9話 月下世界旅行

 十夜と、彼女の手を引く裁判所の入り口に居た女性──華に付いて、私と市井は裁判所の留置所へ続く地下へと階段を下っていた。がたがたとした敷石の螺旋階段は、ちょっと気を抜くと踏み外しそう。それに、入り口から響いていたきいきいという高い音が、降りるたびに少しずつ大きくなっている。不安で仕方ない私の前で、華に手引かれた十夜は、弾んだ声で華とおしゃべりしながら階段を降りていく。さっきの冷たい声が嘘みたいなその様子に、私は市井の顔を見るけれど、市井は私の顔をちら、と見返しただけでうんともすんとも言わない。変じゃない、こんなの。


「盲人にはしるべが必要でしてよ」


 突然前からしたその声は私に向けられていて、その声を発したのは十夜その人に違いなかった。振り返った十夜は、その虚ろな目で私の後ろの石壁を見つめている。真っ暗な螺旋階段を照らす仄かなランタンの明かりが、またやっぱり口元だけで笑う十夜のその顔をぼうっと浮かび上がらせていた。きいきいという不気味な音が、壁の隙間からどんどん大きくなっている。私がぞっとして身をすくませるのを待たずに、十夜はまたくるりと前を向いてしまってから、嬉しそうに華に手を引かれ、再び下り出した。


「あの女にはなんでもお見通しだ」

 と市井はぼそりと私に耳打ちする。

「目が見えないんでしょう、きっと……」

 私が同じように小声でそう返すと、市井は

「案外『見えて』いるのかもな」

 なんて言って。

「いくらお喋りしたって構いませんわ。きちんと保釈金を持っていらっしゃるならね」

 最後の段差を弾むように降りて、十夜は少し進んだところでこちらにくるりと向き直った。お見通し、というよりきっと地獄耳。

「五十万、きちんとこいつが都合した」

 と、市井が親指で指すのは、この私だった。

「まあ、じゃああれは、その子の番犬ってことですのね」

「そうだ」

「お優しいこと」

 十夜はわざとらしく口元に手を当てているし、市井の横顔も揺らがないけれど、私はまた置いてけぼりだ。

「そうなの……?」

「大体そんなもんだ」

 市井はまた歩き出した十夜たちに付いて、行く先に伸びる薄暗い廊下を歩き出す。

「ひと月ほど前からどうも金が工面できなくてな。あいつのことは心配もしていないし、正直少し忘れてたな」


 と、市井が開き直ったみたいに、悪びれもしないで零すのを聞いて私は呆れてしまった。やっぱり高い着物を着ている私を利用したんじゃない。でも、散々助けてもらっているから、文句は言えないのかも。なんて私がもやもや考えていると、十夜の小さな声が


「そうね、番犬が付いていた方がいいものね、『このご時世』」


 と聞こえた。そのとき、ずっと聞こえていたあの高い音がひときわ大きくなって私の頭にきいんと響く。頭を揺るがすような、聞いていて気持ちの悪い音。その音が女の人の金切声だったって気づいて、私の背中はぞわぞわと震え上がった。


「うるさいったらありませんわ。あの売女ったら、いやあね」


 十夜たちの後ろに付いて角を曲がると、そこは両側に鈍い鉄格子の並ぶ地下牢だった。その地下牢の奥からあの女の人の声が、波のように強まったり弱まったりしながら響いてくる。その声は、何かの言葉を発しているようでいて、でもやっぱり言葉ではないのだった。十夜から隠れてそっと耳を塞ごうとする私を、市井が小突いて、あの女の話をよく聞いておけ、と叱る。こいつって、人のことばっかり口出しして。


「早いところここを出てしまいましょう。もうじき零時を回りますもの。生憎、わたくしたちにも時間がありませんの」

 華、と十夜が呼びつけると、華はコートに入っているスリットから覗いていた鍵束を取り上げて、一つ先の牢屋へと歩いていく。

「感動のご対面でしょう」


 と皮肉っぽく笑う十夜の前を、私は市井にくっついて牢屋の方へと歩いていく。がちゃがちゃと音を立てながら鍵を外している華の横に置かれたランタンが、牢屋の一番奥に座り込んだ人影をぼんやりと照らしている。


「遅くなったな」

 という市井の言葉に、壁にもたれて寝ていたように見えたその人影は、がばっと頭を上げた──けれど、その頭にはなぜか麻袋が被せてある。

 私のびっくりした声を聞いたらしく、華は、

「あんまりに哀れっぽいもので、見るに耐えなくて……」


 と、居心地悪そうに答えた。それから、がちゃんと鍵が外れる音がした。軋む鉄格子の扉を開き、華は牢屋の中の人影へと近づいていく。廊下の奥から聴こえてくる女の悲鳴と、目の前にいる麻袋の人影が動くときに聞こえる、じゃらじゃらとした鎖の音。華に引きずられるようにして、牢屋の外へと這うみたいに出て来たその人は、後ろ手にとびっきり頑丈そうな手錠と足枷まではめられていた。その足枷も、冗談みたいに重そう。それから華は、さっきからのおどおどとした物腰に反して、その人の頭から案外荒っぽく麻袋を引っぺがした。


 麻袋に鼻先をひっかかれて痛そうに目をつむっているのは、私とそう年の変わらない黒髪の少年……いや、青年っていうのかな、そういう感じの男の子だった。男の子、でもないかもしれない。


「まもる」


 と市井に名前を呼ばれて、その男の子はぼさぼさの前髪の下で、そのつり目がちな幼い目元をぱっと見開いた。それからはっとして、今度は安堵したように、でも泣きそうに市井の顔を認めて微笑んでみせる。十夜が私に向けるのとは違う、ほんとうの笑顔。


「早速で悪いが、」

 という市井の言葉に、「まもる」はすぐさま、しゃきり、と姿勢を正した。私は、さっきの「番犬」という言葉をこっそり思い出す。

「俺はこいつに借りがあってな」

 それから市井は、背中に隠れていた私を乱暴にずい、と彼の前に引き出す。きょとんとした紫色の目が、私の目と真っ直ぐに合う。

「しばらく、こいつに付いていてやって欲しい。『死んじまわないように』、な」

 まもるが眉をひそめて見返した市井の顔は、私には見えないけれど、深刻なものに違いなさそうだった。

「こいつは昨日ここに来たばかりだ。本当は部外者のはずだった……が、北崎に、『巻き込まれた』」

 市井の顔を見ていたまもるは息を飲み、私の顔にぱっと目を移す。

「『お前と同じ』だ」

 市井のその言葉に今度は私が目を見開く。「同じ」……。

「このままでは、こいつは何も知らないままここの悪徳に圧殺されることになる」

 振り返った私の方には見向きもせずに、市井はまもるのことをはっきりと見つめている。

「お前は、そういうのだけは、見過ごせない人間だろう」


 そうやって諭すように語りかける市井の声音は、やっぱり父さんに似ていた。そのまなざしを受けたまもるは、決意じみた顔つきで市井の顔をまっすぐに見返している。誠実で、真面目なひと。


 そうしておいてから、市井は自分の胸の内ポケットから例の五十万を取り出して、それをほい、と私に渡す。きょとんとしたまま受け取ってしまった私に、お前の金だろう、と市井は今更当たり前のことを言う。


「俺は早急にここを出なきゃならなくなった。みなみのところに早く帰った方がいいらしい」

 その切れ長の目は、ちらり、と十夜たちの様子を伺った。

「これをそこの黒服に渡すかどうかはお前が決めろ」

「え、なんで」

 戸惑う私を、誰よりも正しいその金色の目が射抜くように見つめる。

「言ったろう。最後に善人と悪人を見極めるのは、『お前のその目』だと」

「でも」

「お前なら間違えはしないだろうさ。お前の目は、ひとを愛せる人間の目なんだからな」


 え、と喉を詰まらせる私のことを放っておいて、市井はそれ以上はもう脇目も振らず、さっさと突き当たりを曲がって地下牢から出て行ってしまった。そのとき私は、ずっと聴こえていたはずの女の叫び声が止まっているのに気づいた。私が目をやった地下牢の奥から、華がゆっくりとこちらに歩いてくる。


「さて、『ひとでなしさん』」

 不意に聴こえた声に振り返ると、十夜がにこり、と笑っている。つまり、笑っていないってことなんだけど。

「さっきも言った通り、わたくしたちね、忙しいんです。だから、早くそのはした金を寄越していただきたいの」

 十夜のその言葉に、華が私の前へやって来る。

「……まだ、私、この人に保釈金を払うこと、決めたわけじゃありません」

 私は札束をぎゅっと握りしめる。お金が大切なんだっていうんじゃないわ。でも。すると、十夜はほう、と口を開く。

「あら、それなら貴女、ここからひとりで安全なところまで逃げられるっていうの?」

「それは……」

 十夜のもっともな言葉に声を詰まらせる私の前で、十夜は可笑しそうに口元を覆って笑い出した。

「あの男は最初から貴女に決断させる気などないのよ。お節介を焼くだけ。善意でもってね」

 十夜は私のことなんて見ていない。その視線は、私のいない地下牢の暗がりを漂うだけなんだ。

「どうしてあの男に従う者がいるのか、甚だ疑問ですの」


 その言葉に、まもるの手足の鎖が音を立てる。彼の目は、ぎっと見開かれて十夜に向けられていた。その番犬じみた視線に、華が十夜を庇うようにして手を伸ばす。十夜はそんな華にさっと寄り添った。この人、ほんとうは目が見えているんじゃないのかしら。


「それに、貴女が『知っていた』よりもずっと、今この街は危なくなっていてよ」

 十夜は寄り添った華の腕に抱きついて見せた。

「『知っていた』って……?」

 十夜は私の問いかけにはまともに取り合わず、うふ、とかわいこぶって小首を傾げる。可愛くない。

「ああでも、貴女にも選ぶ権利というのはありますわね。素晴らしいことに」

 華の腕から離れた十夜は、その腕を私に向けて真っ直ぐに差し出す。見開かれた、その虚ろの瞳。

「ですから、早くお決めになって? そこらで死ぬか、もう少し遠くで死ぬか」


 私を見ているのか見ていないのか区別のつかない十夜のその瞳は、やっぱり私には恐ろしくて堪らない。でも、私はもう、こんなことで身をすくめてはいられないんだ。私は胸いっぱいに息を吸い込む。地下牢の湿ってかび臭い空気だって、構わない。手を伸ばしてくる華から逃れるように、私は不安げな様子で座ったままのまもるに向き直る。


 きっと、最初から私がどちらを選ぶかは決まってた。私は、残された方を押し付けられたんじゃない。最初から、こちらを選ぶことになっていた。ただ、「私の」その「選択」に、私自身が納得すればいいだけ。


 私は、立ったままの自分が、気づかないうちに彼のことを見下ろしてしまっているのに気がついた。そうだ、こういうときは。それから私は彼を怖がらせないように、ゆっくりとしゃがんで、地下牢のごつごつした石畳の上に膝をついた。


「私、わたしね」

 いちど目を閉じる。その瞼の裏に浮かぶのは、やっぱり差し出された母さんの手だ。目を開く。そう、私は。

「生きなくちゃいけないの」

 私のその言葉に、見開かれた衛の目の中で、まん丸な瞳がきら、と、鏡のように一つ輝いた。彼は、ぎゅ、と唇を噛み締める。

「私を、」

 ゆっくりと息を吸う。

「私のことを、守ってくれる?」

 そう問いかける私の顔をまっすぐと見つめていた後で、彼は、私に伝わるようにと思いを込めて、こくりとひとつ、確かに頷いた。


***


 見えていたはずのヤギ頭は、ふら、と揺らめいた後に真っ暗な路地裏を捉えた俺の視界から、幻のように消え去った。だが、決して消えないのはびりりとした空気の震え。あのヤギは、悪魔は、まだ。そのとき俺は、脳天を錐で突かれるような痛みを覚えた。


 勝手に動いた足。振り向きざまに抜き出された俺の日本刀は、確かに「何か」を斬り裂いた。いや、かすっただけか。俺に振り抜かれた刃先で赤くしたたる血でもってその皮を汚すのは、先ほどのヤギ頭だった。黒服に身を包んだ、俺よりも少し背が低いか。男。奴はまだ体勢を立て直せてない。あと半歩も踏み込めば、俺の刃先はこいつの心臓に、届く。


 思い通りに踏み込んだ俺の、上段から叩き込まれた日本刀を受け止める、サバイバルナイフ──どこかで見たな──と思った時には、ヤギの頭は再びかき消え、腰ごと相手へと踏み込んでいた俺はよろめいて、視界がぐらりと揺らいだ。でも。

 よろめいたまま左手を突いた俺が、地面スレスレに振り回した刀の弧は、「やはり」何かに「引っかかった」──当たりだ。

 俺に足を切られて後ろへ跳び退り、地に手を突いた異形の人影を認めて、俺は高揚を覚えた。

「後ろをとってばかりじゃ芸がないぜ。面白いのは格好だけか?」

 まあ俺は、今この状況を楽しんでいるわけだ。うずくまったままのヤギ頭は、俺に向かって尚、ナイフを構え直す。殊勝なことだ。いや、健気っていうのか?


 俺は今、自分でも理由をつけられないほどの、全能感に満たされている。当たる、当たるんだ。俺の……なんだ、「勘」ってやつなのか。俺がこいつに負けることは、『ありえない』。狩人が俺で、このヤギは狩られるための家畜。俺に、狩られるための。ゆっくりと距離を詰めていく俺に、ヤギ頭は立ち上がらずうずくまったままだ。さっき足に受けた傷はそんなに深かったか? 足りなかったように思ったが。いや、違う。こいつは俺に殺されるのを待ってるんじゃない。だって、さっきから止まることを知らないのは。


「悪いけど俺、『わかる』んだよなあ」

 ヤギ頭は、「やはり」俺の目の前から姿を消した。そして、再び現れたときには、俺の顔には、ナイフを振り上げた異形の影が落ちていて。だが、俺はそれも、「知って」いた。

「つっかまえたぁ!」

 俺が振り上げた切っ先は、その影の右腕を吹き飛ばした。よろめくヤギ頭。

「人に会うときはなぁ、」

 俺は一度低くした体制から一気に刀を、その不気味な頭部に向けて思い切り突き上げる。

「帽子を取れっつーんだよ!」


 その不気味なヤギの皮っつらを切っ先に引っ掛ける。ああ、この間からそうだ。俺の握る刃がこうして相手を害すとき、心臓がだくだくと熱く燃えるのを感じるんだ。なんていう快感。ああ、やっぱり、俺は、人を殺してはじめて──。


 獲物は皮を剥がれて、その不気味な頭がべしゃりと音を立てて足元に落ちた頃には、全く表情を持たない仮面のような男の顔がこちらを。あかい、紅い、くれないの目。はっきりと俺を見たその目は。


 瞬間、そこにはもう誰もいなかった。初めから何も無かったのかのようだ。けれど、そこには例のヤギ頭と、奴の残した血だまりが確かに遺されていた。そして、それと同じものが、俺のコートにも、べったりと。自然、俺の舌が乾いた音を立てる。


「逃がした」

 あの野郎、もう気配もない。


***


 手足の枷を解かれたまもるは、私の横に立ち上がる。座っていたからわからなかったけれど、私よりもやっぱり背が高い。子供っぽい顔をしているのに。私の視線に、まもるはきょとんとした後、微笑んでみせる。私がなんだか居心地が悪くて目をそらすと、華は私から受け取った札束を入念に数え直しているのが目に入る。ここのひとたちって皆、お金を数えるのに慣れているのかしら。


「確かに」

 と、華が私に一礼すると、十夜は華に、何時? と声をかけた。華は、零時を回っております。と短く返す。

「貴女たちのせいで遅れてしまったわ。早く出て行ってくださる? ここを締めてしまわなければなりませんの」


 さっきから自分勝手なことばかり言っている十夜に私は声を上げようとしたけれど、私は自分の声を詰まらせてしまった。まもるが私の手を引いて歩き出してしまったのだ。まともに手をしっかりと握られてびっくりした私は、まもるに引きずられるようにして地下牢の出口へと向かっていた。ちょっと振り返ったまもるは、何も言わないまま、私の目をしっかりと見つめて頷く。大丈夫、任せて、って言うみたいに。そんな顔をされたら、喚き声をあげるほうが利口じゃないみたいだわ。口をつぐんでしまった私の背中に、突き当たりを曲がる寸前、そうだわ、と十夜の声が届く。


「ねえ、わたくし、貴女にお聞きしたいことがありましたの」

 足を止めた私たちの視線の先で揺れる、長い髪。

「高峯にはもう会ったでしょう。あのひとのこと」

 高峯の名前に、私は身震いした。その震えが伝わったみたいで、まもるは私にぱっと目をやる。「ひとさらい」と私を罵った、あのおそろしい女のひと……。

「あれは、貴女には一体何に見えました?」

 十夜の思いがけない質問に、私は、え、とかっこのつかない声をあげてしまう。

「何、って言うと……」

「何かに似ているとは、お思いにならなかったの?」

 十夜の声はずっとずっと、冷たいんだ。音のなくなった地下牢に、その声はますます冷ややかに、正確に、響き渡る。

「母さん……」

 私の喉から出たのは、愛おしい響きだった。

「母親に似ていると、思いました」

 そう言い直した私は、それをほんとうの私の答えだと思った。そう、私はあのひとに両手で顔を包まれて、まるで母さんみたいだと思ったんだ。あの、優しい目元を。

「そぉ」

 私の答えを聞いた十夜は、目を細めて、なんとも言えない顔をした。笑っているのかな。いや、笑っている、と思わせたい顔なんだ、きっと。十夜はひとつ、息を吐く。

「正しいことを申し上げておきましょうか」


 それから十夜は「正しい」と小さく繰り返した。彼女は一度顔を俯かせる。しっかりとしたその眼差しは、やっぱり笑っては……いや、笑ってはいるんだ。でも、きっとそれはひとを嘲り笑う、胸をざわつかせるような、そんな。


「あれは、『母親』ではなくってよ」

 十夜の声は、ぴいんと張り詰めた地下牢に怖いくらいによく通る。

「『ひとでなし』も『ひとでなし』」

 びくりと跳ねる私の手を、まもるの手が握り返す。

「母親なんていうよりも、もっと生々しいもの」


 華は、声を発し続ける十夜の横で、関心のなさそうなその顔を背けている。十夜には、彼女のその顔は、見えていないのかしら。やっぱりその虚ろな十夜の目は、見当違いに私たちふたりの足元を見たままで。


「ここではあれを皆、『胎』と呼びますの」


***


 表通りの人間が皆、俺を避けていく。俺にぶつかった冴えない男も、俺の顔を見返してから、ぎょっとしたように二歩、三歩と俺を避けていく。血を浴びすぎたかな。だが悪くないな、これも。


 華屋の門戸をくぐり、俺が当然として堂々と洋間に踏み入ると、茜の華奢な背中が見えた。枇杷が目ざとく俺を見つけて、きら、とその好奇の目が意地悪く輝く。それから俺が茜の肩に「手」を置くと、茜はなんてこともなしに振り返ろうとしたはず、だったんだろうな。


「ばあ」

 ひっ、と息を飲んだ茜は、自分の肩にかかった手を、腕を、思わずといった様子で反射的に弾き飛ばした。そしてその「腕」は、ごろりと絨毯の上に転がっちまった。

「そんなにびっくりすんなよ」


 俺がヤギの皮を頭から脱ぎ捨てると、茜は安堵したように目を見開いてから、やっぱり頭にきたと思い返したかのように、じろ、とその朱色の目元を歪めて俺を睨む。かわいいもんだ。


「真木は?」

「ああ、途中で別れちゃったんだ。そしたら襲われて」

 と、茜に返す俺たちの会話に、少年のような声が割り込む。

「ねえ、それって誰の腕なの?」


 うきうきとした様子の枇杷は、自分の肘掛け椅子から身を乗り出す。子供みたいな柔和な顔をしておいて、こいつは案外血の気が多い。嫌な奴だが、案外俺と気があうのかもしれない。


「名前は知らないけど、昨日の広場で見た奴だった。北崎の仲間だよ。なんだっけなー俺も名前、聞いたはずなんだけど」

 俺が能天気にくるくるとヤギの頭を回している横で、茜はびくり、とその肩を震わせる。肘掛け椅子の上で膝を抱えた枇杷は、じゃあ、と笑う。

「こいつらの話はほんとうなんだね」


 枇杷の視線に吊られて俺も横に目を向けると、空いていた俺の椅子と真木の椅子を、娼婦でも用心棒でもない奴らが占領している。その姿が目に入った途端、俺の喉は俺自身の判断を待つ前に鳴った。


「よお、『斬られ役』じゃん」


 俺のことをぎろ、と見返す吊り上がった吉見の目元は、しかし次の瞬間には愛想よく、にこりと笑った。俺と同じくらいにしつこく耳元を貫く奴のピアスが、ランプの明かりを受けてきらめいている。


「よせよ、今は休戦中どころか、仲間なんだぜ。もちろん、こいつも」


 そうして兄貴の方が顎で示した妹も、俺の方をじろと見ていた。兄貴と違って、俺に対して全く警戒を解く素ぶりを見せないこいつは、女のくせに愛想がない。欠陥品だな。ああ、茜みたいに綺麗な女だったら愛想があろうがなかろうが、話は別だけど。


「で、『こいつらの話』ってのは……?」

「『勅令』だってよ」

 俺の質問に答えたのは吉見の兄貴のほうだった。

「裁判所直々だ」

 裁判所、と俺が口の中で繰り返すのを聞いて、枇杷は、ああそうか、と声を上げる。

「『間引き』のことも、知らないんだっけ」

 きょろり、とその黒目がちな目が、俺の顔を覗き込む。その横で、椿がわざとらしく大きなため息を吐いた。

「ぜーんぶ一から説明しなきゃいけないなんて、ほんっとめんどくさーい」

「まあ、そう言わずにさあ、椿ちゃん、手取り足取り、ってね?」

 と、おどけた様子で声をかける吉見の兄に、椿は一瞥くれてやってから、

「あんたに話しかけてない」

 と、ぴしゃりと言い放つ。

「増えすぎた『役者』を減らすんだよ。それが間引き」

 そう言った枇杷の瞳は、性根の悪そうに歪む。

「さっき中央広場に勅令の紙が貼り出されているのを俺たちが見た。『本日零時から』らしいぜ。しかし……どうしてこうもとっちらかってやがる」

 そう言って吉見は頭を掻く。

「あの『つぐ』って娘の心臓のことに、『間引き』……それにもう満月だ……目白押しってか」

「嘘言ってんじゃないでしょうねえ」

 吉見の言葉に対して妙にとげのある言い方をする椿に、兄の方は肩をすくめた。

「現にこいつが北崎の部下に襲われたんだろ。それが証拠だって」


 こいつらはどうにも説明が下手すぎる。頼むぜ、単純明快に。そう思いを込めながら茜の美しい横顔を見やると、茜はやはり、きり、とその儚い朱色で俺のことを見返した。


「増えすぎた『ひとでなし』を殺し合わせることが裁判所の狙い。ひとでなしの首を持っていくと、裁判所のあの女が買い取ってくれるの。それが、『間引き』」

 殺しあわせる。俺は生唾を飲み込んだ。なんだ、その楽しそうな響きは。

「八手を狙ったってことはさ、きっと新入りから狩ろうっていうんだろうね。じゃあ、例の『新入りさん』も危ないかなあ」

 捕まえる前に死んじゃうかもね、と枇杷は、はにかむ。

「手間が省けていいんじゃない?」

 と、椿はまたかったるそうに声を上げる。

「まだ異能がわからないんだから、殺すべきじゃないでしょ。利用できるかもしれない」

「茜って案外真面目よねえ」


 なんて、くだらないやりとりを続ける茜たちの前で、そのとき俺は、何か違和感を覚えていた。さっきのヤギ頭と向き合ったときのびりりとしたあの感覚じゃない、何か、さっきのとは違う、気持ちの悪いつっかえが、俺の胸を騒がせていた。なんだ? 俺は何に引っかかってる?


***


「見つけたわ。罪人の、娘」

 きらり、と輝く白い刃。路地裏で立ちすくむ私に降り掛かるのは、女の冷たいまなざしだった。

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