない、という風なのに随分と吼えるね? 場を弁えた方がいいんじゃないのかな」

 にこりと、温度のない笑みを崩さない常葉。燃えるような翠で睨み上げて、暫し。小さく舌を打ち、ふいと初鹿は顔を背けた。

「……あァ、あァそうだなァ常葉よ。俺としたことがついかッとしちまったみてェだなァ。俺が騒いだって困っちまうよなァ……まァどうにせよ、倉科が招集を掛けた。色々、話さねェとならねェなァ」

「初鹿」

 その横っ面を叩くような声に初鹿はすいと視線を滑らせ、一つ瞬いた。

 これまで沈黙していた帯鉄が、静かな激昂を携えて初鹿を見ていた。真一文字に結ばれた口の端が僅かに震えている。紛うことなき怒り。それは初鹿には向けられていない。彼女は冷え冷えとした瞳を一度伏せ、恥じるように息を吐いた。

「いや……詳しくはその場で聞こう」



   ・・・・・



 会議室はかつてない程の緊張感に張り詰めていた。常のそれとは異なる、いつ切れてもおかしくない、ぴんと張り詰めた糸のようなそれに思わず唾を呑んだ。

「青龍隊隊長常葉、隊長補甘利」

 無言のまま名前を呼ばれた二人が手を軽く挙げる。

 朱雀隊隊長帯鉄、隊長補早川。

 白虎隊隊長初鹿、隊長補土生。

 呼ばれる度に、各々が反応する。

「……そして、玄武隊隊長ことこの倉科と隊長補松尾をもって祓衆四部隊指揮官の集合を確認。会合を始める」

 厳かに告げた倉科隊長は、けれどその表情はいつもとそう変わらない。

「皆もう知っていると思うけれど、屯所が禍者に襲撃された」

 声色も常の通り。意図的なものだろうけれど、緊張に身体の強張る私にはそれがありがたかった。

「無論、事態はすぐに収束。幸いにして重傷者も出なかったよ……禍者を呼び込んだ大馬鹿者以外は、ねえ」

 口角ばかりは常の通りなのに、倉科隊長の目がぎらりと輝いた。

「……尋問を、と思ったのだが奴ら、思い切りばかり無駄に良くてねぇ。全員が、歯に仕込んだ毒で自害した。その点に関しては止められなかった僕にも責任がある。申し訳ない」

 しかし、と少し、身を乗り出す。丸眼鏡越しの倉科隊長の視線が居合わせる全員を見回した。

「多少、聞けたこともあってねぇ。そう、例えば……彼らは望んだ訳でもないのに朱雀隊に集められた、であるとか」

 帯鉄隊長の表情が、目に見えて強張った。

「正直、彼らの言葉への信頼なぞ一切ない。だけれど、ねぇ……連中の想定外とは言え、出来すぎてはいる、よねぇ」

 歯切れ悪く。これだって、倉科隊長はわざとだ。丸眼鏡の奥の瞳は穏やかそうで冷徹に、居並ぶ面々を観察する。

「だから、話が聞きたいと、そういう次第なんだよねぇ」

「まどろっこしいなァ倉科よ」

 吐き捨てるように、初鹿隊長が声を上げた。この会議が始まってからずっと、その眉間には深い皺が刻まれ、翠の瞳は爛々と帯鉄に注がれている。憤怒。抑え切れぬ激情が初鹿隊長の周囲に漂っていた。

「お前さんはつまり、こう聞きたいんじゃァねェのかい? ――朱雀隊の隊長様は腹に一物抱えちゃいねェか、とな」

 目を眇め、初鹿隊長は吐き捨てた。

「悪ィがな、戦いにゃァ向いてねェうちの身内も危ない目に遭っちまってんのさ。とっとと核心を話そうや」

「まぁ……そうだねぇ。その辺を是非、聞いてみたい」

 全員の目が帯鉄隊長に向けられる。傍らの穂香さんだけが気遣わしげだ。常葉隊長は、意外にも笑んでいたけれど。

 帯鉄隊長は、そんな思い思いの眼差しを浴びて尚、毅然と真正面を向いていた。

「その疑いは杞憂だ」

 紡ぐ言葉もまた、芯の通ったそれ。かと思えばふっと視線が伏せられる。

「証拠はないがな。だが、私はただ私の意志のみで、禍者共に対抗する為に、部隊を強くするただその一念のみで皆選んでいる。そこに別の思惑が差し込まれる余地はない。私は祓衆という組織にのみ属し、祓衆という組織の為にだけ動いている」

「なら何で、都合良く裏切り者が固まっちまったってェんだ?」

「正直に言う。申し訳ないが、私には分からない。だが……今のこの状況を見るに私の目は節穴だったのだろうな。その意味では私は途轍もない失態を犯してしまった。不甲斐ないばかりだ。本当に申し訳ない」

 机にぶつかるんじゃないかという程に深く、帯鉄隊長は頭を下げる。長い黒髪に隠されその表情は窺えないが、ぎり、と歯を食いしばる音は僅かに漏れ聞こえた。

「罰があるのなら、甘んじて受けよう。でなければ私も私を許せない」

 如何なる言葉をも受け止めんとばかりに背筋を伸ばして、静かな眼差しで帯鉄隊長は口を閉ざした。

「……そもそもの話なんだけれど」

 不意に常葉隊長は口を開く。

「改史会というのはそんな馬鹿な組織なのかい?」

 口元に笑みを乗せて、いっそ上品な所作で首を傾げた。

「もしも……本当に億に一程の確立で彼女が裏切り者としたら、余りにも杜撰なやり方だと思うんだけれど」

「そうだねえ」

 都羽女さんが同調した。

「裏切り者ってのは何時だって暴かれる危険性があるもんだろう? 特にこんな真似しちゃあねえ。だのに、芋蔓式でばれちまうようなってのは、確かに詰めが甘いね」

「……成る程、ねぇ」

 うんうんと頷く倉科隊長。その視線が不意にこちらに向けられる。

「私も、同意見です」

 その意味が分からない私ではない。

「確か、あの連中を尋問した時隊長は言いましたよね。それなりに早い内から仕込まなければならない、と。年単位の準備が要るものとおっしゃりました。そうやって手を回せる者が、安易に同調した者を炙り出せるような仕掛けをするでしょうか。私は疑問を感じざるを得ません」

「そうだねぇ。僕もそう思うよ」

「……ちょっと良いかしら?」

 と、声を上げたのはこれまでを静観していた深弦さんだった。

「あぁ、どうぞ」

「部隊の振り分けって、ずっと隊長たちが選定を担当していたわよね」

「そうだねぇ。多少、能力の基準のようなものはあるけれど、最終的には隊長判断だよ」

「我々は基準を提示したが聞き入れやしない、と黄龍所は嘆いたものよ」

 ふっ、と深弦さんは肩を竦める。

 ああ、と思い出す。何年か前まで、深弦さんは黄龍所にいたんだった。祓衆を管理、統括する上位組織。そこから何故下ってきたのかを聞いたことはないが、相当に優秀な人なのだ。

「でもね、人の主観というものは面白いもので、どうやって偏りが生じてしまう。例えば青龍隊うちなんかは人格に多少問題があれど戦闘能力にさえ秀でていれば最優先で引き抜いたりね」

 うちの隊長自身戦闘狂だもの、と愉快そうに笑って深弦さんは続ける。

「翻って朱雀隊。ここは最も複雑。戦闘能力は勿論それなりに求められるけれど、同じくらいに各々の性質も選定要因となり得る。個々の戦力だけでなく、協力し合える素質も求められる。協調性や、従順さ。隊長さんも真面目だもの、隊そのものの質の向上に心を砕いている」

「随分と詳しいのね。ともすれば私たちよりも」

 驚いたような穂香さん。深弦さんは悪戯っぽく片目を瞑る。

「昔は黄龍所でここの人事の管理もしていたもの。ま、選定結果を見るくらいだけれどね。……まあとにかく、そういう傾向をそれぞれの隊が持っている訳」

「結局何を言いてェんだ、青龍の隊長補さん」

「ちょっと長くなっちゃったわね。つまりは、今回の連中は朱雀隊の隊長さんが如何にも選びそうな性質の持ち主だったって話。でも、それってある意味じゃ当たり前なのよ。改史会だって一つの組織。そこでそれなりの大役を任される複数人が集団行動に適していない訳はないわよねえ? ……それにしたって随分と隊長さん好みの人材って印象受けたけどね、連中の経歴書見た時は」

 疲れちゃった、と息を吐いた深弦さんはおもむろに懐から煙草を取り出す。慣れた手付きで火を点け、吸う。

「あたしは今回の件、隊長さんもまんまと引かされちゃったって印象を受けたわ。向こうの思惑は知らないけど。だからこんな会議おしまいにしましょうよ。此処にいる人間は今回に関しては潔白なんじゃない?」

「……まァ、そうだなァ」

 意外にも、いち早く同調したのは初鹿隊長だった。

「報せを聞いた時ァ頭にカッと血が上っちまったが、冷静に考えりゃお粗末な話だなァ。いや、見苦しい真似をした」

「うちのがすまなかったね、帯鉄」

 続けて都羽女さんが軽く頭を下げれば帯鉄隊長は戸惑ったように目を逸らした。

「いや……しかし、うちの隊から不届き者が出たのは事実だ。何かあればすぐ言って欲しい」

「そういうのは性に合わねェ。まあ頭脳担当に任せるとすっかなァ。俺ァもう行くぜ。堅ッ苦しいのは疲れるから嫌だぜ」

 吹っ切れたように初鹿隊長は笑って、都羽女さんを連れてさっさと出て行ってしまった。風のような人だ。でも、何時も通りの振る舞いに戻っていて胸に安堵が満ちた。

「帯鉄隊長、居心地の悪い思いをさせてしまったねぇ。正直、僕は君をそこまでは疑ってはいなかった」

「初めからそうだろうとは思っていた。だが、後々を考えれば今こうしてはっきりさせるべきだろう。失態は事実だしな」

「……その点は単に君は災難だっただけだとも思うけれど、まぁ、君が良いのなら今度一つ頼み事でもしようかな」

「私に出来ることなら喜んで受けよう。では、我々はこれで」

 会議中とは打って変わった穏やかな笑みを浮かべて、帯鉄隊長は穂香さんを連れて颯爽と立ち去る。

 倉科隊長の思惑はお見通しだったらしい。余計なわだかまりは残すべきではない。招集一つ、会議一つで疑念を潰せるなら安いものだと開いた会議は、概ね倉科隊長の想定通りに進んだと言える。

「僕の中でちょっと想定外だったのは、君が存外に冷静に振る舞ってくれたことかな、常葉隊長」

 彼女絡みだと、君は随分とらしくない振る舞いをしがちなのに。

 そう問いを投げられた常葉隊長は、にこりと常の笑みで答えを返した。

「梓は古馴染みだからね。彼女は無罪なのは明白だし、彼女がそれを清廉さでもって否定することも俺は知っていた。うちの連中だって暴力に訴える馬鹿はいないんだ。僕が何かする必要なんて、一切ないだろう」

「あぁ、そういうことね。納得だ」

「大丈夫とは思うけれどね、梓に何か不利益のあるような真似は止めておくれよ。流石に、それは目に余る」

「肝に銘じておこう。何、彼女に無茶をしいたりはしないよ。君の目もあることだし、ねぇ」

「そうしてもらえると嬉しいな。じゃあ、俺も通常業務に戻るとするよ」

 最後に一度、鋭い眼差しを倉科隊長に向けた常葉隊長は、ひらりと手を振り会議室を後にした。深弦さんもそれに続く、かと思えばくるりと振り返り、立てた人差し指を自身の口元に当てた。

「色々言っちゃったけど、余計な詮索はなしでお願いね」

「勿論」

 長身の偉丈夫でありながら、驚く程にそうした所作が似合う深弦さんは倉科隊長の言葉に満足そうに目を細めて出て行った。

「……ふぅ」

 そうしてようやっと、会議室の緊張感はすっかりなくなった。

「いやぁ、中々大変だったねぇ。幸慧くんも、お疲れ様」

「隊長こそ、お疲れ様でした」

 ぐっと伸びをする倉科隊長。流石に疲れたみたいだった。それはそうだろう。それでも全員がいなくなるまで平然と振る舞っていたのは本当に尊敬する。

「嫌だねぇ、こういうのは。まぁ、何事もなくて良かった」

 ふう、と眉間を揉みながら、倉科隊長は呟く。

「今後に繋がるものも得られたし、重畳としよう」

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