8話 めをひらき、からをぬぎ
一体何度走ることになるんだろう、私。
表通りに飛び出したは良いものの、どこに行けばいいかもわからない。遠く、華屋から離れて、遠くへ。とにかく市井のところに行こう。私には今、あのひとたちしか、頼る人がいない……。
私はとにかく人混みを縫って通りを抜け出していく。何度も何度も知らないひとにぶつかって、さっきの高峯の声が頭にきんきんして、ヤツデの日本刀がぎらぎら光るのを思い出して、頭が焼けるみたいで。視界がぼうっとする。でも、足を止めては駄目。誰か、誰か私を。
「おい」
ふっと目を上げると、路地の中に見知った人影がある。ネオンの光に身体の半分を照らされて、こちらに手を伸ばす、その人。私は引き寄せられるように、路地へと向かっていた。
「父さん……」
「俺はお前の父親じゃないぞ」
瞬きをすると、私は路地にいて、私の目の前に立っていたのは市井だった。びっくりしたはずだったのだけど、私の胸に訪れたのは、どうしてだろう、わからないけれど、安堵感だった。そっか。父さんは死んだんだ。
「何があった」
市井は私の肩を掴む。その指の痛さに私はますます目が覚めたような気になって、目にはじわ、と勝手に涙が滲んだ。すると、市井はやっぱり露骨にめんどくさそうな顔をする。
「泣くな、泣くなよ……鍵はどうした……?」
「わ、かんないわ……鍵を貰えなかったどころか、私、刀を……」
「刀を……?」
それから市井は眉根をぎゅっと寄せる。
「刀を、向けられたの。私が、『盗人』だって……あのひと、」
そこまで言ってから、市井に会って安心していた私は、自分の顔が青ざめるのを感じた。
「そう、わたし、あのひとたちから逃げなくちゃいけないの、おねがい、私のこと、守って、おねがい、わたし、生きなくちゃ……生きなくちゃいけないの、父さんと母さんが……」
そこまで言った私は、市井がものすごく困った顔をしているのに気づいた。市井はまた、昨日と同じように私の前にしゃがんでみせる。
「頼むから落ち着いてくれ。大丈夫だ。……とにかく、早くここから離れたほうがいいらしいな」
私がなんとかこくりとひとつ頷くと、市井は立ち上がって、その路地の奥へと歩き出す。
「表通りは目立つからな、こっちから行くぞ」
それから急ぎ足で市井の後をしばらく歩いていると、私の気持ちは落ち着いてきて、私は市井に投げかけられた言葉にちゃんと答えられるようになっていた。
「そんで、高峯になぜか『盗人』呼ばわりされて、『鍵』を渡してもらえなかったばかりか、刀を向けられた、と……」
市井が私の言ったことをそうやって整理するのを聞きながら私は、裏通りがやたらと湿っぽくてかび臭いのに気づけるくらい、自分の気がしっかりしているのに気づいた。
「しかし、妙だな……なぜ『盗人』なんて……」
「私にもわかんない……そもそもこの街のこと、全然わかんないわ。……変な人ばっかり……そうよ、高峯だけじゃないわ、他のやつにも殺されそうになったの!」
「『他のやつ』?」
先を歩いていた市井は、怪訝そうな顔で私を振り返る。
「男の人……待って、名前を思い出すから……」
私がそれからうんうんとうなっていると、市井は口を開く。
「『マキ』か? 赤髪の男だ」
「違う……違うわ……さっき聞いたばかりなのに……」
それから私は、さっき私に振り上げられた白い刀の弧と、その奥から私を射抜くような、爛々とした目を思い出した。けものみたいな顔をしたその口が、私の記憶の中でぐわりと開いてみせる。
「『ヤツデ』……そう、ヤツデって名前だわ! ほんとに、あのひと、けものみたいだったの!」
私がそう言うのを聞いて、市井は何か思い当たった顔をした。
「『ヤツデ』……聞いた名だ。……もっぱら華屋の新しい『狂犬』だってな。俺の知り合いも二度ほど斬られてる」
「知り合い」が「二度」「斬られ」たなんていう、よくわからないことをさらっと話してみせた市井に、私はいっそ呆れるしかない。けれど、あの「ヤツデ」ならやりそうなこと、とも……。やっぱりあれは、頭のおかしい人なんだわ。それから私は、さっき見かけたもうひとりのことを思い出していた。あの、朱色の目と、白い花。
「そういえば、『花』が……」
と私が言いかけたとき、市井が急に足を止めた。
「女連れて散歩か? いいご身分だな」
空から声が降ってきた、と私が見上げたときには、ひとつの影が、およそ人間とは思えないような動きで身を翻して、私たち二人の前に靴音を立てて降り立った。そこからぐらりと首をもたげたのは、白い月の光の下で鈍く輝く、色素の薄いグレーの頭。その顔の中でつり上がった男の目は、ぎり、とこちらを見つめて不気味に笑っている。私がびっくりして思わず一歩下がったときには、私の耳は確かにもうひとつの靴音を聞いていた。振り返ると、私たちふたりの後ろには、男とそっくり同じ髪色に同じくらい目つきの悪い女が、やっぱりぎろりと睨むようにしてこちらを見つめ立ちはだかっている。……挟み撃ち。私が思わず市井の腕にしがみつくと、市井は、はあ、とひとつため息を吐いた。
「何の用だよ」
「つめたいなお前! いい話を持って来てやったのに」
男は案外ひょうきんそうな声を上げて首を傾げてみせる。それを聞いた市井はうんざりとした顔で頭を振った。
「お前の持ってくる、『いい』話ってのはな、『俺』にとって『いい』話じゃねえ。『お前』にとって都合の『いい』話だろうが」
「いや、違うね、『俺』にとっても、『お前』にとっても『いい』話だ。いつだってそうだろ? 俺たち、お互いに利益的な関係、ってやつだ」
それから男は、市井の呆れた顔を指差した。
「……ね、知り合いなの?」
と私が、どうやら敵ではないらしい男の顔と、市井の顔を見比べながら聞くと、市井ではなくて男のほうが、
「知り合いなんて他人行儀なのじゃねえよ。友達だ、『ダチ』っていうやつ」
と笑って見せる。
「他人だし知り合いレベルだ」
と市井がぼそりと呟いたのを聞いて、男はああー? と不満そうな声を上げる。それから肩をゆすって一息吐いたところで、男はお芝居の道化役みたいな仕草で手を動かしながら話し始める。
「まあね、こいつ、いつもこういうツレない感じだから? 俺はその辺よぉくわかってるし、俺にはね、こいつの愛がちゃんと伝わってるってわけよ」
「気色悪い」
市井の言葉を聞き流して、男は私のほうに、茶目っ気のある八重歯の目立つ口を開く。
「こいつと付き合うってんなら、あんたも苦労すると思うけど……」
と、そこまで言って、男は一転して、ぐぐ、と眉根を寄せた。
「あんた、どっかで見たことあるな」
「昨日」
ふっと投げられた声に振り返ると、女が──いや、女っていうより、よく見たらまだ女の子、って感じのその子が──私のことをじろ、と見ている。
「あんた、広場にいたね」
「ああー!」
と声を上げたのは男の方で、私はまた忙しなく首を動かす。振り返ったときには、大口を開けた男が私のことをばっちりと指差していた。
「そうだ! お前、そうじゃん!」
それからあんぐりと口を開けたまま固まっていた後で、男の顔からふっと力が抜けて、その腕はだらりと下がった。それから男はわざとらしいくらい大きくため息を吐いた。
「ひでえもんだ……」
それから男はうつむいて、なんでこんな子供が、と苦笑してみせた。それから思い切ったようにまた顔を上げて、私に向かって馬鹿みたいに笑ってみせる。
「あー、神聖なる悪人の掃き溜めへようこそ! ここにはな、悪い奴しかいないんだぜ」
それから男はおちゃらけた様子で歯をむき出して、両手の指先を丸めて、空を引っ掻くような仕草をしてみせる。それからその丸めた手をパッと開いてしまってひらひらと顔の横で振った。
「まあひとでなしになったってなあ、この街に住まなきゃなんねーくらいで、前より体だって軽くなったし、娯楽だってあるし、それなりに楽しいわけで、あー……、そうだ、俺らもなんとか生きてるし、やってけねえこたないぜ!」
男はそれからまた、に、とあの八重歯をむき出して笑ってみせる。それからぽかんとした私の顔を見て、なんだか落ち着かない様子で肩を揺らす。それを見て、ひとつ息を吐いた市井が口を開いた。
「で、俺に何の話がある? 暇じゃないんだ、こちとら」
「ああ、そうだった」
ほんとうに自分の用事を忘れていたみたいで、男はすっとんきょうな声を上げる。それからまた、にや、と口元を歪めてみせた。男のグレーの髪には、さっきと同じように真っ白な月の光が差していて。
「満月が近い。ぼちぼち『とりもの』が来るぜ」
聞きなれない言葉に私が唇をつんと尖らせると、市井はああ、とうんざりしたような声を漏らした。
「俺は、今回はパス」
「はぁ~?」
市井のすっぱりした答えに、男は大げさなくらいに声を上げる。
「何だよお前! どこまでツレないんだよ」
「忙しいんだよ」
それから市井は私のほうを顎でぐいっと指した。
「来るとしたら明日か、明後日かってそのくらいだろ。正直俺は今手一杯なんだ」
口をへの字にしてそこまで聞いていた男は、ふっ、と鼻から息を吐いて、大きく口を開けたまま頭を後ろに反らした。
「あーそう、そうか、そんならわかった。今回はかなり勝算があったから誘ってやろうと思ったんだがなぁ」
と、わざとらしくそっぽを向いてから、男はちら、と「勝算」の後に眉をひそめた市井の顔を伺った。それから、男は市井のその顔に満足したみたいに口をにいっと横に伸ばす。
「俺ら、今度は華屋のほうに付くんだ。協力したら手柄がどうあろうが頭数で割った分の一をばっちり払ってくれるっていうからな」
『華屋』の語にびくりとしそうになる自分の肩を、私がなんとか気力で押しとどめていると、男はそれには全然気づかなかったらしくて、親指と人差し指を合わせて得意げに丸を作ってみせた。それを見て市井はふ、と鼻を鳴らす。
「お前を斬ったあの『狂犬』がいるとこと組むってのか?」
という市井の言葉に、男はちょっと困った顔をする。
「俺は、そういうのは気にしねえんだよ……」
そう言って顔を背ける男。そうか、この人が、ヤツデに斬られたひとなんだ。怪我、してるのかしら。私がそう思ってじろじろ男を見ている横で、市井はまたうんざりした様子で口を開いた。
「『あの女』も必死だな」
「先月は北崎にやられてたからな。相当頭にきてんだぜ、あれ」
それから男は可笑しくてたまらないように、くつくつ、と笑って見せた。「あの女」……私は話題のそのひとに見当をつける。
「だが割りがいいのは事実だ。そんでも来ないか?」
「華屋の誘いってんなら、俺は尚更駄目だ」
「お前、どんだけあいつらと仲悪いんだよ」
どんどんと進んで行く会話にちょっと付いていけなくて、私は目眩がしそうだった。それから男は頭を掻いて、おい、と私たちの後ろに声をかける。
「行くぞ」
という男の声に、女の子は私と市井の横をすり抜けて歩いて行く、と思った時、ちら、と私の方に顔を向けた。
「あんたの名前は?」
きょとんとした私は、二、三度瞬きをしてから、やっと自分がその子に名前を尋ねられているのに気づいた。
「……亜……亜麻色の頭の字よ。それを、つ、ぐ、って読むの……」
それから女の子は、ふうん、と興味なさそうに声を上げて、すたすた歩いて行ってしまう。その背中が、
「そ、亜ね。てきとーによろしく」
と、言うから、ぽかんとしつつも、私は思わずその背中に小さく手を振っていた。私はそれから、はっとして声を出す。
「ねえ! あんたたちの名前は?」
と、声を上げたのに二人が振り返った時、私の視界の中で何かが、きら、と光った。路地裏の闇を横切るように伸びた、きりきりと光る、糸。
「あー……自己紹介が苦手なんだわ。俺ら」
男はそう口を開くけれど、私は光り輝くそれに目を凝らすのでせいいっぱいだった。糸? 糸じゃない。紐……縄……いや、蔦。植物の蔦が、きら、と月の光を受けて輝きながら、私の見つめる先の空中に浮かんでいる。「浮かんでいる」……?
「俺らのことは、そこの愛想の悪いお兄さんにでも聞いてくれ。じゃあな」
それからふたりが私たちにくるりと背を向けた時、同じようにくるり、と一緒に動いたのは、その蔦だった。ゆるり、と一緒に揺れる、その蔦に寄り添う、頭を垂れた蕾のような花。私が瞬きしたときには、その蔦と花は、幻のように消えてしまっていた。私が目をこすっているうちに、ふたりは恐ろしい速さでどんどん遠くに行ってしまう。それはきっと、ひとでなしだからなんだ。それから二人の背中は、路地裏の闇に消えて──。と思った時、男の馬鹿みたいに大きな声だけが帰って来た。
「あー! そうだ、市井、この話乗らねえってんなら、俺らの邪魔すんなよなー!」
「わぁってるよ」
市井がやや声を張ってそう返すと、二人の靴音は今度こそ、夜の空気に吸い込まれて消えてしまった。
「あいつらもお前の敵になるかもしれんな。まあ、お前も余計なことを喋らないほうがいいって、だいぶ学習したらしい」
とか市井が言葉を並べ立てている横で、私の胸はなぜだかどきどきしていた。ぽろり、と言葉が零れる。
「あのふたり、きょうだいなの?」
私の口が夢のようにそう言った。なんでそう思ったかわからない。でも、それで間違いない、って気がしたんだ。すると市井は意外そうな顔を私に向けた。
「……そうだ。そっくりなもんだ」
「……そう、そうね」
私は春の庭先を思い出していた。母さん、あまり花の世話が得意な人じゃなかったわ。父さんのほうが、ずっと詳しかったっけ。
風にそよぐ、小さな電球みたいにぶら下がった、いっぱいの、小さな花。
「アセビ……」
父さんは、植物図鑑が好きな人だったの。
「お前は華屋に追われてる。そんで、どうやらさっきの『あいつら』もアテにできないらしいな……」
俯いて少し考えた後で、やらなきゃならないことができた、と急に進む方向を変えた市井に、私はやっと質問をできることになった。
「あのふたりは『ヨシミ』っていうんだ。……あー、お前は漢字が好きなんだったな……吉兆の『吉』に『見る』と書いて『吉見』だ」
「下の名前は?」
と、そこまで言った後で、私は、掃き溜めに来てから姓名の揃った名前を一度も聞いたことがないのに気づいた。私だって、「亜」だけ──。
「ああ、あの二人はまた他と違ってな」
市井はまためんどくさそうにその横顔を俯かせる。
「二人で一つの名を共有している」
私は目をひとつぱちくりと瞬いた。
「そんなことってあるの……?」
「ああ、奇妙なことにな。そのおかげであいつらを呼び分けるのがめんどくさくてな。そういうわけであいつらも名乗りたがらねえ。まあ、大抵は兄貴のほうとか妹のほうとか呼ばれてるな」
それから市井は、ふん、と鼻から息を吐いてみせる。
「名前がふたりでひとつ……」
「名前だけじゃない。あいつらは奇異の力もふたりでひとつだ。失くしたものも……」
「心臓」
と、言葉が一つ、私の口から転がり落ちて、市井は切れ長の目をぎぎ、と音がしそうなくらい見開いた。
「そうだ、……あいつらは心臓を半分ずつ失くしている……」
何故知っている? と市井はいぶかしげな顔をした。私は、自分の口をついて出た言葉にびっくりした後、なんだか胸がわくわくしてきた。
「わかんない……でも、そんな気がして」
自分でもなんでそんなことを言い当ててしまったのかほんとうにわからなかった。でも、でもきっとそうなんじゃないかって、私の胸の奥がどきどきして。
「まさか、お前、何か『見えて』……いや、『聞こえて』……?」
私をぎりり、と見ていた目はそれからぱっと背けられて、いや、今はそれどころじゃない、とその口が小さく動く。市井がそれからまた喋ろうとするのを押しとどめて、私はずっと気になっていたことを聞くことにした。
「それで、『とりもの』って……?」
私の言葉にぐ、と口をつぐんだ市井は、ぱっと目をそらして
「さあな」
ととぼけた顔をした。ああこれ、説明するのが相当めんどうなやつなんだわ、と私はすぐにわかった。
「ねえ、めんどくさがらないで教えてよ! さっきも私だけずうっとおいてけぼりだったわ!」
と言って私が市井の腕をぎりぎり握ると、市井は心の底からうっとうしいっていう具合に私の手を払いのける。
「すまないが俺も例に漏れず悪人だからな。親切になんでも説明してやれるわけじゃない」
さっき聞いたようなことを変に気の利いたようにまた繰り返されて、私はむかむかしながら声を上げる。
「あんたは悪人じゃない、って私が言ってあげるから話してよ! 話してってば!」
「この世界に悪に加担したことのない人間なんていねえんだ」
私のことを放っておいて前をずんずん歩き出した市井は、私を少し振り返る。
「俺も、お前もな」
そのぽつりと不意に吐かれた重たい言葉に、私は驚いて一度足を止めてしまう。そうやって心臓をぎゅっと掴むようなことを簡単に言っておいて、それからまた私をおいてけぼりにしていく市井に、私はなんとか早足で追いついた。
「私……悪人なんかじゃ……」
「悪人じゃないだろうさ。だが、きっと善人でもないはずだぜ」
そう言われて、私は昔のことを思い出した。母さんから貰ったオルゴールにはしゃいで、遊んでいるうちに階段から落としてしまったこと。大事にしてねと言われたのに、と怖くなって、そのオルゴールを壊れたままクローゼットの一番奥にしまいっぱなしなこと。
「わかんないわ」
私はまた昨日の夜のことを思い出す。父さんと母さんは、きっと「悪人」だった。北崎が、あそこにいた人たちが、そう言っていたんだ。それなら、私も……?
「『悪人』の基準は当てにならねえ」
市井は、まるで私の考えていることを知っているみたいだった。私は市井の声に耳を澄ませる。
「社会をうまく回すために、法というものがある。その法にあぶれたもんは皆、『悪人』になっちまう」
それでな、と市井はまた言葉を継いだ。
「俺の知り合いにもいるんだ。うっかりと、法を……お偉いさんのご機嫌を、損ねちまったやつが」
私の口は思わず動いていた。
「その人も、『悪い人』なの?」
「……『そういうこと』になっちまった男だが、俺からしてみれば、それは間違った判決だ」
そう語る市井の横顔から、私はなぜだか目が離せなかった。
「……どんな人なの?」
という私の問いかけに、市井は、会って見りゃあわかる、と言って。
「まあその、」
市井はそれからふ、と鼻から息を抜いた。
「誠実で真面目なおひとよしの馬鹿野郎だ」
「……そんなひと、この街にいるの……?」
と、私は今まで会ったひとでなしたちを思い浮かべる。どれも皆んな、なんだか怪しいひとばかり……ああ、みなみちゃんは別かも。
「これが、いるんだな。摩訶不思議なことに」
それから市井は少しだけ笑ってみせた。
「そいつにこれから会いにいく」
「え」
と、声を漏らした私の顔に、表通りの光がぱあっと差し込んだ。びっくりした私が、くるくると辺りを見回すと、そこはどうやら華屋があるのとは別の通りみたいだった。出店もない、露天商もいない、明るいけれどなんだかこざっぱりした通り。私の目に入ったのは、呉服屋の文字だった。それから市井は、私の頭の先から下駄までを一通りじろじろと見る。
「時にお前、いい着物を着ているな」
「へ?」
羽織が三十万、振袖が五十万、帯が二十万、小物が合わせて十万。下駄は汚れて使い物にならない、と言われた。散々市井が交渉して、私の着物一式はさっぱりそんな値段で売られてしまったのだった。代わりに、お店の主人に、似合う似合う、なんて言われて着せられたのは、安っぽい振袖に、ひらひら短いスカート。本当に似合っているのかなあ、と不安な私と市井が呉服屋を出た瞬間、市井は、私の姿を改めて一瞥して、
「淫売みたいだな」
と私が少しだけ思っていたことを言ってしまうから、私は市井の背中をばしん、と叩いた。
「これが『流行ってる』なんてやっぱりどうかしてるわ」
「そうだな」
市井は私の話に興味がないらしくて、さきほど受け取ったお金を慣れた手つきで数えている。それから五十、と数えきったところで残りの札束を私に差し出した。私、こんなにたくさんのお金を持ったことがないや。市井は私の着物を売って手に入れた五十万を、自分の内ポケットにしまってしまう。
「……何に使うの?」
私がむっとした顔で、渡されたほうのお金をさっき買ったばかりの財布にしまっていると、市井は動じることもない。
「お前と俺の安全を買う」
あんぜん? と私が問いかけるのをまともに聞きもしないで、市井はさっさと表通りを歩き出してしまった。
「さっき話した男は今、すぐ先の裁判所にいてな。まだ拘留期間が終わってねえんだ。だから、今日外に出してやりたきゃ、金がいる。保釈金だな」
拘留期間。保釈金。五十万。と、私は口の中で二、三度繰り返してみる。
「ねえ、ほんとうにその人って、あんたが言うような、『いい人』なの……?」
不安そうな私の声に、市井はひとつ瞬きをする。黄色の光が彼の悟ったような横顔を照らしている。
「俺が言ったことがお前にとってどれだけ信用に値するか、なんてのは俺の知ったことじゃないし、お前にだって自分の目がついているだろう? そいつが『善人か悪人か』なんてのは、最後にお前が自分のその目で確かめなきゃならないことだ。さあ、」
気づくと、周りの街並みとは違って少し薄暗い石畳の道に、私達二人はいるのだった。西洋風のガス灯が両側から橙色にきらきらと足元を照らす小径。その先に見えるのは、そびえ立つ、冷たい石壁だった。
「『掃き溜めの秩序』とご対面だ」
「拘留されてるのを引き取りに来た」
市井が大きな鉄の扉の前でそう声を上げると、少ししてから、ぎ、ぎ、と音を立てて扉が動き出した。細く開いた観音開きの扉の隙間から、眼鏡の縁が覗く。それを認めて、市井はその人影に、よう、と声をかけた。その人影は、口をぎゅ、と引き結んだ大人しそうな雰囲気の女のひとで、そのすらりとした肩には、真っ黒なコートを纏っている。女の人は市井の呼びかけに答えず、私達のどちらとも目を合わせないまま、重たそうな扉を押しやって開ききってしまって、さっと建物の奥へと手をのべた。
「検校様は、あちらに」
黒い大理石の床に市井と私の足音が響く。遠くから、きいきい、と何かを切るような音がときどき聞こえてくるけれど、それ以外にはなんの音もない、だだっ広い建物の中。巨大な柱がずらりと両側に並ぶ玄関を抜けると、そこには左右に緩やかなカーブを描く階段が上の階へと伸びていた。私がきょろきょろとあたりを見回す横で、市井がふっと足を止めるから、私も慌てて立ち止まる。
「駄犬を引き取りにいらっしゃったの?」
急に聞こえた声は、大理石の広い空間の中で反響して、きいんと冷たく響いた。顔をあげると、階段の上の踊り場で、長いストレートの髪を腰まで揺らした黒い服の女が、こちらを向いて微笑んでいる。このひとはきっと、仕事のために笑うことのできる人なんだ。それは、私がそんなふうに思わされてしまうような、決まった通りの笑顔って感じだった。
「もうひとりは、どなた?」
ふ、と開かれた女の目は、どこか虚ろで、私のいないどこか遠くを見つめている。なんだか変な気がする。
「新入りだ」
という市井の言葉に、あら、と女は驚いたような、驚いたって私達に伝えたいんだろうな、って声を出した。そう、昨夜いらしたお嬢さんね、と女がぽつりと呟くのが聞こえる。それから虚ろなその目を伏せて、女は口元だけでゆるやかに笑った。
「帝都直轄西十区の裁判所の長を勤めております、わたくし、十の夜、千歳に身を捧ぐ者、とよ、と申します」
そのひとの声は、朝やけに通る鐘の音みたいに、人の目を覚ますような響きをしていた。それから彼女が差し上げた手が空中に書いた文字は、魔法みたいにきらきらと「十夜」のかたちに光ってみせる。私がはっと息を飲んでいる間に、女は首を傾げて柔和な顔をほころばせる。
「どうぞ、お見知り置きを。かわいい『ひとでなしさん』」
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