第三話 鈴の音騒乱

 遥か昔、葦宮は前人未到の神の土地であった。

 緑豊かにして災いなく、四つの季節を孕んだ穏やかな大地。

 そんな神の土地に海の向こうから渡って来たのが、今葦宮に生きる人間たちだった。その長が、帝の祖先である。

 人間は争うもの。

 彼らもまた、争いから逃げてきた者たちだった。

 彼らは葦宮を尊んだ。平和そのものたる葦宮こそを新たな理想郷とした。

 なれど、葦宮にも長がいた。句々実という名を持つそれはしかし、穏やかな性質であった。

 帝の祖は句々実と言葉を交わした。句々実の持つ大きな力を畏怖し、そして懇願した。

 この地で、人の営むことの許可を。

 果たして句々実は、是と言った。

 争いを厭う人間たちへの、それは慈悲であった。

 或いは細やかな仲間意識すらあったのかもしれない。

 句々実もまた、争いを厭うものであった。

 ――故に人間は、この地を平和とし、句々実を神として祀り、祈り続けねばならない。





 祓衆屯所、総合棟会議室。

「新たな隊員が入り一ヶ月。今回も無事隊員の部隊編入は滞りなく行うことが出来た」

 水の流れるが如く、帯鉄は述べていく。会議室には四人。言うまでもなく、四部隊の隊長だった。

「そして五の月となった。新入りたちの初任務、遍寧祭の警戒任務だ。倉科」

「ああ」

 深く腰掛けていた椅子から立ち上がり、四人の囲む机の真中に広げられた桜鈴の地図。その上に、指を置く。

「通例に倣い、新入りは必ず一名につき一名以上の先達との行動を義務付けるよ。これはどの部隊でも徹底するように。青龍隊、朱雀隊は」

 桜鈴をぐるりと囲む外壁のすぐ内側、北方の一辺を欠いた四角を描いていく。一つ描けばその少し内に、入れ子のように歪な四角を重ねる。

「外壁側から桜樹広場までこの線上に配備していく。詳しいことは後に常葉隊長と帯鉄隊長で詰めるてもらおうかな」

「ああ、分かったよ」

「承知した」

 常の微笑を浮かべた顔で常葉が小さく頷く。帯鉄も普段通りの静かな表情で応える。

「白虎隊はこの青龍、朱雀隊の警戒線の間を埋める形での警邏を。順路は初鹿に任せるよ。臨機応変にね」

「おうよ」

 軽妙さは崩さず、しかしそれでも何時もよりは幾分真剣な面差しで初鹿が応じる。

「玄武隊は屯所での待機、青龍、朱雀隊の警戒任務への随伴を行う。申し訳ないが、二人とも承知していただきたい」

 了承が返って来る。確認事項だ、今更揉めることではない。

「万一遍寧祭中に禍者が現れたとしても通常通り屯所の警鐘は鳴らされる。しかし主力は桜鈴内に散らばっている状態なので白虎隊は、迅速な情報伝達をお願いするよ。対処は基本的には付近の警戒班、警邏班が行うこと。しかし新型を始めとする強い個体、及び数が多い場合は青龍隊は遊撃で、朱雀隊は桜樹広場側、外壁側の間で連携の下封じ込め、殲滅するように。基本的には通常通りだね。ただし相当数の民間人が外にいる。適宜対応し、殲滅は迅速に行うように」

 そして、と一呼吸置いて続ける。

「遍寧祭の間、我々及び四部隊の隊長補は桜樹広場にて祭に参加しなくてはならない。その状況下でも作戦通りに動けるように皆、伝達及び指導をよろしくお願いするよ」





 五の月八日。

 桜鈴の北、千年以上もの歴史を誇る朝廷を守る、幾重にも作られた門の、もっとも入り口、一の門。その前に広がる桜樹広場は普段にはない賑わいを見せている。

 遍寧祭。かつて葦宮を統べ、そして今の帝の先祖に葦宮を譲ったとされる存在句々実を、葦宮では神様として祀っている。大きな都市には大抵社があるし、そうでなくとも祠が全国各地に点在している。古い物語に語られる存在は数多くいるけれど、神様は句々実だけだ。

 句々実は豊穣の神様。そんな存在にこれまでの実りを感謝し、そして新たな実りを祈る為の祭りが、この遍寧祭だった。

「しっかし、相変わらず賑やかねえ」

 腕を組んで辺りを見回した深弦みつるさんは、明るい色合いの目を細めて緩やかな溜息を吐き出した。

「それなりの回数こうして立ち会ってはいるけども、何度見ても壮観よ。お偉いさんも沢山集まるしね。ほら、黄龍所の連中も」

 優雅な所作で深弦さんが指し示した先には、いかにも気難しそうな顔をしている人たち。狭き門を潜り抜けた、一握りの有能な人材が集まっているとも言われる、祓衆の運営部署。彼らはこちらをちらりと見て、でもすぐに視線を戻す。

「相も変わらず怖そうだよねぇ。僕、あの人達苦手なんだよ」

 傍らでその様子を見ていたらしい倉科隊長が苦笑いをする。

甘利あまり隊長補は良いのかい? 挨拶とか」

「どうして?」

「一応、仮にも昔の誼というものがあるんじゃないか、と思ってねぇ」

 苦さを抜いた、朗らかな微笑で倉科隊長は黒々とした瞳を深弦さんに向ける。その眼差しを、肩を竦めて受け止めた深弦さん。

「確かに古巣ではあるけども、あたしは下っ端も良い所だったし、あたしってこうじゃない? だから浮いてて良い思い出もあんまりないの。挨拶に言ったって月並みにしかならないわ」

 甘利深弦青龍隊隊長補。本人の話すように、この人は軍学校から一度黄龍所に所属し、それから青龍隊に配属というちょっと不思議な経歴を辿っている人だ。長身の常葉隊長を更に上回る長身と、実戦部隊所属に相応しい身体つきをした男性、ではあるけれど、言葉遣いは女性的で柔らかい。

「そうかい。いや、やっぱり気になってねぇ、ごめんよ」

「構わないわよ。知りたがりなのはあんたの習性みたいなものでしょ」

 重たそうな睫毛を震わせて微かに俯き、上着の胸元を漁った深弦さんは、少し悩んで手を離した。

「流石に止めた方が良いかしら」

 ちらり。向くのは高く造られた舞台。一の門前に設えられた仮設の舞台の周囲には朝廷付きの神官たちが控え、舞台上では国中から集った句々実の宮に仕える人々が奉納舞を舞っている。その程近く、一段高い場所には帝の為の席が設けられている。幾重もの天幕が掛けられ、顔はおろか中の様子は伺い知れない。そこを中心に朝廷の重臣や国立組織の重鎮が居並んでいく。祓衆も歴史ある組織だから、こうしてその中に呼ばれているという訳だ。

 遍寧祭は祭祀である。

 でも、初めから最後まで厳粛で息の詰まるようなものであるかと言えば、案外そうじゃない。午後、帝が舞台に上り神官と共に句々実神への祝詞を述べる段になるまでは正にお祭り騒ぎといった雰囲気が強くて、桜樹広場で遍寧祭を見守る人々は賑やかだし、広場近くの道路には屋台がずらりと並んでいる。来賓席の私たちは流石に好き勝手な真似は出来ないけれど、それでもこうしたお喋りくらいはごく普通に許されている。

 ……まあ、深弦さんは煙草を吸おうとしていたみたいだし、流石にそれはちょっと顰蹙もの、かもだけれど。

 こうしている間にも祓衆に宛がわれた空間では、四部隊の隊長、隊長補たちがそれぞれに歓談している。その中で、永夜だけが憮然として、居心地が悪そうにしていた。

「永夜、結局何で今日連れて来られたの?」

「俺が聞きてえよ」

 ふんと鼻を鳴らして、永夜は今も帯鉄隊長と親しげに語らう常葉隊長を横目で睨み付ける。

「今日非番だったってのに常葉の野郎に呼び出されて、命令よ。呼んだら呼んだでこのザマだし、ったく、やってらんねえよ」

「君はねぇ、ほら、片河ひらかわ家の出でしょ? しかも若い。だからお偉方への細やかな訴えになる」

「……俺ぁもう、絶縁された身ですけど」

「それでも片河家の所属であった事実は消えない。まぁ、そうでなくとも若い君や幸慧君を民衆が見て、少しでもうちに好感を持ってくれれば良い、って言うのはあるからねぇ。ごめんね、不愉快かもしれないけど」

「言っとくけど」

 深弦さんが、倉科隊長の言葉に割り込む。

「無能だったらあたしも常葉もあんたを呼んだりはしないわ。まぁ、ちょっとした経験って思って頂戴よ」

「……そっすか」

 尚も不服そうではあるけれど、永夜はほう、と深く息を吐き出して、ほんの少し表情を緩めた。

「俺はこういうの、苦手なんすけどねえ」

 片河永夜。私や市吾と共に軍学校で学び、祓衆に入った永夜は現在、青龍隊の所属だ。常葉隊長のことをどう思っているのか――まあ多分、口で言っているよりは慕っているんだろうな、とは思うけども――は定かではないけれど、少なくとも、実力は市吾と同じく実戦部隊の一員として申し分ないと、思う。背中に背負った大刀は見掛け倒しではない。おまけに家柄も、倉科隊長の言う通りに片河家と言う古くから続く家の出だから、農民上がりの私なんかとは雲泥の差だ。……もっとも、絶縁状態、修復の余地なしというのが現状らしいけれど。

 そんな永夜は左目で来賓席を一瞥して、鼻を鳴らした。

「まあ、あっちのお硬いのよかマシか」

「あたしも同感。嫌よ、お偉いさん方って。何考えてるかちっとも分かりやしないんだもの」

「説得力のある言葉だねえ」

「そうでしょう?」

 眦の垂れた目を片方瞑って、小さく口元で笑みを作る。

「いっつも腹に一物抱えてる、みたいな、自分は何でも知ってる、みたいなそういう連中ばかりよ。朝廷も、黄龍所も。秘密主義は嫌いじゃないけれど、ああいうのは、嫌い」

「折角のお祭りなのに随分と辛気臭い話をするものね」

 冷ややかな笑みを浮かべていた深弦さんの肩を軽く叩き、柔らかく諭す声。

「そういうことは何時でも言えるんだもの。今言わなくたって良いじゃない。ねえ、幸慧?」

「え、っと、まあ、折角ですし、ね」

 名目上は同じ立場ではあるけれど、やっぱり何となく目上という意識は抜けない。そりゃあ、しどろもどろにもなる。この人たちは気にしないんだろうけれども。案の定、深弦さんはすぐに苦い笑みを浮かべて肩を竦めた。

「ま、確かにその通りだわ。ごめんね、暗い話しちゃって」

「別に話はその通りとは思うけれどもね。ご覧なさいよ、あんなに頑張って舞ってもらっている訳だし、多少は楽しみなさいな」

 舞台に視線を向けた穂香さんは青い目を細める。葦宮では殆ど見られない色彩が日光に少し色味を変える。

「奉納云々はさて置いても、中々見応えあるわ」

 朱雀隊の隊長補である穂香さんは金色に煌めく金髪を軽く払って、ふと視線を舞台からそれを見守る側、民衆の集まる方に向けた。風によって、ざわめきや屋台の物であろう食べ物の匂いが運ばれて来る。

「私たちもあっち側ならもっと楽しめたんだけれども、ね。食べ物くらい許してくれても良いじゃないのって思っちゃうわ」

「こっそり行ったら良いじゃないの、早川はやかわ。別に大目に見てくれるわよ」

「嫌よ、小言とか勘弁。それに、今梓もいないしね。朱雀隊が皆無なのは不味いでしょうよ」

 あれ、さっきまで。

 穂香さんの言葉に驚いてさっきまで常葉隊長と帯鉄隊長のいた場所を見れば、常葉隊長だけが何となくつまらなそうに奉納舞を眺めていた。帯鉄隊長と幼馴染みだという常葉隊長は、結構分かりやすく帯鉄隊長にぞっこんだ。付き合っているのかは定かではないけれども。

「御兄様に会いに行ったらしいわ。たまたま時間が取れそうだからって」

「帯鉄隊長のお兄さんって確か」

「そう、朝廷勤め。梓も詳しくは知らないって言っていたけれど、まあ、近衛のようなものでしょうよ」

「由緒正しい御家だからねぇ、帯鉄家も」

 にこにことこっちを見守っていた倉科隊長が相槌を打ち、永夜は何とも言い難い、複雑な顔で唸る。……まあ、同じく名家の出で勘当されたらそりゃあそうもなるのかな。

 祓衆において生粋の名家の出というのは案外少ないらしい。それこそ帯鉄隊長や永夜くらいなものだ、と聞く。常葉隊長とか倉科隊長も結構良い家の出って聞いたことはあるけれど、どうもこうした家はいわゆる成り上がりらしくて、またちょっと違うのだとか。まあこっちは純然たる農家の出だし、そうした人たちのことは皆凄い人たち、で括ってしまう。御家事情なんて以ての外だ。

「ま、あたしたちには遠い世界の話だわ」

「同感ね」

 桜樹広場中から拍手が沸き起こる。奉納舞が終わり、舞台上の紅白の衣装を纏った少女たちが一礼して降りていく。これから舞台上を次の、遍寧祭の最重要とも言える帝による祝詞の為に整えて、執り行うことになっている。その段になれば誰もが口を噤んで、静かに厳粛に執り行われる祭祀を見守ることになる。

 とは言っても準備に時間は必要だから、その間民衆は思い思いに屋台で食べ物を買って食べるし、私たちのような来賓には簡単な食事が給される。暫くご歓談をって訳だ。今更ながら、幾ら国を挙げての大祭とは言え、随分な大盤振る舞いと思わなくもなかったり。

 それにしても、と給された弁当を開けながらちらりと周りを見渡す。

 玄武隊の隊長、倉科雅と隊長補松尾幸慧。

 白虎隊隊長、初鹿凌児と隊長補である土生都羽女。

 今は不在ながらに朱雀隊の隊長、帯鉄梓と隊長補の早川穂香。

 そして青龍隊隊長にして最強格の常葉将宣と隊長補甘利深弦。ついでに青龍隊平隊員の片河永夜。

 会議もあるから皆無ってわけじゃあないけれど、祓衆の幹部たちが明るい中に集っているのは中々壮観だ。そして個性が強い、ような気もする。いや、部隊それぞれも結構特色あるし当然と思わなくもないけど。

 第一、祓衆幹部が一同に会すること自体、ちょっと不思議な話ではあるのだ。

 何時現れるかも分からない禍者を相手にする以上、祓衆は常に誰かは臨戦態勢にならなくてはならない。実戦部隊である朱雀隊や青龍隊は言うに及ばす、諜報、見張りも兼ねる白虎隊やあらゆる任務の補佐役も担う玄武隊も例外ではない。となれば必然的に隊長や隊長補も、最低どちらかは屯所にいなくてはならない。まあ早い話、幾ら国の大祭と言ってもこうして幹部が揃って屯所外にいること自体、普段ならば大問題なのだ。

 普段ならばというからには、勿論これは特例となる。

 五の月の遍寧祭、そして十一の月の礼実祭らいじつさいの間、禍者は現れない。

 その事実があるからこその、特例なのだ。無論、万一に備えて作戦は立てられ、多くの祓衆の隊員たちが桜鈴内には配置されている。おまけに最も人が集い、帝もおわす桜樹広場には腕の立つ幹部たち。万全を期していると言えばそうだけれども、不確定要素も多いのが現状ではあると思う。

「幸慧君」

 弁当を突いていた倉科隊長が、少しだけ声を潜めて言う。

「桜樹広場の南の入り口、見えるかなぁ」

「南ですか?」

 言われるがままそちらに目を向けてみる。人々と屋台、そして整備と警備の為に配置された警察――の中に見覚えのある、明るい色の髪。

「あ、仁野さんいますね」

「そうそう。一応、話はしてたからさ、言っとこうと思ってね。まぁこんな中で羽目を外し過ぎる狼藉者は、あんまりいないみたいだねぇ」

 流石に距離があって詳しくは分からないけど、成る程倉科隊長の言うように、仁野さんを始めとした警察の人たちに目立った動きはない。

「改史会も、静かみたいですね」

「そうだねぇ、何かしでかすかと思ってたけど、吃驚するくらい何にもない。……次の祝詞の際に、って言っても警備はうんと厳しくなるからねぇ」

「桜樹広場以外は大丈夫なんでしょうか」

 それこそ、桜樹広場を離れれば人目につかない場所ばかり――でもないか。口に出してしまって、思う。

「確かに警察はいないけれども、その代わりに我々がいる。面倒だと思うけどねぇ」

「そうですよね」

 万一に備えて配備された祓衆。幾ら対人組織でないとは言っても、彼らの前で悪事を働くのは困難だろう。

「拍子抜けと言うべきか、何事もなく良かったと言うべきか、判断に困るねぇ。正直、何か起こってくれた方が僕としては腑に落ちるし、安心する」

 皆は大変だろうけれどね。苦笑して、人々が慌ただしく動いている舞台に目を向ける。

「第一、こういう場所で言うのも何だけど、禍者が現れないのだって妙と言えば妙ではあるんだよねぇ。句々実神の御加護である、呪術により退けているのである、なんて人は言うけど僕はどうかと思うんだよ」

 弁当の白米をぺろりと平らげて、倉科隊長は眉根をひそめて笑う。たまにあることだ。倉科隊長は時に、先生や研究者のように振る舞う。

「確かに呪術の記録は歴史書に存在している。どのようにして、どのような人々が使ったか。存外に詳しく、あったものとして記されている。だけれどねぇ、その割に繁栄のその後、衰退の様子は一切何処にも書かれちゃいない。今は呪術なんてないのだから、衰退していったのは当たり前なのに。そういうものは、僕はちょっと信頼出来ないんだよねぇ」

「虚の記載、ですか?」

 倉科隊長の口癖のようなものだ。

「そう。一見はそう見えても、詰めが甘いと言えば良いのかなぁ。精巧な、けれども虚に僕には見えてしまった、という訳」

 まぁ神話の類は皆そうなんだけれどもねぇ、と苦笑。

「全否定はしないよ。野暮だからねぇ。ただ、僕はそう思うって話。だからこそ気になるんだよ。遍寧祭で禍者が現れない理由は何処にあるのだろう、とね」

 そう、倉科隊長が締め括った瞬間だった。

 ずん、と。

 地の底で、何かが、震えた、ような。

 はっとして、刀の柄に手を掛ける。辺りを見渡せば、隊長も隊長補も、全員が各々の武器を構えていた。

「地震、ではないみたいだね」

 冷静に常葉隊長が断じる。机に置かれた茶の水面は、静かに凪いでいる。

 慌てて民衆の方を向く。此処の面々のように戦闘態勢になっている訳ではないけれど、それでも誰もが不安そうにしているのが分かる。

 今のは一体。傍らの倉科隊長に問おうとした時だった。

 けたたましい鐘の音。

 何処からか。問うまでもない、余りに聞き慣れたその音。

 祓衆屯所、禍者の到来を告げる鐘が、鳴っていた。

 この日に鳴る筈のない、鳴ってはならない筈の、鐘が。





「二手に分かれよう」

 騒然とする桜樹広場。その来賓席で冷静に倉科隊長は言う。丸眼鏡の奥の瞳は、瞼の下に隠されている。

「桜樹広場は御覧の有様。万一此処に禍者が来た場合の対処が出来る人員は残しておきたい」

 目を開き、視線が臨戦態勢で待機している私たちに向けられる。

「常葉隊長、早川隊長補、土生隊長補、そして僕は桜樹広場にて禍者の警戒を行う。この面子なら、万一でも即座の殲滅が可能だろうからね」

 名指しされた人たちが、静かに頷く。

「甘利隊長補は混乱が予想される新型の現れた西の白秋びゃくしゅう門へ、片河君は同じく東の青春せいしゅん門へ応援へ向かってくれ。初鹿と幸慧君は屯所へ。部隊への指示を頼むよ。帯鉄隊長はこちらに戻り次第甘利隊長補と同じく激戦が予想される場所に向かってもらう」

「はい!」

「おう」

 腰に差した刀の柄を握り締める。屯所まで戻る。道中禍者がいれば、都度対処。大丈夫、やれる。そっと息を吐き出す。倉科隊長は、この状況でも微笑を浮かべてみせた。それが最適だから。きっと、倉科隊長は言うだろう。そうすることの出来ることがどれだけ凄いか、良く知っている。

「最後にもう一度確認するよ。現在確認されている禍者の出現箇所は全部で五ヶ所。西の白秋門、東の青春門、南の朱夏しゅか門付近、そして桜鈴南東、南西の角区画。全て桜鈴外周部と接触しており、桜樹広場及びその周辺への影響は今の所少ないと思われる。ただし、どれも十以上の群だ。特に門付近の群には複数の新型を確認している。制圧は不可能ではない。くれぐれも、油断をしないよう各員己の使命を果たしてくれ。――では、散開」

 いの一番に永夜が、次いで深弦さんが桜樹広場の出口目掛けて走り出す。幸慧もぐずぐずしてはいられない。腰の刀を確認しつつ同じ道を行くことになる初鹿隊長を見遣る。

「倉科」

「どうした」

「都羽女のこと、頼んだ」

「勿論」

 一瞬の言葉の応酬の後、初鹿隊長は白銀の髪を靡かせて走り出す。すぐにその後を追う。

「すまねェなゆきちゃん、遅れを取っちまって」

「いいえ。それよりも、良いんですか?」

「どっちの意味だい?」

 この程度の会話で息を切らすような軟な鍛え方はしていないつもりだ。周辺に注意を向けつつ、勿論足も止めないまま言葉を紡ぐ。……と言うか、どっちって言われても個人的な問題の方に首を突っ込むつもりはない。初鹿隊長が頼み、倉科隊長が了承した。それで終わった話だ。

「私に合わせていては、遅くなりませんか?」

「あァ? ……ゆきちゃんよォ、この俺を舐めてもらっちゃァ困る」

 器用に走りながら肩を竦めて初鹿隊長は笑みを見せる。

「うちの連中は優秀なのさァ。俺がいなくたって問題はねェよ。それに、万一もある。根っからの戦闘員じゃない俺らは複数人でいた方が何かと安心さァ……っと」

 全身を使って足を止める初鹿隊長。私も慌てて止まる。原因は分かっていた。桜鈴の南に位置する祓衆屯所へ通じる蘇芳大路。その中程。息を緩やかに整えながら気配を探る。ざらりとした、禍者特有の気配。

「どうやら、打ち止めって訳じゃァなかったようだなァ」

 刀を抜き、慎重に大路から西側の小路へ入る。初鹿隊長もいるとは言っても、こちらは二人だ。おまけに戦闘に特化している訳でもない。出来れば、奇襲して一息に。考えながら気配に近付く。小路を進み、角を曲がり、いよいよこの先に、という所で初鹿隊長が手を挙げる。足を止め、角から初鹿隊長が覗き込む。

「いねェな……」

 訝しげな声。二人して此処にいると思っていたから拍子抜けだ。

「しゃあねェな。ゆきちゃん、一旦屯所に向かうぞ。部下に探らせる」

 分かりました、と返事をしようとして咄嗟に言葉を呑み込む。気配だ。また、禍者の。慌てて初鹿隊長がまた覗き込む。その下から私もそっと見る。

 小路を曲がった向こうは、初鹿隊長の言うように何もない。

 いや、なかった。さっきまで。

 じわりと、地面から黒いものが滲んでいる。それは私たちの見ている前で少しずつ広がって、盛り上がって、形を取っていった。植物が芽吹き、生えていくみたいにも、見えた。悍ましい成長。初鹿隊長の小さな舌打ちが聞こえた。

「拙いもんになりやがったなァこいつァ……」

 地面から生えてきたそれは、紛うことなく禍者の姿をしていた。人型ではない。でも、初鹿隊長の言うように拙いものだった。

 禍者は姿を模す。新型が人の姿を模すように、それまでも禍者もまた、実在する生き物の姿を真似る。狼や牛、兎など、その種類は様々だ。そうした旧型の脅威度は、おおよそ実在の動物のそれに比例する。単純な話、凶暴な動物の姿をした禍者は厄介であるという訳だ。

 そして今、私たちの前に現れた禍者。

 初鹿隊長を優に見下ろす堂々たる巨躯に、太い四肢、鋭い鉤爪、如何にも固そうな被毛。頭部には丸い耳、そして禍者特有の真っ赤な目。

 間違いなく、それは熊だった。新型登場以前の旧型の内でも、随一の危険性を誇るもの。そして恐ろしいことに、それは、こちらを向いていた。

 ばれている。

 ひゅっと息を呑んだのと同時に、隣の初鹿隊長が駆け出した。弾けるような初動。腰からは二振りの合口あいくちを瞬き一つの間に抜き放つ。ほんの数歩の間合い。初鹿隊長にとってはないにも等しい距離。禍者の太い腕が振り下ろされる。ぞっとするような風切音。それを一歩で躱し、駆け抜けざまに匕首を脇腹目掛けて振るう。

「くそ!」

 悪態。咄嗟に私も駆け出し、初鹿隊長へ伸ばされようとしていた禍者の腕を刀で受け流す。手首に痛み。なんて膂力。

「ゆきちゃん、離れなァ!」

「は、はい!」

 飛び離れ、距離を取る。

「これはそれこそ常葉の野郎や甘利向けの相手だぜ。力でどうにかってのは俺のやり方じゃねェ」

 合口を収めて初鹿隊長が吐き捨てる。全くの同意だ。手数と機動性で優位を取る。それが初鹿隊長の戦い方だ。殲滅には向くけど、こうした大きな単体との相性は悪い。

 では、どうするべきか。

 息を深く吸い、吐き出す。

「初鹿隊長、応援頼めますか」

 刀身をざっと確認する。刃こぼれはしていない。なら、大丈夫。まだ行ける。

「倒せはしませんが、時間は稼げると思います。その間に、増援をお願いします」

「ゆきちゃん」

「腕っ節はからっきしですが、これでも技術は高く評価されていたんですよ? 市吾や永夜にだって負けません」

 口の端を引き上げる。笑っている、ように見えれば良いけれど。

「隊長の方が、より早く増援を呼べます。その間を繋ぐだけです。大丈夫、やれます」

 判断は一瞬。

「……死ぬなよ、ゆきちゃん」

 何時もとは違う真剣な表情で言葉を落とし、初鹿隊長は踵を返す。飛ぶような疾駆。禍者も手を出せず、瞬く間に離れて行く。走ることで初鹿隊長に敵う者はいない。位置からして、恐らく、増援が来るとしたら朱夏門からだろう。きっと、そこに初鹿隊長は向かった筈だ。

 それまで、自分はこの禍者と対峙し続けなくてはならない。決して、この場から逃がしてはならない。

 それが、今の使命だ。

 もう一度、刀を見る。無銘の、量産された安価な一振り。刀としては無論、十分な能力を有してはいるけれど、所詮は無銘刀。帯鉄隊長の散華や常葉隊長の白布津しらふつ、倉科隊長の螺鈿草子らでんそうしのような名刀、業物には遠く及ばない。まして、相手は恐るべき膂力の持ち主。まともに受け止めれば、ただでは済まない。自分の身体だって、どうなるか。

 目を引き、立ち回り、受け流す。決して、まともにぶつかり合わない。

 単純に考える。大丈夫、やれる。毎日、鍛錬は欠かさなかった。前線には長く立っていないが、腕は鈍っていない。信じる。信じてやらないといけない。

 己の使命を果たす為に。

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