10話 こいしわがきみ
「あなた、昨日の」
黒い制服の女は、寂れた日本家屋の屋根の上で白い光を受けて、ぴんと背筋を伸ばした姿勢から、私に向かって真っ直ぐに日本刀を向けている。昨日の夜向けられたのと同じ刀の色。彼女は、昨日広場にいた北崎の部下の女だった。やっぱり私を捕まえに……殺しに来たんだ。
十夜たちに追われるようにして裁判所を出た私とまもるは、安全な場所を目指して目立たない路地を歩いていたはずなのに。
側にいたまもるが私を庇うようにして前に進み出ると、その姿を認めた彼女がぎゅっと眉根を詰める。
「お前、まだ『出てきて』いないはずじゃ……」
きっと彼女を見返すまもるとその後ろにいる私を見比べた彼女は、ふうん、と鼻を鳴らした。
「お前、やっぱり『罪人』の肩を持つのね」
そう言った彼女は間違いなく私のことを突き刺すように見つめている。「お前」っていうのは、私のことを言っているみたいで。
「あの方がおっしゃっていたわ」
私が口を開く前に、女はどこか棘のある口調で首を傾げて話し出した。
「罪人の子には罪人の血が流れていると」
この女の言う「あの方」が誰なのか、私にはわかる気がした。ただただ敵意だけを込めた彼女の眼差しに、私の頭には昨日の広場の景色がありありと蘇ってきた。翻るマントを羽織った「あの方」──北崎の背に降りかかる、彼への賛同の拍手。その拍手の音は、私のことを否定する響きで……。
そのとき、私の目の前にいるまもるが、はっきりと、あんまりにもはっきりと首を横に振った。その素ぶりに私は、はっと目を覚まされるような気分になる。その一方で女は露骨に目元を歪めた。
「……あの方の言うことが正しくないとでも?」
彼女を睨むまもるの横顔は揺らがないけれど、その口をつぐんだままだ。そういえば、私、まもるが喋るのを聞いたことがない。女は、口を開かないまもるから私に視線を移す。
「答えなさい」
それから彼女は、空いていた左手を私に差しのべる。開かれるその指先の動きが、妙にはっきりと私の視界に刻まれていく。何かをされる、と私が思った時にはもう、私の目は彼女の緑色の瞳に完全に奪われてしまっていた。
「昨日、間違っていたのはどちら?」
胸のうちから体を引っ張られるような感覚。そうして無理に上向けられた私の口は、そうしなければいけない、っていうような気持ちに迫られて、喋り出していた。
「……わたしたち、父さんと母さん」
まるで、喉の奥から言葉を引っ張り出されるような感覚に、私は自分の胸が酷く痛んでたまらなかった。はっとした顔のまもるが私を驚いた表情で見つめている。
「そうね、罪人はお前たち。どうして自分たちが罪に問われたのか、ちゃんとわかっているの?」
私の喉は、ひく、と音を立てる。嫌、嫌だ、答えたくないという気持ちが私の目に涙の滲みを作る。けれど、彼女は急かすように
「答えなさい」
と言葉を続ける。
「父さんと母さんが、たくさんの、」
吐き出す言葉の間に必死で息を吸い込んだ。私の顔を、目を見開いたままのまもるがしっかりと見ている。やめて、駄目、どうか、誰も私の言葉を聞かないで。
「たくさんのひとを、ころしたの」
息をするのはこんなに苦しいことだったっけ。私は、私自身の言葉に胸が潰れそうだった。言葉を吐き出すたびに、それがほんとうのこととして胸に刻み付けられていく。ああ、ごめんなさい、わたし、わたしは。
「そう。わかっているじゃない」
それから彼女が一度瞬きすると、私を引っ張っていた力はふっと消えてしまって、私は気が抜けてぐらりと倒れそうになった。私をぎゅっと抱きとめたのはまもるだった。
「聞いた通りよ。間違っていたのはその子のほう。……あの方は正しいわ。いつだって……どこまでも正しいひと。正義のために涙を流すひと」
どこか歌うように語られる女の声が、ぐらぐらする私の頭にずきずきと痛む。私はどうしても足がしっかりと立たなくて、それを察してくれたらしいまもるは、私を支えてそのまま石畳の上に座らせた。力が入らなくて、頭が重ったるくて、そしてなによりあの緑の目が恐ろしくて、私は顔を上げられないでいたのだけれど、
「なによ、その顔は」
という、ちくちくひとの心を刺すような女の声が私にも聞こえてきた。私の前には、私に刺さる彼女の視線を遮るように、まもるが立ちはだかっている。約束した通りに、まもるは、私のことを守ろうとしてくれているんだ。でも女は嫌悪感をいっぱいに込めて言葉を続ける。
「言葉をなくしたけものめ……下賤に四つ足で地を這う野蛮」
言葉を、なくした? 私は顔を上げられないまま女の言葉を聞いている。
「あの方がおっしゃってたわ。本性がけものだから、そのためにお前は舌を抜かれたと。そう、奪われたのではなくて、お前はあるべき姿を取り戻したのだとね」
私は、私を庇ってしっかりと立ちはだかるまもるの足を見つめる。もしかして、女はまもるに酷い悪口を言っているんじゃないかしら。私がゆっくりと顔を上げると、まもるの後ろ姿はひとつも揺らぎはしない。私に見えない彼の顔は、きっと今も、きりりと女の顔を見つめているんだ。
「ひとの言葉をけものが使ってはならないのよ」
そのとき私ははっとした。そうか、まもるは「喋らない」んじゃない、「喋れない」んだ。顔を上げた私に気づいたらしくて、彼女は日本刀で私のことを指した。
「たいがいお前もけものくさい」
また何かされそうで恐ろしくて私の肩はびくりと跳ね上がる。
「罪人の子に流れる血は、その悪徳の血脈は、絶たねばならないのよ。罪人は必ず罪を繰り返す。さらにはその世代を越えて。そのようにできているのよ」
女がそれを言い切るか言い切らないかといううちに、何か硬い音が私の横で響いた。なにか、軋むような、壊れるような音。まもるはまた、はっきりとしすぎるくらいにはっきりと、女の言葉に首を振っている。
「お前は何を否定しているのかしら。私の言葉はあの方の言葉。そうであるからして前提として正しいのよ」
女が屋根の上で歩を進めると、からん、と瓦が音を立てる。
「その娘は罪人の娘でしかない。そしてそうであるまま死ぬだけ」
まもるはますます激しく首を横に振る。その動きは、なんだかあまりにはっきりしすぎている気がして。私は彼の後ろ姿にぞっとした。そう、首を、振りすぎているの。そして、その、「振りすぎた首」が、軋むような、壊れるような音を立てているのだ。ちら、と見えた彼の横顔に伸びる口は、あまりにも大きすぎるように見えた。そんな彼の姿を真正面から見ているはずの女は、心の底から気持ち悪い、というように顔をしかめる。
「ああ、そう……。それがお前の本性よ」
***
「それにしても、どうしてこのタイミングで『間引き』なんだろうね」
足をぶらぶらと揺らしながらそう呟く枇杷に
「知らねえよ」
とあくびをするのは吉見だ。
「あの娘が来たからよ」
さらりとそう付け加える茜を枇杷がくりくりとした目元で見返す。
「あの娘が来てから、この街にいる『役者』は二十六になった。多すぎるってことでしょ」
最後に死んだのがひと月前だしね、と茜は目を逸らした。
「あの女は飽き性だし。すぐに『役者』を取り替えたがる」
それからやや強く息を吐いた茜の耳元で、きら、と真紅のイヤリングが揺れた。
「そうかなあ」
ねえ、と声を上げた枇杷は、俺のことを見つめている。俺に話しかけてんのか。
「八手がその制服に会ったのって、何時頃?」
きょとんとした俺は少し間を置いてから、
「零時ちょうどか、少し過ぎた頃だろう。今が半だから」
と返してやった。
「それって変じゃない? ねえ、変だよねえ」
横を向いた枇杷に話しかけられた椿は、はあ? と声を上げる。椿の声音には品もクソもないが、こればかりは俺も同意見だった。枇杷が何を言っているのかさっぱりだ。
「こいつらもさっき来たばかりなんだよ。八手が帰ってくる、ほんの少し前」
そうやって枇杷の目線が指すのは、吉見だった。
「……早すぎる」
横顔を歪めるのは茜だ。ああ、そうか、と声を上げる吉見。
「そう、早すぎるんだよね。北崎たちが裁判所の『勅令』を知るのが」
はっきりとした枇杷の物言いっていうのは、正直に言えば目を見張るものがある。
「裁判所の連中が広場に布告の紙を張り出したのを俺たちが見たときには、もう零時過ぎだった」
吉見の顔は呆れて馬鹿みたいに歪んでいる。
「……裁判所と北崎たちが繋がってるってことか……?」
そう言った俺のことを、部屋中の全員が見返した。
「むかつく」
吐き捨てるようにそう零す椿は、苛立ったまま拳を肘掛にぶつける。
「なんでまた……」
「張り合ってるんだよ」
口元に手を当てた枇杷はにやにやと笑っている。
「あの人さ、母さんに、この掃き溜めを牛耳ってるのは自分だ、って言いたくて仕方ないんだよ」
だからこうやって嫌がらせをするんだ、と目を伏せる枇杷の表情は、愛想笑いを忘れかけている。
「おこがましいもここまで行くと一興だね」
そうして顔を上げた時には、枇杷の顔にはいつものにやけた仮面が丁寧に貼り合わせてあった。
「そういや、高峯さんは?」
薄暗い洋間に目を凝らしても、見つけられるのは茜と枇杷と椿、そして吉見の兄妹だけだった。ここ数週間で報連相の云々を茜や真木からねちねちと叩き込まれたのだ。何か起こったときには、見たくない高峯のあの顔を拝むまで安心もできない。俺の視線を受けて枇杷は少し肩をすくめる。
「おおとのごもり」
***
制服の女は軽やかに屋根から石畳の上に降り立った、と思った時には、刀を構えて私たちのすぐ先まで迫っている。
私は石みたいに固まった自分の足を動かそうとするけれど、うまく立ち上がれなくて後ろによろけただけだった。こうやって殺されそうになるのは何度目だろう。私、ほんとうに何にもできない……。そのとき助けを求めるように見やったまもるの背中が、ひとつ、揺れる。
あっという間にまもるの目の前までやってきた女は、刀を下から上へと容赦もなく一気に振り上げる。まもるは動かない。そうして動かないままに刀に切られて、そのままぐらりと、その背中が倒れ──。
私が瞬きしたときには、視界の中の女が宙に浮いていた。違う、そうではなくて、彼女は放り投げられたんだ。掴まれた足が、横に、大きく振られて。そのまま壁に叩きつけられる、華奢な女の身体。
そのとき私が見つめる先に立つ人影は、よく見ればひとからずっと遠いものになっていた。あかりも少ない寂れた路地の上で、白い月の光だけに照らされて浮かび上がった彼の輪郭は、あんまりにも不恰好で奇妙だった。おじぎするみたいに腰から折れた彼の背中は、ごつごつと波打っていて、腕や足の形は四つ足の動物のようにぼこぼこと盛り上がって形が変わってしまっている。私には呆然とそのおぞましい姿を見ていることしかできなかった。
泥の壁に背中から叩きつけられた制服の彼女は、顔をしかめてからすぐに体勢を立て直す。
「ばけものめ」
と、女が毒づいたときには、彼女の顔にはひとではないものの影が落ちていた。そのとき、彼女の顔が泣きそうに歪んだのが、私の目にも確かに映った。
歪な人影は、制服の彼女の左腕を掴む。そのとき、甲高い叫び声が路地裏に響き渡った。それは制服の彼女の声だった。ぎりぎりとその腕を掴まれて彼女は苦痛に顔を歪め、もがき、その右手に握りしめたままの日本刀で、そのばけものの肩を貫いた、けれど。そのばけものは刺さった日本刀をもろともせず、もがく彼女の胸の上に後ろ足をかけ、彼女の左腕を。
ひときわ大きな叫び声が上がったときには、彼女の腕が、私の数歩先に落ちていた。止まることのないあまりに痛々しい絶叫に、私は口元を覆い、夢中で首を横に振っていた。
「やめて……」
悲痛な声を上げ続ける彼女の上に屈んだ、そのでこぼことした人影は、彼女に残されたもうひとつの腕にとりかかっている。彼女はもはや抵抗もできずに涙を流しながら、その腕に力がかかるたびに私の胸を貫くような声を上げた。私の息さえつまってきて、私はなにか使命みたいなものに駆られて、頼りなくゆらりと立ち上がった。やめてよ、と震える私の喉の奥は、けれど彼女の悲鳴にかき消される。私は大きく息を吸った。
「やめて!」
私のその声に、気味の悪いその立ち姿がぴたりと動きを止めた。その腕が、うっかりと手の力をゆるめて、彼女の腕が力なく石畳の上に横たわる。彼女の甲高い叫び声が、女の子のすすり泣きに変わった。おぼつかないけものの足取りが、二歩、三歩と動いて、彼女から離れる。私の声が聞こえているのかしら。そうしてそのふらふらした足取りが、ぎ、ぎと音を立てそうなくらいにぎこちなく動いて、彼はこちらを向こうとしているんだ、って私が気づいたとき、その頭が横から思いっきり殴られた。ぐらり、と影が揺れる。大きくよろめいた影の横に、別の人影がいつのまにか増えている。そのひとは、壁にぐったりともたれる彼女に跪いて、そのぼろぼろの身体を抱えて。
その人は、横にいる不気味な人影を通り越して、私のことを見た。温度を感じないような、紅の目。それから音もなく、その人と女はそこから、すっかり消えてしまった。
「昨日の……」
私は思わず声をこぼした。彼はギロチンの刃を落としたひとだ。覚えてるもの。
でも私は、彼女が私を襲おうとしていたことも忘れかけて、彼女が助かったことになんだか安心してしまっていた。だから、目の前の不気味な人影がまたゆっくりと動いて、こちらを向いたとき、いっそうぞっとしてしまったのだ。
ずっと私のことを向いていなかったその顔は、もうどうしても人とは呼べなかった。飛び出しそうに見開かれた目、耳の下まで裂けた口からは、無理矢理に切り開かれたようにきっと自分の血が垂れていた。
「まもる」
私が呼ぶと、彼はまたぎこちなく一歩、二歩、とこちらに歩いてくる。ぐらぐらと変形した頭が不安定に揺れて、また何かが壊れるような音が、その身体から漏れ出ていて。だから私はそのとき気づいてしまったんだ。彼は「名前を呼ばれたからこちらを向いた」のではないということ。そうではなくて、彼、というより「それ」は、別の「物音」を聞いて新しい「獲物」を見つけただけだっていうことに。
***
「『とりもの』?」
高峯は血を大層に嫌うから、こんな上着を着ていては小言を言われるどころじゃなくて、俺は上着を脱ぎつつ、廊下の半歩先を歩く茜の話を聞いていた。
「そう。あんたがこの間来た時には、終わって少し経っていたから、知らないでしょ。教えてやらなきゃいけないと思って」
彼女が歩くたびにその高く結われた髪が揺れる。ところで、と茜は口を開いた。
「『心』はどこにあるか知っている?」
俺は彼女を現実主義者だと思っていたから、宗教じみたその問いかけにひとり胸をつまらせる。
「『心』……?」
「そう、『心』……もしくは、人間の核になるもの」
茜はこちらを振り返らないから、彼女が今どんな顔をしているか、俺にはわからなかった。この場合の正解はなんだ。俺に求められている答えはなんだ。いや、これは正解を求められているのではないのかもしれない。このいたずらっぽい目元の彼女は、俺のことを試してやろうと企んでいるのかもしれない。そうして俺が口を開きかけたとき、彼女の凜とした声はもう俺の耳に届いていた。
「脳? それとも脳に流れる電流? その構造自体? それとも脳ではなくて、どこか別のところ? もしくは、どこにもないって言う?」
彼女は振り返った。心理学や脳科学を全く知らない筈の彼女の朱色の目は、酷く聡明に見えて、俺は堪らず舌を巻いた。つまり、俺は立ち止まった彼女を前にして、同じように立ち止まって何も言えなかった。彼女はそれからあまりにも自然な手つきでその右手を上げて、初めて会ったあの夜と同じようにして、俺の左胸に触れた。
「違うの。ここにある。『心』は、胸の中にあるの」
俺は呆気にとられた。しかし、揺らがないその儚い色合いの双眸は、道化るにはあまりに深刻にすぎた。彼女の柔らかい指が、つ、と俺から離れていく。それから茜は、少なくともこの街では、と付け加えて、長い睫毛を瞬かせる。それからまたきまぐれな猫のようにくるり、と向きを変えて先を歩き出してしまうから、ぼうっとしていた俺は目が覚めるような気になって慌てて歩き出した。気の利いたことを言えない俺の半歩先で、彼女の話はまだ終わっていなかった。
「あんたが飲み込んだ心臓……私が、飲み込んだ心臓」
俺が追いついたのを確かめるのに、彼女は少し振り向いた。
「あれがどこから来たか、想像したことはある?」
どこから、という言葉に俺は、自分の腹の底がぞわりと波立つのを感じた。この寒気は飲み込んだあの心臓が震えでもしているから感じるのか、それとも単なる俺の恐怖か。
寒気を押し殺しながら、いや、と否定する俺は、あの心臓がこの街の石畳の上に不意にぼとりと落ちているのを想像した。あのぬらりとした青白い表皮に、とりどりのネオンの色が映えて……。いや、そんなはずはないだろう。でも、どこからどこまでがここの常識かもわからない。俺がそれ以上何も言わない、いや、言えないのを茜は悟ったらしい。彼女はすら、と頭を逸らした。かしらづき、という言葉を知っているが、彼女はそれさえ美しいと俺は思う。
「あれは『一部』だった。あれには手足があった。あれには、頭があった。あれは、ここに『帰って』きた、『子供』なの」
***
不気味なそのばけものの影は、どう考えても私に狙いを定めていた。よたよたといびつな身体を左右に揺らして、確かにこちらに近づいてくる。ねえ、という私の呼びかけはその耳にはもう届いていないんだ。鉛のように重かった私の足は、けれどなんとか私の言うことを聞いてくれた。震える足を立たせて、もたもたする自分を自分の心臓の鼓動が急かしていく。視界がくらくら揺れる。悲鳴を上げる暇もないんだ。踵を返した私の背中には、人のものではない息遣いが近づいてくる。逃げたって変わらないのかもしれない。でも、私、逃げなくちゃいけない。一体どこまであれは私に迫っているんだろう、と振り返った私の目の前には何かの影が見えた。それは、ひとのものとは思えないほどに鋭い、指先で。
***
高峯の豪奢な居室の奥で、その藤のような女は、額にびっしりと汗をかいて布団に横になっていた。母さん、という柔らかい茜の問いかけにも、目を覚ます様子はない。
「『とりもの』が近づくといつもこう。半刻も前は、まだ目を覚ましていたんだけれど」
上着を脱ぐ必要もなかったらしい。茜はうなされるような表情の高峯の汗を、そっとハンカチで拭ってやってから、出ましょう、と廊下のほうを目で示した。
慎重に襖を閉めてから茜は
「『とりもの』の話をしているんだった」
どうもややこしくて、だめなの、と目を伏して、洋間に戻ろうとする俺に中庭を臨む縁側に腰掛けるように言った。
「皆んな喋りたがりでね。戻ったら話が進まなくていけない」
ほう、と息をつく彼女に
「君だって内実喋りたがりのくせに」
と俺が口を挟むと、彼女はきょとんと目を見開いた。それから、必要なことだからよ、と付け加える彼女の口調は少し拗ねている。それから彼女は気を取り直すようにふっと息を吐いてから、自分で閉めた高峯の部屋の襖を振り返った。
「『役者』の一人でもある母さんには、私たちと同じで、足りないものがある」
たりないもの。ひとでなしの定義というのを一度話してもらったことがある。だが、正直に言えば俺は、自分が何を失くしたのかよくわかっていない。失くしているに違いないらしいんだが。
「母さんに足りないもの。あのひとがひとではない、『証』」
彼女はそこで一度息をついた。この庭に蔓延る虫どもの声がする。そうだ、今は秋だった。
「母さんには、子宮がないの」
***
目を閉じた私の頰に、激痛が走る。とうとう押し出された私の悲鳴は、さっきのあの子のそれとおなじように、薄暗い夜の路地にこだました。涙に滲む目をなんとか開ける。熱くて痛い。びりびりと、頰が。それから、私の顔に振りかかったのではない、もう一本の手が、勢いよく私の首を引っ掴んで、私は頭をひどくひどく後ろのコンクリートの壁にぶつけた。脳みそが、ゆれて。
***
「子宮がない女を、君らは『母親』と呼んでいるのか」
嫌悪感を滲ませた俺のその問いかけを、茜は真正面から受け止める。
「そうよ。母さんには子宮がない。けれど、あのひとは、『宿す』の」
彼女は眉根を寄せた。彼女だって楽しい話題でもないんだろう。俺は、慎重に彼女の一言一言を聞いていた。俺は口の中で、宿す、と繰り返す。
「存在しない子宮には子供は宿らない。そうよ。その通り。けれど、生まれるはずだった子供は確かに、『別の場所で』目を覚ます」
茜は相変わらず言葉を継ぎにくそうな顔をしている。居心地の悪そうに握られた手が彼女の膝の上にある。
「母さんが自分の腹に宿すことのできなかった『子供』はね、この帝都のどこか、代わりになる女の腹のなかに宿るの。母さんの代わりに、その女は、孕むんだ」
唖然とした俺の顔を一瞥し、そうなっているの、と茜は付け加える。
「そんなこと」
俺は、ぞっと身震いをした。まさか、あり得ない。……いや、俺はどこに居て『あり得ない』なんて言葉を吐こうとしている? ここは、非科学の温床で。
「信じられない? そうよね、私も最初に話されたときはそうだった。わけのわからないことを言う相手の頭を疑った……でもね、証拠があるの。そして、あんたももうそれを見ている。いや、これから『見ることになる』」
恐ろしいその朱色の瞳が、俺をはっきりと捉えている。
「宿った子供は、生まれなくてはならない。もちろん、母さんに『孕まれる』はずだったその子供も、例に漏れず生まれようとする」
俺が逃げようとしたのを悟ったのかもしれない。茜はすばやく俺の腕を掴んだ。だから俺は逃れようもない。その瞳からも、その、言葉からも。
「誰にも悟られないまま、見知らぬ女の中でその子供は目を覚ます」
俺の頭の中には、生物の教科書に載っていた、胎児の写真が浮かんで居た。羊水に浮かぶ、不完全な肉。
「子供は愛情に敏感なの。それが無くては死んでしまうから。だからね、その子は気づいてしまうんだって。自分が、本物の母親の中に宿されなかったことに」
君は、何を言っているんだ。俺の切実なまなざしを、彼女は一向離さない。
「気づいてしまうの。自分が捨てられたことに、愛情を向けられなかったことに」
彼女の指が、俺の腕をぎゅ、と締め付ける。気の遠くなりそうな話に、むしろ彼女の指の感覚は、俺の寄る辺になろうとしていた。
「そうしてその子は、自分を捨てた母親を、……母さんのことを、決して忘れない。許したりしない。それから帝都のありとあらゆる汚濁や悪徳を吸い込み、」
彼女の声以外聞こえない。
「自分を捨てた母親を恋し、そしてそれと同じだけ憎んで」
決して逸らされることのない、彼女のまなざし。
「必ずこの掃き溜めに戻ってくる」
***
首をきつくきつく締める二本の腕の先、私の視界の中にある二つの目は、地下牢で私に微笑みかけたあの目じゃない。ひとの目ではない。声が出ない、息ができない。体が勝手にびくりと跳ねる。いたい、くるしい、父さん、母さん、私、生きられない──。
ぼやけ始めた視界の中で、私に覆いかぶさる歪なそのかたちが、ぐら、と揺れた気がした。私は、揺れて欲しかったのかもしれなかった。
***
俺はなんとか彼女から目をそらして、その手を振りほどいた。嫌な予感がぞわりぞわりと背中に這い上がって、俺はその悪寒を振り落とそうとするように立ち上がった。
「……君は、どうしてさっき、俺が飲み込んだ、あの『心臓』の話をした?」
そう喚くように声を上げた俺を見上げる茜は、俺の哀れを嘲けるように笑っていた。
「あんたが想像していることが当たっているからじゃない?」
俺は何も言えずに頭を振った。もう何も聞きたくない。
「そうよ。あんたが飲み込んだ心臓は、その帰ってきた『子供』の心臓。産んでもらえなかった子供は、その恨みを抱えたまま、ひとでなしに飲み込まれた体の中で、もう一度目を覚ます」
茜は頭を仰け反らせる俺を面白がっているらしい。それから、いつもベッドの上でするのと同じような仕草で、逃れようとする俺に、いともたやすく寄り添った。しなやかなその腕が、俺の腰に回される。
「私の体の中にも、あんたの体の中にも、愛されなかった赤子の骸が巣食っている。生まれるべきじゃなかったいびつな呪いが肉を与えられて、今も」
彼女は俺の胸に顔を伏して笑った。ああ、その嘲りは、どうやら俺だけに向けられているのではないらしい。
「この『華屋』は……母さんは、『ひとでなし』の根源なの」
***
瞬きの先には市井がいた。私に覆いかぶさっていたけものを薙ぎ払ったのは、大きな斧、なのかもしれない。
「まだ死んでないな」
と、市井は私に話しかけた。
薙ぎ払われたけものは、決して息絶えてはいなかった。声というよりは濁った鳴き声をその喉からもらして、それは市井のことを睨んでいた。市井はそれを睨み返す。そうしてから市井はふっと視線を真横に投げた。その先、月光が落ちている路地には、きっとした顔でこちらをみつめるみなみちゃんがいた。
***
「その子供たちは、月ごとに帰ってくる」
満月のたび、と俺を離さない茜の言葉は、俺の骨にまで直に響くかのようだった。
「母さんの子宮に『宿るべき』だった、その子供は、この世の罪を背負っている」
彼女の腕が、なおさらきつく俺の腰にすがりついた。
「その子供は、この帝都の罪を、いっとう汚れた人間の性質を、一身に背負っているの。そう、母さんが話してた……帝都の罪を、一手に引き受けるのがこの『掃き溜め』の使命なんだって……」
俺はただ、彼女の言葉を飲み込むしかない。彼女がそう命じるから。俺は、それに従う彼女の犬でしかないから。
「その罪人の帰還を祝い、死を看取ってその愛に報いるのが、月に一度の『とりもの』。その『心』を、核を取り出すまで、哀れなその子は報われない。だからあんたも、それをころしにいかなきゃ」
茜は、やっと俺から身を離した。その目には、確かに妖気が宿っている。
「満月は、明日」
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