第一話 巡り来る春

 小さな島国、葦宮あしみやの首都桜鈴おうりんは碁盤目状に整備された、初めから都市として作られた街だ。長方形の街を囲むように二本の川が流れ、やがては海へと流れ着く。つまりは周囲に海を持たない都市なのだけれども、魚介類の少なさに困ることはない。整備された街道や川を辿れば、南の海や街との距離は案外大したことはないからだ。海には面していないものの国の中では南の方に位置しているから、気候も割合に温暖で、おまけに高低差の少ない南側の国土の特徴から、夏でも快適という理想的な都市になっている。……まあ、だからこそ、桜鈴は都市として作られたのだろうけれど。

 季節は四の月の初め。まだまだ冬の寒さは抜け切らないなんて声も聞くが、国土を南北に分かつ山脈の更に向こう、冬になれば雪と氷に閉ざされてしまう寒村に生まれた身からすれば、もう随分と暖かくなったものである。

幸慧ゆきえ、飲み物、緑茶で良かった?」

「あ、うん、ありがとう」

 差し出された湯呑みを受け取って、一口啜る。海向こうの異国、外洋国がいようこくからもたらされた高い足の机と椅子、そして外洋風の内装の部屋の中の、緑茶の入った湯呑み。何となく不釣り合いな気もするけれど、こんなちぐはぐな文化の混在はこの国では当たり前なのだ。長らく固有の文化を築いてきた葦宮に外洋国の文化が流入してきて早数十年。この国は二種の文化が混在した現状を、葦宮らしさと受け入れていた。

 もう一度緑茶で口を湿らせてから、軽く頭を下げる。

「今回も、ありがとう」

「どういたしまして。一通り確認したけど何時も通り、問題なし。資料を大事に使ってくれるならいくらでも利用して頂戴」

 にこにこ笑って穂積ほづみは自分の分の湯呑みを手にした。

「って言うか、あんたん所とは半永久的に提携結んでいるようなもんだし、一々頭下げなくても良いんだけどな」

「そういう訳にはいかないよ」

 きちんと明言しておく。こればかりは譲れない。

「いくら仲が良くても義理は通せっていうのが上司からの教えだからさ。それに最近は利用頻度も上がってるし」

「まあ、そうではあるけどね。でもそれがあたしらの安全に繋がる訳だし、じゃんじゃん使っちゃって、って感じではあるよね」

 けらけら笑う穂積。軍学校時代からの友達である彼女は、紆余曲折を経て国立文書館の司書という役職を手にしていた。自分とは正反対、と言ってもいい仕事ではあるけれど、それでもこうして文書館の一室でお喋りに興じられるのは色々と幸運が重なったのだと思う。

「で、」

「で?」

「そっちはどうよ、三年目。ちなみにあたしの方は変わりなくって感じね。ちょっと仕事任されることは多くなったけど、まあそんなもん」

「私だってそんなもんだよ」

「嘘だあ」

 ……図星。

「正直、目まぐるしいというか忙しないというか、ばたばたしっぱなし」

「やっぱそうだよねえ。部外者のあたしでも未だに驚きだもん、一年前の怒涛の任命騒動。祓衆はらいしゅうってそういうのはないって思ってたから」

「私だってそう思ってたんだけどね」

 苦笑、しかない。

 軍学校を出て穂積が国立文書館を選んだように、私は祓衆を選んでいた。文書館とは正反対の、仕事。

 早い話が化物退治の組織。

 祓衆と切っても切れない関係にあるものに、禍者まがものという存在がある。

 葦宮固有の、最早災害と呼んでも差し支えないくらいにどうしようもなく、そして深く根付いた人に仇なす存在。ただ人だけを襲う、黒くて、赤い目をした、色んな形を持つ正体不明の何か。どこからともなく現れるそれらは厄介なことにそれなりの殺傷能力を持っているから、普通の人が出会ってしまったらとんでもない脅威になってしまう。そこで祓衆の出番、という訳だ。

 罪無き民草を禍者より守護する事。

 葦宮に蔓延る禍者を一掃する事。

 掲げられたこの二つの理念が、祓衆という存在がどういったものであるかを良く表しているだろう。

 そんな訳だから外部から見れば一定以上の武力を有する、縦社会のお硬い組織、なんて評価されるのもむべなるかな、という感じ。

 ところがどっこい。

「とどのつまり能力が最重要な訳だから、性格まで真面目な人ばっかり、ってことじゃなかったんだよね」

 いや、真面目と言えばみんな真面目ではあるんだけど。個性はなかなかどうして尖った人も少なからず……それなりにいる気がする。その筆頭が、私の上司だった。

「にしても、でしょ。入って一年目の新入りをいきなり部隊第二位の地位に、なんてなかなかやらないって」

「それは本当にそう思うよ……」

 国中に現れる禍者を対応するだけあって、祓衆は人数が多い。だから諸々の都合で内部はいくつかの部隊に分かれている。

 禍者との戦闘時主力となり、選りすぐりの強者で構成された青龍隊。

 青龍隊と同じく主力部隊であり、集団戦闘に重きを置いた朱雀隊。

 各地に散らばり連絡役を担う、随一の機動力を誇る白虎隊。

 そして禍者の正体を暴くべく日夜情報と戦い、時に指揮官にもなる玄武隊。

 おまけに組織の運営を担う黄龍所なんて部隊――かすらも怪しいのだけど――もあるけど、ここに関しては余り知らない。正に縁の下の力持ちって存在で、祓衆の実務には関わらないし、口出しすることもないから普段は意識にも上らない。

 そんな数ある部隊の内、玄武隊が私の所属する部隊なのだけれど、ここの隊長がなかなか風変わりなのだ、これが。

「そもそも隊長は長らく隊長補たいちょうほを置かないで上手くやってたんだもん……本当に何で私を任命したんだろうね」

 何時でも柔和な微笑みを絶やさない、のほほんとした顔が脳裏を過る。

「案外、文書館に知り合いがいるから……ってだけだったりするのかな。玄武隊、文書館とは資料借りたりとかで接点も多いし」

 今日だって借りていた大量の資料を返すついでだ。人脈は作っておいて損はない、って常日頃から思っているみたいだし。もっとも、あの人がそんな目先の利益だけで軽率な行動をするとも思えないのが実情だけども。

「ま、忙しいあんたにこう言うのはどうかと思うけど、友人としては鼻が高いよ。異例の昇進じゃん」

「それは間違いないけど……」

「分かってる分かってる、その分色々気負っちゃうんでしょ? 月並みな言い方になっちゃうけど、あんまり無茶はしないでよ。ただでさえ危ない仕事なんだから。たまにはこうやって、顔見せてよね」

「心配しなくても、しばらくは定期的に会うことになるって」

「そうだけどさあ……やっぱね」

 穂積の言いたいことも分かる。頭脳労働が主である玄武隊にいるとは言っても、祓衆は禍者と常に戦い続けている。簡単にどうこうされるつもりはないけれど、いつ死んでもおかしくない立場にいることは、確かなのだ。

「私は弱いし、隊長もその辺は考慮してくれてるみたいだからさ」

「ううん……まあ、それでいっか」

 不満たらたら、という風を隠さずに、それでも穂積は乗り出していた身を引いてくれた。

「あの馬鹿二人も健在なんでしょ?」

「うん、勿論」

 あんまりに直截な物言いに苦笑しながらも頷く。学力、はともかくとして馬鹿二人、もとい市吾いちご永夜ながやは戦闘能力の面においては下手な先達よりも上だ。勿論、自身とは比べるべくもない程に。だから自然な流れで前線に駆り出され、そして上手く立ち回っている。

「私なんかよりずっと強いし、戦場での判断力は図抜けてるから。隊長たちからの覚えもめでたいって感じみたい」

「はーん……昔っから実戦馬鹿だったもんねえ……」

「そういうこと……って」

 そろそろ帰らないといけない時間じゃなかったっけ。壁掛けの時計を見上げると、案の定。

「ごめん、私帰らなきゃ」

「もうそんな時間か。じゃ、あたしも戻んないとな」

 二人して慌ただしく立ち上がって、笑う。

「それじゃ、また来てよ」

「うん、また」





 碁盤目状に張り巡らされた道を右へ左へと走り抜けて、祓衆の屯所へ向かう。りぃん。時折鳴るのは街中に吊り下げられた桜の鈴。魔除けとも、祀っている句々実神を喜ばせるとも言い伝えられているそれらは街の名前にもなるくらいにはこの街と深く結び付いた名物だ。涼やかな音は、心を落ち着ける気がして好きだ。幾度目かの鈴の音の後、屯所に到着。息を軽く整え、正門の正面に聳える総合棟の大扉を開く。

 祓衆は何百年もの歴史を持つ、葦宮でも有数の古参組織だ。当然、集う屯所も随分と年季が入っている、のだが何度も何度も改修を繰り返した結果か、今は外洋風の小綺麗な建物になっている。人の行き交う広間から廊下へ入り、総合棟を抜ける。屯所の玄関である総合棟の奥には広場を囲むように四つの、それぞれの隊が所有する棟がある。その内の一つ、北にある玄武棟に入り、かつかつと木張りの床を足音立てて歩いていく。部隊によって棟の構造は少しずつ異なる。古い書物、書類を扱うこともある為に玄武棟には地下があり、隊長と隊長補の執務室も同じく地下にある。一年を通して室温の差が小さいから、何となくお得な感じだ。

「幸慧」

 背後から声。

「はい……っと帯鉄おびがね隊長。お疲れ様です」

「ああ、幸慧も。文書館帰りか」

「はい」

 朗々と響く低めの声でそうか、と返して帯鉄隊長はふっと微かに目を細めた。何気ない仕草。でも、この人の場合元が良いからそれだけで絵になる。

 帯鉄あずさ。祓衆の実戦部隊、朱雀隊を率いる隊長。前線に出る部隊のまとめ役というだけあってその武の腕は並の男では足元にも及ばない。目を引く腰の紅い帯に差された名刀、散華さんげは決して箔付けの為の物ではないのだと、その戦いぶりを一度見れば誰だって理解出来るだろう。いかにも武人らしい厳格な性格ではあるけれど、任務を離れれば部下には甘い所もあったりして、何故か部隊が違うのに私のことも姓である松尾まつおではなく名前の方で呼んで何かと目を掛けてもらっている。文武両道、公での厳しさと私での柔らかさ。そこに目鼻立ちのはっきりした鋭い美貌が付いてくるのだから、当然男女を問わず祓衆内では憧れの的になっている。勿論、自分だって例外ではない。

「報告書ですか?」

「ああ、昨夜出たからな」

 ひらり。左手の書類の束に一度視線を落として、帯鉄隊長は頷く。

 当たり前と言えば当たり前だけど禍者はこっちの都合なんてお構いなしに現れる。ある程度出現頻度の少ない時間帯、時期がないこともないけど、まあ例外だってたくさんあるから目安にしかならない。だから青龍隊と朱雀隊は代わる代わる、いつ何時であっても誰かが臨戦態勢で常駐し、禍者が出現すれば対応に追われることになる。そして、無事討伐を終えれば禍者の姿、数、戦闘経過などを記載した報告書を玄武隊に提出することになっている。言わずもがな、禍者の研究の為だ。実戦部隊とはいっても、その事務作業量は中々馬鹿にならない。

「いつもお疲れ様です」

「これが我々の仕事だ。この程度で疲れていたらやってられんさ」

 ふっと吐息のような笑声を零して、隣に並ぶ。

「今から倉科くらしなの所だろう? 一緒しても良いだろうか」

「はい、勿論です!」

 否定なんてする訳もない。憧れの人なんだから。内心うきうきしながらすらりとした足の、女性にしては大きな歩幅に合わせて階段を降りていく。そうして地階に辿り着けば、地上の屯所内の様子とは趣の異なる空間が開けている。太陽光の望めない分、真っ直ぐ続く通路には等間隔に灯りが設けられ、壁にはずらりと扉が並ぶ。

「幸慧ちゃん、お疲れ」

「お疲れ様です」

 なんて交わされる挨拶に答えながら、帯鉄隊長を伴って通路を進んでいく。どこも玄武隊の隊員たちが出入りをして資料を抱え歩き回るから、よく思ったよりも賑やかだなんて他の隊の人たちからは言われたりもする。

「相も変わらず、忙しないなここは」

「純粋な業務だけでなく、資料整理も欠かせませんから」

 文書館の資料を持ち出すこともあるが、禍者関連の資料の大半はこの地下に収められ、そして少しずつ数を増やしている。

「逆に言えば、案外通常業務は多くないって話になるのかも知れませんが」

「それはないな」

 吊り上がった眦を微かに緩め、帯鉄隊長はさらりと言い切る。

「玄武隊は我らの頭脳だ。お前たちが相当に働いてくれるから、我々は禍者の討伐に専念出来る。これでも、裏方の大変さは分かろうとはしているのでね」

 気負うでも、勿論媚びるでもなく、当たり前だと言わんばかりの口調だった。こういう所が、人気ある所以なんだろうなあ……。

 通路を進んでいた歩みを止め、一際立派な、玄武隊隊長のおわす執務室の扉を押し開きながら、それに、と帯鉄隊長は付け加える。

「倉科の相手で中々に大変だろうからな」

 くすり。帯鉄隊長が低く零した硬質な笑声に被せるように、声。

「……聞こえてるよ、っていうのは言わなくても分かってるよねぇ」

「無論。それに、貶している訳ではない」

「君はそういう人だからねぇ。まあ、形式美って奴だねぇ、帯鉄隊長」

 帯鉄隊長とは正反対の、のほほんとした微笑みを浮かべたその人は、やっぱりゆったりと執務机に座して緑茶を啜っていた。

 倉科みやび。それが私たちの目の前で日向ぼっこをしている猫のように座っている人の、即ち玄武隊隊長の名前だ。温厚で柔和、おっとりとした、おおよそ武力とは無縁そうに見える人。だけど実際は頭脳明晰で、実質祓衆の頭脳と言っても過言ではない、とんでもない人物だ。そのあまりの有能さからか、私が入隊する前からずっと、隊長補を置かず部隊を率いてきた人、でもあった。過去形なのは勿論、一年前に何を思ったのか入隊して一年の私を隊長補としたからである。

「報告書、で良いのかな」

「ああ。今回の分だ。全員分揃っている」

「ありがとうねぇ。幸慧君はお帰りなさい、お疲れ様。折角だから同席してもらおうかな」

「はい」

 倉科隊長に書類を渡した帯鉄隊長は執務室に備えられた長椅子に、私は少し迷って倉科隊長側、執務机の左隣に立つ。そうして二人が居場所を定める間にぺらぺらと、倉科隊長は報告書を捲っていく。枚数でも確認しているようだけれども、丸眼鏡の奥の眦の垂れた目は忙しなく動き、時折細くなる。我らが玄武隊隊長にとって、速読は当たり前のことなのだ。そうでないと、多分膨大な情報なんて扱えないんだろう。そうして常人離れした速さで報告書を読み終えた倉科隊長は机に報告書を置いて、その上で手を組んだ。

「今回は旧型だったかぁ。数はそこそこいたようだけれど、君たちの敵ではなかったか」

「ただ人間に一直線に向かってくる手合いだ。苦戦などする訳にはいかないさ」

 表情一つ変えず、帯鉄隊長は言い切る。

 旧型、すなわち長らく戦い続けてきた、人の形を取らない知能を持たない進化前の禍者なんて、精鋭揃いの朱雀隊にとってはきっとどうということはないのだろう。長い戦いの中で、旧型との戦い方は随分と蓄積されているのだし。

「あの程度を屠れずして、何が朱雀隊だ」

「油断は禁物だけどねぇ」

 対して倉科隊長はへらりとした笑みを浮かべて、手元の湯呑みに口を付けた。

「今度何時、新型が現れるか分かったものじゃあないからねぇ」

「分かっている」

 すう、と鋭い目を細めて、帯鉄隊長は吐き捨てるように言った。ぎらり、と輝く目は少し、怖い。

「連中が、何時、どうなろうとおかしくはない。そうだろう。……もう、五年前の様な事にはさせないさ」

 ぴくり。倉科隊長の手が一瞬震えたのは、多分、気のせいじゃないだろう。

 五年前――それは初めて人型の、進化を遂げ、知能を有した禍者が現れた時のことを指しているのだと思う。生憎と私はまだ軍学校にいて詳しいことは知らないし、倉科隊長を始めとした先輩たちもあまり語ってはくれない。でも、それまでの経験から掛け離れた戦闘は、かなりの被害をもたらしたのは確かだろう。

 帯鉄隊長の先代の朱雀隊隊長は、その時に前線を退かざるを得なくなった。思う所はかなりあるんだろう。

 一瞬目を伏せた倉科隊長は、でもすぐににこりと微笑んだ。

「まぁ……油断なんて君たちには杞憂かぁ。でも用心は本当に禁物だよ。……新型の出現頻度は増しているから、ねぇ」

「やはりか」

「ああ、厄介な話だけどね」

 新型、そう呼称される人型の禍者は常に現れる訳ではない。五年前に初めて現れた直後は何故かめっきり現れなかった時期もあったし、今も、昔から対峙している獣様の禍者の方が出現頻度としては多い。でも、少しずつ新型の確認報告は増えている。無論、討伐の数も。

「全く、どうしてあんな厄介な存在が生まれたのか、原因が突き止められないのが歯痒いねぇ」

 手袋をした手をぐっと握り締め、仄かに倉科隊長の目が眇められる。安穏とした普段からは考えられない、珍しい表情だった。声色も、不穏なものが混じっている。

「嫌だ嫌だ、分からないっていうのは本当に不愉快なんだよねぇ。暴きたくて仕方がない」

「お前は何時もそうだな。情よりも知だ」

「これで良いんだよ、僕は。足りない所は君たちに任せてるから。ねぇ、帯鉄隊長」

「否定はしない。だが、くれぐれも組織の和を乱すような真似はしてくれるなよ」

「君こそ、何でもかんでも背負い込む癖は控えるべきだと思うよ」

「心得てはいるさ。努力はしよう」

 私からしたら見慣れない苦い笑みを浮かべた帯鉄隊長は、高く結い上げられた黒髪を翻して踵を返した。

「そろそろ戻る」

「仮眠かい?」

「そうだな。流石に、休みたい」

「すまないねぇ、そんな状況で長話に付き合ってもらって」

「構わないさ。この程度。それより報告書、頼んだ」

「勿論」

 柔和な、何時も通りの微笑みを浮かべて書類を叩く倉科隊長を見て、ほんの微かに頬を緩ませた帯鉄隊長は颯爽と、堂々たる足取りで玄武隊の執務室を出て行った。

 




 帯鉄隊長を穏やかな笑みで見送った倉科隊長は、ばたりと扉が閉まるや否や、ふう、と大袈裟な溜め息を吐いて軽く肩を竦めた。

「帯鉄隊長と話すのは中々緊張してしまうねぇ。つい背筋も伸びてしまう」

「そうですね」

 実際に倉科隊長が緊張なんてしたのかは甚だ疑問だけれども、帯鉄隊長の纏う雰囲気のせいか、あの人を前にするとちゃんとしなくてはいけないという気持ちになるのは確かだった。もっとも、今回私は倉科隊長の隣に立っていただけではあるのだけれども。

「すみません、何もしないで」

「ん? あぁ、それで良かったんだよ。帯鉄隊長はお茶飲んでのんびり、っていうのは性に合わないらしいし、今回は幸慧君が場に慣れてくれたらなぁって思っただけなんだよ」

「場に慣れる、ですか」

「そうそう。いずれは君が、ここに座って帯鉄隊長と一対一で真剣に話し合ったりするかもしれないんだから」

「えっ?」

 それはつまり、隊長の座を譲るということなのだろうか。思い至って、慌てて首を横に振った。

「そんな、えっと、倉科隊長の代わりは」

「ふふ、冗談だよ。僕は生涯退くつもりがないくらいでねぇ。でも、ちょっと謙遜が過ぎないかい?」

 その原因たる人が、苦く笑む。

「帯鉄隊長なんて、君の歳で隊長だからねぇ。あんまり尻込みするのも良くないよ」

「分かってはいますけど……」

 それは五年前の一件があったからで――とは、とてもじゃないけど言えない。

 五年前、通常の禍者を討伐している最中に突如現れた新型の、人型の禍者の軍団。弓すら扱ったというそれらは、熟練の戦士である祓衆の面々を混乱の最中に容易く蹂躙したという。その為に朱雀隊は代替わりを余儀なくされ、帯鉄隊長は弱冠二十歳で隊長にならざるを得なくなった。それはなし崩しの結果ではあったのかもしれないけれど、でも、帯鉄隊長が当時からそれ相応の実力を有していたのも事実ではある。

「彼女と常葉ときわ隊長は少々突き抜けたところはあったけどねぇ。まぁ、こうは言ってみたけど、単純に言えば幸慧君はもっと自信を持つべきって話だね。要するに。君は良く頑張っているよ。隊長補として、優秀にね」

「その言葉は嬉しいですけど、でも、まだまだですよ」

 どう見積もったって、自分の能力が他の隊長や隊長補に劣っていることは、重々承知している。

「そういうところが優秀、って僕は言っているんだけど……まぁ良いや、ちょっとお茶しよう。文書館からここまで、走ってきたんだろうしねぇ」

「……分かりますか?」

「一年も一緒に仕事してたら、ねぇ」

 くすくすと笑う倉科隊長。そりゃあ、この人からすればこっちの行動なんてお見通しなのかもしれないが、それにしたって何とも複雑な気分だ。むう、と口をへの字に曲げながら執務室の隅に設えられた焜炉に火を点け、水を注いだ小さな薬缶を置く。

「私、そんなに分かりやすいですかね」

「ん? ……いや、普通、じゃないかなぁ。僕はこういうことが仕事だから、つい分析しちゃうんだよねぇ。悪気はないんだけど」

「倉科隊長がそうなのは分かっていますよ。……私も何だかムキになっちゃって、すみません」

「ふふ、良いよ良いよ。一年一緒にしてきたけども、君みたいな子と仕事って中々なかったからねぇ、新鮮なんだよ」

「褒め言葉、ですか?」

「褒め言葉さ」

 優雅に笑む倉科隊長は、肩に掛けていた黒い羽織に軽く手を添える。桜鈴の、名のある呉服屋で生まれたという倉科隊長の肩には、何時も少しずつ模様の異なる黒い羽織が掛けられていた。座していることが多く、好々爺然とした佇まいをし、おまけに肩には羽織。そりゃあ、安穏として見えるというものだ。お爺ちゃんみたい、というのは正直思ったことがあるし。……思考に耽っている時なんかの眼光を見ると、そればかりじゃないっていうのは分かるんだけども。

「そう言えば幸慧君」

「はい」

「文書館のお友達、何か言ってなかったかい?」

「何か……」

 お茶を淹れながら、振り返る。倉科隊長がこう聞く時は大抵、特別な話題だ。欲しそうな話題は、あったっけ。少し考えて、首を横に振った。

「そうですね、世間話程度はしましたけど、それ以上の話題は何もなかったと思います」

「そっか、ありがとうねぇ」

「何かあったんですか」

「少しばかり、ね。……あぁ、ありがとう」

 お茶を渡すと一口飲んで、立ち上がる。

「文書館に、火種を持って押し入りそうになった連中のこと、君は知ってる?」

「……初耳です」

 一瞬、ぞっとした。

「それって、つまり放火されかけたってことですよね、文書館が」

「そうだねぇ、幸い、警察が不審人物として捕縛したから大事にはならなかったけれど」

 でも、もし、少しでも火種があの文書館に放たれたら。きっと、乾いた紙は良く燃えるだろう。そうなれば、小火で済むとは思えない。そして万一にもそうした事態になれば、混乱は桜鈴全体に広がりかねない。

「何で彼らはそんなことを」

「偽史を焼き払う為」

 壁際の本棚、ずらりと並ぶ本の背表紙を撫でながら倉科隊長は言った。

「彼らはそう言ったらしいよ。警察曰くね」

 するりと一冊を抜き取って、こちらに見せる。大まかな流れの示された、歴史書だ。以前目を通したことがある。

「この国の、公表されている歴史は誤っている。民たちは大間違いの歴史を愚直に信じ、真の歴史を踏み躙っている。我々は、それが許せない。……そう、取り調べの際に宣ったらしい」

「それで、文書館に放火ですか」

 なんて短絡的な。私が口にしなくとも分かったのか、倉科隊長は苦笑して歴史書を収めた。

「随分と馬鹿な真似だと、僕も思う。でも彼らは本気だった。恐ろしいねぇ、思想なのかな。彼らはね、徒党すら組んでいる。名は、改史会かいしかい

 単純だよねぇ、と口調こそ面白そうに聞こえるけど、倉科隊長の眼差しは鋭い。

「面倒だよ、こういう手合いは。今回は未遂だったから良かったものの、不穏な動きはここ数年増えつつあるらしい。集会や喧伝、破壊活動とかだね」

「何でそういう連中の情報が伏せられているんですか」

 穂積は、知っていたのだろうか。いや、多分、知らなかったんじゃないかと思う。穂積なら、知っていたら言うだろう。私に注意を促す、という形で。

「今回に関しては未遂、おまけに夜のことだったから上層部で情報が止まった、ということだろうねぇ。他に関しては……どうだろうね。名前まで分かっていて野放し、という訳でもないんだろうけども、確かに警察内部で情報が止まっていることは否めない。無用な混乱を避ける為、としてもね」

 警察内部で止まっている情報を何故倉科隊長が、というのは愚問だから聞かない。祓衆自体警察と繋がりはないことはないし、この人の場合、直接禍者に関係ない情報も貪欲に得ようとするのは一年間で良く学んだ。人脈があるんだろう、多分。ちょっと寂しい気もするけども。

 それよりも、改史会だ。

「隊長は、どう考えているんですか?」

「厄介。まずはその一言に尽きるねぇ。でも、それ以上に、怖い」

 倉科隊長にしては酷く珍しい言葉だった。

「何だろうねぇ、歴史の誤りを正すとはどういう意味なのか、今一つ僕には理解しかねているんだ。だからこそ、ね。禍者も、この国の歴史に食い込んだ存在だ。何処かで我々と改史会がぶつかったらどうなるか、予測がつかない。いや、これじゃあ語弊があるかなぁ。僕は、改史会の連中が、禍者をどう見るかが、怖い」

 噛み締めるような倉科隊長の言葉が、重く響いた。

「幸慧君」

 かと思うと、何時もののほほんとした雰囲気を瞬き一つの間に纏い直して、微笑む。

「君には、僕の人脈を幾つか紹介しておいた方が良いのかもしれないねぇ」

「人脈、ですか」

「そう」

 定位置の、執務椅子に腰掛けてお茶を飲む。

「君は一年、慣れない場所で良くやった。だから、今度は武器を磨くのさ。僕らの武器は、知識だからね。人脈は幾らあっても困らないよ。余程拙いものじゃあない限り、ね」

 だから、と一呼吸。手を組んで、こちらを真っ直ぐに見据えて倉科隊長は言う。

「この一年、君は強くなりなさい。君らしく、ね」


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