第二話 萌芽と尋常
帯鉄梓は立っていた。夜の闇の中愛刀を両手で握り、切っ先を下にして、佇んでいた。彼女の身体には過度な力は入っていない。彼女はあくまで自然体だ。風に揺れる柳のようだ。それでいて、隙がない。彼女は昂っているが、落ち着き払っている。微塵の怯えもない。眼前より、脅威が迫っていようとも。
狼。冷静に彼女は分析した。狼の形をした袋に、真っ黒な泥を詰め込んだかのようだ。それでいて本当の狼ならば目となる場所には赤い光が爛々と凶猛に輝いていた。禍者という存在は等しくそうなのだ。袋の形はまちまちだが、中身は濃密な闇。そして人間への敵意に満ち満ちた赤い目をしている。そんな狼の禍者が、おおよそ、二十匹。赤い目を輝かせながら一人佇む彼女に殺到しようとしていた。
だが彼女は怯まない。酷く落ち着き払った様子で一歩、踏み出す。二歩目。地面を踏み締め、即座に蹴った。ぐん、と彼女の身体が地面と水平に跳んだ。高く結い上げた黒髪が尾を引く。狼は止まらない。彼女も引かない。距離は縮まる。彼女は目測する。己が愛刀の長さ、腕の長さ、その間合い。
今。
狼が自らの間合いに入ったその瞬間、彼女の左足が地面を捉えた。停止。残る勢いを殺すことなく下から上へと刀を振り上げる。先頭を向かってきていた狼が赤い血を噴き上げながら倒れた。斬り上げたその勢いのままもう一歩。踏み込みながら真横に一閃。二匹同時に切り刻む。背後。ざらりとした独特の気配。刀では遅い。右足を軸にして振り向きざまに蹴りつける。左足は飛び掛からんとしていた狼の腹に突き刺さった。情けない声。狼が吹き飛んだ。が、流石に致命傷にはならない。しかし彼女は目もくれず、再び歩を進める。あくまでも直線的に、目の前に立ち塞がる狼共を切り刻み、時に殴り付けながら進む。群れの真中を通過する。背後は省みない。群れを突っ切るまでに七匹切り捨て四匹殴り蹴り飛ばした。彼女は慌てることなく振り向いた。
全て終わっていた。
彼女の背後には、狼の死体が都合二十、転がっていた。
「帯鉄隊長! お疲れっす!」
彼女は隊長だ。朱雀隊と銘打たれた隊を纏める長である。隊長である彼女が真っ先に斬り込み、他の隊員が浮き足立った連中を掃討する。それが朱雀隊のやり方だった。明るい声でにこやかに報告する隊員に向けて彼女は口の端を引き上げる。それは微笑みのつもりではあったが、返り血に塗れた顔に浮かんだ笑みは端から見れば肉食獣の如き獰猛なものだった。
「お前達もな。損害は」
「ゼロっすよ! 隊長は大丈夫っすか?」
「無論だ」
懐から取り出した布で刀の血脂を拭い、視線を滑らせる。業物である彼女の愛刀には刃毀れ一つ見当たらない。ざっと先程までの戦場を確認する。自らの手足にも等しい、直属の部下である朱雀隊の者達は各々の武器を簡単に点検し、念の為の周辺警戒にあたっていた。もう既に、戦闘の匂いは薄れつつある。可愛がっている部下の発言を疑った訳ではないが、実際に目立った損害はないようだ。ほう、と密やかに安堵の息を吐き出す。
「あの程度に後れを取る訳にはいかないさ」
そうである様に、朱雀隊を彼女は育ててきた。彼女が口にしたのは、絶対的な事実でしかなかった。朱雀隊は、彼女の誇りだ。力なき民草を禍者より守護する為の、不破の盾。驕りではない。それは彼女の、そして彼女の下にいる朱雀隊の者たちの矜持だった。これは、彼らにとって当然の戦果なのだ。
それは決して、この先も覆してはならないもの。
四の月、五日。
風はまだ肌寒く、緑はまだ少ない。しかし冬の空気は確かに何処かへと去ろうとしていた。
祓衆本部屯所。四つの棟に囲まれた広場に祓衆が集う。いかなる場合であろうとも任務を疎かにする訳にはいかない故、全員が集っている訳ではないが、それでも濃紺の制服がずらりと居並ぶ姿は壮観の一言に尽きる。
その内、最前列に並ぶ者たちに視線を向け、ほんの少しだけ、周囲に悟られぬように頬を緩める。今日より晴れて祓衆の一員となる者たちだ。緊張がありありと浮かんでいて、初々しさが手に取るように知れた。自分にもそんな時代はあっただろうか。否。自嘲の思いと共に切って捨てる。そんな殊勝な人間ではなかった。若かったのだ、本当に。
様々な思いを胸中に巡らせながら、整列する者たちの前に据えられた演壇を上る。視線が集まる。慣れている。が、内心溜め息を零さずにはいられない。演壇の上からちらりと視線を投げる。甘い顔立ちの男が淡く微笑を浮かべてこちらを見守っている。全くあの男は。細く、そっと息を吐き出す。本来は、あいつが此処に立つべきであったのだが。今更言った所でどうしようもないのは承知だ。適材適所。あいつの宣ったことを思い出す。確かに、その一面はあるだろう。あいつは自分から積極的に働きかけてどうこうする質ではないから。
否。もう一度、否定の言葉を胸中で吐く。此処に私は立った。ならば、やるべきことは、一つだけだ。眼前に並ぶ祓衆の面々――特に最前列の新入りたちを中心に見渡し、口を開いた。
「祓衆朱雀隊隊長の帯鉄梓だ」
緊張に強張った顔を一瞥する。刺さるのではないかという程の注視。曇りのない、真剣な眼差し。良いことだ。こうした若者たちが入ってくるのであればまだ、我々は死んでいない。であるならば、私はただ、告げれば良いだけだ。
歓迎の言葉を。
そして、覚悟を問う言葉を。
朗々と、響くように、紡げば良い。
「さて――」
四の月の中頃。
冬は随分と遠くなり、桜鈴の、その名の通りにあちこちに植えられた桜もそれぞれが美しく咲き誇り、人々の目を楽しませている。
春は出会いの季節。祓衆も、例外ではなかった。
屯所の中央、四神の名がそれぞれに冠せられた四つの棟に囲まれた広場では威勢の良い声が上がる。ぶん、と微かに響くのは木刀を振るう音だろう。新たに入った隊員たちの練習風景を外側から見るのは、これが二度目になる。心なしか緊張した風の新入隊員の側でじっとその様子を見つめているのは、朱雀隊の隊長補である
「今年も元気なもんだねえ」
けらけらと笑いながら、
「そうですねえ」
都羽女さんの乗る車椅子をゆっくり押しながら、応える。隊長補のお父上が外洋国から取り寄せたという木製の車椅子は精巧に組み上げられていて、滑らかに、音もなく車輪が回る。
「お前さんがあそこにいた時は、何を思って訓練していたんだい?」
「私ですか?」
「三年前さ、まだ覚えているだろう」
にんまりと笑む都羽女さん。長く伸ばされた黒髪に、普段から伏せられた瞼、美しい弧を描く柳眉。私が言うのもなんだけど大人しそうな、知的な外見をしているけれど、結構この人は姉御肌だし歯に衣着せないのだ。開いた目は三白眼で中々迫力もある。
三年前――そりゃあ覚えている。
軍学校を卒業して十八歳で入隊することになる祓衆だけど、入った時点ではまだ新入りたちはどこの部隊にも属していない。軍学校である程度測られているとはいっても、実際に見なければ能力の適正は分からない。だから新入隊員は一ヶ月の間広範な訓練、研修を課せられて少しずつ入るべき部隊を吟味されるのだ。だから、祓衆に入った当初しばらくは、自分は一体何処へ配属されるのだろうと不安を抱えて過ごすことになる……らしい。
「正直に言いますと、私たちの年はそもそも人数が少なかったですし、私の場合配属先もほぼ確定していたようなものでしたから……とにかく早く此処に慣れなきゃ、って一心でしたね」
「ああ、そう言えばそうだったねえ。三年前は本当に大変だった」
懐かしむように呟く。
「五年前に人型が現れて、あたしの足を使い物にならなくしやがって、随分と此処を目指そうって若人が減っちまった。そうだ、あんたの年は一等少なかったねえ」
かつて、祓衆は危険と謳われたものの存外に平穏な組織だった。何百年もの間に確立された禍者との戦い方さえきちんと守れば、余程のことがない限り死にはしない。勿論絶対なんてものはないから死者が皆無であった訳ではない。でも、ある程度の安全はあったから、志願者はそれなりにいたらしい。
でも五年前、人型を模し武器すら扱う禍者が現れるようになってからはこれまでのようにはいかなくなった。
全ての禍者との戦いが死と隣り合わせになった。
負傷で戦線を退かざるを得なくなる人が増えた。
少なくはない数の人が、死んだ。
志願者が減るのはある意味では必然だったのかもしれないね、というのは倉科隊長の言葉だけれども、実際、新入隊員は目に見えて減ったのだという。そして私が入隊した三年前が、最も少なかったらしい。それからの数年は、元の通りと言うことは出来ないけれど、それでも多少は増えたというからそれだけは幸いなのかもしれなかった。
そうした、禍者の変化に踊らされた一人が、他ならぬ都羽女さんだった。
「まあでも、その分濃かったからねえ。あんたも含めてさ」
「……そうですかね?」
「濃いさ、濃い」
けたけたと愉快そうに都羽女さんは笑う。晴れ晴れとした笑い声。五年前の新型との初めての遭遇の際に、連中の武器によって足を手酷く負傷したこの人は、もう満足に歩くことは出来ないのだと言う。そんな身体では前線になど立てはせず、多くの人に惜しまれながら都羽女さんは元々の地位、朱雀隊隊長の座を退いた。でも、それでも腐ることはなく、色々あった末に――というのは聞いた話でしかないんだけど――白虎隊の隊長補に収まったのだから、本当に、強い人だと思う。
「あんたらに並ぶとしたら――おや」
「え?」
驚いたような声に周りを見渡すと、広場の隅の木陰に凛と佇む影が木刀を振るう新入隊員たちを見据えていた。
「噂をすれば、さね。あれがあんたらと同じくらい、いや、それ以上に濃かったかもしれない世代の代表さ」
帯鉄、と、その人の名前を都羽女さんが呼ぶと帯鉄隊長ははっとしたようにこちらを見て、そして深く腰を折り曲げた。そうか、帯鉄隊長の元上司なんだ、都羽女さん。
「精が出るねえ」
車椅子を押して近付きながら見かけとは裏腹の、芯の通った大声で都羽女さんが呼びかければ、ほんの少しだけ帯鉄隊長は口の端を緩めた。けど、仄かにその表情は硬い、ような。
「ええ、今年もどうにか人数がいて、幸いです」
「どうだい、気になるのはいるかい」
「どうでしょうね……」
鋭い眼差しがちらりと広場を向き、戻る。
「優秀ですよ、やはり軍学校でもそれなりの成績でしたから。この御時世で此処に来るだけで、根性もそれなりでしょう」
「それなり尽くしかい」
にいっと、都羽女さんは意地の悪い笑みを浮かべる。
「そうですね」
苦笑。
「良くも悪くも、です。組織の人間としてはこの上もないのですが」
「はは、そうさな。あたしらが尖りすぎてんのさ」
その「あたしら」に私も入っているかは定かではないけど、帯鉄隊長は自分も含めたらしく、そっと目を伏せて低く笑った。
「まあどちらにせよ、育てれば良いのです。此処が終わりではないのですから」
「お前らしいねえ、ま、頑張んな」
「ありがとうございます。では私はこれで。幸慧も」
「あ、はい、ではまた」
もう一度深々と礼をして、帯鉄隊長は朱雀棟へと歩いて行ってしまった。
「やれやれ」
その背を見ながら、都羽女さんは肩を竦める。
「相変わらず、あたしにゃ堅いんだ。もっと砕けてくれて良いってのに」
「それは、難しいんじゃないんでしょうか」
都羽女さんは帯鉄隊長にとっては元直属の上司だ。帯鉄隊長の厳しい性格からしても、あの慇懃な態度は仕方ないんじゃないだろうか。でも、都羽女さんは苦く笑んで首を横に振る。
「昔はもっと近かったのさ。あたしが朱雀隊で隊長してた時はね」
それ以上は、何も言わなかった。
朱雀隊で隊長してた時。
なら、都羽女さんと帯鉄隊長の関係が変わったのは、五年前の一件のせいなのだろう。
「仕方のないことさね。覚悟もしてた。それでも、あいつは思う所があるらしくってねえ。ままならないよ、全く」
悪いのは、禍者だってのに。
ぼんやりと、都羽女さんは呟いた。すぐに、その響きは消えてしまったけれど。
「どうしたお二人さん、湿気た雰囲気じゃねェかい」
突然、頭上から声が降ってきた。そして声の主も、文字通り、降って来た。え、と声も上げる間もなく降って来たその人は乱れた銀の髪を描き上げて、息を吐いた。
「たまたま見えたんでなァ、つい降りて来ちまったよ」
「お前さん何処に」
「上さ」
得意げに笑って
「な、何やってんすか初鹿さん!」
「おう
「無理っす!」
高低差をものともしない声で
「あ、ええっと、とにかくそっち行くんで待っててくださいよ!」
「急ぎなァ」
心底楽しそうに笑って、くいと初鹿隊長は顎をしゃくる。……とうの市吾はばたばたと此処からでも分かるくらい慌てて多分階段に向かって行ったから、見てないだろうけども。
「後輩の教育にゃあ刺激が強くないかい?」
「別に今更さァ。あいつもあいつよ、何回かやってんのに慣れねェのなんのって」
「……止めてあげてください」
白虎隊の初鹿
その分、と言うべきなのかちょっと悪戯好き、と言うか子供っぽい所もあるけど。まあ倉科隊長も変わってる所があるし、凄い人は得てしてそういうものなんだろう。多分。
「すまねえなァゆきちゃん、あいつはからかうのが面白くってなァ」
「それで毎度心臓止めかけてる俺の身にもなって欲しいんすけどもね!」
軽く息を弾ませながら、多分ちゃんと然るべき経路を辿ってやって来たんだろう市吾はじっとりと初鹿隊長を見上げた。穂積曰くの馬鹿二人の片割れ、軍学校の同期である圓井市吾とは、もう付き合いも長い。こういう、あけすけで明確な感情表現は人好きのするものだと思う。……昔はちょっと擦れてた時期もあったけど、それはそれ。
「お前はからかい甲斐があって良いねェ。そういう素直なのは悪いことじゃァねェよ」
「だからって遊び道具にするのはどうかと思うっす」
男性にしては大きくて猫のような目をむっと細めて言う市吾にけらけらと一頻り笑って、初鹿隊長はそれで、と私たちに向き直る。
「さっきお前さん方は何話してた。ちらっと朱雀の隊長殿も見えたが」
「何、詰まらないことさね。今年の新入りはどうか、ってねえ」
「ふうん……」
新緑の色をした瞳が都羽女さんを向き、空を向き、また戻る。
「そうかァ……そういう時期だしなァ。何処の隊長も吟味に掛かるわな。倉科の奴も見定めてるのかい、ゆきちゃん」
「多分、もう、決めてるんじゃないでしょうかね。玄武隊って、元々分かりやすい所ではあるんで」
戦闘能力よりも知力。純粋な知識量に、頭の回転の速さ、理解力、その他諸々。頭脳労働こそが主である玄武隊の場合は、実の所軍学校からもたらされる報告書で十分入隊させるべき者は分かってしまうらしい。私も、祓衆に入る前に言われていた。
「そうだよなァ、玄武隊は分かりやすくって良い。道理で相っ変わらずあれやこれやと俺を遣いっぱにする筈さァ」
「そう言えば、さっきも遣いの帰りって言ってたっすね」
「使えると思えばとことん使い倒すのさァ倉科の馬鹿は。ゆきちゃんも大変だろう」
「いいえ、そこまでじゃあ」
そこそこ任務ついでとは言っても休憩も貰えているし。今も、仕事中と言われるとちょっと微妙だ。都羽女さんに頼まれたからのこととは言っても。
「でも優しいじゃないっすか、倉科隊長。俺は羨ましいっすよ」
「帯鉄隊長だって優しいと思うけど」
身内に対しては、本当に面倒見が良い人だと思うし、そう聞いている。……と言うか、市吾に関しては本当に色々と目を掛けてもらっていたような。
「分かってるよ、お前に言われなくってもさ。でもやっぱ、倉科隊長に比べると厳しいのなんのって」
「あいつはそういう質だからねえ」
「俺だって優しいさァ」
割り込むように言って、快活に初鹿隊長は笑う。
「自由主義よ。皆頑張ってくれてっから、俺も相応に返してやってんのさァ」
「別に初鹿隊長はそうじゃないとは言ってないっすよ」
「倉科ばっか煽てられちゃァ、そりゃちったァ張り合いたくもなるぜ」
人好きのする笑みを浮かべて、気安く市吾の肩を抱く初鹿隊長。白虎隊の隊長、ではあるけれど、この人はこうやって私や、市吾のような平で別部隊の人間にも親しげに接してくれる。多分、今の四部隊の隊長の中でも取り分け接しやすいし、誰もが気兼ねなく付き合える人だろう。倉科隊長も、この人については珍しく一定以上の親しみを感じさせる言葉を使う。勿論、倉科隊長や帯鉄隊長も対面すると身の引き締まる思いがしはするけれど、それぞれがそれぞれなりに隊長然とした雰囲気の中に綻び……こちらに踏み込ませやすく感じさせるものをちゃんと持っている、と思う。
でも四部隊の隊長の内、例外が一人。
ふと私たちの背後に視線を投げた初鹿隊長の表情が分かりやすくしかめっ面になった。ぎらぎらと輝く緑の瞳が眇められる。
「……ちっ、噂もしてねェのに来やがったぜ」
「やあ、新入りの見学かい?」
潜めるつもりもなさそうな声で、目の前で初鹿隊長は悪態を吐いたというのにその人は、優雅に口の端を引き上げて微笑した。当たり障りのない挨拶も添えて。
「どもっす、常葉隊長」
「お疲れ様です、常葉隊長」
背筋を慌てて伸ばして市吾が言う。私も正対して、声を掛ける。自然、身体に力が篭っているのが分かる。常葉隊長はただ微笑んでいるだけなのに、背中に棒が一本入れられたような、そんな感じ。
「ああ、お疲れ様」
紡錘形の、形良い目に緩く弧を描く唇。掛けられた声も柔らかなものなのに、息が詰まるような何かを感じさせる。女性もかくやと言うような甘い顔立ちなのに、纏う雰囲気はただただ硬質だ。
常葉
「どうかしたのかい? 面白い顔をして」
「良く言うぜ、相も変わらずすかした面ァしやがって」
「俺は何時もこうだからね」
深い色の瞳がちらりとこちらと市吾を見遣る。
「私情を露骨に表すのは大人気ないんじゃないかい、初鹿? そういう所を見せるのがお前の手だとしてもね」
「良く言うぜ。涼しい顔で厳しくやるしか能のねェ野郎よかマシさァ」
噛み付かんばかりの獰猛な笑みの初鹿隊長と、目だけをぎらつかせた、けれど上品な笑みを崩さない常葉隊長が睨み合う。長らく、この二人は仲が良くないのだ。
「……飽きないねえ、お前さん方も」
慣れたもので、都羽女さんもやれやれと肩を竦めて溜め息を吐く。いざという時に連携が取れていればそれ以外はどうだっていい、というのが都羽女さんの意見らしい。
「駄目だよあんたらはこういうのになっちゃ。どっちもどっちさ、大人気ない」
苦笑しながら言って、ぱん、と一つ手を打つ。
「そらお二人さん、大人なら喧嘩は売らない買わない! 常葉、帯鉄なら朱雀棟の方だよ。あんたのことさ、どうせあいつに用だろう?」
帯鉄、と。多分その名前を聞いたから、常葉隊長はすっと身を引いた。黒々とした瞳がじっと都羽女さんを見つめる。
「先程まで此処にいたのかな」
「ああ、あたしとゆきちゃんとお話して、それでね。今はどうか知らないけど、まあ、棟の何処かにはいるんじゃないかい?」
「そうか、ありがとう。俺は失礼させてもらおう」
私たちが何か言う前に、常葉隊長はさっさと踵を返して朱雀棟の方へ歩いて行ってしまった。
「相変わらず、朱雀の隊長さんのこととなると気味が悪いなァ」
怒りをすっかり収めた初鹿隊長は、ものすごく露骨に嫌そうな顔で、ぺっ、と唾を吐く。……多分、根本的に常葉隊長とは馬が合わないんだろうなあ、この人。なんて思いながら内心胸を撫で下ろす。
威圧感のある雰囲気に長身、細身に見えて相応に鍛えられた身体付き。底知れない振る舞い。そんな常葉隊長のことが私は、あまり得意じゃなかった。あけすけに言ってしまえば、苦手だ。実力があるのは分かっているけれども、なんだろう、怖い、のかもしれない。
「ゆき、大丈夫かよ」
「え? うん、大丈夫だよ?」
「あの人、俺は結構尊敬してんだけどよ」
声を潜めて市吾が言う。
「上司としては、怖えよな。帯鉄隊長の方が、その辺はほっとすんだよ」
「分からなくはないかな」
私だって、口に出して言ったりはしないが、上司として手放しに信頼出来るのは倉科隊長だ。切り捨てられる恐怖、とでも言えば良いのだろうか。そういう怖さが常葉隊長に、ひいては青龍隊にはある。もっとも、とうの青龍隊はそうした常葉隊長のことをとても慕っている人がほとんどらしいのだけど。
「何のかんの言いますけど、俺、やっぱ朱雀隊で良かったって思ってるっすよ」
それだけは大きな声で市吾が言えば、初鹿隊長も都羽女さんも、小さな笑みを浮かべてみせた。
「そいつァ、幸せもんだぜ」
茫洋な人。それが、第一印象。
玄武棟、執務室。自分で淹れたお茶を挟んで、私はその人と向き合っていた。
色素の薄い髪に、やはり葦宮の人としては明るい瞳。開かれた瞼は重たげで、鳶色の瞳は穏やか。なんだか眠たそうですらある。反して口元は緩くだけどしっかりと真一文字に閉ざされていて、意志の強さが表れているよう。
「
「松尾幸慧です」
「お話は倉科殿から、兼ねてより」
静かに染み入るような低い声でそう言って、執務机の方に仁野さんは視線を向ける。その先には何時ものようにのんびりと構えた倉科隊長。
「幸慧君、突然すまなかったねぇ。この人が、前に言った紹介したい人脈の一角だよ」
「警察の方、ですか」
禍者を相手取る祓衆と、人間を相手にする治安組織である警察は場合によっては連携を取ることもあるから決して不仲ではないし、交流もある。けれど何を至上とするかはやっぱり違うから、仲良しこよしという訳でもない、微妙な距離感を保っている。そう言えば、倉科隊長が大体応対しているって言っていたっけ。
「俺は一応窓口、という役回りを。倉科殿とはそれなりに」
堅苦しそうで、それでいて流れるように話す仁野さんは薄く微笑む。
「彼はまだ若くて柔軟だからねぇ、警察とは言っても色々便宜を図ってくれたりもして、頼れるよ」
「過大評価ですよ。まだまだ若造ですが、可能な限り、祓衆の皆さんの御力添えをしたく。やはり、人を護るのに、此処の存在は不可欠ですから」
「そうですか……」
警察は祓衆と同じくらいに長い歴史のある組織だ。おまけに禍者の討伐という明確な目的を持つ祓衆と比べれば、その存在意義は多岐に渡るから、警察内は案外一枚岩ではない、らしい。組織としては違っていても、祓衆に悪感情を――理由は良く知らないけど――持っている人も、いない訳ではない。全部倉科隊長の受け売りだから、ちょっと複雑だけど。
でも、ともかく、そういう組織で仁野さんは随分と良い人な気がする。誠実で、いわゆる警察の人、みたいな。倉科隊長もそれなりに信用を置いている。ひょっとしたら変わり者、って線もあるけれど。
「ですが倉科隊長、何故今私と仁野さんを?」
「来月、
「無論です。どちらかと言えば祭場の警備なので、祓衆の皆さんとは少々立ち位置は異なりますが」
桜鈴では五の月に、遍寧祭という祭を執り行う。葦宮で唯一神様として祀られている存在にこれまでの豊穣を感謝し、そしてこれからの豊穣を祈る、大切な祭事だ。この祭事は国としても重要なものとされていて、祭事の場には葦宮を治める長たる帝も立ち会われ、余程のことがない限り桜鈴の人々は、北の為政の要たる朝廷前、桜樹広場で祭事を見守る。
祓衆も例外ではなく、各部隊の隊長や隊長補、それと少しの一般隊員が代表として出席することになっていた。
でも、確かに警察と祓衆が集まるとは言っても、連携を取らなければならないってこと、あったっけ……?
「確かに」
と、倉科隊長。
「確かに、遍寧祭の間、禍者の出現率は著しく低下している。零、と言っても良いくらいにねぇ。でも、それは今までの話。今年も零であるとは、限らない。そしてそういう事態になれば、警察と我々は、協力しなくてはならなくなるよ」
多くの人々でごった返す祭場。その場に現れるなんて最悪の場合でなくとも、万一禍者が桜鈴の何処かに現れたなら、混乱は避けられない。
「そうした時に、少しでも事情の分かる相手がいれば、ちょっとは楽でしょう? まぁ、上手く行くかはさて置いて、ねぇ」
「そういうことです。俺としても、祓衆の皆さんと繋がりがあったほうが一般の人々の誘導などもしやすい。特に今年は、改史会も危惧もありますから」
改史会。自然、こくりと喉が動いた。
「どうだい、そっちの方は」
「面目ない話ですが、目ぼしい成果は。末端を逮捕出来ても、蜥蜴の尻尾です。葦宮全土で勢力を増していて、実に厄介極まりない」
「今の所は、末端がちょこまかと使われているって感じだねぇ」
「はい。ですが、一つ、面白い話が」
仁野さんの言葉に、倉科隊長が表情を真剣なものに変えて身を乗り出した。
――と。
けたたましい鐘の音。
咄嗟に立ち上がり、耳を澄ます。
祓衆屯所に、いや、桜鈴全体に響くような鐘の音が鳴り響く。次いで、屯所に張り巡らされた伝声器から情報が流れ出る。白虎隊の手によるものだ。内容は、桜鈴に現れた禍者の位置と規模、そして形態。
「旧型、か。幸慧君、念の為、様子を見てきてくれないかな。白虎隊で詳しい話を」
「分かりました!」
倉科隊長の言葉を背に、執務室を飛び出す。
念の為。そう、これはきっと、大丈夫だ。旧型はずっと、長く長く祓衆が戦ってきたモノだ。だから、ただの討伐に終わる。
それでも、不安は拭い切れない。慣れないのだ、まだ。慣れなくて良い気もする。
鐘の音が、酷く木霊する。
「倉科殿は行かなくても宜しいので?」
彼女の飛び出していった扉を微笑して眺めている倉科殿に問えば、彼は表情を変ずることなく一つ頷いた。それだけで、禍者に詳しくない己でも安堵を覚えてしまうのだから、この人は恐ろしい。
「旧型、おまけにこの時間なら青龍隊の隊長直々のお出ましになるだろうからねぇ。幸慧君はまだまだ不安がっているけど、まぁ、被害はないだろうねぇ。常葉隊長の仕事は絶対さ。旧型相手なら尚更ね」
「そうなのですか」
「一々慌てふためいていたら、身も組織も保たないよ」
ふふ、と笑って倉科殿は先程まで彼女の座っていた長椅子に腰掛け、真っ直ぐにこちらと相対する。
「それで、だ、仁野君。君の言う所の面白い話とは、何だい?」
上品な笑み。だが、その丸眼鏡越しの目の奥にはぎらぎらとした強い輝きが鎮座している。有無を言わせぬ、強い眼差し。隠すつもりがなくとも、身構えてしまう。
「これは内密にしていただきたいのですが、改史会の逮捕した連中の中に数人、おかしなことを言う者がいまして」
――改史会に手ぇ出したら、お前ら皆ただじゃすまねえぞ。
「ただの虚仮威し。苦し紛れ。そう断定する者もいます。ですがどうも、臭いませんか」
「臭う、ねぇ」
口元に手をやり、倉科殿は目を細める。
「どういう連中がそういうことを?」
「元農民、商人、改史会の末端という以外に共通点は……いえ、比較的熱心な者が」
「そう、かい。随分と大それたことを言うねぇ。まるで改史会に権力があるみたいな言い方だ」
「やはり、そう思われますか」
「思わずにはいられないねぇ。改史会、本当に厄介そうで嫌だよ、全く」
剃刀のような眼差しで一つ吐き捨てたかと思うと、倉科殿は安穏とした微笑を浮かべ直してこちらに優雅な所作で頭を下げる。
「ありがとう、良い情報だよ、参考になった」
「いいえ、貴殿のような犀利な方には是非、意見を頂戴したかったので。ところで、この話、彼女には」
「幸慧君には……今は良い、かな。まだ確定出来てないし、うっかり面倒なことに巻き込んでしまったらことだからねぇ。不謹慎だけれど、丁度良い時に禍者も現れてくれたよ」
少し、困ったように笑って結局彼女が手を付けられなかった茶を一口。
「ただでさえ、あの子は忙しくしているからねぇ。自覚はなさそうだけど。だからまだ、こういうきな臭い話はお預けさ」
ふふ、と零した笑声は、常より楽しそうだった。良くも悪くも感情の起伏の乏しい倉科殿にしては、意外と感じる程に。
「……随分と、彼女のことを可愛がっている御様子」
「そう見えるかい?」
「少なくとも、俺には」
素直に答えれば、倉科殿は苦笑する。
「ううん、あんまり露骨に見せてたつもりはないんだけれどもねぇ」
「何となく、そう思う。それだけです。俺としては微笑ましい限り」
「君がそう言うなら、祓衆の中でも案外そう思われているのかなぁ。初鹿辺りは……まぁ訊かなきゃ何にも言わないか」
「良い目をした人と、思いましたよ」
「でなきゃ、僕だって隊長補にはしないよ。若くて有能な子を、ってことで吟味して引っこ抜いて来たんだ。物珍しかったよ、祓衆って案外ああいう子、いないからねぇ」
茶器をくるくると弄び、倉科殿は目を細める。
「歳の近い親子にも見えます」
「そうかい? 複雑だなぁ」
言葉程不快な様子なく、言う。
「……ねぇ、仁野君、もし万一、僕に何かあったら頼むよ」
「はい?」
「もしもさ、もしもの話。まあ、君にはばれちゃったけども思っていた以上に僕は幸慧君を可愛がってしまっているからねぇ、今から保険をね」
「俺は警察の人間ですが」
「そんなことは些事さ。僕と君の仲だろう」
「断りはしません」
「助かるよ」
「貴殿は何か思う節でも」
「どうだろうねぇ、読み切れないよ、最近は。だから、まぁ色々と手は打ちたいんだよね。……それで幸慧君に酷いことをしてなかったら良いんだけれど、ねぇ」
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