第九話 無明の懐古
――眼前には地獄が在った。
あたしは刀を振るって髪を掻き上げる。何時もならきっちり結んでいる筈の髪が解けていた。鬱陶しい、けれど、どうしようもない。そんなことに構ってはいられない。随分とあちこちの感覚が死んでいた。寒いのか、熱いのか。痛いのか、そうでないのか。自分の身体の損傷は。そんなことも、判らない。判らない振りをする。そうでないと、あたしはあたしの任を果たせなくなるような気がする。刀を握る手だって、本当はちゃんと握れているのか判らない。布で括り付けて、振るえていれば、まあ良いか。瞬きをする。目に入った血が滲みる。この血だって、何の血か。余計なことは考えるな。何時も、あたし自身が言っていたことだ。戦場ならば、戦場に適した思考がある。今考えるべきは何だ?
あいつらは上手く逃げられたかねえ。
金色の髪が脳裏に閃く。
そうだ、時間は、どれくらい経った?
新型の人擬きの禍者、旧型の、禍者の獣ども。紛い物の矢と刃、偽物の牙と爪が引き裂いて行った新入りたちは、何処まで逃げられただろうか。失う訳にはいかない、愛しい同胞たちは。
大丈夫だろう。きっと、それなりの時間は稼げただろう。幾つの禍者を屠った? どれだけの刃を叩き折った? 如何程の矢を往なした? 傷は負ったさ。だが、それ以上に、戦果は上げた筈だ。これだけ暴れたなら、彼女は十二分に上手くやる。なんたって、あたしの右腕だからねえ。何だって上手くやっちまうのさ、あたしの隊長補様は。
ひゅうと、喉が鳴った。
流石に、疲れたねえ。
迎えの一つでも、寄越してくれるかねえ、あの子は。
何だか異様な眠気に襲われて、変に入っていた力が抜けて、はは、と間抜けな声が溢れ。
ずきり、と。
冷や汗を伴う違和が、眠気を吹き飛ばした。
何だ。
かくん。さっきまで問題がなかった筈の足に力が入らなくなって、無様に座り込むことしか出来なかった。熱く、焼け付くような感覚がする足に目を向ければ、夥しい血がだくだくと地面に流れて行く所だった。
こんな傷、何処で。いいや、自分の身体なんてどうでも良いと刀を振るったのはあたしだ。全部全部麻痺させて暴れ回って、無傷だなんて土台無理な話じゃあないか。
だけれども。
それでも、賭けてたんだ。
目の前の糞みたいな連中を皆々殺しちまうまでは、戦ってやろうじゃないか、ってさ。
「運がなかった、ねえ」
後、一体だったんだけれどねえ。
目の前で、人型の禍者が、にたりと笑った気がした。
これ見よがしにぎらつく刀を振り上げて、振り下ろし――。
「隊長!」
――た筈の禍者の腕が斬れ飛んだ。
血が飛沫く。
白銀の刃が弾かれたように弧を描き、禍者の首に吸い込まれる。
駄目だねえ、弾かれちまう。
冷静な頭の片隅が呟いた。同時に、鋭い金属音。新型の連中、ご立派なことに鎧なんて着込んでやがるのさ。だから、そんな、感情任せの太刀筋じゃあいけないよ。らしくないねえ、あんた。何時もはもっと冷静で、綺麗に斬ってみせているじゃあないか。
思っている間に、凄まじい勢いで飛び掛かり刀の柄で彼女は強かに禍者の頭を殴り付けていた。ぐらついた禍者の腹を蹴って押し倒したかとかと思えば、今度こそ鎧の隙間、首筋に切っ先を突き立てた。何度も、何度も。白銀が血に塗れていく。
「もう良いよ、梓」
どうしたんだい、もう良いんだよ。終いだよ。やけに出難い声を絞り出して何度も話し掛けると、ようやっと彼女は、梓は禍者を破壊することを止めた。禍者の首から上はもうずたずたで、赤と黒の塊に成り果てていた。だというのに、それを作った修羅は、梓は困り果てたようにあたしを見る。
「隊長」
「あんた、戻って来たんだねえ」
きっと、隊長補様が、穂香が命じたのだろう。梓は若いが、一等強い。この戦場に遣わせるには一番の適任だろうねえ。そんだけ、あたしも鍛えてやったしねえ。
「怪我は、ないかい」
「貴女が」
唇を噛み締めると、首を振って梓はあたしの前に跪いた。
「貴女、こそ」
震える手が伸ばされて、揺れて、震えて、落ちる。
「何故」
「まあ、あんだけ動ければ大丈夫かね」
良かったよ、あんたが無事で。
呟いた途端、梓の顔がくしゃりと歪んだ。
「間に合わなかった」
顔を俯け、弱々しくあたしの肩に縋りつくのは、修羅ではなく、幼子のようだった。
あたしは、そんなこどもの背を撫でながら、助けを待つしかなった。
・・・・・
「緊張しているのかい?」
「ええ、そりゃあね」
くすり、と苦笑して早川は肩を竦めた。
「その割には、涼しい顔じゃあないかい」
長い髪を払って、土生は目を眇める。早川は肩を竦めて苦笑。金の髪がさらりと肩を落ちていった。
七の月。初夏の香りの満ちる頃。しかし祓衆の屯所内を満たすのは重苦しい緊張だった。
北方より来る禍者の軍団。新型を擁するその数、およそ百。それを、祓衆は待ち続けた。民草に危害を加えることなく、しかしこちらの補給路の危うくならない、迎え撃つべき距離を見定め続けた。交易の路を規制し、万全を期し、押し返すに足る戦場を作り続けた。
そして、時は来た。
「今回は、失敗する訳にはいかないわ」
青い瞳が真摯な光を帯びる。
「連中の好きにはさせない」
「そうさね、あたしのようなのは、増えないのが良い」
「……それは」
弾かれたように早川は顔を伏せる。
「酷い顔をするねえ」
自嘲。それから微笑。
「何、今回は大丈夫さ。前とは違う。戦場もこっちが設えたし、端から新型がいるのも分かってる。地獄になりはしないさ」
「そうね、そうなら、とっても良いわ」
「その為に、あたしも頑張ったしねえ」
ぎしり。土生の車椅子が小さく軋む。姿勢を軽く変え、不敵な笑みを作りながら土生は肘を机に着いた。机の上には、長大な包み。
「親父にも無茶を言った。外洋国の連中は武器を寄越すのは渋るんだとさ」
「でしょうね」
「海向こうの国は、国同士で争いをするらしい。当然と言えば当然さね。それがくれるってんだから、親父も大したもんさ。まあ、この国がそういうのとは無縁なのもあるんだろうがねえ」
ともかく、と土生は顎をしゃくる。挑むような眼差しが早川を射抜く。
「これをうちで扱えるのはあんたぐらいだろう。上手く使うんだよ」
「ありがとう。無駄にはしないわ」
恭しく早川は包みを抱え上げ、布を捲る。その下から覗いたのは、鉄の筒。早川の身長の半分はあるかと言う細長い筒は途中で折れ曲がり、幾つもの部品が備え付けられていた。葦宮では見ることなどない、長大な鉄の凶器。
「随分重いのね」
「そりゃあ、そうさ。使う鉛玉も大きくなるからねえ、丈夫でなくちゃあ、撃ち出せないのさ」
「道理ね」
腰に差した、二つの長銃と見比べながら早川は薄く笑む。
「これなら遠くからでも連中にぶち込めるわね」
「ああそうさ。良いねえ、胸のすくようだ。あたしもこの目で見たかったが、今回は留守番だ」
「良い土産話を持って帰ってあげるわ」
「楽しみだ。……無茶はするんじゃあないよ。梓にも伝えといておくれ」
目を細めて土生は言う。
「無茶して皆々失っちまったら意味なんてないのさ。怖ければ、どうしようもないと思えば、逃げるのは悪じゃあない。絶対に帰ってくるんだよ」
「勿論よ。彼女だって、もう、あんなのは嫌に決まってる。血塗れの貴女を抱えて来た梓の顔、今だって忘れられない」
己の身体を抱くようにして、早川は目を瞑る。
「あんなこと、もう絶対に御免よ」
・・・・・
「兎に角、無茶だけはするな」
努めて冷静に、帯鉄は言葉を選ぶ。
「時間は限られている。しかし、須臾でも刹那でもない。我々であれば、連中を殲滅するに十分な時間はある」
睥睨する。誰もが緊張した面持ちで帯鉄を見ている。しかし、無理に気負う者はいないらしい。好戦的に笑む者さえいる。好ましいことだ。寧ろ、自身の方が気負っている自覚はある。自覚はあるだけマシだろう。傍らの常葉は相も変わらず唇を三日月型にぴたりと閉じて微笑を湛えている。やはり、こういう時に言葉で先陣を切るのは嫌らしい。らしいと言えばらしい。帯鉄は思う。口より、刃で物を言う方が得意なのだ、この男は。見目と裏腹に、狂猛な戦意を肚の中に滾らせて、笑む。
「ここまで待った。随分と待った。故に、我々は放たれる。止める為に、否、絶やす為に。此処で、食い止めるぞ」
振り返る。広大な大地と生い茂る木々、細く、時に太く伸びる道。視線を戻す。居並ぶ青龍隊、朱雀隊の者たち、その後ろには桜鈴を囲う塀がある。そして、彼らとそれの間には、太い川。
桜鈴北部、葦宮の動脈とも言うべき街道を擁する
祓衆の想定する、適切なる戦場。太く流れる
「此処だ」
目を見開く。
「此処を、決して超えさせるな」
一際に強く言葉を吐き出せば、野太い咆哮が木霊した。遠くに澱む気配が強くさざめいたのが判った。
「殲滅だ」
帯鉄は刀を抜き放つ。
「一匹たりとも逃すな」
頃合いだ。ゆらりと切っ先を北の森へと向ける。
「皆散れ。適切にな。そして確実に屠れ。さりとて命は無駄にするなよ。我々は死ぬ為に此処にいる訳ではないのだから」
誰もが目をぎらつかせながら、息を呑む。桜鈴北部。開けた大地を少し行けば、すぐに視界は鬱蒼と茂る木々に塞がれる。
禍者は、連中は其処にいる。息を潜め、こちらを待ち構えている。
刀を構えているだろうか。
弓を引き絞っているだろうか。
獣共は牙を剥いているだろうか。
そんなこと、知ったことではない。
「禍者を一掃するぞ」
もう、五年前のようにはさせない。
唸るような鬨の声が大地を揺らした。
・・・・・
「始まったのう」
「そうだねえ」
江草さんの呟きに、倉科隊長は機嫌の良さそうな笑みで応えた。ぴりぴりと張り詰めた屯所の中、倉科隊長だけが常の空気を変わらず纏っていた。
桜鈴北部での迎撃作戦。青龍隊、朱雀隊を中心として祓衆本部の人間の殆どがそちらに割かれているから、屯所はいつもよりもずっと閑散としている。だと言うのに、張り詰める空気は重く、人々は忙しなく動いている。当たり前だろう。祓衆の主戦力が桜鈴の外にあるのだから。その間、私たちは桜鈴内部の不測を自分たちで処理しなくてはならない。そんな中、倉科隊長はゆるりと口の端を吊り上げる。執務室に設えられた窓の外、彼らのいるであろう方角に向いていた目がこちらに向けられる。
「まあ、今回の僕たちは桜鈴内の警護。彼らの無事を祈るしか出来ないけれどね」
「万一があっちゃならんじゃろう。連中が戦っとって背後から、なんぞ笑えん」
「全くだ」
穏やかな顔。その眼にだけ、常ならぬ真剣さを帯びさせて倉科は言う。
「僕たちは、彼らの脅威を極限まで減らさなくてはならない。禍者だけでなく、ねえ」
「……人も動くと思うんか」
「思うよ」
ふと、倉科の面から笑みが消え失せた。
「改史会、ですよね」
頷き。
「仕方がないとは言え、我々は大きく動いた。向こうだって、改史会の連中だって嫌でも気付くだろう」
嫌になるねえ。重い溜め息が吐き出される。
「私たちは、ただ禍者の侵攻を食い止めようとしているだけです。なのに」
「そう。僕たちは人に害なすモノを退けようとしている。正しいことをしている筈なんだ。だけれどもねぇ、可笑しな話だけれども、それを悪と断ずるんだよ、連中は」
倉科隊長の首が傾げられる。黒く長い髪がざらりと流れる。
「僕たちは、正しいのかな?」
「え?」
余りにあっけらかんと落とされた言葉。思わず緩やかに息を詰める。この人は、今。
遮るように、江草さんが唸った。文人の多い玄武隊において図抜けて腕の立つこの人は、今回は隊長格の護衛だった。倉科隊長とは付き合いが長い分、遠慮もないらしい。
「またとんでもないことを言いよるのう、頭は。こんな時にそんなこと考える余裕があるんは大したもんじゃが」
「癖なんだよお、色々考えるのが。でも、本当に改史会には気をつけなくちゃ。僕たちは禍者にだけ刃を向けられる。人には向けられない。向こうがこちらを害さないかぎりはね」
やれやれ、と倉科隊長は溜息を吐く。
確かに、そうだ。祓衆は、化け物退治の組織。護るべきものに刃を向けるなど、言語道断。禍者と対峙する為に、祓衆は多くの武力を保有することを許されている。人と対立することが禁止されるのは、至極当たり前のことだった。
「嫌になるよ。後手にまわらざるを得ない相手に来るか来るかと身構えるのは思った以上に神経を遣っていけないねえ」
「御上も面倒なこと言いよるわ」
「仕方のないこと、なのだけれどねえ」
しかし、と倉科隊長の手が腰の刀に添えられる。
「やはり、脅威だよ。改史会の規模も大概だからねえ。警察や、下手すれば朝廷内にもその息が掛かった者が紛れている。むしろそこから生まれた可能性だってある。ともかく内通者の存在は、最早想定して然るべきだろう」
そんなことを言ったかと思えば、更に声を潜めた。
「うちも例外じゃない」
「倉科隊長、それは」
「幸慧君も薄々解っているんしゃないかい? 何処も、例外はないよ」
「道理じゃな」
それは、とんでもないことではないか。脅威。紛うことなく敵意を持つ者が、この祓衆の中に紛れているだなんて。そうだとしたら、祓衆は何時何が起きたっておかしくはない。
「聞けば改史会は農民から広まっていたという。農民から商人へ。商人から町人へ。そうして育っていったんだ。何処にだって潜んでいる。そうした連中が一斉に動いたりすれば、厄介なんてものじゃあないよ」
「大丈夫、なんでしょうか。この状況。もしも、本当に万一、改史会の人がうちにいたら、危ないんじゃあ」
「そうだねえ。向こうより、うちが拙いねえ。手練れと非戦闘員、狙うのは明白だ」
でも、これしかなかったんだ。倉科隊長は笑んだ。
「だから、僕たちは成すべきことを成さねばならない。向こうのことは信じよう。無論、何かあれば支援する。でも、同時に守りを固めないとねえ。桜鈴も、此処も。何、確かに主力は向こうだけれども、こっちだって全くの無力ではない。僕もこう見えて結構鍛えてるからさ」
ふふ、と笑う倉科隊長に、少し肩の力が抜けた気がした。
「幸慧君、だから頼まれておくれ。一先ずは……そうだね、今の状況をしっかり見ておくんだ。報告は上がっていないから大丈夫だとは思うけれど、少し皆の様子を見て来ておくれ。何かあればすぐ知らせてよ」
「分かりました」
消えない不安を振り切るように私は踵を返して執務室を出る。現在屯所にいるのは玄武隊が殆ど。そして桜鈴内に数人の朱雀隊と白虎隊。例外のない限り祓衆は軍学校出身の者で構成されているが、実戦となれば心許ない。私だってそうだ。だからこそ、常に感覚を研ぎ澄まさねばならない。異常を異常と悟れるように。
——今日は、きっと長い一日になる。
・・・・・
こんなことになるなんて。
感慨深く、彼は天を仰いだ。
軍学校で散々に扱かれて放り込まれた祓衆。志は勿論持ってやって来たが、それにしたって、まさかこんなに早くこんな風になるとは思わなかった。
普段賑やかな桜鈴の中は驚く程静かだ。祓衆や警察からの指示で誰もが家の中で祓衆の作戦が成功することを待っている。主戦力が街の外にある今、万一にでも禍者が現れて、襲われるなんてことがあれば目も当てられない。無論それに備えて彼やその同僚たちはこうして桜鈴内に配備されているのだが。
今の所、街の中は静かで穏やかだ。歩き回る内、定期的に同じく警邏の任に就いている仲間と顔を合わせて安堵したような、少しだけ残念なような気持ちになって、また周囲の警戒に戻る。こうしている間にも、外は苛烈な戦闘が繰り広げられている筈なのに、内側は安穏とさえしている。
また一人、同僚と出くわし彼は苦笑した。警邏を任されているのは朱雀隊の人間ばかり。同じ屋根の下で寝食を共にする連中とこうして畏まって出会っても変な気分になる。
「出てこねえな」
「口を慎めよ。隊長いたらどやされるぞ」
「分かってるよ」
緩みかける気を引き締める。万一なんてあったら仲間に顔向け出来ない。
りん、と街中に吊るされた鈴が時折鳴る。
人の全くいない桜鈴はこうも違和を感じるものだろうか。
彼には都合の良いことでもあった。
軍学校を経て入った祓衆において初めて課せられた重大な任務。それを果たすには。
彼だけではなく、他の同志たちだって、きっと待ち侘びているのだろう。
あの人には相当な恩義がある。だから、求められたのならば応えねばならない。
だから彼は、彼らは、平静を装いながら、待ち侘びている。
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