第十話 交わる干戈

 下狭平原しもさひらはら

 葦宮の都たる桜鈴と北部を繋ぐ交通の要であり、常ならば商人や旅行者、出稼ぎに来る者たちの活気に溢れている。人に踏み固められた道の向こうには手付かずの森が広がっている。

 その中に、今は化け物どもが蠢いている。

 緩やかに、常葉は目を細めた。

 歩みを進める。常よりは早く、しかし、着実に。禍者は目の前だ。気を逸らせるようなことは愚の骨頂だ。その少し後ろを帯鉄が続く。抜き放った刃が白く輝いている。彼女もまた、その顔に焦りの一つもない。更に背後には常葉の率いる青龍隊と帯鉄の率いる朱雀隊が控える。

 誰もが、高揚を抱えながらも静かに禍者との距離を詰めて行った。

 深い森は日光さえも碌に通しはしない。薄暗い木々の間からは、赤い目が不気味に輝いていた。

 ぞろぞろと、黒い軍団が森から溢れ出る。獣に鳥、刀や弓を持った影の如き黒い化け物。数ばかり揃えている。内心で、常葉は侮蔑の言葉を吐いた。帯鉄がゆらりと刀を持ち直したのが視界の隅に映る。

 そろそろか。

 不意に、弓持ちの禍者が動いた。ぎこちなく弓を引き絞り、放つ。

 瞬間、常葉は跳んだ。

 地面を蹴り、禍者へと跳びかかる。放たれた無数の矢。知ったことか。口の端が歪むのを感じながら、抜き放った刃を一閃。己が身を貫かんとしていた矢はあっさりと屑になった。他の矢は、まあ誰かが処理するだろう。振り抜いた刃を返して左上へ切り上げれば、眼前に突っ立っていた人型の禍者の胸がざくりと斬り開かれた。頭の上から禍者の血が降りかかる。化け物の癖に生暖かい。

 常葉の一閃は戦いの契機となった。

 次々と声が上がり、刃が、牙が、爪がぶつかり合う音が平原を満たす。隊列などあってないようなものだ。少なくとも、青龍隊にとっては。誰もが一騎当千。そうであれと常葉は部隊を育ててきた。

 己が身を刃とせよ。

 己のみを人を守る刃と信じよ。

 そうでなくては青龍隊足りえぬ。

 己の行動で、鍛錬でもってそう常葉は示してきた。

 故に、このような場で案ずることはしない。

 眼前を埋め尽くす禍者共。

 その全てを、常葉は一太刀で捻じ伏せる。適切な間合い。適切な型。知れば、御するのは容易い。常葉は二十年近く学んできた。身に着けてきた。一歩進むごとに刀を振るう。刃を閃かせる。そうすれば眼前より化け物はいなくなる。白布津しらふつ。堅牢にて、鋭利。長く愛用してきた刀は常葉の技を冴えさせる。呼吸は乱れていない。常と変わらない。無論だった。

 戦場の中を常葉は歩く。



   ・・・・・



 祓衆、特に前線に出る青龍隊にとって得物は何よりも重要視される。

 如何に鋭いか。

 如何に堅牢か。

 如何に取り回しやすいか。

 己の命を預ける物だ、堅実な武器を手に取る者が殆どであった。

 その風潮の中において、片河ひらかわの武器は異質極まりない。

 大刀魁龍かいりゅう

 己の身の丈程の長さと、一般のそれと比べれば三倍はあろうかという刃幅。常人が振るうには余りにも巨大なそれは、祓衆で戦っていくには不利な代物。市街地で戦うことも多い祓衆では、枷になる。手放さねば命を落とす羽目になる。面と向かって言われたこともある。

 それらの言葉を、片河は笑って聞き流した。

 ずしりと重い愛刀。全身を使って振り回せば、周囲の禍者共はぐちゃりと圧し斬られ、地面に頽れてゆく。踏み固められた大地を踏み締め、上段から振り下ろす。土塊が飛び散り、ついでに人型をした禍者の身体が真半分にぱっくり割れた。どす黒い血が噴き出て、片河の髪を濡らした。

 破砕。

 そんな言葉の似合う魁龍を片河は愛した。己の半身のように、親しい友人のように感じていた。狭い場所で不利だからと手放すことは考えられなかった。そも、そうであれば縦に振れば良い。それも駄目なら抱えるようにして突けば良い。武器に生かされるのではなく、武器を生かすように振るえば問題なぞない。片河は信じ、破壊をもたらす魁龍を縦横無尽に振るう。周囲に味方はいない。知っているからだ。近くにいては、共に斬られたとて文句は言えぬ、と。

 しかしそうは言え、魁龍をもってしてもどうしようもない手合いもいる。

 ぞわりと。

 首筋にちりりとしたものを感じて片河は振り返る。

 そのまま尋常ならざる予感に駆られて首を傾けた。

 ちり、と。

 左目の際を痛みが走っていく。

 目の端に赤いものが散るのを見ながら、首を巡らせる。

 黒々とした猛禽。赤い目をぎらつかせた飛行型の禍者が頭上を旋回していた。思わず舌打ち。長さある魁龍をもっても届かぬ間合い。どうする。

 近くに来たのを叩き落せば良い。

 逡巡など一瞬。

 迷えば死だ。

 不気味な羽ばたきの音を響かせ飛ぶ猛禽を視界から外さぬように、寄ってくる禍者共を叩き潰す。隙あらば目を抉ってくる魂胆なのだろう。

 そんな手は、もう通じない。

 ずっと前に、右目を禍者に抉られている。もう二度と、そんな真似が通じるものか。一つしかない左目を見開いて、片河は剣舞を続ける。

 不意に、禍者の羽ばたきの音が変わった。

 来る。

 魁龍を背に負い、上段から振り下ろす。

 寸前。

 眼前を、白銀の光が禍者を攫って行った。

「お?」

 ぎょっとして思わず魁龍の切っ先が地面を撫でた。深い溝が刻まれる。そんなことはどうでも良い。今のは。白銀の軌跡を追おうとすれば、その軌跡を追うように、今度は人影が跳んできた。

「永夜! 平気か!」

「馬鹿お前、逆にあぶねぇだろうが!」

 木に禍者を縫い付けた刃を抜きながら跳んできた人影――圓井つぶらいは叫ぶように言う。この乱戦の中、どこかから見つけて駆けつけてきたらしい。無茶苦茶なことをする。片河は脱力しながら言葉を返す。

「まあ良い、どんだけやったよ」

「数えねえよんなもん」

「そりゃそうか」

 木から引き抜きざまに圓井は右手の刃を振るう。背後に迫っていた獣の禍者の鼻面が削げた。その勢いのまま今度は左手の刃を頭上から振り下ろす。獣の脳天が割れた。両手の刃で一対の双刀を扱う圓井は兎角手数が多い。暴れれば手が付けられない。人のことを言えた立場ではないが。片河は目をぎらつかせて笑む。魁龍を担ぎ直すついでにまた周囲の禍者を巻き込みどす黒い血が飛び散る。

「覚えてりゃ勝負してやろうって思ったんだがな」

「相っ変わらず思い付きで言うよな永夜は。常葉さんに怒られても知らねえかんな」

「あいつは殺してりゃあなんも言わねぇよ」

 思わず鼻を鳴らす。青龍隊は強ければ正義なのだ。余程度を越すような真似をしなければ、常葉という男は超然とした微笑を崩しはしない。

 苦い顔をする片河を見て、圓井は釣られて苦い笑みを浮かべる。

 と。

 突然に、圓井は跳んだ。片河も同時に飛び退る。

 黒い影が、先程まで二人のいた空間を貫いた。

 赤い鉢巻を靡かせて圓井が地面を蹴る。

 水平に跳躍。

 両の手に握り締めた刀を大きく広げ、影を、禍者を喰らわんと目を見開く。

 対する禍者は木々にぶつかり止まっていた。頭を振るうその姿は巨大な猪のようである。真っ赤な瞳が圓井を捉え、鳴きながら真正面から突進する。

 距離は僅か。

 圓井の口元に狂喜の笑みが浮かぶ。両の手の刃が閃き、猪の頭を削ぐ――。

 ことは、叶わなかった。

 鈍い音。

 猪の口から生えた、異様なまでに巨大な牙が、圓井の刃を押し止めていた。

 勢いは殺せない。

 猪の突進の勢いそのままに、圓井の身体が宙を舞う。

「市吾!」



   ・・・・・



 聞いていない。

 聞いていない。

 息を荒げながら男は走る。

 桜鈴内、整備された道を駆け抜ける。

 祓衆、朱雀隊。任を帯びた時から、いつかは向き合わねばならないと考えていた。

 禍者。

 不定形の、影の如き存在。

 だがしかし、まさか、こんなものを相手にすることになるとは。

 駆ける。

 路地を曲がる。

 人のいない桜鈴をひたすらに走る。

 目的の為。

 その為に、この禍者は丁度良い。

「おい、おい!」

 その背に、声。

「おいあんた、朱雀隊のあんた!」

 凄まじい身軽さで、白虎隊の一人が追いすがっていた。背後の禍者をものともせず、こちらに激しい視線を向けてくる。分からないでもない。

「何してんだ! 俺らが増援を呼んで来るから、」

「これが我々の目的だ」

「目的ぃ?」

 理解出来ない、と言わんばかりのしかめ面。理解してもらおうなんて、端から思っていないのだから、男にとってはどうでも良かった。

 走れ。

 禍者を導け。

 生かしたまま、導いてさしあげねば。

「食い止めな! でなきゃ、この先は――」

 銃声。

 漸う、仲間が追いついたらしい。朱雀隊では珍しくもない銃を構え、白虎隊を睨み付けていた。

「退け」

「なんだ、あんたも」

「どの道お前じゃあこれは倒せない。こんな、規格外」

「我々も、余裕がある訳じゃあない」

「だから、退け。次は当てる」

「なんだ、あんたら……」

 理解出来ない、と頭を振った白虎隊は何処かへと駆けて行ってしまった。禍者は、幸いか、こちらを追い掛けることにしたらしく白虎隊には目もくれない。

 であれば、後は導くのみ。

 規格外のこの禍者を、祓衆の屯所へと。



   ・・・・・



 集中。

 絶やしてはならないもの。

 必中。

 欠かしてはならないもの。

 激戦区と桜鈴を分かつ狭間川さまがわ。その傍に急遽造られた櫓の上で、早川は土生より授けられた狙撃銃を構えていた。

 呼吸は常よりも静かに、長く。

 青い目を眇め、単眼鏡を覗き込み、引き金を引く。

 銃声。

 遠く、前線で隊員たちを脅かしていた鳥の禍者が爆ぜた。

 集中は途切れさせない。

 単眼鏡を覗き、敵を探し、そして撃つ。

 鉛玉がその長大な銃口から放たれる度、支えとしている肩に食い込み、痛みを覚える。しかし早川はそれをも集中の縁として禍者共を屠ってゆく。それこそが彼女に課せられた任であるからこそ。

 長く、朱雀隊の隊長補を勤めてきた。

 前任の土生の頃からだ。

 その土生は己が補佐として座にいながら戦場を去らざるを得なくなってしまった。

 誰もが早川を責めなかった。しかし、否、だからこそ彼女は己を責めた。

 自分に、もう少し力があれば。

 そして、土生から力を受け取った。

 長大な狙撃銃は扱いが難しい。少しの意識の乱れが銃口を大きく狂わせる。呼吸一つ、瞬き一つも思考の下に置かなくては、思い通りに鉛玉は飛ばない。凪の如き思考で叩き込んだ動作でひたすらに弾を込め、撃つ。遠く、川を隔てた戦場の空から邪なる猛禽どもを叩き落す。撃つ。落とす。撃つ。落とす。少しの乱れもなく、繰り返す。

 それが、早川に課せられた任である。

 命の危険はない。

 彼女の身体は戦場からは遠ざけられている。ここまで禍者どもが侵略してくることは決してない。

 故に、彼女は精神を削りながら引き金を引く。



   ・・・・・



 倉科の脳内は凪いでいた。傍らで義憤に駆られる江草とは裏腹に。

 祓衆屯所に息せき切って駆け込んで来た白虎隊がもたらした、信じ難い報せ。

 ――朱雀隊隊員が、屯所へと大型の禍者を導いている。

 そう来たか、と冷静に思っただけである。改史会の息が掛かった者であるというのは即座に知れた。

 何せ、道理である。禍者退治を妨害する連中。奴らがその目的を遂げるのであれば、組織そのものに手を加えようとするのは時間の問題だった。想定より、少しばかり向こうが周到なだけである。驚きはなかった。

「来てしまったものは仕方がない。奥に入り込まれる前に狩ってしまわないとねぇ」

 建物内での戦闘は経験の浅い者が多い。最善を倉科は選び取る。禍者の出現を報せる鐘は既に打ち鳴らされている。常より出動時の集合場所とされている屯所正面玄関だ。すぐにでも戦力は整う。

「戦える者は出入り口を固めよう。そうでない者は一旦室内で待機。何、僕たちで十分やれるだろう。前線に向かった彼らに比べれば楽な任務だよ」

 戦闘に長けた者は多くない、が皆無ではない。禍者と祓衆。彼我の戦力差は如何程か。

「新入りが連れて来れる手合いだろう? 何を臆することがあるかな」

「大口を叩くのう」

「君もいるからね。幸いにして、青龍隊の何人かも此処に控えている。朱雀隊もね。奇襲に対応出来るだけの人員はいる」

 笑みを浮かべる。慣れたことだった。常と変わらぬ所作を心掛けて、倉科は松尾に視線を向ける。

「幸慧君は一先ず、そうだね、土生隊長補を安全な場所へ。青龍隊も少し連れて行って。あまり固まり過ぎて足元を掬われたら、ねえ」

「分かりました!」

「無理は禁物だよ」

 倉科の唇から言葉が滑り落ちた。倉科の胸中に漣。松尾は一度瞬きして、些かに強張った顔で笑んだ。彼女の働きを疑う必要はない。彼女の潔白は真っ先に裏付けた。北の小さな農村生まれ。清貧で善良な家の出。そこに宗教的な、もしくは政治的な影は一切ない。少なくとも、倉科の調べた限りでは、であるが。

 そんなことを考える余地はないか。踵を返し走り出す松尾を尻目に刀を抜く。

「さあ、入り口を固めよう。白虎隊は屯所内に待機する各隊へ報告を――ああ、前線には伝える必要はないからね」

「はい!」

「応!」

 各々の応えが響き、慌ただしく誰もが動き出す。猶予はない。が、準備という準備もない。倉科が話している間にも続々と戦闘員たちは集まっている。戦い方は各々に適度に任せておけば良い。それぞれの隊はそれぞれの隊長に仕込まれたものがある。刃の鞘走る音、銃に弾込める音がそこかしこで鳴る。

 ――二択だ。

 倉科は考える。

 陽動か、否か。

 身中の虫は、どれだけか。

 右手が己の愛刀、螺鈿細工らでんざいくの艶やかな柄を撫でる。

 扉の向こうへ迫り来ているであろう気配を手繰り寄せる。ざらりとした気配。経験則で、気配の持ち主を描く。

 誰もが正面玄関から目を離さない。何時か。今か。唾を呑み、獲物を構え、誰もが。

 ――違う。

 倉科だけが、違った。

「為路見君、こっちは託した」

「……おう」

 低い応えを背に、倉科は踵を返して走り出す。周囲からの困惑は、間もなく破られた扉の音に掻き消された。

「まずは人じゃ! 裏切りモンを捕らえるんじゃ!」

 江草の怒号を初めとして、混沌とした音が屯所内に満ち満ちる。

 だが、違う。

 此処に、件の大型はいない。

 陽動。

 であるならば、本当に討つべきが、破って来るのは。

 濡羽色の羽織をはためかせ、倉科は駆ける。



   ・・・・・



「すまないね、幸慧」

「いえ」

「あたしはここでこいつらと大人しくしとくさ。大丈夫、こいつらだって青龍隊やらに比べちゃあ軟弱かもしれないが、案外鍛えてるんだからね。あたし一人くらい訳ないさ。だろ?」

「勿論っす」

「姉御を守れなきゃ隊長に顔向けできねえっす!」

「ほらな」

 得意そうに笑う都羽女さんに自然と頬が緩んだ。屯所内、白虎棟の執務室には今まさに起きようとしている喧騒はまだ届かない。空気は張り詰めているが、行き交う人々はまだ落ち着いている。

「ここは自分たちでどうにか出来るさ。だからお前さんたちは他の所を頼んだ」

「はい」

「承知しました」

 白虎棟は元よりそこまで危惧してはいない。都羽女さんのいる執務室を後にして、付いて来てくれている青龍隊の三人を振り返る。

「さて、此処からです、ね」

「どうされますか、隊長補」

 恭しく呼び掛けられる声は変な感じだ。慣れない呼び方に内心戸惑いながらも頭を回転させる。

 第一目標は問題なく達成した。此処に留まる理由はない。それは都羽女さんの言った通りだろう。であれば次は何処へ赴くべきか。

 戻る選択肢はない。正面には江草さんを始めとした現状での最高戦力が揃っている。そもそも固まっていては意味がない。どちらかと言えば、私たちは遊軍という位置付けだろう。

 ――であれば、一つ候補がある。

「裏を固めましょうか」

「裏、ですか」

「移動しながら話します」

 かつ、と足音が響く。

「屯所の裏口は知ってます、よね?」

「勿論。使ったことはないですが」

「非常時の物ですからね」

 祓衆屯所には裏口がある。とは言え、それはあってないような物だ。本当に最悪の事態――屯所が禍者によって陥落してしまったとか――にならなければ存在が話題に上ることも、誰かの目に映ることもない。基本的に隠されているし、正面と比べればかなり狭い。人通りもほぼ皆無だから禍者も寄り付かない。ついでに言えば常に固く鉄扉で閉ざされているから並の禍者では突破はまず不可能。

「普段ならば放っておいても問題はないと思います。……でも、今回は色々と勝手が違います」

 禍者に屯所を知る導き手がいること。

 そして禍者自身が大きな力を有している可能性が高いこと。

「大きくなればなる程禍者の危険性は上がる。であれば裏切り者たちが制御出来るのにも限度があります。そうなれば通常はその力任せに正面突破が常道だとは思います……けど」

 それは、向こうにだって容易に予想がつく。

「多少の犠牲を払ってでも難度の高い裏からの侵入を果たせれば……祓衆は大きな損害を被る。私はそれが最悪の筋書きかと思うので」

「道理ですね」

 成る程、と頷く青龍隊。

 普段ない状況だなんて不意に実感して、少し気恥ずかしくなる。他の部隊の人とこうして隊長補として関わるなんて滅多にないのだ。

「ともかく、もうすぐ屯所裏口です。ひとまずはそこで待機してましょう」

「はい!」

 そうして辿り着いた裏口。

 息を呑んだ。

「……構えてください」

 見た目には常と変わらない。

 だというのに、この異様な空気はなんだ。

 背筋をじりじりと焼くような重苦しい気配。けたたましく荒々しい足音がこちらを蹂躙せんと迫る――幻聴。

 見えずとも明らかだった。

 ここに、今、どうしようもないものが押し寄せようとしている。

 今、まさに。

 ――けたたましい破壊音。

 ――歪んだ彷徨。

 ――悲鳴。

 土煙が私たちの視界を奪う。目は使い物にならない。抜き放った刀を握り締め、気配を探る。大きな何かが、確実にいる。呻くような声が足元をゆっくり過ぎて行く。

「一人、捕まえてください!」

 血の匂いがぶわりと足元から上る。そんなになるまで、これを此処に連れて来たかった? 理解が出来なかった。這う這うの体の裏切り者はすぐに青龍隊の一人の手でずるずると引きずられて行った。

 その頃には、土煙は落ち着いていた。

 目を見開く。

 大鹿。

 それは、正しく鹿の形をとっていた。

 だが、それは余りにも、威厳を帯びていた。

 闇を固めたような黒は引き締まった巨躯を形作り、赤い目はぎろりと周囲を睥睨する。そして、頭からは幾つも枝分かれした、身体の半分はあるんじゃないかという程に立派な角が生えている。それがどれだけの脅威となるか。背後に転がる鉄扉の無残な姿を見れば嫌でも分かった。

 規格外。

 手に負えない、と瞬時に知れた。

 私だけではない。ここにいる、青龍隊でも。

 それこそ、隊長格の誰かが。

 青龍隊が必至の形相で禍者に斬り掛かる。しかし禍者は角で容易く退ける。大人と子供だ。生半可な刃では傷すら付かない角は、あっさりと人一人を放り投げた。悲鳴も出ない。地面に転がった彼は幸い大きな負傷は負っていないらしい。動かないで。必死に祈る。禍者は興味を失ったように首を巡らせる。かつり。蹄が音を立てる。

 何処かへ行こうとしている。

 それを、止められる者は。

「間に合った」

 私の横を、一陣の風が過ぎる。かと思えば黒い羽織がはらりと地面に落ちていた。

 首を巡らせている禍者。それに肉薄したのは、倉科隊長だった。その手には長身の刀。美しく装飾された刃は禍者の身体ではなく、角に振るわれた。

 冗談のようにあっさりと、大鹿の角は飛んだ。

 虚を突かれたように動きを止めた禍者。倉科隊長は止まらない。躊躇いもなく、更に刀を横一文字に振るう。

 禍者の頭の上半分が、斬れ飛んだ。

「鍛錬を怠らなくて良かった。これでも僕、結構強いからねえ」

 息を吐くように笑って、倉科隊長は少しも動きを止めることなく禍者を切り刻んでいった。舞でも踊っているかのような、優雅にすら見える所作だった。どす黒い血はその度に弾け、地面に広がる。禍者が原型を失うまでに、そう時間は掛からなかった。夥しい量の血を一滴も浴びることなく、ゆっくりと倉科隊長はこちらを振り返る。

「大丈夫かい?」

 私はただ、頷くことしか出来なかった。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る